ласкательная форма 愛称
『あー…疲れた。ただ挨拶しただけであんな騒ぎになるとは思わなかったよ。響も疲れたでしょ、ごめんね』
『いいさ、それに皆の気持ちも分からなくないからね』
『けど流石にあの騒ぎは大袈裟じゃないかな』
『うーん、俺はそんなことないと思うけど』
『あはは大袈裟だよ、じゃあ1時間後に僕の部屋に集合ね』
学校終わりの帰り道。
響と共に一直線に家に帰宅した僕は、玄関のドアを開けるなりそう言った。
『え?』
『勉強、教えてくれるんでしょ? よろしくね』
休み時間に約束した授業の復習。
響にとって想いの人でない僕がすんなり約束を取り付けられたのは日本語を覚えたてだからという理由があってこそだろう。そのアドバンテージを生かさない手はない。
恐らく響はリビングで勉強と考えていたのだろうけど、それは却下だ。
ただでさえ僕が劣勢な状況下において、親の目もあるリビングで勉強とか馬鹿げている。
それじゃただのお勉強会だ。真面目に勉強だけする分には構わないが、今回は下心……いや、別の目的ありき。
今後同じ機会に恵まれるとは限らない現状で、この絶好の機会を恋愛に繋げないわけにはいかない。
恋愛に重要なのは雰囲気作りだって、そんな言葉を聞いたことがある…ような気がするし。 そう言った意味でも二人きりになれる自室以外でやることは考えられなかった。
『じゃ後でね、絶対来てね』
『え、ちょっとアリフィヤ』
僕はそう言い切ると、『ただいま』と声を張り、急いで自室へと向かった。
『ふぅ……緊張した』
バタンと勢いよく閉めた扉を背に、額に浮かんだ汗を拭う。
一方的に言い切ったとはいえ、高揚感が抑えられない。とくとくと動悸が高まり身体が熱くなっていく。
『と、とりあえず落ち着こう。えっと…こうだっけ』
僕は背筋を伸ばし、軽くお腹に手を当てた。
頭の中で「いーち、にー、さーん、しー、ごー」とカウントしながらゆっくり口から息を吐き出す。息を吐き終えたら、鼻から息を吸いこむ。
記憶に間違いがなければこれでいいはずと、僕は腹式呼吸を繰り返し行い身体の熱を鎮めた後、姿見の前に立った。
映るのは制服姿の自分。自分で言うのもあれだがやっぱり可愛い。いつ見ても美少女だ。
だからこそ余計にショックを受ける。
ーーこんなに可愛い僕が側にいるのにどうして他の女子に目を奪われるかなぁ…。
…って落ち込んでる場合じゃないね。準備しなきゃ
時間は有限。特に今日は無駄なことに使ってる時間なんて一切ない!
まずは…身嗜みからかな。
気を取り直した僕は改めて姿見をじっくりと観察する。
「あ…」
よくよく見るとヘルメットを被っていた影響か、若干髪が乱れていることに気づいた。
『……気になる』
注視しないと気づけないほどの小さな乱れ。
だけども、一度目についてしまったからか、気になってしょうがない。
ここだけ直そうか…。いや、どうせなら少しでも綺麗な格好で会いたいから……もういっそのことシャワーを浴びてこようかな。
ーーうん、まだ時間は充分にあるし、軽くシャワーを浴びる程度なら全然間に合いそう。
待ち時間を少し多めに取っておいてよかった。
時計を確認した僕は小さく頷き、自室を出て足早に浴室へと向かう。
ーーそういえば、今響はどうしているんだろう?
響の部屋の前を通り過ぎた時、ふとそんなことが頭を過った。
普段の響は自室で部屋着に着替えた後、すぐにリビングに向かっているが、今日はどうなのか。
少なからず違う行動をしてくれていると意識してくれてるみたいでちょっと嬉しいんだけども…。
『響ー?』
つい気になり、ふらっとリビングに足を運んだ僕は部屋の中を覗き込んだ。
いつもの定位置に響の姿はない。
一応部屋の隅々まで視線を巡らせるが、響の姿どこにも見当たらなかった。
ふむ…これは…。
『アリフィーユシュカ、響くんならまだ来てないわよ。多分自分の部屋にいると思うけど』
『ありがとう、ママ』
一人ソファーに座っていたお母さんの言葉に、堪らず笑顔が溢れる。
いつもとは違う行動。つまり少なからず僕を意識してくれていることが分かり、嬉しさが込み上げてきた。
『…ふふ、嬉しそうねアリフィーユシュカ。響くんと何かあったの?』
『うん、実はね…』
尋ねるお母さんに僕の口が勝手に動き出す。
そして一通り説明を終えたところで、浮かれていた僕の口はようやく動きを止めた。
『へぇ…そうなんだ。よかったわね』
『うん。あ、ごめんママ。そろそろシャワー浴びてこなきゃ…』
喋っているうちは気づかなかったが、そこそこ時間が経っていたらしい。
僕が慌ててリビングを飛び出すと。
『頑張ってね』
去り際にそんな一言が聞こえてきた。
お母さんはきっと純粋な気持ちで勉強を応援してくれてるのだろう。
ごめんなさい、勉強なんて二の次としか考えてないです。
僕は心の中で謝罪した。
◇
洗面所で髪の毛を梳かし、熱いシャワーを浴び。念入りに身体を綺麗にした僕は、髪を乾かした後バスローブを着て再び自室へと戻った。
『よし、髪乱れなーし。完璧』
姿見の前で一回転。髪の毛に乱れがないかを確認する。
うん、特に問題はなさそうだ。となれば、後は服装かな。
『んー、何の服がいいかなぁ…。これは最近着たばかりだし。これは色合いがあんまり好きじゃないし』
クローゼットを漁り、真剣に服を選別する。
やがて選びに選び抜いた服を手に持った僕は、素早く着替えると姿見の前でポージングを取った。
純白のワンピース。
コーデとしては極めてシンプルだけども、やっぱり僕にはこれが一番似合っている。
『うん、ばっちり!』
クルクルとその場で回って確認を終えた僕は、ようやく会場設営を始めた。
机の上に教科書を広げ、部屋の片隅にあった予備の椅子を、僕の椅子の隣に配置する。
身嗜みとは違い勉強会の準備はすぐに終わった。
後は響が来るのを待つだけ。と、壁にかけられた時計を見る。
約束の時間までは3分を切っていた。
もういつ響が来てもおかしくはない。
心なしか規則正しく時を刻む針の音が大きく聞こえる。
僕は自分の椅子に座りながら、響が来るのを耳を澄ませて待っていた。
いつでもドアへ駆け寄れるように足先に力を入れて。
そしてーー。
『アリフィヤ、俺だけど』
『うん待ってたよ、入って入って!』
ノック音と同時にドアに駆け寄り、響を迎え入れた僕は用意した椅子へと案内する。
『狭くないか? やっぱりリビングの方が…』
『ううん、僕は平気だよ』
一人用の勉強机に、二人で並んで座っていることもあり僕と響との距離は拳一つ分も空いていない。気を抜けば肩と肩とがあたる、そんな距離だ。
そのこともありリビングに、と提案する響の言葉を僕は笑顔で否定した。
『…アリフィヤが平気ならいいんだ、じゃあまず今日やった内容を日本語を交えながら簡単に説明していくよ』
『うん、お願い』
響の声が耳をくすぐる。
優しくて心地よい声。
昔よりずっと低くなった、男声が。
スゥーッと耳に入り込んでくる。
『この単語は「」といってね。ロシア語ではーーという意味の言葉なんだ』
『うん』
『次にこの単語はーー』
『うん』
声を聞いているだけで嬉しいし、勉強をしているだけなのに楽しく感じる。
『ここまでで何か分からないところはある?』
『大丈夫、続けて』
いつまででも続けばいいのにと思う。
けれども、僕が負ければこの関係も終わる。
自然と疎遠となり、こうして二人きりで勉強する機会も無くなっていくのだろう。
『そうだな、ここはこうして…アリフィヤ?』
気がつけば僕は、響の服の袖を掴んでいた。
『どうしたんだアリフィヤ?』
何も返さない僕に、響が心配そうな顔で聞いてくる。
『ねぇ響』
今世において僕の世界はお母さんと僕だけで完結していた。
それはお母さんが再婚してもそうだった。
家族とは認めていても、お母さん以外に愛称を呼ばれるのは嫌だった。
お義父さんも響も遠慮していたというのあるけれど、家族になった後も僕はお母さん以外に誰にも呼ばせなかった。
『アリフィーユシュカって呼んで欲しい』
だけども。
何故か。そんな言葉が口に出た。