5 プロポーズは突然に?
(その後のファルネーゼの治世が安定したこともあって、国民たちは今ではそのことはあまり覚えていないかもしれない……。でも王宮に生きる者は、覚えている。王宮で血が流されたあの悲劇を)
十年前のその時以来、ナザレスは元王子ではなく、ただ一人の、何でもないナザレスとして剣の腕を磨いてきた。
そして、剣の腕で近衛騎士となり、最年少で方位を冠して一小隊を任せられる護衛官の地位まで上り詰めた。
かつての王家の血を引くナザレスがそのように昇進を果たすことに、危機感を覚えぬ者がいないわけではない。或いは、利用を企む者もいないわけではない。
もちろんいまの自分にはどんな野心もないというのを、ナザレス自身はよく知っている。
一方、ナザレスの幼なじみであり、簒奪者の娘であったアンジェリカは、そのままこの国の「姫」となった。
もしファルネーゼが世襲制をとるなら、血で汚されたとされる王座をこの姫は継ぐことになる。
そのときに必要なものは何か。
幼き頃から考え続けた結果が、この豊かな畑に行き着いているのだろう。
姫となっても自分のすべきことを貫いたアンジェリカは、気が付いたらずいぶんたくましくなっていた。
今のアンジェリカには、剣を振るうことよりも、もっと違った形で協力できればそれにこしたことはないのかもしれない。最近はふとしたときに、そのように考えてしまう。
(俺は天候の不順といえば、すぐにあのクーデーターの頃を思い出してしまう。だけど、それを未然に防ごうと思ったら、食糧不足による飢饉や暴動への対策が不可欠。剣にものを言わせるよりも──)
そう思った矢先に、ナザレスの視線の先で、アンジェリカは手を打ち鳴らす。
「そうだわ! あんなに人手があるのなら、今まで手をつけかねていたあの荒地にも手をつけられるかもしれない。ジャガイモ……麦も……いけるわ」
何かしら思い巡らした様子のアンジェリカは、ひとり呟き力強く頷いた。
ナザレスは、たまらずふきだす。
ロビンも、所在なさげに針金のような髪の毛をつまみながら見ていたが、表情をわずかに緩めている。
「そうですね。姫の畑に隊士たちを踏み込ませるよりは、どこか新たに大規模な農地を開発するというのもいいかもしれません。早速とりかかることにしましょう」
「それはいいですね、ロビン。なんとお礼を言っていいかわからないくらい感謝しています……!」
アンジェリカの感極まった様子に、ロビンは豪快に手を振って答える。
「いえいえ。近衛隊士たちの有効活用は、常日頃から私も考えていたことですから。あいつら、少しでもヒマを見出すとろくなことしませんから。何でも言いつけてください!」
「ろくなことしねえって、てめぇの指導力のなさ露見してどうすんだよ」
「お前は一言も二言もいっつも多すぎなんだよ。少しは黙れ」
すかさずナザレスが口を挟んだことで、つまらぬ言い争いが勃発。アンジェリカは首をかしげて見ていたが、目元口元が楽しげにほころんでいる。
「おっと、隊長のせいで無駄な時間を過ごした。いつまでも連れてきた兵を待たせておくわけにもいかない。姫様、近衛騎士たちに任せたい荒地ってのはどこだ?」
そう言ってナザレスが見下ろせば、アンジェリカは顔を上げてナザレスの目を覗き込むようにした。
「あのね……」
手招きをする。
耳を貸せということなのかと、ナザレスは膝を折って顔を近づけた。
そのとき、頭上のバルコニーから声が響き渡った。
「姫様────────っ大変ですうううううっ」
結構な距離があるにも関わらず、その大声の破壊力はすさまじい。ナザレスは舌打ちをした。
「ルシュカ! 騒いでるヒマがあったら降りてこい!」
バルコニーに顔を出していたルシュカに向かって、負けじと怒鳴れば、あっさりと手すりに足をかけたルシュカは宙に身を躍らせた。
一切の躊躇がない。
実際、猫のようにしなやかに、危なげなく地面に降り立つ。そしてすぐに駆けてきた。
「どうしたの、ルシュカ」
「姫様、結婚しますか?」
「おいこら待てルシュカ、なんでいきなりプロポーズしてんだ」
突拍子もない発言に目をしばたくアンジェリカの前に、ナザレスはかばうように立つ。
視界を埋めた長身に、ルシュカは明らかにムッとした。
「ナザレスには関係ない。退け」
「デカイ口叩くなら、もう少し剣の腕を磨けよ。俺は前々から思っていたんだが、なんでお前がアンジェリカの護衛なんだ。不適当すぎるだろうが」
「アンジェリカ様、だろ! ったく姫の幼馴染だかなんだか知らないけどナザレスこそ態度デカすぎだろうが。アホアホアホ。バカバカバカ!」
「そんなこと言っていいと思ってんのか? 知らねーのか、バカって言う奴がバ」
ナザレスの横に立ったロビンが、容赦なく蹴りをいれて愚にもつかぬことを言いかけたナザレスを沈ませた。表情にははっきり険があり、声には隠しようもない怒気が滲む。
「姫様、とんだお耳汚しを。すいませんねほんとに。んでルシュカ、なんだ。早く言え」
「はい。実は、先ほど隣国からの遣いが来て、どうもその用件が姫とあのアホ王子の縁談のことらしいんですが。いいんですか姫様、本当に結婚するんですか」
ロビンは無言のまま額を押さえた。
一方、渦中の人アンジェリカといえば、少しも取り乱した様子もなく、両手を組み合わせていた。
「知っています。今日の晩餐はそのためのもの」
「いいんですか姫は! あのドアホのバカで有名な王子ですよ?」
自分のことでもないのに、ルシュカは大いに憤慨した様子でそう言った。
アンジェリカは微塵も揺らいだ様子も見せずに、きっぱりと頷いて言った。
「いいの。もう決めたことなんですもの」
ほんの一瞬の静寂。
近くの梢から、羽音を立てて鳥が飛び立った。
その音に促されたように、アンジェリカは目元に笑みを浮かべて言った。限りなく穏やかな声で。
「だって、お隣の国、お金持ちなのよ。結婚相手としては最適だわ」