изменять
『え…?』
その呟きは僕と響、どちらが発したものだったのか。
突然口をついて出た言葉に僕自身困惑しながら、それでも声に出してしまったものは戻らない。 そう自覚した瞬間から急速に体温が上昇していく感覚に襲われる。
頬が熱い。
きっと今の僕の顔を鏡で見たら、熟れたリンゴのように真っ赤になっていることだろう。
恥ずかしさに耐えられず、僕は俯いたまま黙り込む。
沈黙が部屋を支配した。
時間にすれば僅か数秒のこと。しかし体感的には数時間にも感じられた静寂の後。
響がゆっくりと息を吸った音が聞こえた。
僕は反射的に視線を上げる。
そこにはーー。
目を閉じて、深く深呼吸をする響の姿があった。
そして意を決したような表情を浮かべた彼は言った。
今まで聞いたことがないくらい優しい声で、僕の愛称を。
ーーアリフィーユシュカ。
と。たった一言。
それだけで僕の心臓は大きく跳ね上がった。
まるで、全身の血流が加速したかのようにドクンドクンと鼓動の速度が上がっていく。
響の口から放たれた僕の愛称は、とても不思議な響きをしていた。お母さんから呼ばれる時とはまた違った感じ。
初めて呼ばれたはずなのにどこか懐かしくて温かい気持ちになる。
僕は、無意識のうちに自分の胸を押さえていた。熱く火照る身体を落ち着かせるために何度も大きく深呼吸を繰り返す。
やがて、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、響の方へと向き直り微笑んだ。
『ありがとう、響』
『どういたしまして、アリフィヤ……アリフィーユシュカ』
お互いに見つめ合いながら名前を呼び合う。
そして、どちらからともなく笑い合った。
それからしばらくの間、僕は響に教えてもらいながら勉強を続けた。
分からないところがあればすぐに質問して、その都度丁寧に響は答えてくれた。
ただただ楽しかった。こんなに楽しい時間を過ごしたのは初めてかもしれない。
もっと早く、こうしていれば良かったと思った。
『ふぅ、これで終わりかな』
『うん、「ありがとう」響』
教科書を閉じた僕は、椅子に座ったまま伸びをした。時計を見ると時刻は既に午後7時を回っていた。
そろそろ夕飯の時間だ。
『お腹すいたね』
『あぁ、そうだな。今日の夕食は何だろう』
『楽しみだよね』
響と一緒にリビングへと向かい、扉を開けると美味しそうな匂いが漂ってきた。
『あら? もう勉強は終わったの?』
キッチンに立つお母さんが声をかけてきた。
『うん、ちょうど今終わったところ』
『そう、それじゃあすぐご飯にするわね』
『手伝うことはある?』
『ううん、大丈夫。今日はゆっくり休んでていいからね』
そう言って、料理を再開した母さんの隣でお義父さんが食器の準備を始める。
僕たちはテーブルに着き、食事が始まるのを待った。
『いただきます』
4人揃って挨拶をし、食事を始める。
今日のメニューはクリームシチューのようだ。一口食べると濃厚でクリーミーな味が舌の上に広がる。ジャガイモのホクホクとした食感が心地良い。
『どう、アリフィーユシュカ?』
『すごくおいしいよ』
『それはよかった』
僕の返事に嬉しそうな笑顔を見せるお母さん。それから話は自然と先ほどの勉強会の話になった。
『それで、勉強は捗ったかしら?』
『うん、響のおかげだよ』
『響くんは教えるのが上手なのね』
『いえ、そんなことはないです。アリフィーユシュカの理解力が高かっただけです』
謙遜する響に僕は首を振る。
『ううん、響の教え方が上手だから分かりやすかったんだよ』
僕が褒めると響は少し照れ臭そうにはにかんだ。その様子がなんだかくすぐったくて、僕も釣られて笑みを浮かべてしまう。
お母さんはそんな僕たちを見てニコニコと上機嫌だった。
こうして和やかな雰囲気のまま時間は過ぎていき、やがて夕食を終えた僕は自室に戻った。
ベッドに寝転がりながら、天井を見上げる。
さっきまでの出来事を思い出し、自然と頬が緩む。
今日の勉強会は大成功だった。
勉強を教えてくれている時の響はとても優しかったし、僕の質問にも嫌な顔一つせずに付き合ってくれていた。
少なくとも嫌われていない事実は確認できた。
それに……何より愛称を呼んでくれたことが嬉しい。
ーーアリフィーユシュカ。
響が口にした僕の愛称が頭の中でリフレインされる。その度に僕の心臓は激しく脈打つ。
この感情がなんなのか僕はまだ知らない。でも、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ心の奥底から温かさを感じるような気がして安心感さえ覚えるのだ。
ーーだからこそ。
僕は、この関係を失いたくないと思う。
出来ればずっとこのままの関係でいたい。だけども、それは無理だと分かっている。
いつか必ず終わりが来ることも。
響との繋がりが切れてしまいそうになって、僕はようやく気づいた。
僕にとって響はかけがえのない存在だということに。
だから、これからも一緒にいたい。
その為なら、僕はーー。
『響が欲しい』
無意識のうちに口から漏れた言葉に、僕は慌てて口を塞いだ。
『…何言ってんだ僕』
自分の発した声のあまりの恥ずかしさに、全身が熱くなる。
今日は本当に失言が多い。
『……忘れよう』
きっと疲れてるんだろう。だから変なことばかり口に出るんだ。うん、そうに違いない。
僕は、枕に顔を押し付けて羞恥心を誤魔化しながら眠りについた。




