4 激情と憎しみの夜に
──十年前。
当時九歳であったナザレスは、その悲劇を王宮で目撃している。
今でもよく覚えている。
つい先ほどまで王子様、と笑顔を向けてくれていた兵士たちに両腕を取り押さえられ、床に膝をつけられたことを。
そのとき目の前に立ったのは宰相ファルネーゼ。
ナザレスの視線を真っ向から受けたファルネーゼは、微かに眉を寄せて立ち位置をずらした。その視界に入るものを気にしたらしい。それでも、ファルネーゼは子供のナザレスから見ても小柄な大人だったので、それだけの動きでは何も隠しきれていなかった。
彼の背後には、盛装のまま血に染まったナザレスの両親が転がっていた。真っ赤な染みをつけた母の青いドレスの裾と、力なく投げ出された白い腕が見えていた。ファルネーゼは、老いて灰色になった眉をいっそう寄せて、ひび割れた唇から低い声をもらした。
「王子……まだ幼いあなたに罪はないのだが」
それがあまりにも申し訳なさそうだったので、ナザレスは聞き返さずにはいられなかった。
「それはなんのための、誰に対する弁解だ」
心は、乾いていた。
何が起きたのか理解できないと言うほどに幼くはなく、目の前の出来事をしっかりと記憶に刻み込んでしまった後だった。最前までの、本当に短い時間に起きた出来事によって、ナザレスの中にあったそれまでの世界は滅亡するに十分だった。
叫ぶべき声は絶えていた。流すべき涙は干上がっていた。
事態に悪態をつくほどの心もまた、もうどこにも残っていなかった。
だというのに、愚かにも自己弁護にはしるファルネーゼの姿は滑稽で、言わずにはいられなかったのだ。
「そんな言葉ひとつでもお前の罪悪感は軽減されるのかもしれないが、付き合わされる俺の身にもなれ。生かしておけないのだろう、早く殺せ」
周囲に、微かな動揺が広がった。
ナザレスはそのときになって、なお何か驚いていたらしい兵たちの顔を、一人ひとりじっくりと見てやることにした。
明るい性格のジャニス、おっとりとしたピーター、剣技に長けたロビンもいた。いずれも「王子様のお供」という名目で、ナザレス付きだったことがある。
一緒に遠駆けしたり、厨房に忍び込んでつまみ食いしたり、日が暮れるまで剣を打ち合ったり。彼らと目が合った瞬間、湧き上がってきた思い出の数々を、ナザレスは意志の力でねじ伏せた。思い出すな。風化させろ。それはもう、意味のない記憶だ。彼らは叛乱軍側の人間なのだ。いま俺の腕をおさえている者たちも、皆。
贅を尽くした料理が並び、きらびやかに飾り付けられた宴の間へと押し入ってきて、同僚である兵たちと切り結び、国王夫妻をひっとらえてそして。
「もはやこのような王に国を任せてはおけぬ!」
ファルネーゼの高らかな宣言の後に彼らは文字通りの血祭りを挙行した。
幾人もの貴族らも命を奪われた。
彼らを守るために動いた兵はあまりにも少なかった。
それだけで、これが実にうまく進められてきた蜂起なのだと理解できた。
すでに王宮の多くの人間は王を見限り、ファルネーゼについていたのだと。それを思うにつけ、いまだとらわれのまま命が宙に浮いた自分の身の上が不思議ですらあった。
殺されたのは、ナザレスにとっては両親と、親しみを覚えていた人たちだった。それが、やはり親しみを覚えていた人たちによって殺されるのを目の当たりにしてしまったのだ。見送らせてくれるくらいなら、真っ先に殺してくれて構わなかった。
「早く殺せよ。どうせ生かしてはおけないんだろう」
片目を閉じて、何事かを思案するファルネーゼ。職務が忙しいのだと言いながら、語学や歴史の質問をぶつけたら快く相手をしてくれたときの、教師の顔そのままだ。でも、今日のファルネーゼは冴えていない。いつまでたっても答えを導き出すことができないらしい。
(それなら、俺が教えてやるしかない)
「命ある限り、俺は復讐をあきらめないぞ」
そこでファルネーゼは、灰青色の瞳をすっと細めた。
「それは嘘ですね。あなたは聡明な方です。復讐など何も生まないということを、すぐに理解されるはず。……いえ、もしかしたらもうお解りになっているのではないですか」
聡明な。
よく聞いた言葉だった。
聡明な王子。子供にしては。
(そうだ俺は聡明だから、こんなときにも騒ぐべきではないと思っていた。たった今まで)
カッと頬が熱くなり、頭の芯が痺れて視界が一瞬白に染まった。その熱は直ぐに瞳にこもって、火を迸らせた。
「ファルネーゼ……!」
叫んだときには、ナザレスは抑える腕からすり抜けていた。まさかこの期に及んでそんな行動に出るとは予測せずに、兵たちは油断していたらしい。
立ち上がり、つんのめって前に転びそうになりながらも、手を伸ばす。視線はファルネーゼに合わせたまま。横にいた兵の腰の剣を引っつかむ。抜いて体勢を前傾に立て直しながら両手で構える。そのまま突進して腹に突き立ててやろうと。ナザレスのその狙いを読んだらしい兵たちが、両脇から取り押さえてくる。それでも、勢いは止まらずに抗いながら声を張り上げた。
「俺に、憎しみがないとでも思っているのか!」
お前の背後で、血に塗れて床に寝転がっているのは、誰だ。
さっきまで笑いがさざめき音楽が溢れていたこの広間に、血の雨を降らせたのは誰だ。
身体中に兵たちの手がかけられる。剣が奪われた。腕がもがれそうだ。誰かがどさくさに紛れて頭をしたたかに殴った。ナザレスは構わずに、全身に力をこめる。引きちぎられても構わない。今、こうして命の限り暴れないで、いったい何時俺は叫べるというのか。
憎い。
憎い。憎い。憎い。
本当は、気がおかしくなりそうなほど、憎かった。憎くて憎くて、あまりにその感情が強すぎて、怖くて、押し殺そうとした。
暴力に憎しみでこたえたら、自分は自分じゃなくなりそうな気がした。
「聡明に」振舞ったって、時間は戻らないというのに。
起きたことは変わらない。
信頼していた人が、大事な人を殺した。
そして俺を殺そうとしている。その事実は、どうしたって変わらない……!
「ファルネーゼ! お前だけは絶対に許さない!」
何故。
こんなときにまで、考えてしまう。
殺したから? 騙したから? 裏切ったから?
それだけじゃない。
記憶に刻み付けられて、中に残った感情。
「俺に、『憎しみ』を教えたお前を、俺は絶対に許さない!」
わめくナザレスを前に、ファルネーゼは、穏やかな微笑を浮かべた。
「安心しました。あまりに衝撃的な場面を前にして、王子の感情は事切れてしまったのかと思っておりました。ですが、そのように泣き叫ぶこともできれば、己の内に『憎しみ』の存在すら認められるという。結構なことですよ、憎しみというのも立派な感情のひとつです」
もはや絡み付いている腕には一分の隙もなく、ナザレスはどれだけ力をこめても指の一本も動かせない。それでも、ふざけたことを抜かしているファルネーゼをせめて睨みつける。
まなざしの力で、殺したいと願うほどに。
そんな現実感のない望みは無意味だと知っている。殺すのに必要なのは、憎しみではなく冷静な判断力。まなざしではなく、武器だ。本当に殺したいのなら、すみやかにそれらを手に入れる必要がある。憎しみの影で、聡明な王子が考え始める。嫌になるほど冷静に。
そして深呼吸。息を整える。ゆっくりと瞬きを何度かして、激情は押さえ込む。
「お前の考えを言え」
「王子には生きていただきます」
「わからない。それによってお前にはどんな利益がある」
「これ以上無用な血を流すのは、避けたい。あなたには、未来がある」
「俺がお前を恨んで、殺そうとするとは思わないのか! 俺を生かしておけば、必ずお前は後悔することになるぞ!」
「それはいつか訪れるかもしれない後悔です。しかし、いまあなたを殺せば、私はこのときより確実に後悔を負うことになりましょう」
馬鹿なファルネーゼ。
喉に変なものがこみあげてきた。熱い塊。息が詰まって、苦しくて、苦しくて涙が出てきてしまう。手がおさえられているから、隠すこともできない。
「なら、なぜ、こんなことを、した……もっと、誰もしなない、ほうほうが……」
「そういった選択をできる時期はもうとうに過ぎていました。この国で流された血はこれよりもはるかに多い。目に見える改革の象徴が、私には必要でした」
そんなこと、皆の前で言うべきではない。
(本当にバカでバカでバカで、バカなファルネーゼ)
正直に告げられたとて、心の底に刻み付けられた憎しみは、絶対に消えはしない。
覚悟を持ってその道を選んだなら、もう突き進むしかないはずなのに。
なんという弱い覚悟。
ナザレスは、うつむいて、何度も何度もつばを飲み込む。
顔を上げぬままその言葉を吐き出す。
「……俺は聡明な王子様、だからな。わかった。どうせ拾った命だ。何かに役立てられるというなら、お前に使わせてやる」
吐き出す。
それは本当に吐き出しただけの、ぞんざいな言葉だった。
それなのに、その瞬間ファルネーゼはほっと息を吐き出し、周囲の緊張もわずかに緩んだ。
ナザレスが驚いて顔を上げると、あろうことか灰青色の瞳をこころなしか潤ませて、小さく頷いているのが見えた。
「王子ならわかってくださると思っていました……!」
何を。
驚きのあまり、涙まで引っ込みそうなナザレスの前でファルネーゼは膝をつきかけ、そばの兵士に慌てたように腕をとられてたしなめられていた。
犯すべしと覚悟した罪を犯し、血を流すことを選んだファルネーゼは、これから王となる。
ナザレスが彼の前に膝を折る。そのくらい、知っている。
「はなせよ。暴れないから」
自分をおさえている兵たちにナザレスはそのように言い、「本当だって」と言って手を離させた。そして、自らその場に膝を着いた。
言葉で忠誠を誓うなんて、そんなことまではできなかった。ただ頭を下げた。
本当は流れる涙を隠したかったという意味合いが大きかった。それでも精一杯。
新たな王に従う姿勢を示したのだった。