6 謀る
「納得がいかない!」
珍しく意見の一致を見たナザレスとルシュカが、同時にジョッキを眼前の卓に叩き付けた。
分厚い木材であったのが幸いし、割れることはなかったが、上に並んでいた皿は弾み、豆が転がり出たりスープがこぼれたりと惨憺たる有様だった。
ナザレスがくいっと眉を上げ、ルシュカも両目を細める。
各々、構えていたジョッキから手を離すと、布巾を手に取り復旧作業にあたる。ナザレスは転がり出た豆をつまんで口に放り込んだ。
「たしかに、お金があれば、灌漑設備も整えられるし、種も農機具も買えるし、倉庫のねずみ返しだって充実させられるし。でもそのために、姫様が望まぬ結婚をするなんて……!」
あらかた片づけて、ルシュカはジョッキいっぱいのミルクをひといきにあおる。ナザレスはそれに闇雲にうんうんと頷きながら、いまだに卓を拭いている。仕草は酔っ払いそのものである。
ルシュカは、口元には白いひげをつけて、うつろな目で言い募った。
「新しい農機具は欲しい。鋤も鍬も、新しいのは全然違う。このまま、本格的に近衛隊士を農地改革に投入することになったら、道具の絶対数も足りないし」
「ルシュカはほんと、一から十まで畑仕事のことなんだね」
一緒に卓を囲っていたジャニスが口を挟んだ。呆れたようにルシュカを見つつ、いつまでも拭き続けているナザレスの手から布巾を奪い取る。
その向かいでは、ピーターが無言のままゴブレットをあおっていた。水のようにやすやすと飲んでいるが、手元には空いた果実酒の瓶が三本。すばらしいペースで飲み干しており、すでに目は据わっている。
「とにかく、畑もこれから、今年の水不足を乗り越えられるかどうかって大切な時期なのに……。隣国の王子ってアレでしょ。女好きで酒癖が悪いってここまで悪評が聞こえるような……。なんでアンジェリカ様がそんな男とー」
「あの相手はありえない」
ナザレスも同意してからジョッキをあおり、卓に置く。
空になったことに気づいたジャニスがジョッキを手に取り、離れたところに置いてあった樽の元まで歩いていった。
ところは王宮の厨房の続き、下働きの者たちの食堂。
王宮の執政室や公的空間からはほどよく離れており、一階よりもさらに階段を下りた半地下である。皆入れ替わり立ち代りで食事をする場所のため、部屋自体は狭く、席は八人掛けの粗末なテーブルが一つだけ。とはいえ室内はきれいに掃き清められ、壁際の質素な暖炉の上には花も飾られている。
時刻は深夜。
いささか騒ぎすぎの近衛騎士隊士たちに注意をしに現れる者もいまのところはいない。
「今日のお食事会には、先方の使者さんしかいませんでしたけど。ファルネーゼ様のあの様子だったらもう決まったも同然で。ひ、一月後には向こうの王子が来て、顔合わせをした後、大々的に婚約の発表を……私のアンジェリカ様が! 一緒に野菜作りで天下とろうって約束してたのにっ!」
ルシュカはくだを巻いてしゃべり続けている。
ジャニスはくす、と笑いをこぼし、なみなみに注いだジョッキをナザレスに差し出す。
受け取ったナザレスは、一度口をつけてから、卓に置いた。
「実際のところ、他国の介入を受けるのは面白くねーな。いまの財政状況だって立て直し不能ってほど悪いわけでもないんだし。天候不順による不作はたしかに気になるけど、国庫の備蓄も対策の立て方も十年前とは違う。それに、アンジェリカの農地改革だって、長い目で見ればいつか必ず実を結ぶはずだ。それなのに、いま安易に他国の力を借りても、出してくれるのは金だけじゃねーだろ。相手も相手だし」
独り言のようにそれだけ言い、面倒くさそうに目を細める。少し眠そうな表情だった。
横の椅子に腰を下ろして聞いていたジャニスは、ナザレスへとそっと視線を流した。
「そういうこと言ってると、ちょっと昔のナザレス思い出しちゃうね」
「ああ、まぁ……なんだ。言ってみただけだ」
昔のナザレス。
それが、そもそもの元王族としての素性に及んだ指摘であると気づいたナザレスは、適当に濁してジョッキをあおった。
(危ない)
近衛騎士隊に身を置き、一小隊を任されていても、他の隊士にまざってバカをやっている限りは気にするようなことは何もない。ただ、一度このように知った口をきいてしまうと、すぐにナザレスに野心ありと根も葉もない噂をたてられかねない。
ルシュカは不思議そうにしていたが、すぐに忘れたように横に置いていたブリキの器からミルクを注いでいた。
(ルシュカはいま十五歳だったか)
若い隊士の中には、ナザレスの素性を知らない者も多い。ことに、ルシュカのような噂話にはとことん疎そうな手合いはまず知らないと見て間違いないだろう。
ナザレスは一度貴族の養子になっており、表向きは貴族出身ということになっているので、姫と幼馴染であることもさほど不自然ではない。
ルシュカは口元にはまだ白いひげをつけており、不貞腐れた表情をしていた。
せっかく美少女だというのに、見事に台無し。実年齢よりも幼く見える。
幼いと言っても、ルシュカはその華奢な見た目はさておき剣技の上達はめざましいものがあり、入隊後すぐに姫付きとなった。それを鼻にかけたところはまったくなく、日々ひたすら鍛錬している実直な兵士だ。
アンジェリカには友情を感じているらしく、その観点からずっと「納得いかない……」という呟きを繰り返している。
「ルシュカが納得しようがしまいが、最終的に、決まるものは決まっちゃうんだよ」
酒を一切口にしないジャニスは、そう言うとブリキのコップに注いだ水を飲んだ。
「…ううう……なんか……悔しい」
「まあな。俺もここまで見守ってきたアンジェリカが、よりにもよって隣国のあのバカ王子に嫁ぐっていうのは、腹立だしいな」
ぐずぐずと言い出したルシュカの無念さに、ナザレスも頷く。そうして二人が再び不穏なものを再燃させはじめたとき、ジャニスが実に何気ない調子で言った。
「そんなに気に入らないなら潰せばいいじゃない」
それまで、黙って杯をあおり続けていたピーターを含めて、三人がその顔に目を向ける。それを受けて、ジャニスはいつも通り愛想のよい笑みを浮かべて続けた。
「ここで騒いでいたって何も変わらないよ。気に入らないなら潰す。それしかないじゃない」
「そんなことをしたら、せっかくご決断されたアンジェリカ様に悪いよ。アホバカ王子でも、アンジェリカ様がそれがいいと決められたんだ。私たちがとやかく言うことじゃないんだ……。しょせん私なんてただの護衛だし……」
言いながら、ルシュカは沈んだ表情となる。それをちらりと見てから、ジャニスはナザレスへ目を向けた。乏しい光の中、焦げ茶色の瞳が炯々と輝く。
「もしかしたら、アンジェリカ様は、ナザレスがその結婚はやめておけと言ったら、やめるんじゃないかと思うけどね」
「ジャニス」
挑発の意図を感じて、ナザレスはわずかに顔をしかめる。やりとりを耳にしたルシュカは、顔を上げて無表情のまま聞いていた。その後に、首を傾げる。
「どうして、ナザレスの言うことならきくんだ?」
「幼馴染だからだ」
「……私は姫の護衛として、この二年間ずっと一緒にいた」
ナザレスの言葉を、ルシュカは悪い受け取り方をしたらしかった。はっきりと顔が強張る。しかしナザレスは弁解を避けた。かつては自分が主でアンジェリカが従であったからだ、とは。
二人を見比べたジャニスは、肩をすくめて小さく息を吐く。
「さっきナザレスが言ったように、いまどうしてもお隣さんのお金が必要ってわけじゃないでしょ。むしろ親戚ヅラされる方が迷惑だったり。そのへんのこと、懇切丁寧にナザレスが言えば、姫も納得するのかな? とか。そのくらいの意味だよ」
抜群の感じの良さでそれだけ言い、水を飲み干す。それから、まっすぐナザレスの顔を見た。
視線に気づいても、ナザレスはジョッキをあおってそ知らぬふりをする。
酒を口に含んで、ジョッキを覗き込み、片目を閉じる。
(失敗した)
かつての主従関係を重んじているのはジャニスも同じ。いつも、陰ながらナザレスをたてて動く。酒が足りないと見ればすかさず注ぐなど、上下関係が実際とは逆転している。事情を知らない者に見られたら奇妙な光景だろう。気をつけなければと改めて思う。
そのジャニスはルシュカに向かって、実に丁寧な口調で話を進めていた。
「もちろん結婚することのメリットは当然ある。単純に考えれば、利益の方が大きい。しかしここに一つ問題がありそうだね。……アンジェリカ様のことだ。もし本当にお相手が噂どおりの『女好き』なら、顔合わせのときに断ってくる恐れも十分ある。何しろ、姫様は地味だ」
「な……っ、そんな無礼な!」
立ち上がったルシュカは、卓に両手をついて身を乗り出す。それを受けて、ジャニスは泰然とした表情を崩さずに続けた。
「無礼といっても、そもそも国の大きさで言えばこちらが格下だし、結婚による恩恵を受けるのは先方ではなくこちらだ。花嫁が気に入らないという理由で蹴られても不思議はない縁談なんだよ。ことに、もし相手が本当にそういう女好きのアホな人間なら」
淀みなく語り、そこで口をつぐむ。
ルシュカは目を見開いてジャニスを見つめていたが、やがてふっと視線を逸らした。
「アンジェリカ様は、本当にすばらしい方なんだ……。そのアンジェリカ様が考えて進められてきたこと、失敗させたくない……」
ジャニスはにやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。そして内緒話でも打ち明けるよう三人を見回した。
「それなら、成功させるしかないね。オレに策があるけど、どうする? のる?」