прогресс 進歩
僕が日本語を披露したことは響にとって、とても衝撃的な出来事だったらしい。その日の登校はいつも通りの雑談ではなく響による日本語のレッスンを受けながらのものになった。
自転車をギコギコ漕ぎながら、響は風切音に負けない大きな声を張り上げて言う。
『いいか。アリフィヤ、ありがとうは日本語で「ありがとう」だからな。ゆっくりでいいから言ってみて』
「あ、ありがとー?」
『うん、上手じゃないか! 流石アリフィヤだな。すごいすごい』
『そ、そう? 「あ、ありがとー」』
これでも日本語歴は響より長いんだよ……なんて内心思いつつ、僕はありがとうを何度も辿々しく口にした。
その度に響は褒めてくれるものだから、何となく罪悪感が生まれてくる。
いや、褒めてくれるのは嬉しいんだけどね。日本語で、しかも日常会話で使われる単語を言っただけで褒められるのはちょっと素直に喜べないかなぁ。
まぁ響から見た僕は、六年という長い間何一つ日本語を覚えられなかったとんでもない馬鹿だから、一つ覚えただけでも大きな進歩なんだろうけども。
でもでもやっぱり褒めるならもっと違うことで褒めてほしい。
例えば料理の腕とか……容姿とか……?
うん、そう言えば響には面と向かって可愛いと言われたことって初対面の時しかなかったような…………。
『……バカ響』
そんなことを考えていたからか、不満が言葉となって口から漏れてしまった。
慌てて口をつぐむ。
『ん? なんか言った、アリフィヤ?』
『ううん、何にも言ってないよ。空耳じゃないかな』
幸いにも風の音に紛れて、響には届かなかったようで、ホッと胸を撫で下ろす。
『――じゃあ次は「よろしく」だ。これはロシア語でよろしくの意味』
『「よ、ろしく?」でいいのかな』
『…! あぁ。合ってるよ。念のためもう一回言っとこうか。「よろしく」』
「よ、よろしく…」
その後も学校に着くまで何度かレッスンは続き、登校の時間だけで使える単語は四つ増えた。
うん、これメモしとかないと何を使えるのか混同しそうだ。今後はメモ帳を持ち歩くようにしよう、そうしよう。
学校の廊下を歩きながら、密かにそんな決心を固めていると、少し前を歩いていた響が不意に立ち止まって振り返った。
『どうしたの?』
『朝言った言葉を覚えてる?』
『うん、「おはよう」でしょ』
覚えているも何もあれだけ緊張した中で発した言葉なんだ。生涯忘れられる気がしない。
自信満々にそう返すと、響は『うん』と頷いて言葉を繋げた。
『クラスの皆に挨拶して欲しいんだけど、出来る?』
心配そうに訊ねる響に、思わず。
え、なんでそんなことを聞くの? 出来るに決まってるじゃん。
そうロシア語で言いかけて、あっと言葉を飲み込んだ。
そう言えば、僕、家族以外に自分から話しかけるの今世で初めてかもしれない。
となれば当然響は僕が誰かに話しかける姿を見たことがないわけで。
そりゃ心配にもなるよね。
『大丈夫、出来るよ』
僕は響に大きく頷くと、笑顔で宣誓した。