叶わぬ面会
『私はあなたを見ています』
また再び、ホタルから渡された便せんを広げ、その文を目で追った。
もうすでにホタルは寝かしつけてある。相当疲れていたのだろう。風呂から上がって寝どこまで案内すると、布団にダイブした次の瞬間には寝息を立てていた。
だからこそ、俺は改めてこの便箋を広げている。便箋は二枚。内容はよろしくと書かれた手紙が一枚と、ホタルの困った時の対象法みたいなのがまとめられた、ホタルの取扱説明書が一枚だ。取扱説明書によるとホタルはトマトが嫌いらしい。朝食を食わせるときなんかは、そこら辺を気をつけてやった方がよさそうだ。
というかそんなことよりもだ。
どれだけ常識外れのボンボンの子供か知らないが、七歳の女の子に本気で一人旅をさせようとする親なんていやしない。絶対にこの一文が示すように、どこからか見守っているはずなのだ。
できるのなら、その親ともコンタクトを取っておきたい。
俺はホタルを起こさないように外に出た。
六月半ばの夜。まだ梅雨だとも思えるほど雨も降ってはいないが、それでもヒグラシの音が、涼しい夏の風に紛れて聞こえてくる。
見たところアパートの周りには特に何もない。近くに普段と待っていない車が止まっているようなこともない。辺りを少し見まわしても、俺の家を目視出来そうな住宅はすべて明かりが消えている。
耳を澄ましても聞こえるのは夏の風とヒグラシの奏でる音だけだ。静かな夏の夜がここにある。
「おい、どこかにいるんだろ?ホタルはもう眠ってる。出てきてもバレやしないぜ?」
そんな夏の夜を壊すのは少々無粋なことかと思いもしたが、俺は大声で呼びかける。その声は夏の夜の音の前に消えていった。
さっきまでと何も変わらず、ヒグラシの音ばかりが耳に響いて、視界には誰もとらえることはできない。俺の声が、向こうにちゃんと届いているのかどうかも怪しい。チリーンと鳴らせている風鈴の音の方が、より夜の音に乗って遠くに届きそうだ。
そのあとも何度か呼び掛けてみるが結果は同じ。誰も姿を見せはしなかった。
いないのだろうか?いやそんなはずはない。さすがに自分の娘を知らない人に預けて、そのまんまにしようとかいう親がいるわけがない。
だとしたら声の届く範囲にはいないのか、それとも聞こえているにもかかわらず姿は現したくはないのか。
もう少し大きな声でも出してみようか?でもあんまり大きな声を出すのも近所迷惑だ。しかもうちのアパートの住人そういうのに結構うるさいし。
……仕方ない。今日のところは引き上げることにしようか。
「…………」
だが、あきらめて家の中に入ろうとドアノブに手をかけるまで、俺は何度も振り返った。
『私はあなたを見ています』
その言葉が、何度も何度も、耳鳴りのように遠くでなるヒグラシの音に乗って、俺の鼓膜を揺らしているような気がしてならなかったんだ。