番外編3 愛の詩※挿絵あり
非番の日が増えた。
アンジェリカ姫の身辺警護だけでなく、騎士団の仕事全体が見直された結果である。
決して『姫付き護衛のルシュカ』が用済みになったというわけではない。と、自分には言い聞かせている。
農作業に協力した一件から姫の周りに騎士団の人間の出入りも増えた。特にジャニスは何かと姫の相談役になっているらしい。剣の腕も確かな彼がついている以上、その時間はルシュカがアンジェリカに張り付いている必要はない。しかも──
「労働環境の改善中なんだ。休みと言われたら休みなさい。休みを休み切って私生活も充実させてはじめて一人前の騎士だよ」
ジャニスをはじめとした上官に、きつく言い含められている。
こうして、非番の日のルシュカは、午前中は騎士団の修練場に顔を出して鍛錬に時間を費やすものの、午後は自分で予定を組み立てる必要性に迫られていた。
この日は、王宮の一角に別棟として建つ図書館に足を運んだ。
目的の本があるわけではない。
いつも、目についた分野の本をなんとなく読んでいる。地理、歴史、化学、数学……。
どの分野も、最初の三冊くらいをなんとか読むと、知識がつながりはじめてだんだん読むのが楽になってくる。巻末の参考文献に、自分が読んだ本がみつかるようになってくると、少しわかったような気がして楽しくなる。
そうこうしているうちに、最近は図書館で過ごすことも増えた。
(今日はなんの本にしようかな……)
道すがら考えて、図書館について「文学」の部屋へと向かった。
*
王宮図書館は、敷地内にあった何かの建物を改修して図書館として再利用しているとのことで、見た目も中身も小ぢんまりとしている。書架の並ぶ広い部屋があるわけではなく、二階建ての建物の廊下に並ぶ各部屋が分野毎に割り振られ、書架が詰め込まれている。
二階の隅にある「文学」の部屋には、その日人影はなかった。
なんとなくほっとして、書架の間を歩く。
気になった数冊を手にして、窓際に置かれた小さな円卓に積み上げ、椅子に座って読み始める。
少したった頃、ドアの開閉の音がして、人が入ってきたようだった。
用事をすませたら出て行くだろうと、気にしないで読み続けていると、円卓を挟んだ椅子に誰かが座った。本に集中していたルシュカだが、さすがに人の気配を気にして顔を上げて確認する。
椅子の背もたれに深く寄りかかり、片手で持った本を静かに読んでいたのは、黒髪の青年。
横顔を見て、ルシュカは思わず手にしていた本を取り落としそうになった。
「ナザレス……」
名を呼ぶと、視線を流してくる。
以前は、なんだかいけ好かないと思っていた仕草だ。無性に嫌味っぽく感じたり、上から見られているようで癇に障ったり。実際、背も高いし、見下ろされているのは確かなのだけど。
でも今は少し、違う。
その目に見つめられて、視界に入っていると思っただけで、ものすごく緊張する。長く見ているのは無理で、自分から顔を逸らしてしまう。
「ルシュカ。何を読んでいるんだ」
うわ~……、名前呼ばれちゃった。
名前くらい、自分も呼んだし、呼ばれても不思議はない関係なんだけど。ナザレスってこんなに優しい声をしていたっけ? と思うともうだめだった。絶対に顔が赤くなっている。
「え、あ、えーと……。詩集」
口の動きまでぎこちなくなってしまい、うまく話せない。
「好きなのか」
「好きっ……」
変なところに反応してしまうし。
ナザレスは、小さく笑って「詩集が」と言った。
「わかってるわかってる、詩集の話。好き……かどうかは、まだよくわからない。読んだことがないから、適当に手に取ったのを読んでみているだけで。その、勉強になっているかはわからないんだけど。こ、こういうの読むと……、何か気の利いたこと言えるのかなって」
普通に話せているかな。
普通。こういう感じで大丈夫?
「気の利いたことを言いたい? 詩のような?」
ナザレスにゆったりと問い返される。横顔に視線を感じる。絶対に、赤くなっているのばれてると思う。
以前までの関係なら。「うるさいな、ナザレスには関係ないよっ」と言ってさっさと席を立っていたと思う。でも、今はそういうわけにはいかない。
恐る恐るナザレスを見る。滲むような優しい目元。軽く口の端を持ち上げて笑っている。嫌味ではない。そうじゃなくて。むしろ。
──心臓。壊れる。
(そんな目で見ないでほしい……)
ものすごく、気持ちの伝わってきてしまう目。他の誰にも向けることはない、二人のときだけの。ルシュカを見る時だけの。
「詩みたいにきれいな言葉を話せたらなって。そんなのすぐには無理だと思うんだけど。……変なこといってるよね、わたし」
「そんなことはない。色々読みたいなら、俺から何冊か推薦を出そうか」
「推薦……、ナザレスってほんと、なんでも詳しいよね。せっかくだし、読んでみる。どのへんにあるの?」
詩の棚は、窓を背にして見れば一番左端。読みかけの本を円卓に置き、勢いよく立ち上がる。
「ああ、一番上だな」
言いながら、ナザレスも立ち上がった。
書架に向かって、上段を見上げていたルシュカの真後ろに立つ。
「届かないだろ。俺がとるから」
触れ合うほどに、すぐそばに。
少しでも動けば身体のどこかがぶつかってしまうと、ルシュカは前面の書架の棚に手をかけて、息すら止めて目を瞑った。
気配が去ることは無く。
「詩のような言葉を……」
抱きしめられているわけではない。ただ、ナザレスが書架の棚に両手をついたせいで、ルシュカは後ろから腕の中にとらわれてしまっていた。
耳元に微かに息を感じて、ぎゅっと肩を縮こまらせたそのとき、密やかな囁き声が右耳に注ぎ込まれた。
「『あなたへの思いは氷雪を溶かす焔のように』」
声なき悲鳴を上げてから、ルシュカは目の前の書架に並ぶ本の題字を目で追いかけた。もちろん何も頭に入ってこない。
「それは詩の一節……?」
「いや。俺の今の思い」
氷雪……、溶けちゃうんだ……っ。
詩にはならない返しは、心の中で。緊張しすぎて膝が笑いそうだった。
「あの……すごく近いと思うんだけど」
「もっと近づきたいくらい」
「ぶつかるよねっっ」
精一杯の一言。
「ぶつかった」
そう言ったナザレスの額がルシュカの後頭部にこつんと落ちてきて、ルシュカは歯を食いしばって耐えた。
「近すぎるんだけど。誰か入ってくるかもしれないよ」
「俺、読んでるときに邪魔されたくないから。ここで読むときって、部屋の前に『書棚整理中立ち入り禁止』の札出してるから大丈夫。内側から鍵もかけているし」
「へー……」
納得しかけてから、そんな場合じゃないとルシュカは絶句した。気を取り直してから息も絶え絶えに言った。
「すごいわがまま……。それとも、か、確信犯なの……?」
「偶然だよ。ただ、最近ルシュカが図書館よく行ってるって聞いて、会いたいなと思っていたのは本当。今日は非番だったよな。私服可愛い」
声が、甘い。ため息交じりに言われて、ルシュカは俯いてしまう。
「可愛いかどうか……自分ではよくわからない」
白いシャツに、胸の下から腰をコルセットのような意匠で絞り、裾は広がったスカート。厚手の布で焦げ茶色に薄くチェックの模様が入っており、供布のサスペンダーを両肩にひっかけている。「スカートが苦手でもこれなら……足さばきも楽だし……」と人からすすめられたのを着ているだけだ。
「可愛いよ。お預けくらっているのが心底辛い」
笑った気配。振り返ろうか悩んでいたところで、後ろ髪を指で梳かれてうなじに柔らかいものが押し付けられた。
「どこまで可愛くなる気なんだろうな」
近い。キスされた。
息を止めて堪えていたけど、もう限界だった。
「ほんとうに、だれもこない……?」
「来ても入れない」
ナザレスの気配が少し遠ざかる。振り返ると、窓際の椅子に戻ろうと背を向けたところだった。
あまり、深くは考えなかった。
ただ、手を伸ばしたら指先が触れて届いてしまったので。
そのまま、腕を回して背中からしがみついた。
「っ……、ルシュカ!?」
引き締まって、固い身体だった。それほど筋骨隆々として見えないのに、手応えは鋼のそれだ。
「待ってって言ってるのに。いまキスしたよね」
「悪かった。次はする前に聞く。というか、離せ」
前にまわした腕に、ナザレスが手をかけた。外されまいと、ルシュカはぎゅっとさらに力を込める。
「いや。誰も来ないなら、しばらくこのままでいる。ナザレスばっかりずるい。私だって、ナザレスに手を出したい」
「手を……」
触れ合っているせいか、感情の振れ幅が全部直に伝わって来る気がする。
ナザレスはひたすら困惑しているようだった。
(それでいい。少しは困ればいいのよ)
「詩はね、愛の詩を……。そういうのたくさん読んでみたい」
「俺が睦みごとを言ったそばから、引用元をあてる気か。なかなか粋な遊びだな」
「どうして自分ばかりが言うつもりになってるかなー。私があなたに言ってもいいじゃない」
変な沈黙があった。表情が見えないのが惜しいと思いながら、ルシュカは頬を背に摺り寄せる。
「……ルシュカ……」
かなり弱ってきた。
ルシュカは小さく噴き出して、腕を放した。
「これに懲りたら、手を出そうなんて思わないでよねっ」
言いながら何気なく顔を向けたら、目が合った。逸らされた。
「え……、ナザレス……顔を赤い……!?」
「そりゃ赤くもなるだろうよ。いい加減にしろよこの無自覚鬼畜が。煽るだけ煽って飼い殺しする気なのはわかってるんだぞ」
嫌そうに目を閉ざしてしまった横顔をまじまじと見上げて、ルシュカは手を伸ばした。気配だけで察したらしく、触れる前に捕まれる。
「やめろ。もういい。俺は帰る」
「もう? ナザレスも非番なら夜ご飯でも一緒に食べたいなって思っていたのに。城下で……」
本当に本を片づけて帰ろうとするナザレスに、ルシュカは少しだけ気落ちして言った。
「お前は悪魔なのか」
唸るような呻き声とともに睨まれた。ルシュカは眉を寄せ、首を傾げた。
「食事に誘うだけでそこまで言われるの!? もっと普通に断ったら!?」
「断らない!!」
つい声が大きくなってしまったら、ナザレスにも同じくらいの音量で返された。
「じゃあいちいち悪魔とか言わないでよ!!」
「悪かったよ俺の天使!!」
「馬鹿!!」
「……馬鹿でいいよ。好きなだけ言えよ……」
今までだったら「馬鹿はお前だ」と返してきたはずなのに。あっさり勝負を回避されて、拍子抜けをする。その考えを読んだみたいに、ナザレスは溜息とともに言った。
「惚れた弱みだよ。笑いたければ笑え。もういい、俺は本読んでいるから、そっちのタイミングで声かけてくれ。俺も今日はこの後非番だし時間はあるから。朝までだって、べつに」
ぶつぶつ言い終えて、ナザレスは椅子にどかっと座りこんで本を読み始める。頁の繰り方が早くて、本当に読んでいるのだろうか、と思ったが、それを指摘するのはやめておいた。
(惚れた弱みは私も一緒なんだけどな)
たぶんそれを言ったら、ナザレスが今度こそ本を読めなくなりそうなのでルシュカは口をつぐんだ。
今晩は何を食べようかな、と平和なことを考えつつ、読書を再開することにした。
(了)




