「私はもうレオン殿下の婚約者ではないよ」
レオンがようやく支度をはじめる頃、アルミラはミハイルを昼食に誘っていた。場所は前と同じ中庭で、前と同じくアルミラの手料理付きだ。
上級学年の教室にわざわざ出向き呼び出したアルミラに、ミハイルはどうしたものかと頭を悩ませた。
アルミラの仮面姿に、教室にいる者は奇異の視線を向けている。ミハイルと親しい間柄の者はいないので、なにごとかと聞きにくる者はいないが、それでも視線までは避けられない。
突き刺さるような視線に負けて、ミハイルは早々に教室を脱出した。
「さすがに呼びに来るのはやりすぎでは?」
「これまで浮いた噂の一つもなかったミハイル殿下のことですから、きっと午後には学年中に広まっているでしょうね」
浮いた話以前に、仮面姿の令嬢らしき人物が訪ねてきたというだけで話題性は抜群だ。
男装しているという結びつきから、それがアルミラだということは伝わるだろうが、それまでは謎の仮面の人物として話題をかっさらうことだろう。
「昼食を食べるのは構わないから、今度からは時間と場所を決めて落ち合うことにしよう」
「かしこまりました」
たとえばミハイルを女子生徒が呼びに来たと言うだけなら、そこまで気にはならなかっただろう。だが仮面を被った謎の人物が呼びに来たでは、怪しさが満載だ。
さすがに危ない噂が立つのはミハイルも避けたかった。
「それでは明日以降も昼食を共にしていただけるということですね」
「ん……まあ、そうなるかな。だけど君の友人はいいのかい? いつもは友人と食べてたのだろう?」
「日替わりでしたので、ご心配いりません」
「そんな食堂のメニューみたいに……」
アルミラには友人が多い。そのため誘われることも多く、断る理由がないので昼食を一緒にとっていた。最初に誘ってきた相手にそのまま是と返していたため、ほぼ日替わり状態に等しく、特定の誰かと決まっていたわけではない。
レオンが婚約破棄を言い出した日も、気を遣って誘う者はいた。
だがアルミラが「少し考えたいので」と断ると、痛ましいものを見るかのように目を伏せて、そっとしておいてくれるようになった。
「ミハイル殿下とのことも応援してくださっております」
「……いや、それはどうなのかな」
「レオン殿下の私に対する扱いに憤慨していた友人たちですので」
アルミラの友人たちも、アルミラとミハイルが結ばれるとか結婚できるとか考えているわけではない。
ただレオンとのことを忘れ、恋に浮かれることができるのはよいことだと思い、見守ってくれている。
貴族の恋は一過性の遊びにすぎない。同程度の貴族位だったり、結ばれることで両家に利があるならともかく、自分よりも高位な存在――ましてや王族と結ばれるなど、普通は考えない。
しかも元婚約者の兄ともなると、たとえ互いが望んだとしても王が認めはしないだろう。
(私がミハイル殿下に嫁ぐ有用性があるならともかく、醜聞まみれの私を王族の嫁には迎えたくないだろう)
男装し、仮面を被り、婚約者の兄に懸想する。どれ一つとっても王家の嫁には相応しくない。むしろ男装した時点で咎められ、やめなければ婚約者の地位を追われていてもおかしくはなかった。
だが王は男装し謁見したアルミラに眉をひそめるだけで、なにも言わなかった。
――彼がなにをしても大目に見てあげるのよ。
――決して粗相のないように。
命令だからと言えば黙る両親の顔を、アルミラは思い浮かべる。
――彼はかわいそうな子だから。
貴族にとって子は道具だ。
そして世の中には道具に愛着を持てない者もいれば、別の道具に愛着を抱く者もいる。
(まったく、世知辛い世の中だ)
食事のために仮面を外し、表面上は笑みを作りながら心の中で溜息を零した。
「本日も私が食事を差し出すということでよろしいでしょうか」
「いや、さすがにそれはちょっと……」
ひな鳥のごとく扱われるのをミハイルが固辞したため、おのおの好きなものを取って食べるという、言葉少なな昼食を送っていたのだが、ふとした拍子にミハイルが口を開いた。
フォークを飾り切りされている果物に刺し、それをしげしげと眺めるミハイルに、アルミラは言葉の先を待つ。
「味はともかくとして、見目にまでこだわるなんて……ずいぶんと手がこんでいるね」
「文句をつけられないように尽力いたしましたので」
そもそもレオンの希望はシェフのものだった。しかしそのシェフが調理を拒否したので、命令に背いてはいるがなにも出さないわけにもいかず、自ら作るようになり、なぜか凝りに凝ってしまった。
アルミラの手料理であるとわかれば、鬼の首を取ったかのように難癖つけてくるのは目に見えていたので、シェフが作るものと遜色ないようにと考えてしまったせいかもしれない。
アルミラがレオンに昼食を作っているのが有名になってからは、いつばれるかと冷や冷やしていたのだが、幸いレオンには会話をするような友人はいなかった。
(それにしても)
林檎をひと欠け口の中に入れ、前に座るミハイルを盗み見る。
(よく付き合ってくれるものだ。同情、か?)
弟の婚約者と懇意であるという噂は、ミハイルにとって喜ばしいものではないだろう。頼んだのはアルミラではあるが、あっさりと承諾してくれたことには驚いていた。
無下にされようと言い寄り思いを募らせている――そんな筋書きもあったのだが、この分ではその必要はなさそうだ。
なにかの拍子に、冗談でお義兄様と呼んだことはあるが、特別親しかったわけではない。顔を合わせれば挨拶をし、ほんの少しだけ言葉を交わす程度の間柄でしかなかった。
だから、兄であるミハイルですら近づかないレオンに振り回される、かわいそうな婚約者として同情している。
アルミラがそう考えるのも、無理はないことだろう。
「毎日ではなく週に一、二回だけこうして昼食を共にするのはどうかな」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、そういうわけではないが……」
言いよどむ姿に、アルミラは小さく首を傾げた。
「私は面白味に欠けるだろうからね。たまにのほうが退屈せずに済むだろう」
確かにミハイルとのやり取りは格別面白いというわけではない。
しかしアルミラの周囲にいる男は、売り言葉に買い言葉の応酬をするレオンや、おちょくり合うだけのエルマーなどのろくでもない人物しかいない。そういう意味では、穏やかな時間を過ごせるミハイルとの時間は希少なので、気にするほどのものではなかった。
「それに毎日料理を作っていては大変だろう。休むことも必要だよ」
大変といえば大変かもしれないが、すでに日々の習慣と化している。今さらなにか思うようなことはない。
どう答えたものかとアルミラはしばし思案に暮れる。
「いえ――」
アルミラが口を開いてなにか答えようとしたとき、アルミラを呼ぶ声が響いた。
「アルミラ様! レオン殿下が……!」
血相を変えた友人の姿に、アルミラは思わず眉間に皺を寄せる。
レオンがなにかしようと、もうアルミラには関係ない。これまではなにか問題が起きれば呼ぶようにと周囲に言っていたが、婚約破棄を突きつけられて以降は呼ばないようにと通達したはずだった。
「私はもうレオン殿下の婚約者ではないよ」
「でも……このままでは……」
なにもするつもりはないと言外にこめてそう言ったのだが、友人は引かなかった。
ミハイルがいることすら構わないその慌てぶりに、アルミラは少しだけ興味がわき、せめてなにをしたのかだけでも聞こうと話の先を促す。
「エルマー様と食堂で小競り合いに……!」
(なにをやっているんだ、あの馬鹿は)
それはレオンに向けてのものか、エルマーに向けてものか。
あるいはそのどちらにもなのかもしれない。




