5 彼女は「人形」、そして彼の実家の家族構成
そんなことをぼんやり思い出しながら煙草をふかしていたら、通信室からナギが出てきたのが見えたので、吸いかけをもみ消した。
「お待たせしました」
「もういいんですか?」
「ええ。何とか話は付きましたから。そちらこそ何か通信をしなくてはならないことは…」
「今の所は、ないですね」
「そうですか… それは?」
彼女は彼の手にしている本に目を止めた。
「ああこれですか」
待っている間の暇潰し用に、本を一冊持ち出していた。
「やはり専門の?」
「まあそうですね。時々こういう遠くまでくると、妙な本が見つかったりして嬉しいこともあるし…」
「本当に歴史がお好きなんですね」
くっ、と彼女は笑う。
「そりゃ好きでなくては研究の対象になぞしませんよ。あなたにはそういう好きな教科というものはないんですか?ナギさん」
「さあ。私には別に好きも嫌いも関係ないから…」
「でも結構な優等生と見ましたが?帝国でも第一中等なんでしょう?あなたは」
「ええ、まあ。でもそれは別に勉強好きということとは同じではないでしょう?」
「まあそれはそうですが」
取り付くシマもない、とはこういうことか、と彼は思った。
彼女はいいですか? と一言断って、彼の横に腰掛けた。彼の持っていた本を借りてぱらぱらと繰り、しばらくそれを眺めていた。
何となく居心地が悪い。彼は思う。
やがて、彼女はいきなり本をぱたんと閉じた。そしてくるっと彼の方を向いた。
「もうやめましょうか」
「え?」
そしてぴ、と人差し指で彼女はシルベスタを指す。
「その口調。どうも慣れなくて」
「と言うと?」
「何っか探り合いしているでしょう、あなたも私も」
「まあ、そうですね」
彼は正直に答える。はっきり言って、彼にとっても居心地の悪い原因はそこにあった。
「何せ、あなたに会わなくてはならない理由が私には判らないから」
「そう」
彼女はうなづく。
「そして私にも判らないんですよ。何のために男爵が私をわざわざここまで連れだしたのか… つまり判らないという一点においては、私もあなたも同じなんですよね… それって何となく気持ち悪くないですか?」
「気持ち良くないですね」
「ではやめましょう。そういう探り合い。疲れます。ついでに言うなら、その敬語も。面倒で仕方ないですから」
そして、せいの、と小さく声をかけると、ぱ、と両手を彼の前で開いた。
「取引しましょう、シルベスタ。私は私の知っていることをある程度あなたに教えます。ですからあなたもあなたの知っている程度のことを教えて下さい」
「取引?」
「取引という言葉が聞こえが悪ければ、『お互いの知ってることを教え合って事態の打開をしましょう』ってところですか。何か気持ち悪いんですよ。このままじゃ私も」
「まあそれはそうだね」
「で、正直言って、ここへ来た理由がきちんと掴めない限り、私も私の友人も不利な状況になりそうだってことが判ったんですよ」
「友人…? ではさっきの高速通信で」
「ええ。明らかに男爵は、何らかの目的を持って連合へやってきた――― ところがそれは男爵とその相手だけが知っていて、当事者の私も、男爵の相続人である私の友人も、全然判らないんです。これは不利です」
「そういうものなの?」
「連合ではどうか知りませんが、帝国では女子の相続はすさまじく難しい問題なんですよ」
「ああ、聞いたことがある。じゃそういう問題が向こうで起きていると?でも君、よくそんなことまで」
「だってあなた、私が優等生って言いましたでしょ? 私優等生ですもの。その位のことは判りますよ」
ナギはさらりと受け流す。だが、表情は険しかった。
彼はこういう表情には見覚えがあった。
自分の行く手のうち一番大事なところを塞がれた時の顔だ。
苛立ちと、怒り。
静かな中にも、どれだけそれを理性で押さえつけたとしても溢れ出してくる感情である。
「ですから… こちらのことばかり言って申し訳ないとは思いますが、あなたの知っていることを教えてもらいたいんです」
「でも俺の知っていることなど大したことではないと思うが」
「あなたはそう思っていても、私にはそうでないかもしれない。その判断は私がする」
「そうか?」
「ええ」
彼女はうなづく。
「では君のことをまず聞いていい?」
「ええどうぞ」
「君はホロベシ男爵の何?」
ナギは軽く腕を組むと、少し考える。
「何と言ったらいいんだろうな?」
「分かりやすい方向でなくてもいい。君の言い表しやすい方向でいいよ」
「そうだな」
いつの間にか、ナギの口調が記憶の中の母親に近いものに変わっていることに彼は気付いた。自分もまた、女子学生に話しかける時のものに変わっていたが。
よほど自分はこの類の女性に縁があるんだろうか?
こっそりと彼はため息をついた。
「『人形』と帝国では呼ばれることが多い」
「『人形』?」
「俗語だ。貴族連中が、まだ帝都に入れない年齢の少女を引き取って育てたりする。そういう時のその引き取られた少女の方をそう呼ぶことが多い」
「『人形』の用途は?」
聞いていいものか、と彼は一瞬思った。
だがナギの受け答えは冷静である。逆に聞かない方が失礼にあたるのではなかろうか、と彼は思った。
「様々だが。私の知っている範囲では、その一として」
「その一…」
確かに冷静である。
「引き取って令嬢の遊び相手にする。勉強相手でもいいな。とにかく令嬢のためだ。この場合は頭のいい子や気だてのいい子が選ばれるな。見目形はいっそ逆に良くないくらいの方がいい」
「どうして?」
「そりゃそうだろう。令嬢に付き添って出たパーティなんぞで人形の方がもてはやされたら令嬢は普通怒らないか?」
確かにそうである。
「その二。令息の遊び相手にする。まあつまりは将来の妾を確保しておこうというところかな。だから頭はどうだっていい。顔と身体だな。そういう点で将来有望な少女が引き取られる」
「まだあるのかい?」
「その三。貴族本人の遊び相手にする場合」
「少女でもか?」
「嗜好は人それぞれだろう?」
「まあそうだが」
「それこそ本当に小さい小さい少女趣味の馬鹿野郎も居るし、私の見かけ位の年齢程度を引き取る場合もある。まあ年齢はどっちでもいいか。つまりはその貴族自身の欲望の対象という奴だ」
「君、結構凄いことをさらさら言うねえ」
ところどころにきつい一言が入っているのは、本人は気がついているのかどうか。
「そうか? まあそうだろうな。ではここで質問です」
「はい」
「私は一体どれでしょう?」
ナギは本当にあっさりと問う。彼は非常に困ってしまった。
「答えられませんか?」
「少し考えさせてくれないか?」
そうですね、と彼女は言うと、立ち上がった。
「私ちょっと本見てきます。しばらく考えていて下さい。私は私であなたに質問したいことを整理しなくてはなりませんから」
そしてふわり、と黒い服の裾と白いふわふわしたタイを翻して、彼女は閲覧室の方へと早足で歩いて行った。
あ、あのスカートは間があるのか。そんなことにようやく気がついた自分に苦笑する。スカートというより、広がったズボンである。
「人形」ね。彼は頭の中で繰り返す。その類の話はあまり考えたくはないことではあった。
*
本妻と、愛人。
そういうものが存在する家庭が実はそう多くはないことに彼が気がついたのは、デカダの本宅に引き取られてからもしばらくしてからだった。
十の歳で初めて入ったヴォータル・デカダ氏の本宅は、大きかった。それまで住んでいた所もフラット一つの一般家庭に比べれば大きかったが、その今まで住んでいた所が犬小屋程度に感じられる程、その家――― 屋敷は大きかった。
そしてそれまで住んでいた家ぐらいの大きさの「自室」を彼は与えられた。
だがそこは異様に広く感じられた。何と言っても、まだ、本が無いのだ。
その屋敷に住むことになっていたのは、彼だけではなかった。
最初の日の食卓で、顔合わせが行われた。
父親とも会うのも初めてだった。母親よりはずいぶん歳がいった人だなあ、とまず彼は思った。
だが歳がいっているのは、父親だけではなかった。
食卓には、総勢八名がついていた。
父親であるヴォータル氏。
中年の女性が一人。
それよりはやや若い女性が二人。
彼女達よりはやや歳が離れているが、それでも自分よりはずいぶん歳のいった青年が一人。
そしてあとは自分と同じか、それよりやや小さい少年少女一人づつである。
「さて」
その席の一番上座についている父親はこう言った。
「そろそろ食事をはじめようか」
それだけだった。そして彼はさっさと食事を始めてしまった。
ちょっと待って下さい、と言ったのは、青年だった。
「紹介はして下さらないのですか?父上」
「今は何の時間だ?」
「食事です」
「では食事だ。自己紹介は、したいようにそれぞれがすればいい」
そういうものか。
シルベスタは案外驚いていない自分に気付いていた。何せ母親が母親である。「父親」の対応は彼女の対応と何やら大差ないような気がしていた。
そして青年はやや仏頂面になりつつ、食事を始めた。中年女性は青年をやや心配気に眺めていたような気が――― した。
そして食事の後でお互いに自己紹介をした。
一番歳上に見えた中年女性は、父親の正妻だと言う。
その近くに座っていたやや歳下の女性二人は、一人は愛人であり、もう一人は正妻の娘のプラティーナだという。
青年は二番目の子にあたり、ゴールディンと言った。確かにプラティーナとゴールディンはやや似ていた。
自分より歳下らしい少年少女は、少年の方が自分と同じ十歳でスティルと言い、少女の方はそれより二つ歳下で、アルミーナと言った。
名前は前から聞いていたが、実際に会うのは皆始めてだった。
「この子の母親はいらっしゃらないのですか?」
正妻は父親に訊ねた。
「一応呼んだのだがな。あれはそういう女だ」
「そうですか」
「シルベスタ、寂しいか?」
彼はあっさりと首を横に振った。
何だ薄情な奴だな、と父親は言った。
別に薄情な訳ではない。そんな気は、彼にもしていたのだ。呼んだとしても、たとえ自分に愛情があったとしても、この初めて会った父親というひとを愛していたとしても、彼女は来ないだろう。
それに彼は、母親がこの屋敷に居る光景は似合わない、と感じていた。彼女はあの本だらけの風景の中にいてこそ彼女なのだ。
まあいい、と父親は言った。そしてきょうだい仲良くやれ、とも。
実際きょうだい関係は彼らは良かった。
それだけではない。正妻と、スティルとアルミーナの母親である彼女も、また平穏に過ごしていたのだ。
まあ確かに時には小さな波風も立った――― が、それは決して大きなものにはならなかったのだ。
不思議なものだった。
尤も、それが「不思議」であると知ったのは、彼が外の学校へ行くようになってからである。シルベスタ自身はそういったことには気が回る人間ではなかったのだ。