7 緋色の逡巡
無謀。
という言葉を、ナザレスは知っている。
常に猪突猛進、頭を使うのは苦手で色気は絶無。無駄な美少女であるルシュカも、その言葉を知っていたらしかった。
「無―理ぃ……」
ジャニスの案を聞いた後、ルシュカは呻いた。
口の周りにまだミルクをつけていたのを見て、ナザレスはその判断は正しいと思った。
「いくらなんでも無理だろ、ルシュカにアンジェリカのふりをさせて、向こうの王子の心を掴ませるだなんて、そんなこと無理だろ。まず一秒ももたずに別人だってバレるのがオチだ」
「何を弱気なこと言ってるんだよナザレス。そもそもアンジェリカ様だって姫としては相当の変わり者で有名なんだぞ。向こうだってハナっからそういう認識でくるさ。むしろルシュカくらい突拍子なくても全然大丈夫だって。いけるいける」
額をつき合わせて無礼千万なことを言い合う男二人の横で、ルシュカはルシュカで頭を抱えていた。
「そんな、私のような者があの慈愛に溢れて気品のあるアンジェリカ様のふりをするなんて……無理に決まってる……」
普段とは打って変わった、あまりにも自信のない様子。憎まれ口を叩きかけたナザレスであったが、その青ざめた顔を見た瞬間、言おうとしたことを忘れた。
ぐしゃぐしゃと長い指で黒髪をかきむしってから、つい口走った。
「やる前から無理に決まってるとか。なんだそれ。ルシュカはそんなこと言う奴だったか?」
「ナザレス、さっきと言ってることが違うよ」
すかさずジャニスが茶々をいれたが、流す。
ナザレスは、腕を組んで椅子にふんぞり返り、俯いたままルシュカの赤毛を見つめた。
「だって……アンジェリカ様は、狙ったものは外さないっていうか、今までこれと決めた植物の栽培で失敗したことってないんだよ。でも、私はダメだ。植物にもがさつさが伝わるのか、いつだって枯らしたくないものまで枯らして、枯らして、枯らしてしまうんだよぉぉぉぉ」
言っているうちに感極まったのか、ルシュカは卓につっぷしてしまう。
「そこまで?」
いつも強気一直線のルシュカの思いもよらぬ嘆きに、ジャニスは目を細める。そのまま、ナザレスへと視線を投げた。
「どうしよう。やめておく?」
口調は少しだけ挑発めいていて、常日頃表情を明るく見せる瞳には、うっすらと剣呑な光が宿っている。
(何を企んでいる?)
ナザレスはジャニスの様相に裏があると直感したが、ことさら気付かぬふりをし、高らかに言い放った。
「いや、やる。何がなんでもやる。絶対やる!」
「べつにナザレスががんばるようなことは何もないんだけど……」
ジャニスは苦笑したが、ナザレスは聞かぬ様子でジョッキをあおった。
* * *
断じて、近衛隊士はヒマではない。
ナザレスには事務作業から隊士の訓練、王宮警備といった仕事がある。
ルシュカとて、アンジェリカの護衛である。
しかし翌日から計画が動き出したことで、それらは概ね免除されることになった。ジャニスの根回しにより、アンジェリカの護衛にはルシュカの代わりにピーターがつき、畑仕事には近衛隊士たちが駆り出されている。ナザレスの仕事は半分はジャニスが引き受けるということで、日中から二人には時間が生まれた。
「やっぱりやめようよおおおおお……」
王宮勤めの者の行き交う回廊を、騒ぐルシュカと無表情なナザレスが肩を並べて歩いていた。
腹の底から出されたルシュカの声量に、すれ違う者たちが目をむいているが、ナザレスはまったく気にした様子もない。
「ほんとに、ほんとに無理だって」
ルシュカの足が遅れる。
ナザレスが肩越しに振り返ったときに、背中にぼすっと拳を入れられた。俯いた赤毛だけが見える。
いつも通り言い返そうとしていた言葉が喉の奥にひっかかってしまう。代わりに、(ルシュカって、こんなに小さかったのか)という感想が思考のうわべをするりと流れていった。
「どうしたいんだ。俺が無理だと言えば、ルシュカは満足なのか」
鼻をぐすっと鳴らし、ルシュカは聞き取り辛い声で言う。
「昨日は、酔ってたんだ……」
「お前が飲んでいたのは絞りたて牛乳だ」
ほとんど反射で言い返してから、ナザレスは顔をしかめた。少なくとも、今の自分は、酒を嗜む程度に年の離れた年長者の態度ではなかった。ルシュカに対して、優しくない。
ルシュカはなんとか前を向こうとしていたが、顔色の悪さは隠しようもなく、伏せたせいで震える睫の長さがいやに強調されている。
改めて見ると、見た目がいいという言い方では全然足りない。はっきりと、美しい。
隊士たちが時折、その横顔を息を止めて見ているのが思い出された。ルシュカはまったく気づいてはいないが。
見てはならぬものを見てしまった気がして顔を逸らす。
落ち着かない気分のまま、ナザレスは早口で言った。
「何がそんなに嫌なんだ」
「……アンジェリカ様のふりをするってことは、ドレスを着なくちゃいけないんだよな……」
一度顔を上げたルシュカと目が合う。緋色の瞳が潤んでいた。ナザレスが声をかけるより先に、ルシュカはひどく辛そうに再びうつむいていて、本当に小声で続けた。
「恥ずかしいよ……そんなの、なんか」
弱気過ぎて。
ルシュカから、目が離せなくなりそうで、そんな自分を持て余して、ナザレスは闇雲に言った
「恥ずかしいってなんだよ。そんなこと言ったら女装している女は全員恥ずかしいのか、どうなんだ。そんなこと言っていいと思ってるのか」
「だって! いくら縁談をまとめるためとはいっても、私なんかが! 私、こう、全然かわいくないし、ドレスとか着たことないし、もう、絶対……あああ」
唇をかみ締めて耐える仕草に、ナザレスは考える前に言ってしまう。
「かわいくないとか」
(そんなこと)
何か妙なことを口走りそうになり、寸でのところで飲み込む。
「とりあえず、先方に結婚の約束をとりつければいいんだから、あんまり余計なことは考えなくていいんだ」
「うん……」
すっかり落ち込んだ様子ながら、ルシュカはようやく頷く。
それから、ナザレスの胸に弱く拳を叩き込んだ。
「悪かったよ。みっともないとこ見せた」
「べつに」
ルシュカは少しの間、何か自分に言い聞かせるように声を出さぬまま口を動かし、小刻みに首を上下に振っていた。やがて顔を上げ、まっすぐにナザレスの目を見た。
緋色の瞳には鋭い光が戻っていた。
「よし、やろう!」
手のひらを高く上げられる。
心得て、ナザレスは手を合わせる。軽く、叩きつけるように。
乾いた音が響いた。
手を下ろして顔を見合わせたときには、ナザレスはなんとかいつも通りの表情を装えた、つもりだった。
長くルシュカの目を見ることができずに、背を向けてしまう。早足で歩き始める。
すぐに追いついてきたルシュカは、肩を並べる。ナザレスはますます早く歩く。急いでいる、と解釈したらしいルシュカも負けじと早足で歩き、決して遅れない。そのあげく、横からナザレスの顔を見上げるようにして、言った。
「これ、どこへ向かっているんだ?」
「ちょっとした心当たりがあって」
見返すことなく、ナザレスはそれだけ答える。ルシュカは不服そうであったが、ひとまず従うことにしたらしい。
ナザレスがふと視線を落とせば、視界には、風を切ってふわりとゆれる赤毛が入り込む。やわらかそうな髪だなと吸い寄せられかけて、そんな自分に慄然とした。
前を見て歩くことだけに集中することにした。