8 襲撃者来訪―――密談の続き/恩師を逃がすべく
急に、身体が軽くなるのを彼は感じた。慌てて上体を起こす。
キン、と金属同士のぶつかる音が耳に飛び込み、音のする方へ顔を向ける。
あまり明るくない部屋の、空気がそれまでとやや異なっていた。
風は、上から吹き込んでいた。彼はそれに気がついて見上げる。天井に四角い穴が空いていた。
彼は目を見張った。
何度も、金属同士のぶつかりあい、こすれあう、涼やかな――― 時には背筋を凍らせる音が耳に飛び込む。
その音を出しているのは、彼女だった。
「ナギ!」
「近付くな!」
途端彼は、足が見えない鎖で地面に縛り付けられたような感触を覚えた。
さほど大きな声でも、響く声でもなかった。だがその声は、確かに強い力でもって彼の動きを奪ったのだ。
「お覚悟!」
別の声が金属音に重なった。女の声だ、と彼は思った。高くて、甘い声だった。
目をこらす。薄暗い室内で、何処にいるのかよく判らないような色の服は、彼が今まで実際には見たことのないような形をしていた。
彼は自分の頭の中の知識をひっくり返す。
確かに実際に見たことはない。だが何かで!
袖はふくらんでいるように見える。
だが連合の服のような作られた大きな膨らみではない。前開きの衣服のせいで、動くたびに空気をはらんで大きく膨らんでいるように見えるだけだ。
その袖が動くたびに、弱い光を反射して金属が何やらぎらりと光る。ナギはあの短剣でもって応戦しているように見えた。
彼女は上半身が白の胸当てだけになっていた。
もとよりそう大きくない胸は揺れることもなく、彼女に切りかかろうとする切っ先をすれすれのところで避けている。
よく避けている、と思う。だが相手の方が上手だ。
彼女を助けなければならない。
そうは思う。
そうは思うのに、どういうことか、足が動かない。
恐怖ではない。恐怖で足が動かない時だったら、もっと心の中は動揺している筈なのに、頭は混乱しているはずなのに…
「命まで取るつもりは無い!」
「信じられるか!」
ナギは短剣を相手に投げつけた。
「う!」
相手の声が聞こえる。短剣が相手の肩に刺さったのだ。
「わざわざここまで来させるとは、あの方の命令か!」
「言わねばならぬ義理はない!」
ぎらり、と光が残像をともなって流線を描く。刺客の少女は、傷ついていない方の手で、大きく長剣を振り回した。
「!」
白い胸当てが、赤く染まる。シルベスタは一瞬目を細める。
「私の役目はここまで!」
刺客の少女は鋭く言い放つと、二、三歩飛び上がり、天井に空いた穴に飛び込んだ。穴は少女が入ると同時に塞がれ、薄暗い室内では跡すらも見えなくなった。
「ナギ!」
彼は胸を押さえてうずくまるナギに近寄る。足が地から自由になることを感じる。
「大丈夫だ」
「大丈夫って君…」
「本当に、大丈夫なんだ。それより浴室からタオルを持ってきてくれないか?血がジュータンに落ちては困る」
「え?」
それどころではないだろう、とは彼は思った。だか身体は勝手に浴室の方へ動き出していた。
広い浴室の脱衣所には、淡い黄色のふわふわとした浴用タオルが数枚畳まれて棚に置かれている。彼はそれを全部抱えると、すぐさま彼女のもとへ舞い戻った。
「ありがとう」
彼女は切られた所をタオルで押さえる。胸当てを真ん中から縦一文字に切られ、ぱっくりと前がはだけている。
結構深い傷だったのか、白い下着にはずいぶんと血がその領土を広げていた。彼はやや目をそむける。血を直視するのには慣れていないのだ。
「今、救急箱を取ってくる」
「その必要はない」
「何?」
彼女は胸の切りつけられた所を、軽くぽんぽんと叩く。
「そんなことしては…」
彼は彼女の手からタオルを取る。
血が大量ににじんだタオルを手にした瞬間、ぞわりとした感触が背中に走る。だが。
ナギは仕方ないな、と言いたげな表情で軽く深呼吸をする。そして。
「どこに傷があるって?」
「え?」
彼はナギの胸の真ん中に目をやる。彼の表情が変わる。
ナギは一回り小振りなタオルを取ると、自分の額と首をぬぐった。彼女がずいぶんと脂汗をかいていたらしいことに彼はその時ようやく気付く。
「さすがに結構気力が要るな」
「気力?」
「かすり傷なら何もせんでも勝手になんとかなるが…」
「なんとかなる?」
「この類の傷を治すには結構」
「治す?」
確かにそうだった。
傷はつけられた。それは事実だ。手の中のタオルに染み込んだ血は、まだ乾いていない。触れるとややひんやりとして手を微かに赤に染める。
だがその血の出た筈の傷口は、既にその口を閉ざしていた。
白いなめらかな彼女の肌にその部分だけ、つやつやとしたピンクのラインが一文字に浮き出ていた。他の部分が白ければ白いだけ、そのラインは鮮明だった。
彼女は汗をぬぐったタオルで、所々に散った血の跡をぬぐいさる。
「…君…」
「だから、大丈夫だと言ったろう?」
「本当に、切られたのか?」
「本当だ。私は別に好きでこんなことされる訳ではないし、芝居で血糊をぶっかけるような暇人でもない」
「君は予測していた?」
「ある程度まではな。おかげで相手先が見えてきた」
自分が深手を負うことも。
彼はどう言っていいのか、どうしていいのか判らずに動けない自分に気付いていた。
そんな彼の様子にはお構いなし、というように彼女はまっ二つに切れた胸当てを肩から外しはじめた。
何とかそれまでは隠れていた胸が丸出しになってしまう。視界にそれが入った瞬間、彼ははっと気付いた。そしてベッドの上に放ってあった上着を彼女の頭からかぶせる。
「別に私はいいんだが」
「俺が恥ずかしいの!」
「せっかく服が汚れないで済むと思ったのに」
「服が――― ちょっと待てじゃあその為に」
「私は結構あの制服は気に入っているんだ。気分的に楽だ」
彼は頭を抱える。服が気に入っているからと言って、わざわざ下着になって人に切らせるかあ?
そんな彼の考えにはお構いなしに、彼女は再びシルベスタの上着をベッドに放り投げる。そして血のついたタオルを彼の手から取って、すっと立ち上がると浴室へ向かって行った。
「何するつもりだ!」
「血の染みってのは落ちにくいんだ。浴槽につけておけばそれでもある程度は消えるさ。そうしたら続きをしよう」
「ナギ!」
「まだ話は終わっていないんだ」
密談は情事の時が一番いいんだ、と彼女は浴室から言った。まだ天井裏に何が潜んでいるか判らないというのにそんな声で言っていいのだろうか。
「だけど俺はかなり気が抜けてるぞ。できないかもな」
「ああ大丈夫だ。そんなのは何とかなる」
にこやかに言われても。そういう問題ではないと彼は思う。
*
「カナーシュ先生は三等車に乗り込んだ。私は男爵の命令通り一等車に乗り込んだので、彼と話す機会もない。下手に彼と話したりすれば、何やら疑われかねない」
「カナーシュ氏は見張られていたのか?」
「さすがにな。何と言っても全国指名手配だ。第一級不敬罪と言えば、反乱の首謀者に次ぐ扱いだ。哀しいかな、先生は学者であって、テロリストではない。変装とかは実に下手なんだ」
彼女が苦笑するのが、明るくない室内でも彼には判った。
「別に誰も彼にそんな能力は期待しなかったしな。私の方の車両にも、男爵が帝都から乗り込んできて、私自身動きが取れなくなってしまった」
「その後馬賊に襲われたと聞いたが」
「耳が早いな」
「その程度は当然だろ? で、その時、人質が取られたとも」
「ああ」
「その人質の連れが、後で殺されたとも聞いた」
「そうだな」
「それは君だろう?」
「そうだ」
彼女は思った以上にあっさりと答える。
「ずっと気になっていたんだ」
「でしょうね。そんな気はしてた」
「その割には君はずいぶんと平然としている」
「私にはあなたの方が不思議ですけど?」
くす、と彼女は笑った。
「何が?」
「気が抜けた、と聞いたけど? 元気じゃないですか。思いの他」
「君がそうさせたんだろう?」
「それはそうだけど、所詮技術は技術。あなた何だかんだ言って、神経太いですよ」
「それは誉め言葉と取っていいのかい?」
「当然でしょう?」
彼はつ、とナギの胸の、縦一文字のラインをなぞった。ん、と喉の奥で彼女は鳴く。
「馬賊の話をして欲しいな」
「いいですよ。私は私の知っていることを教える約束ですものね。ええ。馬賊は、その朝早く、いきなり襲ってきたんですよ」
「うん」
「馬賊というのは正確じゃないです。正確に言えば、帝国の西に、華西という管区があるんですが、そこに住む、カラ・ハンという部族がありまして」
「その部族が馬賊なのか?」
「まあそう急がないで。馬賊、というのは卑称であるということはあなた聞いてませんか?」
「一応。『賊』だもんな」
「ええ。とはいえ、カラ・ハンだのその近くのアファダ・ハンだのが騎馬民族というのは事実だ。この辺りは草原地帯で、昔から馬に乗って、遊牧して生活してきています。最近はそれでも多少帝都や副帝都の生活様式が入れられてきてはいるけれど、それでも基本は」
「騎馬遊牧民族だと」
「ええ。それが一番あの地に合っている。だから無闇に向こうの文化を取り入れようとは思わない。そうすることが害になることは彼らは知っている」
「詳しいね」
「私も昔住んでいたことがあるから」
そう言えば、彼女の外見は、北に近い華西区の民族のものに近いな、と彼は今更のように思い出した。
「ところが帝都教育庁は違う。かの地を『教化』しようなどというとんでもない考えを持っている」
「…」
「年に一人、学都に『留学生』を出させ、帝都教育庁流の『文明』をかの地に植え付けようとしている」
「無謀だな」
「やり方としては全く間違っているとは言えないでしょう。だけどどんなやり方であったにせよ、長く降り積もったものはそう簡単には変わらないでしょう?」
「そうだな」
「逆に、きちんとした体系だった考え方を身につけた連中、帝都の――― 帝国の仕組みを理解した連中は、故郷に戻って、別の意味で彼らの部族を教化しだした」
「と言うと」
「民族の独立」
なるほど、と彼はうなづいた。
「辺境の地区で、次々と民族独立の気運は上がってきている。所によっては独立軍と称しているところもある。ところが帝都はそれを認めない。何故なら」
「帝国はその存在を認める訳にはいかない」
「そうだ。はっきり言って、『独立』なんて言葉を使うのも公的には認められない。連合はともかく、この帝国の版図において、別の『独立』地域などあってはいけない」
「それで『賊』?」
「そう。馬に乗った『賊』。で馬賊という訳だ。確かに、『賊』まがいのこともしている輩も――― はっきり言えばゼロではない。だが、今回のカラ・ハンに関して言えば、あれは『賊』ではなく、独立軍の方だ」
「なるほど。そこまで連合には伝わってはこないな」
「伝わっていないということはないな。隠されているんだろう。…で、そのカラ・ハンの季節居住区カンジュルにに先生は今いらっしゃる」
「何だって?」
「正確に言えば、カラ・ハンの民に預かってもらっている、ということだ」
「預かって? 誰が?」
「私が」
「どうして君が」
「それが都合がいいと思ったからだ。男爵は知らない。これは私の個人的なことだ」
「だがカラ・ハンの独立軍に君は捕まったんだろう?」
「ああ」
ナギはうなづく。
「男爵に頼んだ方がスムーズにことは運ぶんじゃなかったか?」
「あまり男爵に借りは作りたくなかったんだ。今回の連合行きの目的が見えなかっただけに余計にな」
「すると君はカラ・ハンの連中と何か取引しているのか?」
「いや」
軽く首を振る。
「もともと彼らとは知り合いなんだ」
一瞬彼はぞくり、とした。
「ちょっと待ってナギ、じゃ、まさか」
「ああ。襲撃してもらったんだ。彼らに」