『ホルスの伝説〜序章〜』
『数百年前のこと。この地にはコルナ王国という大国があった』
幕が上がる。
『そこには、偉大な夢を抱く、後に戦神と呼ばれる青年が住んでいた……』
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まだ動く物の少ない早朝。ただ静けさが漂っている。薄暗い空には、ぼんやりとした雲が、ゆるりと流れていく。
やがて、存在を知らしめるべく、朝日がその姿を現す。大地を覆う日差しに呼応するように、小鳥のさえずりが聴こえ始めた。
少しずつ、しかし着実に、生き物たちの一日が始まろうとしている。あくまで日常が開始される風な空気があった。
不意に、違和感が吹き荒れる。
丘に、林に、街に。
積乱雲のような、巨大なものの影がかぶさった。
小鳥の鳴き声は聴こえない。太陽からの光は見えない。穏やかな空間は、ぶち壊された。
皆が、異常事態に気づいた。
国王、貴族。商人、鍛冶屋、それに平民も。騎士、門番。農民、地主も。はてには牛や馬も。
畑仕事をするものは、訝しげに見上げ、馬車に乗るものは、好奇心を持って見上げた。
笑みを浮かべる者、恐怖の表情を浮かべる者などもいたが、実際のところ、異様な状況に戸惑うものたちがほとんどだった。
なぜならば。
それは空に浮かぶ、いや天空を闊歩する、怪物であった。大空の覇者、すなわち巨竜だったのである。
さっきまでとは趣を異にする静けさが訪れる。
風が吹く。真上から、強風が吹き付ける。巨竜の羽ばたきである。
地上で多くの生き物が見守る中、大空を悠々と旋回している。何を考えているのか分からない無表情で、地を見渡し、力強く、あるいは優雅に。
どれだけ時間がたっただろうか、見上げる者の首が痛くなってきたとき、竜は下降をはじめた。よく見なければ分かりにくい緩やかな下降ではあるけれど、明確な意思を持って地上を目指しているようであった。
竜は街から数十メートルのところに降り立った。
街は、戦場になることが多く、いわゆる城塞都市という構造をとっている。竜への警戒態勢が組まれるのは迅速だった。
最初は友好的な交渉を試みた。
竜は聡明な知性を持つ種もいる。
意志の疎通を図ろうと、代表の使者が呼びかける。
問う。その名を。その正体を。
返事は、無い。
蔑んだような眼で、こちらを見下ろすだけだ。
使者は諦めず、また問う。今度は、なぜここに居るのか。なぜここに来たのか。
返事は単純明快だった。
竜は頭を揺らし、その口から尖った歯をちらつかせ———火を噴いた。
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未曾有の大災害があったそうだ。
と、その若者が耳にしたのは、かの巨竜がさる城塞都市を襲撃したという噂だった。都市は廃墟の如き有様だという。竜も意思を持っているとはいえ、行き過ぎた脅威は天災と同じである。まるで大地震の来襲のようであった。
若者は旅をしている。それは世界を見て回り、彼の内に多く吸収するためであり、成長するためだ。
彼はまだ何も成し遂げてはおらぬ。戦乱の世に平和を齎すという、ただただ茫漠とした曖昧模糊な、目標とも言えないものを抱いているだけだ。
長期的に見れば、と、それだけのことではあるが。
彼は、短期的な目標の設定は得意だと言える。このとき湧き出た使命感は、勇猛さにおいて何にも劣らなかった。
彼は紅い馬に跨った。
「私は助けに行く」
紅馬が猛り嘶いた。
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若者は廃墟となった都市を訪れた。
人々からはまだ生気が消えていなかったけれど、建物は総じて目も当てられない。倒壊しているものがほとんどだった。
復興に向けて動き回る人々。目には前へ進もうとする活力が見えた。
都市の真ん中に建つ、城だったもの。半壊した城からは、人の気配はすれど、しかし静かで葬式のようにも思える。
若者はそこに行かなければならない気がした。彼は直感を信じて、馬を駆けさせた。
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「どうしたのですか」
若者は開口一番、城の者に問うた。
しかし、その執事は
「……」
と沈黙し、諦めた表情で首を振った。
これ以上何か訊いても、効果はなさそうだった。
若者はさらなる焦りを覚え、冷や汗を流した。必死の形相で駆け出す。
城の者らに会うたび同じ問いを投げかけたが、誰もが黙り通した。彼らは、見ず知らずの若者が半壊した城に潜り込んでいるのを見ても、咎める様子がなかった。その気力すら無いらしかった。
若者は走り回り、王との謁見の間と思われるところに辿り着いた。
彼は、厳かな謁見室に無頓着に踏み込んだ。
王が部屋の最奥に鎮座している。重臣だろう貴族たちは顔を俯けていた。
重苦しい沈黙。
若者の一声が沈黙を破る。
「どうしたのですか! なにが、あったのですか!」
王が沈痛な面持ちで答えた。若者が初めて得た情報だ。
「我が娘が、ただ一人の王女が、竜に……竜に…………攫われた」
それきり口を開かない。破壊された沈黙は、もとの形に戻った。
若者はその場にいることに耐えきれなくなった。城を飛び出した。
道行く人に訊いた情報からは、竜が山の方に去っていったと推測された。
若者は、廃墟を出て、馬上から叫んだ。
「私は! あなたを助ける!」
宣言は、こだまとなって、駆け巡った。
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若者の駿馬は、風となって走りに走った。地面を蹴り飛ばし、凄まじい勢いで走った。
やがて山麓に、さらに山嶺に着いた。山嶺は秘密基地の如く、地形の大改造が行われていた。
大きく抉れて、ぽっかりと大穴が開いていたのだ。幅も、深さも、何十メートルもある大穴である。
若者は愛馬から降りて、大穴を見渡した。
中には、折れた樹木が、巣を形作るように敷き詰められている。
「はあっ!」
若者は飛び降りた。後先も考えず、穴の縁からジャンプした。
着地点には樹木の枝や葉が折り重なっており、クッションのようになっていた。そのため若者は怪我一つなく降りられたのだった。
若者の無鉄砲な行動には理由がある。それは……
「そこのお嬢さん、お怪我はありませんか。なにがあったのです」
形成された巣の端に、上品なドレスに身を包む女性が座り込んでいる。
「ご安心ください、怪我はありません。私はコルナ王国の王女でございます。ここは竜の巣です。私は竜に連れ去られ、ここに来ました」
「そうなのですか。やはりこれは竜の巣か……。竜は今どこに?」
「先程、翔び立って行きました。どこへは分かりません」
「ふむ、なるほど。ならば今すぐここから出たほうがいい。早く王国に戻りましょう」
すると王女は、それはできません、とため息をついた。
「何故ですか⁉︎ 王国へ帰りたくないのですか⁉︎」
「いいえ。そのように思う訳がありません。けれども帰ることは叶わぬ願いなのです」
「叶わぬ……?」
王女は、黙って若者の来た方向、つまり竜の巣の壁面を指差した。
それを見て若者は、合点がいったように「あ……」と声を漏らした。
壁面は、登れるはずもない、切り立った崖のようになっているのだった。愚かにも彼はそれに気付かず降りてきてしまったのだ。
「ここを登ることができぬから、ということですか」
「ええ。もちろん」
ううむ、と若者が唸るがもう遅い。後の祭りである。
彼に出来ることなど何一つない。
でも別にそれで良い。
そう。
現時点において、彼は待っているだけで良いのだから。幸運の女神が、彼に微笑まない理由がないのだ。
結果から言えば……やはりと言うべきか、彼の心配は無用だった。
竜が巣に帰ってきた。大きな翼で羽ばたき、風が吹き荒れた。
竜は気まぐれだ。一度巣を離れてしまえば、次いつに帰ってくるかは予測のしようがない。
このタイミングでの帰巣は、ある意味で奇跡と言える。
まあ、それを幸と捉えるか不幸と捉えるかはーーその者の器量に左右されるだろうが。
この時、若者は好機と捉えた。
竜の巨軀を舐め回すように観察し、その怪物の唯一と言って良い弱点を見つけ出した。
逆鱗である。
逆鱗とは、他の鱗の向きに逆らった、たった一枚だけの鱗だ。
それは、ある時は、刺激してはならない『怒り』の象徴であり。
そしてまたある時は、竜を討伐するための、格好の標的である。
若者は腰に提げた鞘から酷く鋭利な剣を抜いた。大きく構える。
駆け出した。
「おらああぁぁぁぁぁ‼︎!」
剣が、逆鱗に、深々と刺さった。肉に食い込む。
紫の血が噴き出した。
勢いよく。
竜は痛みにのたうち、暴れまわった。尖った鉤爪が振り回される。
やがて竜の体躯は動かなくなった。最後まで、断末魔すらあげなかった。
竜の巣、その残骸には、骸となった竜と……
紫に染まった勇者の姿があった。
若者の手が僅かに震え、剣を取り落とした。
彼は、血だらけの掌を呆然と見続けている。そして、力が失われたかのように、ガクッと膝をついた。
王女が駆け寄る。
「どうかされましたか⁉︎」
彼女は心配そうに顔を覗き込む。
「あ……気分を悪くされてしまったのですか。この血は確かに良いものではありませんものね。私も少し気分が……」
「いや、大丈夫です。あまり気は進まないでしょうけれど、この骸を踏み越えて城に帰りましょう。上には私の馬もあります」
王女は頷き、若者にしがみついて虚ろな屍を越えた。
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半壊した城で、多くの大臣たちが、王と王女の再会に涙している。
「よくぞ、戻ってきてくれた」
一言一句に重みをおいて、王が言った。
王女はその言葉に返事をすることもできず、涙を流していた。王のもとに帰ったという安心から気が緩んでしまったのだろう。
これはもしかすると、感動の場面とされるところかもしれない。
しかし、あるものが足りない。
竜を殺し、王女を救った勇者はここにいない。
彼曰く
『私は自分の信念に従っただけです、王女様。当然ながら対価など求めませんとも。私はそろそろ旅を再開したいと思います。またお会いする日を楽しみにしています。では、お元気で』
だそうだ。
王女は、若者の存在を心に刻み込んだ。
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『……かくて、戦神と謳われし、青年ホルスの調停者としての一歩が踏み出された』
幕が降りる。
冷めやらぬ興奮が、むせかえるように充満している。
和樹とファイリは、この感動を零さないようにと、互いに一言も発さずに外に出た。