番外編2 赤と黒(後編)
外は闇。微かに雨の音がしていた。
「座った方がいいんじゃないか。具合悪いんだろ」
ナザレスが示したのはロビンの執務机とその椅子で、ルシュカは力なく首を振った。
「そんなに長話にならない」
希望的観測。ならないというか、しないというか、できない。
二人で向かい合ったまま、沈黙のまま時が過ぎていく。
「俺からはじめる」
ダメ、と言いたかったが、代わりに自分が話せるかといえば無理なのはわかりきっていたので、頷いた。
ナザレスは向き合った距離を詰めず、姿勢を正したまま静かに言った。
「この間は、危ない目に合わせて悪かったな」
「気にしてないよ。姫を危ない目に合わせるくらいなら、全然良かったし。全然……」
視線を向けると、自然と見上げる形になる。身長差があるな、と改めて気づく。まともに目を見ることができなくて俯いてしまう。
「あれは、アンジェリカにも悪いことをした。自分の役目はきちんとわかっている人間だ。ルシュカを身代わりにしたことを、アンジェリカも気にかけている」
(わかっていたけど。そうくるんだなぁ)
ナザレスとアンジェリカは、ルシュカの関係ないところで物凄くお互いをわかり合っている。幼馴染だからかもしれないし、もっと全然別の理由かもしれない。
それは、ずっとそういうものだと思ってきたから、驚くことではない。
護衛として追い払おうとしたこともあるけど、二人が並んでいるのは似合っていると思っていたし、何よりアンジェリカが望んでいたのを知っている。
そこは、ルシュカとしてもどうしても念押ししておきたかった。
「私はね、ナザレス。アンジェリカ様とナザレスの間に入りたいと思ったことはないんだよ」
正直な胸の内を言ったことで、ようやくナザレスをまっすぐに見る勇気が出た。
「わかる」
黒い瞳が見ている。
ここのところ、ただただ恐ろしく感じていたその目に、久しぶりに緊張よりも安堵が勝った。
そうだ。ナザレスとアンジェリカは幼馴染で特別かもしれないが、自分とナザレスは仲間だった、と。
すとんと腑に落ちて、つっかえていた言葉が溢れた。
「ついでに、私はナザレスにすごく勝ちたかったんだけど、無理なんだろうなって最近思ってる」
「それは、わからないな」
軽く首を傾げられて、ついルシュカは拳を握りしめて一歩踏み出した。
「わかれとは言わないけど。闇雲に勝とうとするのは違うなって思い知った。私はアンジェリカ様の信頼が欲しかったから、ナザレスになりたいって思ってたんだ。それにはまず、勝たないといけないって漠然と思っていた。ナザレスよりも強かったら、ナザレスよりも背が高かったら、ナザレスと同じくらい食べたり飲んだりできたら」
列挙しているのをナザレスが真面目に聞いているので、しまいにルシュカは噴き出した。
「ナザレスにね、なりたかったんだ」
アンジェリカに信頼され、思いを寄せられているナザレスは、理想そのもので。
たとえば上官のくせに何かとナザレスを立てようとするジャニスは、ナザレスという人に思い入れがあるのだろうと感じていたけれど。
ルシュカは、違う。全然別種のもどかしい思いを抱いている。
「俺は、俺がもう一人いる必要はないと思うが」
「それはナザレスの考えだよ。護衛としての観点から見ても、ルシュカが二人いるより、ナザレスが二人いた方が戦力になる。私じゃないんだ」
泣くかと思ったけど、意外と平気だった。
ナザレスは感情をおさえこんだような無表情になっていた。
「私にしかできないことも、あるかもしれない。それでも、本当はずっとナザレスみたいになりたくて」
深く息を吸って、吐き出す。
大丈夫。言える。
「私を好きにならないで」
感情が昂ったせいか、涙がにじんできた。瞬きと気合で追い払おうとする。結局うまくいかなくて、袖でぬぐってみた。泣き笑いみたいな変な形に口元が歪んだ気がした。
「ナザレスにはアンジェリカ様を守っていて欲しいし、私はそういうナザレスになりたいし、守りたいと思われたくもないんだ。私は……まだ、何もしてない。認めたり、受け入れられたり、したくない」
手も身体も小さくて、鍛えても鍛えても全然頼りない。護衛という職種に見合う能力を、自分自身に見いだせない。
周りが全員自分より強いからこそ、「強さ」を知っているからこそ、まだまだ折れたくない。
ナザレスは、ふっと息を吐き出した。
「淑女特訓は、頑張っていたな」
まなざしが、優しい。
(普通に話せる)
実感がこみ上げてきて、ルシュカはついつい笑みを浮かべてしまう。
「あれはなかなか難しくて、楽しかった。感謝しているんだ」
「俺じゃなくて、ルシュカにしかできないことだから?」
「私にしかできないことがあったら、すごく良いなと思うけど。本当はね、本当は私はアンジェリカ様にもなりたいんだと思う。これは、例えだよ! 私なんかが言ったら、アンジェリカ様に失礼だから!」
「『私なんか』」
引っかからなくていいのに、そこに。きっと自分の言い方が上手くなくて、足りないせいだ。地団踏みたいくらい悔しいけど、同時にナザレスが傾聴の姿勢で待ってくれているのを感じる。
どう言えば伝わるのかな。
わかり合いたいな。
「もっと強くなりたいし、もっと頭良くなりたいし、優しくなりたいし、頼りにされたいし。あと何年かかるかわからないけど……。今の私より、もっとずっとなんでもできる『ルシュカ』になりたい」
黙って聞いてくれていたナザレスが、不意に大きなため息とともに、目頭をおさえた。
「ど、どうしたの!?」
焦って近寄り、目にゴミでも入ったのかと下から見上げる。ナザレスは呻き声まで漏らしながら、低い声で言った。
「あんまり寄って来るな」
「なんで!? 目痛いんじゃないの、見せてよ」
ナザレスの腕に手をかける。強引に引きはがして顔を覗き込むと、存外に弱り切った情けない顔をしていた。
「そんなに痛いの……?」
虫でも飛び込んだのだろうか。両手を伸ばして、両頬を固定して、両目を覗き込む。
「……あのなぁ」
掌の中で、ナザレスの忌々しそうな声がもれたと思ったら、次の瞬間には両方の手首を掴まれていた。
「強くなりたいのは構わないけど、隙だらけだし」
力の差のせいか、振り払おうとしてもびくともしない。ナザレスは両手で両方の手首を制圧したままゆっくりと下す。その間、ルシュカの抵抗は見事に封じていた。
「罠から逃がしたつもりのウサギが、また罠に飛び込んできたんだけど。俺にどうしろと」
ルシュカの目を見つめたまま、ナザレスは独り言のようにもらしてから、手を離した。
不意の解放に、ルシュカは片手でもう一方の手首をさすりつつ、尋ねた。
「なんか、落ち込んでる?」
ナザレスは大きな掌で顔を覆うと、膝を折ってその場にゆっくりと崩れ落ちた。
「落ち込んでる」
なんで、と聞いたらいけない雰囲気だけは察知しつつ、ルシュカもまたしゃがみこんだ。深い意味はない。ただ、弱気なナザレスも観察しておこうと思っただけだ。
膝を抱え込んで、頭をうずめてしまっていたナザレスだったが、持ち直したのか顔を上げた。
「全存在を肯定されて、俺の思いだけはしっかり振られた。なんか割に合わねぇな……って」
咄嗟に意味を掴みかねた。
独り言なのかな、と思いつつルシュカは手を伸ばしてナザレスの黒髪に触れた。
「慰めてるつもりか」
「あ、うん。珍しいから。ナザレスでも落ち込むんだなって」
「自覚無いだろうけど、ほんとルシュカお前、鬼畜根性だな」
なんだか物凄く失礼なことを言われた気はするが、ナザレスは逃げる気配もなく、ルシュカはしばしナザレスの髪をなで続けた。
しんと静まり返って、外の雨の音だけがしていた。
その間、ルシュカなりに会話を反芻した。
やがて、何か大きくすれ違ったらしい事実に行きついた。
「ナザレス。振られてないと思うけど」
「うん?」
「だって私、ナザレスのこと物凄く好きだよ」
あ、多分これが一番言いたかったことだ。
思いがけず零れてきてしまった。
「だけど、釣り合うようになるまで待ってなんて言えないんだ」
「俺は今のルシュカが好きだけど、ルシュカは未来のルシュカ推しってところまではわかったぞ」
好き。
ナザレスの唇からもその言葉が零れて。
互いに相手を好きだと告げて、心の奥底まで明らかにしてしまって。
ナザレスはルシュカの手を取り、二人で同時に立ち上がった。
正面からただ一人だけをその瞳に映して。
ルシュカはわずかに視線を落として「好き」と言った唇を見た。この先どうするのかな、と。
その思いを汲むように、唇が笑みを形作った。
「せいぜい長生きするさ」
「長生き……そんなに待たせるとでも!?」
「さあ? 俺は結構気が長いってだけの話だよ」
笑いながら言って、ナザレスは優美な所作でルシュカの手を引き寄せ、手の甲に唇を寄せる。
悪戯っぽい目でちらりと見てから、指を絡めて手を繋ぎなおされる。
「遅くなったから、戻ろう。宿舎の前まで送る」
絡んだ指が力強くて、ほどけない。
「こ、こここ、このまま行くの? 誰かにあったらどう……」
さっさとドアに向かうナザレスに引きずられながら、ルシュカが焦って追いすがる。
ナザレスが肩越しに振り返っで見下ろしてきた。
今日一番ではという迫力のある笑みで言った。
「もちろん見せつけるだろ。待つのは俺の自由だが、他の誰も割り込む余地がないことは思い知らせる」
ヤケになってませんか?
そう思ったけど、ついに言い出すことはできず、再び強く手を引かれてナザレスの腕に鼻をぶつけた。反射的にうっと顔を歪めたところで、いきなり手を離され、気が付いたら抱きすくめられていた。
「ナザレス」
「待つけど。俺は俺でずっと好きだとは言い続けるから、その辺は覚悟しておけよ」
返事をしようとしたときには、唇を奪われていて。
これで待ってるというなら、待機を解かれた後は一体どうなってしまうのだろうと。
痛いほどの予感に胸を疼かせながら、ルシュカはナザレスの背にそっと腕をのせた。
(了)




