8 プリンセスレッスン
あ、怒る。
顔を真っ赤にして、頬を膨らませて、唇をかみ締める姿を見たとき、ナザレスは真っ先にそう思った。
王宮の奥まった一角にある、目立たぬ小さな扉。
ノックをしても返事がなかった。
耳をつけたら中から話し声が聞こえた。
そっとドアを開けて中をうかがうように見渡してみれば、狭いながらも壁紙から調度品まで上品に整えられた空間が広がっている。
その部屋の主は、黒髪をきっちりとまとめて結い上げ、地味ながらも上質な黒のドレスを着た女性。窓際に杖をついて立っており、厳しい目つきをしている。
視線を追えばその先には、短い赤毛の少女。簡素な作りの白のドレスをまとい、よろけながら歩いていたが、ついに裾を踏んづけて転んだ。慌てて立ち上がったが、遅い。
「もう一度!」
鋭い叱責が飛ぶ。
その「もう一度」は何度目なのか、少女ルシュカの表情は、今にも怒り出す寸前といったように見受けられた。
現在行われているのは、優雅な歩行の練習といったものらしい。それは確かに必要だとナザレスは思う。普段のルシュカは動き易さ最優先の兵装のせいもあってか、飛び跳ねるように歩き、とかくせわしない。淑やかさや優雅さとは無縁だ。つま先まで隠れるスカートなどはいたときには悲惨なことにもなるだろう。そのくらいの予測はできたが、しかしどうもその不出来具合は予想以上らしい。
(いくらがさつとはいえ、運動神経は良いはずなんだけどな)
歩くだけでこれほど大変なら、そこに優雅な微笑を浮かべて、洗練された会話をこなしてという課題が加わったときにはどうなることか。考えるだけで気が遠くなりそうだった。
特訓をはじめて早数日。当の本人がそれは一番感じているはず。
怒りを感じているとすれば、自分自身へだろう。
ナザレスは声をかけるのを躊躇っていたが、婦人に気づかれた。
「あら」
「申し訳ありません。ノックをしても返事がなかったので」
言い訳の途中で、婦人の表情が、ぱっと華やいだものになる。年齢は不詳ながら肌はつややかで、まっすぐナザレスを見つめる澄んだ黒瞳には、少女のような輝きがある。
「待ってたわ。あなたったら、忙しい忙しいって言って全然顔を見せてくれないんだもの。私、いつも待ってるのに。今日はいつまでいられるの? ああ、待ってね。すぐお茶をいれてもらうから。座って」
おっとりとした話しぶりながら、まったく息継ぎする様子もなくそれだけ言うと、杖をついて数歩進む。
ナザレスは婦人の目指す場所へと先に歩み寄ると、侍女を呼ぶためのベルを手でおさえた。
「大丈夫ですよ、カルネリ。すぐに仕事に戻りますので」
「もう。毎日仕事仕事って、あなたそんなに忙しいの? 私、今度ファルネーゼに文句を言っておくわ」
「いいです。やめてください。絶対やめてください。俺は仕事が大好きなんです」
強い口調ではねつけられても、カルネリと呼ばれたその婦人はまったく頓着しない。杖を持たぬ手でナザレスの頬に触れ、ほっそりとした細い指を這わせる。その感触に驚いたように、ナザレスは焦って後退した。いささか無様にバランスを崩していたが、なんとか持ち直す。
そして、黙ったままのルシュカへと目を向けた。
「よ」
それまで、言葉もなく呆然と二人のやりとりを見ていたルシュカであったが、小さな拳をきゅっと握り締めた。
「ナザレス、何しに来た」
「そろそろ投げ出したくなる頃かなと思って。大丈夫か?」
そのまま何かしらからかってやろうと思っていたが、当のルシュカが目の前から消えてしまい、それはかなわなかった。慣れないドレスの裾を踏んで転びかけながら、ナザレスの位置からは死角となる衣装箪笥の陰に走りこんだのだ。お前は人馴れしない猫か、と呆れそうになる。
「おい、なんだその態度」
「来るな! 絶対来るな!」
「……なんだ?」
首を傾げたナザレスの腕に、カルネリがふわりと腕を絡ませる。
「ドレス姿を人に見られるのが恥ずかしいんですって。可愛いのにね」
「恥ずかしい? なんだ、あいつまだそんなこと言ってんのか」
邪険にしたように見えないよう、絡ませられた腕を外そうと試みながら、ナザレスはつい独り言のように言った。すると、ますます腕に力をこめたカルネリがふわりと微笑む。
「ほんとよね。今はちょっといろいろ問題あるけれど、あんなに可愛らしい子、なかなかいないと思うわ。ナザレス、心配しなくてもいいわよ。すべて私に任せてくれて大丈夫。あなたにふさわしい立派な淑女にしてあげるから」
ナザレスは淡い笑みを浮かべて、空いた手を持ち上げると自分の髪を透いた。
それから、毅然とした優しさをもって、カルネリの腕を外した。
「ええ。助かります。よろしくお願いします」
隠れたままその会話を聞いていたらしいルシュカが、箪笥の陰から顔だけ出して叫んだ。
「べ、べつに私は、ナザレスのためにやってるんじゃない! これは……私は……」
最後まで言うことができずに、声は小さくなり、消える。
顔を合わせたナザレスが、少しだけ困った表情をして、唇の前に指をたててみせたせいであった。
その仕草の意図が伝わったらしく、ルシュカはひとまず言葉を飲み込んでくれた。ナザレスはほっと息を吐き出す。本当は、ナザレスとて混ぜっ返すなり、からかうなりしたかったのだが、どうしてもそういったことができなかったのだ。
ふわふわと少女のように微笑むカルネリ。
ルシュカには、彼女は宮廷作法に詳しい婦人としか紹介していないが、その素性はといえば、十年前一度命を落としかけ、奇跡的に生き延びた先の王妃だ。肉体に負った傷は、足に残った麻痺をのぞいて日常生活に支障のないほど回復している。
だが、記憶に少し混乱が残っている。
一時は王都より離れた領地に下げられていたが、最近になって宮中に呼び戻されていた。どうもアンジェリカの配慮らしい。どれだけ周りに人がいても、しきりと寂しがり、誰かを探していたから、という。「ナザレス、あなたを探しているのよ、王妃様は」とアンジェリカははっきりと言っていた。
素性や記憶のこともあって自由に宮中を出歩くというわけにもいかないが、こうして部屋で淑女の教育にあたるだけなら問題ない。むしろ王宮暮らしの長さから考えれば、そういった仕事は適任と言えた。
「どうしたの? 二人とも、喧嘩でもしたの?」
カルネリは、ルシュカとナザレスを見比べて品の良い笑い声を立てた。その邪気のない笑顔を、懐古の思いをないまぜに見つめてから、ナザレスは踵を返す。
「じゃあな、ルシュカ。しっかりやれよ。投げ出すんじゃねえよ」
「わかってる。さっさと行け。いらない心配してるヒマがあったらきちんと仕事しろ。じゃないとジャニスに左遷させられるぞ」
再び箪笥の陰に隠れ姿の見えなくなったルシュカからは、憎まれ口だけの返事。
ナザレスは拳を口にあて、湧き上がってきた笑いを堪える。なんだ、元気だなと。
そのまま別れを告げようとしてカルネリに目を向け、その表情を見たときに足を止めてしまった。
カルネリはきつく眉を寄せていた。目つきに厳しさが戻っている。ルシュカに向かい、幼子にしかりつけるように言った。
「言葉遣い! そんなに乱暴に言わなくても、気持ちを伝える言葉はきちんとありますよ」
頼りない雰囲気のカルネリだが、このときは周囲の空気がほんのり冷えるほどの真剣さがあった。
「申し訳ありません!」
箪笥の陰から出てきたルシュカが、そのままその場に平伏する。片膝を付いた仕草は騎士のそれだ。それを見て、ナザレスはつい言ってしまった。
「ルシュカ、淑女はこういうとき、土下座だぞ」
その後、ルシュカは本気で額を床に押し付けようとし、悲鳴をあげたカルネリに止められた。
ナザレスはナザレスで「嘘を教えて私の邪魔をするなら早く消えて」と震える拳を握り締めたカルネリに部屋を追い出されることになった。