番外編2 赤と黒(前編)※挿絵あり
※以前短編で投稿したものの再録です。
同僚から、求愛されています。
「ルシュカ」
「うわぁ!!」
背後から名を呼ばれて、ルシュカは叫びながら振り返る。
全員の視線が集まっていた。
「おう、どうした。虫でもいたか」
上官であるロビンがのっそりと身を乗り出して聞いて来る。
「虫!? は!?」
身を引きつつ返すと、ロビンはにやりと笑った。
「最近オレ、虫は結構得意なんだ。畑で相当やりあってるからな」
「あっはっは~……。隊長が何か言ってるよ~。平和極まれりだね」
茶化しながらジャニスが通り過ぎてドアに向かう。確かに、国の防衛を担う兵士隊のトップがやりあう相手はそれでいいのか、という気がしなくもない。
かくかくと首をめぐらせると、けぶるような青の瞳を細めたピーターがいた。
「ルシュカ、虫なら私も力になれると思いますが」
「……虫から離れて?」
誰も虫の話なんかしてないし?
だいたい、私も虫苦手じゃないし? なんで最近畑に出入りするようになっただけの人に虫で誇らしげにされているのか知らないけど、負ける気しないし?
頭の中が???でいっぱいだった。
ルシュカの様子に、用済みの気配を感じ取ったらしいロビンとピーターも解散、とばかりにドアに向かうとさっさと出ていく。
「あ、あの……あの」
そ れ は ま ず い。
身体ががちがちに強張ってしまう。
見たくないけど、見ないのも怖くて、緩慢な仕草で唯一残った人の気配へと目を向ける。
「ルシュカ、行かないのか」
名前。
その声で、呼ばないで。
腕を組んで壁にもたれかかっていたナザレスが、腕をといて二、三歩近づいてくる。
一歩あたりの歩幅が大きくて、それだけでぐっと存在を身近に感じてしまう。触れられているわけでもないのに、熱を感じる。
悪童のように小憎らしく思っていた黒瞳に、滲むような優しさを見つけてしまうと、とにかく背筋がぞわぞわする。
目が合うと辛くて、顔を背けるけれど頬に視線を感じてそれももどかしい葛藤があって。
(見ないで)
頬が勝手に熱くなる。息がうまくできなくて、口から小さく吐息した。
「……宿舎まで送る。具合悪そうだ」
距離は保たれたまま。
詰めてこない。
足音が遠ざかって、先に出ていく。少しだけ扉は開いていて、すぐそばで待っているのはわかる。
ナザレス。
名前を呼んだら、今までのように接してくれるんだろうか。
今までのように? 何もなかったのように。
何も。
(そそそそそ、そんなこと言ったら何かあったみたいじゃない。別にないし。何もないし!)
思い出そうとすると、胸がぐずぐずと疼く。忘れられるはずがない。
ナザレスが唇を寄せてきたときのこと。
間近で見てしまった端正な顔がもうずっと頭から離れない。わずかに感じた、唇の柔らかさも。
でも、受け止めきれない。
悩み過ぎたせいで、頭が沸騰しそうだった。
そういうの、全部見透かされている気がする。
だったら、少し放っておいてくれればいいのに。
一緒に並んで歩くなんて絶対無理なのに。
重い足取りで薄暗い廊下に出ると、数歩進んだ先にナザレスの姿があった。
何か言おうと思っていたのに、姿を見ただけで真っ白になってしまって言葉が出ない。
さすがにその様子を気の毒にでも思ったのか、ナザレスがぼそりと言った。
「罠にかかったウサギみたいだな」
変だ。
という自覚はある。
ナザレスの声を聞くだけで全身が硬直する。
目に見えない何かに搦めとられるかのような感覚。
罠。確かに。
「ウサギを罠にかけたらどうするの……?」
ようやく声を絞り出す。
ナザレスは軽く眉をひそめて言った。
「弄んだりいたぶる趣味はないからな。食う」
「食う」
「逆にそれ以外何が?」
「……そうだよね。あはは……そうだよねあははははははは」
乾いた笑いが止まらなくなったルシュカに、ナザレスは労わるような声で言った。
「大丈夫か?」
大丈夫かと聞かれたら大丈夫じゃないし、大丈夫じゃないと言って何故と聞かれても絶対に言う気はないし。気軽に聞かないで欲しいとしか言いようがない。
「あああああああなんかもう疲れた! 自分に疲れたああああああああ……!!」
叫んで、しゃがみこむ。
そのまま岩になって、一日を終えてしまいたい。切実に思った。それなのに。
「立てないなら俺が運ぶけどいいか」
「はああ!?」
さっと距離を詰めてきたナザレスに軽々と持ち上げられて。
万事、
休す。
「ナ、ザ、レ、ス……!」
「運ぶだけだ。暴れると、触るつもりもないところまで触るぞ」
それどこ!?
瞬間的に身体が固まる。
ナザレスはほっとしたように背と膝裏に腕を通し、抱え直してきた。手つきは軽く、ルシュカがナザレスの胸に手をつくと、容易に密着は避けられた。
本当に、ただ運ぶだけのようだった。
妙にほっとしたものの、胸から手に伝わる布越しの肌の硬さにふと気がとられてしまう。しっかりとした厚みを感じる。
剣を振るうナザレスの姿は、何度も見ている。
あの美しい動きを可能にするしなやかな肉体に、触れている。
急に胸が痛くなってきた。落ち着かない。
布一枚を隔てて、ナザレスに触れてしまっている事実に妙に打ちのめされていた。
それだけじゃない。人一人分の重みなど何も感じていないような、腕の力強さ。
(嫌だなぁ。こんな人にかなうわけないじゃん)
一振りの鋼のように。
全身の隅々まで鍛え上げられた人なんだと思い知らされて。
多分それは、ルシュカが気付くよりもずっと前からアンジェリカが気付いていたことで。
アンジェリカの視線の先にはナザレスがいて、だからルシュカは見ないようにしてきたのに。
ここ最近、ルシュカなりに大切にしてきた世界が壊れ始めていて、止められなくて、それを辛いと言っていい立場にはないのは薄々気付いていて、心がバリバリ破れていく感覚があった。
「ナザレス」
「ん?」
頭上から穏やかな声が返る。
すがりつくわけにはいかなくて、二人を隔てる掌になお力を込めて突き放す。
「八つ当たりなんだけど。辛い」
「うん」
「自分でどうにかしようと思ってきたけど、どうにもできない」
「うん」
「できない。八つ当たりなんだけど、ナザレスの馬鹿」
「俺が思うに、ルシュカのそれは八つ当たりじゃない。俺が負うべきものまで抱えてるよ」
「ナザレスが負うべきもの?」
思わず見上げると、ナザレスは軽く唇を引き結んで目元だけで微笑んだ。
「話そう」
短い言葉とともに、床に足を下ろされて立たされる。
ぬくもりがすっと離れて、そのことに寂しさを覚えている自分を、ルシュカははっきり自覚した。
ナザレスは今出てきた部屋へと引き返す。
先に立って入っていくナザレスの背を、ルシュカは立ち尽くして見つめる。姿が見えなくなる。
ややして、意を決すると、後に続き、後ろ手で扉を閉めた。