1 裏庭の姫君
「姫様──っ!」
王宮の裏庭。
緑なす高い木々に囲われ、ごく私的な空間として整えられたそこに、二階壁よりせり出しているのは白亜のバルコニー。
見上げて声を張り上げる青年が一人。
そよぐ風にやわらかく靡く黒髪。長身で姿勢が良く、近衛騎士の隊服である、藍色のかっちりとした詰襟を身に着け腰には長剣を佩いでいる。浅く日に焼けた肌が、端整な容貌に精悍さを添えていた。
それでいて、小動物めいた愛嬌のある黒瞳には、少年のような瑞々しさがある。
青年は、その目をじっと白亜のバルコニーに向けていた。
装飾の施された手すりは高く、下から部屋の中までは見えない。
うかがうように少しだけ身をひいた。しかし、待てども返事は無く、人影も見えない。
「……いないのか」
所在無さげに、頬に落ちて来た髪を指で梳きながら後ろに流す。
踵を返し、背後の庭に目を向けた。
整然と並ぶ畝。そこにはびっしりと葉をつけた丈の低い植物が植えられていて、風が吹くたびに白い花を揺らしている。
ジャガイモの花だ。
秋には結構な量のジャガイモが収穫できそうだ。
少し離れたところに、うってかわって丈の高い植物が並んでいる。茎の間に見え隠れする房はまだまだ痩せているが、収穫間際になればふっくらとふくらみ、真っ白なひげがのぞく。ゆでて食べると甘くておいしい、とうもろこしだ。
ナスやトマト、きゅうりやカボチャなど、見渡す限り種類豊富に植えられている。
家庭菜園と呼ぶには規模が大きすぎる、立派な畑であった。
そこが王宮の一角、しかも御歳十六歳になる姫君の私的空間であるということを考えれば、いささか異様ではある。
その光景を妙に感心したようにながめていた青年であったが、ふと離れたところに目当ての人物の後姿をみとめて、小さく呟いた。
「いた……って、あいつもか」
一目でさほど上等ではないと知れる木綿のドレスを身に着けた、小さな背中。その横に、紅の隊服をまとった赤毛の背中。
「やはりこの雨不足のせいでしょうか……。例年より発育が」
「そうよね。最近雨が降らなくて。でも井戸の水も冷たくておいしいでしょう。まだ大丈夫だと思いますわ」
なにやら二人は真剣な様子で話し込んでいる。青年が音もなく近づき、後ろに立っても、一向に気づく様子はない。
青年は片目を瞑り、少しの間、待った。
口を開きかけ、閉じる。どうにも声をかけかねていたが、意を決して息を吸い込んだ。
「園芸クラブ活動もいいんですけど、時間を忘れすぎじゃないかと思うんですけどね」
小さな二つの背が震えた。大げさなほどに、びくんと。しかし、振り返らない。
一方の青年といえば、背を逸らして腕を組み、待ちの姿勢。
不穏なまでの静穏さ。
先に立ち上がったのは赤毛の方だった。
「ナザレス、何をしにきた!」
勢いに合わせて、短い髪が空を切る。
緋色の瞳の放つ眼光は、鋭い。
肩に触れぬ長さでざっくりと切られた赤毛が、顎の細い、少年めいた凛々しい顔立ちに潔い華やかさを添えている。
まとった服はそっけない詰襟の隊士服であるが、色は人目を引く鮮やかな紅。服の上からも引き締まった身体つきをうかがわせる。胸のあたりは若干心許ないが、間違いなく美少女だ。
頭のてっぺんからつま先まで女性らしい甘さは微塵も見出せない。
放つ空気は、とかく物騒である。
「何って、お仕事。ルシュカに用はない。アンジェリカ様に、部屋に戻ってほしいって言いにきたんだ」
青年は、もう一人の少女に目を向ける。
分け目を真ん中にしてきっちり左右に分けた三つ編みには野暮ったさがあり、日焼けしたらしい顔はうっすら赤くなっている。瞳は暗いとび色。顔立ちは、両手で口元から頬まで覆ってうつむいてしまっているので判然としない。気弱と弱気を足して割らない態度で、全体として見ても怯えているという表現がふさわしい。
「ナ、ナザレス……ごめんなさい」
声は、あまりにも小さい。
ナザレスと呼ばれた青年はぴくりと眉を動かした。途端、アンジェリカの肩がいいだけ退いた。ナザレスは気にせずに言った。
「いちいち人を見て顔を隠すのはどうかと思います。あと、外に出るときは日除けくらいした方が良いです。帽子でも傘でも。この間俺が取り寄せたのがありますよね。なんで使わないんですか」
「ごめんなさい……」
「ごめんじゃなくて。俺、いまなんでって聞いています。そんな日焼けした顔で人前にでも出た日にはまた笑いものに」
「ナーーーザーーーレーーースの、ばかああああああああああ」
声の限りに、赤毛の少女、ルシュカが叫んだ。
心底嫌そうな顔をして横を向いたやり過ごしてから、ナザレスはルシュカを鋭く睨みつけた。
「ルシュカ……てめ、人の耳つぶす気か。殺すぞ」
「上等だ。剣を抜け!」
「手加減しねえ」
言うなり、二人とも鞘走りの音を響かせ、剣を抜き放つ。
穏やかな風が吹き、ジャガイモの葉がさやめく。可憐な白い花が揺れた。
さらに一人の青年が木立の間の小道から駆けてきたが、その光景を前に、足を止める。
動きにそって揺らめいていた長い金の髪が、ふわりと漆黒の隊士服をまとった肩におりた。
優男めいて甘い顔立ちの中、涼しい水色の瞳は困惑したように見開かれていた。
が、ゆっくりと閉じられる。うつむいて、ためいきをひとつ。
顔を上げたときには、ひどく暗いまなざしをしていた。
「バカ……」
背の高いナザレスと、赤毛のルシュカ。
剣を構えて向かい合い、火花を散らさんばかりににらみ合っている。
その横では、アンジェリカが震える手を胸の前で組み合わせておろおろとしていた。
「二人とも、落ち着いてください……」
「いいえ、姫。ナザレスみたいなアホは、一度痛い目を見ておくべきなんです!」
「お前まさか俺に勝てるつもりなのか? はっ」
悪辣な挑発。いいだけあおられたルシュカは、柳眉険しく、緋色の瞳を大きく見開く。
「絶対許さない……!」
「いいぜ。どこからでもかかってこいよ」
空いた左手を上向け、呼び寄せるように指を動かす。
その次の瞬間、ルシュカが動いた。
両手で柄を握り締め、刃を突き出す。
扱っているのがまぎれもなく真剣であるところをみれば、殺意は明白。但し隙は大きい。わずかに目を細めて難なく見切ったナザレスは、腰を落としつつも敢えてその刃を受け止めた。
澄んだ金属音が鳴り響く。
力での競り合いになると不利と知るルシュカは、さっと引いて体勢を立て直そうとする。ナザレスはそれを許さず、追撃。
しようとしたところで、手を打ち鳴らす、乾いた音がした。
「そこまで」
鋭く割って入ったその声に、ルシュカは、はっと息をのむ。
ナザレスはやれやれ、といった様子で剣をおろした。そのまま、晴れ上がった空を見上げ、肩に落ちた髪を後ろに払う。
それから、ようやく声のした方へと顔を向けた。一瞬浮かんでしまった嫌そうな表情は全力でかき消して、愛想よく微笑んですばやく言う。
「よっ」
声を掛けられた金髪の青年は、眉を寄せた厳しい表情のまま、剣を鞘におさめるナザレスの手元を見ていた。なまじ整っているだけに、不機嫌を体現したその表情は、ひどく冷ややかだ。
しかし、ふたたびナザレスに目を向けたときには、花もほころぶような微笑を浮かべていた。
「『よ』? これはこれは、ずいぶん平和な挨拶をしてくれるものですね」
声には冷酷の響きがあった。
ナザレスは頬のあたりをひきつらせた。
「天下泰平、世は平和だ。見ろよ、ピーター。この豊かに実った野菜たちを」
「どうして剣を抜いていたんですか? ここがどこだかわかってないんですか? どなたの前であるのかも、わかってないんですか?」
「そんなに怒らないでください、ピーター……」
アンジェリカがダメ元の様子で青年の名を呼んだ。
それに対し、ピーターはさらに笑みを深めてアンジェリカに顔を向ける。
「何か御用でしょうか、姫様」
「……あの……その……ええと……いい天気ですね」
「天気ですか? そうですね。でも、最近いささか良すぎですよね。こう雨が降らなくては、姫様がせっかく愛情を注いで育まれたお野菜たちも干上がってしまいそうですよね。ああ、そこの白い花などやはりどことなく元気がないように見受けられます。ゆゆしきことですね」
その抜群の笑みを前に、彼を除く三人は三人とも、どことなく諦めた表情をしていた。
もちろん、ピーターは一切笑みを崩さなかった。そして言った。
「少し雨でも降らせてさしあげましょうか。少々赤いかもしれませんが、そこはご容赦を。植物の発育には全然害はないはずです。なんでしたっけ。うつくしい花を咲かす木の根元には、決まって死体が埋まっているというじゃないですか。きっと、すっごく、栄養があるんですよ」
血とか死体には。
さすがに相手が姫君とあって、ピーターはピーターなりに遠慮したらしい。何か言ってはならぬ言葉を飲み込んだ気配があった。
それにも関わらず、察したアンジェリカはふらりとよろめき、ルシュカが受け止める。
ナザレスは、さすがに責任を感じて口を開いた。
「ピーター、姫様はな、ご自分で土を掘り起こすところから作業なさってるんだぞ。それが、スコップ突き刺すたびに死体がごろごろあったら、邪魔で邪魔で種も蒔けなくなるじゃねえか」
「なるほど。それは大変ですね。そんなことにならないようにナザレス、可及的速やかに土に還るんだよ。いいね」
言うなり、ピーターは音も立てずに剣を抜き放つ。察知したナザレスはすばやく飛び退る。目で動きを追っていたルシュカが悲鳴を上げた。
「ナザレス、ジャガイモ踏んでるーーーー!」
至近距離で発せられた大音声に、アンジェリカは呻いてうっすらと目を開く。うつろな表情のまま、ナザレスを探す。そして、その足が茂るジャガイモの葉を踏みしめているのを見た。
その次の瞬間。
絶叫がその唇からほとばしり出た。
「いや────────────────っ」