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10 罪悪感 

「おい、バカ」


 呼びかけがそんなのだったので、もちろん振り返らない。返事もしない。

 ナザレスは歩き続け、回廊を数歩進んだ。そのまま、結局足を止める。

 声の主に負い目があったせいだ。ため息を一つ。


「……どこにそんな呼びかけをする淑女がいるんだ」


 夕暮れ時ということもあって、壁一面に等間隔に並んだ窓からは、緋色の光が差し込んでいた。

 行く手には人影はない。

 声は後ろから聞こえた。だから、振り返ればいい。それはわかっている。

 それでも、そのたった一瞬のことに、ナザレスは本当にぐずぐずした。

 思い切って振り返ったときには、そんな態度は絶対に見せないようにしようと決めていたけれど。

 そしてドレス姿を、思う存分からかってやろうと。

 そのつもりだったが、肩越しに姿を確認する直前、走りこんできたその声の主は視界から消えた。


「ダメ! 見ちゃダメ! あっち向いてて!」


 腰のあたりに勢いよくぶつかられ、見下ろせば夕陽の色に染まった髪の毛。


「なんだルシュカ。半月の成果の報告じゃないのか」


 顔が全然見えないので、困惑しつつナザレスはそのように言う。

 一方のルシュカは、ぶつかったのは想定外だったのか、少しだけ身を引いていた。

 それでも、うつむいたまま未練がましくナザレスの隊士服を指で掴んでいる。


「ルシュカ?」


 あまりにも顔を見せようとしないので、まさか泣いているのかと心配になった。

 ジャニス対策のため、前王妃でナザレスの母であるカルネリを巻きこむことで本気のふりをしてみたのだが、渦中のルシュカには負担を強いた自覚はある。

 ナザレスは服を摘まんでいる細い指に手をかけて外させてから跪き、ルシュカの顔を下から見上げた。


「人と話すときは目を合わせようか」


 突然視界に割り込まれたせいか、ルシュカは驚きのままに瞳を大きく見開き動きを止めていた。

 目が合って、ナザレスも息を呑んだ。

 薄く化粧をしているのだろうか。いや、肌や髪に手をかけたのかもしれない。


 くっきりとした目や小さな唇は変わらないはずなのに、気の強さばかりが目立つと思っていた顔つきからも険が取れ、わずかに憂いを帯びた表情には、今まで見られなかった暗い華やぎがある。


(変われば変わるみたいだ、けど)


 ほんの少し前まではなかったはずの奇妙な影が気になって、ナザレスは何かを言わねばと思った。

 その目の前でルシュカはすばらしい瞬発力で後ろに跳び退った。


「淑女の動きではないな……」


 ナザレスはついつい率直な感想をもらしてしまう。

 あまりにも今までどおりの動きに、雰囲気が変わったというのも、勘違いかな、と。


 当のルシュカといえば、服装だけは淑女だったために、無理の反動をくらって転びかけていた。なんとか持ち直したようだが、腰を落とした体勢のまま顔を上げない。


「おい。淑女は土下座っての、あれは嘘だぞ」


 声をかけてみても、ルシュカは横を向いて顔をそむけたまま。

 返事は苛立ったような声。


「土下座しているわけじゃないっ」

「なんだ。それじゃ立てよ。そういうのは……」


 ナザレスはそう言いながら歩み寄る。

 目の前にたどり着いたときにもまだルシュカは横を向いていたが、小言をくらうと思ったのか、慌てたように立ち上がった。

 そこでナザレスは今一度跪いてみせた。

 そして、本当にただ思いつきでルシュカの手をとる。そのまま、目だけをちらりと向けた。


「俺の方が様になるんじゃないか?」


 半月くらいではたいして変わるとも思われなかったが、剣の稽古も畑仕事もしていなかったせいだろうか。それともカルネリが手入れを教えたのだろうか。

 思いがけず触れてしまったルシュカの手は冷たく、小さく、やわらかかった。

 やり場に困ったというのも言い訳じみているが、紛れもない事実で、持て余したあげくにナザレスは(こうべ)を垂れると唇を寄せてみた。

 触れる、寸前。


「信じられないバカバカバカバカバカバカバカ大バカーーーーーーーーッ!」


 手が、逃げていく。

 闇雲に騒いだルシュカに振り払われ、しかも大声で攻撃を加えられた。ほとんど不意打ち。

 ナザレスは沈痛な面持ちのまま頭を下げ続けてやり過ごす。

 声が絶えてから、ようやく顔を上げた。


「淑女計画、見事に失敗だな」

「失敗とかいうな! 私だって、やるときはやる! ただ、その、なんだ。その……ナザレスおかしいだろ、いまの絶対におかしいだろ!」


 ドレスの裾を両手で握り締め、顔を真っ赤にして怒鳴りつけてくるルシュカを見上げて、ナザレスはむっと眉を寄せた。


「おかしくない。淑女はこういうときは笑顔で受けておくものだ」

「そそそ、それは嘘だ! 淑女なら、淑女なら……何がなんでも貞操を守りぬくはずだ!」


 自分で言ってからその通りだと思ったらしいルシュカは、一人力強く頷く。

 ナザレスは、無言のまま立ち上がった。

 そして、上からルシュカを見下ろした。


「お前は、淑女は淑女でも、王子を誘惑する悪女にならなきゃいけないんだぞ。手に口づけのひとつやふたつで騒いでどうする」

「な……くちづ……!」

「そのくらいで顔を赤くするな。はっきりいえ、キスだちゅーだ。文句あるか」

「………………………………………………………………」


 長い沈黙の後、うつむいたルシュカは小声で「無理」と小さく呟いた。

 そのまま、頭を抱えてゆっくりとその場にしゃがみこんだ。ふんわりとしたドレスがまるく広がる。どこからどう見ても、打ちひしがれた少女そのものだ。

 さすがに、ものすごく悪いことをした自覚はあった。


「そんなことでどうする。お前が失敗したら全部水の泡なんだぞ」


 などと言っている自分が猛烈に情けない。騙して利用している上に、セクハラまで加わっているのだから。

 しかし悪は貫徹してこそ。


(全部終わったら思いっきり謝って……謝って……)


 たぶんそれだけではすまない。命くらいは寄越せと言われそうだ。あげられるだろうか? 真剣に検討しかけて、打ち消す。欲しいと言われたらやるまでだ。

 

 ルシュカは、まだしゃがみこんだまま。

 慣れないことをして弱っているときにいじめすぎたかなと、ナザレスはかけるべき言葉を探した。しかし見つからない。

 結局、先に口を開いたのはルシュカだった。


「明日は……うまくやるから。ちゃんと、向こうの王子様の言うとおりに……その、く、く、……何かされそうになっても、私は大丈夫だから」


 聞き取れないくらいの小声で、言えない言葉はどうしても言えないまま。


 それを聞いた瞬間。

 ナザレスは考えるより先に片膝ついていた。

 今日何回めだこれ、と思いながら。

 それもこれもルシュカが落ち込み過ぎていて、まともに立ち上がらないからだ。

 それも明日で終わる。

 ここはひとつ、激励しておかねば。がんばれよ、と。


「イヤならやめておけ」


 口をついて出たのは思っていたのと真逆の言葉。ナザレス自身、一瞬自分が何を口走ったかわからなくなった。

 それに対し、うつむいたままルシュカは言った。


「やめないよ」

「どうして」

「……私は、アンジェリカ様が、大切だから」


(大切なら、やめていいんだ。お前が顔合わせの場に出ていったら、アンジェリカの縁談は流れる)


 ナザレスはぐっと唇を噛み締める。

 本当は目の前で落ち込んでいるルシュカを励ましたい。けど、自分は一番その資格のない人間だ。

 拳を握り締めて沈黙したナザレスの前で、ルシュカはゆっくりと顔を上げた。

 浮かべていた笑みは穏やかで、瞳には覚悟を決めた人間の鮮やかさを湛えていた。


「アンジェリカ様はね、本当は、この縁談を進めたくないんじゃないかと思うの」

「……何を言ってるんだ?」


 徐々に夕陽の輝きは失われ、辺りは薄暗くなりつつある。

 ルシュカの強いまなざしはまっすぐにナザレスを見ていた。

 少しだけ、寂しげに。


「だって、アンジェリカ様は、ずっと前からただ一人だけを思ってる。だから、口ではなんと言っても、こんな縁談は嫌なんじゃないかと思う。……ナザレスだって気づいてるんでしょ? だから私を行かせて、潰したいんでしょ?」

「ルシュカ」


 何もかも心得たようなその表情が、こちらの計画など見透かしていたと言わんばかりで。


「でも、向こうの王子様はほんとーにほんとーに女癖が悪いっていうし、その……何をされるかわかったものじゃないからね。ただ潰すだけなら、アンジェリカ様を危険にさらしたくないもんね。大丈夫、わかってるから。私が行って、ちゃんと潰してきてあげる。安心して、ちゃんと淑女の真似はできるから……カルネリ様に教えてもらったとおりにするから……。どんな嫌なことされても、私、オオゴトにしないで、でも、ちゃんとふられてくるから……」


 顔は笑っているのに、そう言うルシュカの目は潤み出して、しまいにぽろりと一滴、涙が零れ落ちた。

 あっけにとられたまま、ナザレスは思わず手を伸ばす。その涙を拭きたくて。

 頬に触れる寸前に、ルシュカに叩き落される。

 そのままルシュカはうつむいてしまい、沈黙ばかりがあたりを埋めた。

 最後の陽が落ちたのだろうか、薄暗い中で、ルシュカは音もなく立ち上がった。


「明日の予定を聞いていい? どうやってアンジェリカ様や他のみんなをごまかすのか、私はどういう手はずで先方に会えるのか」


 そう言った声は、いつも通りのルシュカだった。

 ナザレスも立ち上がる。

 しばらく声は出ない。

 どこから話をはじめ、何をどう言って良いのかわからない。

 ここで、アンジェリカの本当の望みは縁談を進めることだと言って、ルシュカを納得させられる自信はなかった。なぜか。

 自分自身、その考えに疑問を持ち始めたせいだ。


 ──本気じゃないと言ったら、止めてくださるんですか?


 ナザレスと向き合ったとき、冗談めかしてだがアンジェリカはそう言っていた。


 ──ナザレスがやめておけと言ったら、やめるんじゃないかと思うけどね。


 そういえば、ジャニスもそのように言っていた。


 ──だって、アンジェリカ様は、ずっと前からただ一人だけを思ってる。


 いくら目を背けていても、そこから導き出される答えは一つ。


(……俺が問題なのか?)


 もしかして、アンジェリカは自分を好きなのかもしれない、とは考えたことがある。

 ただ、あくまで幼馴染としてで、兄のように慕う感情であると思っていた。

 もし結婚などということを考えていても、それは玉座を正統な相手に返したいというファルネーゼの思惑や、アンジェリカ自身の罪悪感によるものだと思っていた。

 それが、まさか。

 自分で自分のことを大馬鹿かもしれないとは思うものの。

 誰かのことが好きだとか、そんなことで国だとか人を巻き込むなんてことがこの世に本当にあるとは思えずに。


「まさか、恋愛だとか、そんな些細な感情で話をこんな大事にする奴がいるか? あのアンジェリカが、そんなこと、するか?」


 それを耳にしたルシュカの空気が変わった。

 気づいたときには遅かった。


「ナザレスはバカすぎるよ! 自分が頭良いつもりだから、そうやって人の感情蔑ろにしちゃうんだよ! アンジェリカ様はナザレスに止めてもらいたいって思ってるに決まってるじゃないか!」


 こんなとき淑女だったらせいぜい平手打ち止まりなのかもしれないが、きっぱり騎士のはしくれで武術の心得のあるルシュカは、思い切り握り締めた拳をナザレス腹にぶち込んだ。


「もう、知らないからな! とにかく明日はうまくやってぶっ潰すから! でも、うまくいきすぎて潰せなかったらごめんね! 私、真剣に淑女特訓したんだから!」


 淑女はぶっ潰すとか言わねー……と思いながらも、ナザレスはあまりの腹痛に、その場にくずおれないようにするのが精一杯だった。

 その様子を一瞥して、ルシュカはスカートの裾をつまむと背を向け走り去った。

 止めることもできずに見送ってから、ナザレスはふとアンジェリカの言葉を思い出す。


 ──ジャニスといえば、切れ者というのは私の耳にも聞こえてるわ。もっと確実な妨害を仕掛けてくると思うのだけど。


 結局この半月、ジャニスの尻尾は掴めなかった。だが、アンジェリカはそのことを気にした様子もなかった。

 アンジェリカが落ち着いていて、何にも動じないせいだと思っていた。

 しかしアンジェリカを見誤っていた自分は、何かもっと大きなことを見誤っているのかもしれない。

 不意に胸騒ぎとともに思い出す。


 ──あら。私、ジャニスとはいいお友達になれそう。



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