「……そうか、君は立派だね」
本をめくる音を聞きながら、ミハイルは気づかれないように隣に座るアルミラを隠れ見る。
(どうしてこうなったかなぁ)
ミハイルがアルミラと初めて会ったのは、レオンとの初顔合わせの数日後だった。婚約者になったと挨拶しに来たときは髪も長く、ドレスを着た普通の女の子で、間違っても仮面を被ったり男装していたりはしなかった。
そのときは挨拶だけで終わり、それ以降も親しく話したことはあまりない。挨拶以外のやり取りをしたのだって、片手の指で足りる程度だ。
それなのになぜか今は奇抜な装いをして、ミハイルの横に座っている。しかもここ数日は何度も言葉を交わし、しかも食事まで馳走になった。
(ここまで彼女と長く話したことは……一度だけあったな)
ふと思い出したのは、アルミラが髪を切った日のことだ。
その日ミハイルは王宮にある書庫から持ち出した本を戻しに行くところで、廊下でばったりとアルミラと出くわした。
「ミハイル殿下、ご機嫌よう」
淑女の礼をとるアルミラの短く乱雑に切られた髪に驚き、手に持っていた本が盛大な音を立てて床に落ちた。
「落としましたよ」
アルミラが落ちた本を一冊手に取り差し出しても、ミハイルは石像のように固まったまま動かなかった。アルミラが訝しげに眉をひそめ「ミハイル殿下」と再度呼びかけてようやく、ミハイルは金縛りが解けたかのようにぴくりと体を震わせた。
「そ、その髪は?」
「ああ……レオン殿下に邪魔だと言われたので切りました」
なんてことのないように言われたときのミハイルの衝撃は計り知れない。弟の我儘ぶりは聞いてはいても、まさか女の子にそんなことを言って髪を切らせるとは思ってもみなかった。
実際は邪魔だと言われて、アルミラが勝手に切っただけなのだが。
「いくら婚約者だからって、そこまでしなくても」
「主君の命令を聞くのが臣下の務めです」
完全に建前である。
このときのアルミラはどうやって泣かせてやろうかと、虎視眈々と狙っていた。
だが当然、ミハイルはそのこと知らない。
「……そうか、君は立派だね」
慰めの言葉も励ましの言葉も見つからず、苦々しく紡がれたミハイルの言葉に、アルミラは小さく笑みを零した。
「ミハイル殿下のほうがご立派です。レオン殿下に仕えるために、今もこうして勉学に励んでおられるのですから……私には到底真似できません」
泣かせようと考えているのだから当たり前だ。
だがミハイルはその言葉を真摯に受け止めた。髪を切るほどの忠誠を見せるアルミラに立派だと言われたのだ、聞き流せるはずがない。
それからもレオンの我儘ぶりとそれに応えるアルミラの話は聞き及んでいた。そのたびに、どこまでやるのが忠義なのだろうかとミハイルは頭を悩ませてきた。
(でもやはり、さすがにこれはやりすぎなのでは)
そして今、ミハイルの横には奇抜な装いをして婚約破棄のために動いているアルミラがいる。もはや忠義ではなく執着心を感じるほどだ。
「君はもう髪を伸ばす気はないの?」
「……ええ、まあ、レオン殿下のご命令ですので」
突然振られた話題に、アルミラは少し考える素振りをしてから答えた。
今さら髪を伸ばしても邪魔でしかたないだろうと考えてのことだ。それに今さら髪を伸ばせば色気づいたとかなんとか難癖をつけられそうなので、一生このままでいいかとすら思っていた。
「婚約者でなくなるのなら、髪を伸ばしても咎めないと思うけど」
「レオン殿下はたとえ私が婚約者であろうとなかろうと、口を出してくることでしょう」
散々やり合ってきたのだ。いくら婚約者でなくなろうと、これまでの関係が完全になくなるわけではない。顔を合わせないように細心の注意を払ったとしても、うっかり出くわしたときに難癖をつけてくるのは目に見えている。
無論、どれだけ難癖をつけてこようとアルミラに聞く気はない。
(……君は本当に)
髪を切ったあの日から今日までに聞いてきた噂や、実際に見てきた光景がミハイルの脳裏に浮かぶ。
レオンの命令でアルミラが剣を学んでいるとか、レオンの命令で大工仕事を学んでいるとか、レオンの命令で庭仕事を学んでいるとか――貴族令嬢が進んでするとは思えない数々のことを、アルミラはレオンの命令によって行ってきた。
いつでも、アルミラの噂にはレオンの名前があった。
そこまでする理由が忠義だけでは説明がつかない。もしも同じことをしろと言われてもミハイルは難色を示すだろう。
(レオンが好きなんだね)
それなのにレオンの願いだからと婚約を破棄しようとしている。その心中を思い、ミハイルは痛ましげにアルミラに見下ろす。
ミハイルは完全に誤解していた。




