2 待ち合わせの相手ナギと出会うが、印象に戸惑う
ホテルのロビーには、赤みがかった光が斜めに差し込んでいた。夕方である。
ふうん、と彼は上方に視線を飛ばす。
天井が高い。二階や三階の廊下から見おろす客の姿が見える。
ロビーへ入る前、降りてきた階段室の一番下から見上げた時も思ったが、なかなかこの建物は凝った作りをしていた。百年程前と言えば、確か、帝国との交流が盛んになった頃だ、と彼は記憶している。
建物の作りのあちらこちらに、帝国の様式が見えかくれしている。例えばやや螺旋状になった階段、天井近くに取り付けられた淡い色ガラス、太い柱の上に刻まれた模様……
連合の各地にあるそれと似ているのに、確実に違う様式が、所々に顔を出している。
彼は視線を下に移す。
フロアには、幾つもの落ち着いた色のソファが置かれている。
無造作に置かれているようなソファで、退屈そうな客達は勝手にくつろいている。
夕方に配達されたのだろう新聞を読んでいる中年女性もいるし、ただ座って横に掛ける女性と話しているだけの老紳士もいる。サイドテーブルにはお茶の入っているだろうポットが当たり前の顔をして置かれている。
夕方の光は、刻一刻と角度と色と明度を変えていく。それにつれて、ロビーの灯もその表情を変えていく。
悪くない雰囲気だな、とシルベスタは思った。そしてまた視線を泳がせる。
―――居た。
白金の髪の少女は、えんじ色の一人がけのソファにゆったりと座っていた。
大きなグラフ誌を両手で持ち、ぼんやりとそれを見ている。おそらくは旅行グラフ誌「地平線」だろう。新聞のように大きなサイズの雑誌はそれしか知らない。
彼はゆっくりと彼女に近付いた。そして斜め前に立つと、なるべく柔らかな調子で訊ねた。
「―――ホロベシ男爵の身内の…」
彼女はグラフ誌から顔を離した。金色の目がシルベスタを捕らえた。
「イラ・ナギマエナ・ミナミ嬢ですか?」
「ええ」
アルトの声が答えた。
「確かに私はイラ・ナギマエナですが。あなたは?」
「ホロベシ氏と約束していた者です。あなたは氏のお嬢さんですか?」
彼女はグラフ誌を閉じ、首を横に振った。
「いいえ。私は違います」
「それでは」
「でもホロベシ氏の代わりになってしまったのは私です。するとあなたが?」
「ええ。シルベスタ・アンクシエ・デカダです。よろしく」
彼女は立ち上がって彼の差し出す手を握った。
長身だ、と彼は驚く。
写真の全身図でも思わなくはなかったが、実際会ってみるとやはり驚く。
彼は連合成人男子としてはわりあい平均的な身長なのだが、その彼と並んで頭半分程度しか違わないというのは。
「よろしく。どの名で呼べばよろしいのでしょう? デカダさん」
「そうですね。あまりその姓で呼ばれるのはピンと来ないのですが。名で呼ばれるのが好きですね」
「ではシルベスタさん? それでよろしいのかしら?」
「ええ。そちらは…… 帝国では確か呼び名は中のものでしたね、ナギマエナ嬢?」
帝国と連合では名前の表記法が違う。帝国の名前は、母姓・呼び名・父姓の順で付けられる。
「ええ。でも、私あまりそういう名で呼ばれ慣れてもいませんから。ただのナギで結構ですわ」
「ただの――― ナギ嬢?」
「嬢、も要りません。私はただのナギです」
彼女はそしてくす、と笑う。ああやはり綺麗だ、と彼は思った。
「と言いますか、私、元々こんな長ったらしい名前名乗るような境遇の者ではないですから、どうも慣れなくて」
「……ああ」
そういうこともあるのだろう、と彼は思った。もしかしたら、彼女は後で父姓を付けられた者かもしれない、と。
帝国において、父姓が重要視されることは彼も知っていた。
母姓・呼び名・父姓。これはその人物の出自を表してもいる。婚姻によって名前が変わる場合でも、片方の親姓は変わらない。例えば嫁入りした娘は母姓を変えることはないし、婿入りした息子も父姓を変えることはない。
それが部族によっては、母の一族・呼び名・父の一族といったようにやや変わる場合もあるが、いずれにせよ、真ん中が呼び名であることは変わらないし、母の出身も父の出身も並べられることには変わりない。
その程度は彼も知っている。帝国史を学ぶ際の常識である。
ところが、母姓があっても父姓がない、という者も時々居る。
すなわち、正式な結婚をしなかった女性から生まれた子供である。その場合でも、父親が認知すれば父姓を名乗ることができるが、認められなければその子供には、帝国臣民としての戸籍と、一切の権利が与えられない。
そういう子供が戸籍を得るには、幾つかの方法があるのだが…
シルベスタはそこまで思い出して、まあ何かしらの方法があるのだろう、と考えを打ち切った。
いずれの方法にせよ、そう大っぴらに口に出すべきことではないのだ。
「まあ座りましょう」
ナギは彼に隣の椅子を勧めた。座ると、綿がきっちり入っているであろう硬さが心地よい。
「このたびは大変でしたね」
「ええ」
「葬儀の方は?」
「ここへ来る前に私、病院へ寄ったんです」
「病院」
「ひとまず旦那様の遺体を輸送用の防腐加工する必要がありますから」
あまり抑揚のない声に、そうですか、とシルベスタはあいづちを打つ。
何となく、この硬質な、透明感のある美少女から(遺体の)防腐加工という言葉がさらりと出ることに彼は内心驚いていた。
「するとその間はここに滞在するということに?」
「ええ。あなたはいつまでいらっしゃいます?」
「そうですね…」
どうしようかな、と彼は思った。
「まあしばらくは」
とりあえずはそう言っておくしかないのだ。
何しろ何のために自分がここへ赴いたのか、本当の理由がはっきりしないのだ。
*
奇妙と言えば奇妙なのだ。
夜。シルベスタは、棚の中にあった酒をちびりちびりとやりながら考える。
夕刻、あの後すぐに「疲れているから」と席を立つ彼女を部屋まで送って、それきりである。ホテル内に入っているカフェで軽い食事を取ると、別にそこですることもないので、部屋に戻った。
部屋は広い。「寝室と居間と書斎」と表現したくなるような部屋が三つ続いている。もちろん風呂もトイレも広い。風呂など、十人くらい束になっても余裕があるくらいである。一人で使うには広すぎる部屋である。
とはいえ彼はもともと実家ではもっと広い部屋でも余裕で使っていたし、現在の狭い官舎でも平気で住んでいる。
要はあまり住む所に頓着がないのだ。そこにあるものを当然のように使う。それが彼のモットーだった。そしてモットー通り、そこにある酒は呑むべし、と引き出してきたのである。
そして再び資料を出す。今度は最初のものと、ここで受け取ったものの両方を広げてみる。
いつもなら、資料の中には、「仕事」の目的と方針が記されている。なのに今回の資料は違っていた。
第一の資料は、オクティウム市大の官舎に帰った時に既に届けられていた。その中に入っていたのは、当初会うべき相手であったホロベシ男爵に関するものだった。
そして「仕事」として、「フラビウムに数日後に到着するだろうその人物に会え」という内容のことが記されていた。だがその詳しい内容と、会ってどうするか、という方針には全く触れられていなかった。
その時点から何となく彼は嫌な予感がしていた。
事前資料に方針が記されていない、という場合の暗黙の指示は大きく分けて二パターンある。
一つは、仕事先で改めて資料が渡されるという場合。
例えば現場に臨時秘書が控えている場合などがそれに当たる。
二つ目はそこで自分の判断を試される場合。
だがその場合でも、大まかな方針はさりげなく伝えられているのが普通である。
ところが、今回ときたら、全く訳が判らない。
列車内で第一の資料を手にしていた時点で、アクシデントの存在を知ったのである。だから第二の資料に、その変更した事態の対応策の参考になることでもあるか、と期待していた。
だがどうやら甘かったようである。第二の資料は、イラ・ナギマエナという少女に関することと、今回起こった事件の概要が書かれているだけだった。
事件事件とひとくくりにして言っているが、この事件は二つの事件が重なっているのだ、と彼もすぐに気付いた。
まず第一の事件。それが、五日前に起こったことになっている。
「…馬賊?」
シルベスタはその見慣れないその単語を見た途端、声を立てていた。そんなものがこの現代にあるのか?
「馬賊」という言葉、もう何百年も前に使われたきり、忘れ去られたものかと彼は思っていた。それは連合であっても帝国であっても同じである。
確かに過去には存在した。だが、連合であれ帝国であれ、中央政府の力が巨大になっていく中で消えていった筈なのだ。少なくとも彼の知っている歴史の中ではそうだった。「賊」という言葉がつくだけあって、その存在は、必ず中央政府に反旗を翻すものだったから。
さてその「馬賊」が五日前、大陸横断列車を襲撃したのだという。そしてその際、一等車の乗客の一人を誘拐した、ともある。
列車側は内国軍辺境局に連絡し、「馬賊」を追撃したが、地の利がある「馬賊」はそれを難なく撃退してしまった。そして辺境局は二日の猶予ののちに、「馬賊」の要求を呑み、人質は開放された。
ところがも人質も開放され、列車も再運行されたその日の夕刻近く、その時刻を見計らったかのように、人質と同行していた人物が狙撃され、即死したのだということである。
つまりはそれがホロベシ男爵である。
さてシルベスタはそこで何となく引っかかった。
そしてナギと会ってみて、その引っかかりは更に大きくなった。
ナギは何もないような顔をしているが、要は殺された人物の同行者が誘拐されたということで――― つまりはナギは「馬賊」に二日間誘拐されていたということになる。
その割には彼女、平静だよな。
彼女の様子を思い浮かべてみる。第一中等の高等科というくらいだから、頭はいいのは判る。だが、こんな事件に巻き込まれたにしては。
どうにも気になって仕方がないのだ。




