変態紳士の矜持
「み、見つけた。見つけたぞ……」
犯人の軽自動車を見つけた瞬間。
僕の心を襲ったのは喜びでは無くて、言い様の無い恐怖だった。
冷静に考えたら、この場に居るのはキャシャリンな僕ひとり。たとえ犯人がナイフを持っていなかったとしても、戦って勝てるとは全然思えない。情けない事に、ここまで来て僕は急激に恐ろしくなってしまったのだ。
「そ、そうだ。応援を呼べばいいんだ!」
ポケットから携帯を取り出してみる。あれだけ派手に転げまわったにも関わらず、幸いにもアメリカ製のスマートフォンはヒビひとつ入っていなかった。
すかさず摩耶さんに発信。コールして幾らも立たない内に、彼が電話に出た。
「伊織君! 無事か!?」
「師匠、犯人の居場所を突き止めました。奴は以前僕らが逃げ込んだ、裏町の廃工場に居ます」
電話の向こうから、ほう、と大きな安堵の溜息が聞こえる。
「でかしたぞ伊織君。さっそく私を拘束している警察にその事を告げよう。私達が行くまで、決して早まった事をするんじゃないぞ」
そう言って、摩耶さんは電話を切った。すぐに警察を連れて駆けつけてくれるだろう。それまで、僕はここで監視を続けていれば良いのだ。
うん。僕はできる事をやった。これは決して恥ずかしい事じゃ無い。ちゃんと合理的な判断だ。
……でも。
つぼみちゃんとそらちゃんは、今この瞬間も恐怖に怯えているに違いない。
一刻も早く、それを解消してあげたい。彼女達を助けてあげたい。
なのに。
ナイフを持った犯人の事を考えると恐ろしくて、とても一人で助けに行く勇気が湧かない。それどころか膝がガクガクと震えてくる。
「ちくしょう。僕は、なんて情けないんだ」
今まで人を殴った事なんて一度も無い拳を握りしめる。
こんな事なら、もっと身体を鍛えておけば良かった。自分の大切な人を守れる力をちゃんと養っておけば、ここで躊躇無く彼女達を救いに乗り込む事ができたんだ。
でも、現実はどうだ。相手のナイフに怯え、摩耶さん達が助けに来るのをただ待っているだけじゃないか。それどころか、彼が来てくれると知った時の心の喜びようはなんだ。何が紳士だ。いくら普段カッコ付けていても、肝心な時に僕はなんにもできないじゃないか。
そんな、自分の不甲斐無さを嘆いていた時。
「いやあああああっ!」
倉庫の中から、彼女達の悲鳴が聞こえた。
「なっ!?」
もしかしたら、犯人が彼女達に何かいやらしい事を!?
有り得ない話では無い。いや、それどころか奴が彼女達をさらったのはまさしく『そういう事』が目的だからだろう。
決して赦される事では無い。あの無垢な天使達を卑猥な欲望で穢すなんて、絶対に有ってはならない事だ。
「ちくしょう!」
ガクガクと震える膝を、両手の平で思いっきり引っ叩く。
そして大きく息を吸い込んで、僕は工場の建屋に向かって走り出した。
瞳からは涙がボロボロと溢れてくる。体の震えも止まらない。それでも、僕の足は悲鳴の聞こえたプレハブの倉庫に向けて走る事を止めなかった。
目の前で襲われている幼女を助けもせずに、何が紳士だ! 何が幼女鑑賞道だ!
「な、なにをしていりゅ!」
あまりの緊張に軽く噛みつつも、僕は倉庫の扉をガンと蹴り開けた。
「うおっ!?」
僕の突然の登場に、犯人がびっくりした顔でこっちを見る。その手にはナイフと、切り裂かれた水色のスモックが握られていた。
そして犯人の目の前には、上着をはぎ取られたつぼみちゃんが泣きながらしゃがんでいる。その隣ではそらちゃんが、悔しそうな顔で犯人を睨んでいた。ふたりとも、両手をロープで縛られている。
「き、貴様……」
あまりの怒りに、全身の震えが止まる。そして、代わりに身体がどんどん熱くなっていくのを感じた。
「いおり! たすけにきてくれたの!?」
そらちゃんが、ぱっと顔を輝かせる。
「うるせえ! 黙ってろ!」
犯人がそう叫んでナイフを振り上げた。そらちゃんは「ひっ!?」と息を飲んで口をつぐむ。
そして、追手が僕一人だと確認した犯人は安心したように溜息を吐いて、僕を睨み返してきた。
「いい今すぐ、二人を解放しろ!」
奴の視線に負けない様に、精一杯の眼力を送る。だけど、所詮僕はひ弱な高校生に過ぎない。一体どれだけの効果があるのか、怪しいものだった。
その証拠に、奴はニヤニヤと不快な笑みを浮かべている。
「つぼみちゃんとそらちゃんにそれ以上酷い事をしたら、あ、あれだ。許さないぞ」
「へえ? 許さなかったら、一体どうするんだ?」
まるであざ笑う様な口調。こいつはやっぱり、僕の事なんかどうにでもできる雑魚としか見ていないのだろう。
「と、とにかく許さない!」
必死に睨み返す僕に、しかし犯人は鼻で笑い
「お前も、毎日こいつらのパンツ見てだらしなく笑ってた変態じゃねえか。あんまり偉そうな事言うなや」
などと言い返して来た。
それどころか、
「ああそうだ。お前、ここから先逃げるのを手伝うって言うんなら、そっちのツインテールをくれてやってもいいぜ? どうせお前も変態なんだから、無理してカッコつけんなよ」
なんて事まで言い出す始末。
「ふざけるな! 僕をお前なんかと一緒にするな! 僕達は、ちゃんと礼儀と作法を守って紳士的に鑑賞をさせてもらっている。汚らしい目で彼女達を穢す様な事なんか、しない!」
思わず怒りにまかせて叫ぶ。
しかし、僕の言葉に犯人は大爆笑していた。
「ひゃははははははははは! お前ら、最高にバカだな!」
「なんだと!」
「礼儀! 作法!? いや、すげえ! 俺も大概だと思ってたけど、お前らには負けるわ。本物の変態ってこういう奴らなんだな。ああ、腹痛え」
犯人はひとしきり笑うと、手のナイフを弄び始めた。
「礼儀だの作法だの紳士だの言っても、結局やってた事は俺と一緒。ただの覗き見じゃねえかよ。お前らは無理矢理自分を良い子ちゃんだと思いてえだけなんだよ」
「ち、ちがう!」
「違わないね。お前だって、本当はこいつらの事エロい目で見てたんだろ? 無理すんなよ。俺の事手伝えば、今度はパンツの中だって見れるぜ? それどころか、もっとすげえ事もできる。ほら、自分に素直になっちゃえよ?」
そう言いながら犯人は、手にしたナイフでつぼみちゃんのほっぺたをヒタヒタとなぶる。
「や……ぃゃぁ……」
つぼみちゃんは、あまりの恐怖に身体を動かす事もできなかった。
次の瞬間、ぺたんと座っている彼女のお尻からじわぁっと染みが生まれ、それは徐々に広がっていく。
「ひゃははっ。このガキ、ションベン漏らしやがった。ああ、でも俺そういうのも嫌いじゃないから安心しろよ? あとでキレイキレイしてやるからな?」
醜悪としか言い様の無い笑みを浮かべつつ、犯人が嘯く。
「やあ……みないで、みないでぇ……」
つぼみちゃんは恐怖と羞恥に顔を歪め、ぼろぼろと涙を零している。
そらちゃんも、瞼に涙を溜めながら憎しみに顔を歪めて犯人を睨みつけている。
――ちがう。
「……う」
「ああ?」
「ちがう……違う! 僕が見たいのは、そんなんじゃ無い! こんな可哀想な泣き顔じゃない! 僕が見たいのはこの子達の笑顔だ! 貴様みたいな変態と一緒にするな!」
ありったけの力で、叫ぶ。あまりの怒りに、目から涙が溢れてきた。
そんな僕に、奴も我慢ができなくなってきたのだろう。
「チッ……うぜえな。じゃあ、お前をブッ殺してから楽しませてもらうわ」
犯人はそう言って立ち上がり、ナイフを僕に向けて構えた。
「ッ!?」
その銀色に輝く刀身を目にした時、僕の怒りは一瞬で萎んでしまった。入れ違いに純然たる恐怖感が心の中を支配する。
「あ、うわ……」
刃物を突きつけられるという事が、こんなに怖い事だとは知らなかった。ほんの数秒前まで最大限に高まっていた戦意が、今やどこにも見当たらない。
「へへ、今頃命乞いしても遅せぇぞ?」
ナイフ同様にギラついた目で、犯人が言う。こいつはきっと何の躊躇も無く僕を刺すだろう。
ああ、今度こそ僕、死ぬんだ。
またしても訪れた命のピンチ。例によって、周りの風景がすべてスローモーに流れていく。
「死ね!」
狂った笑みを浮かべた犯人がナイフを腰に構えて、僕に向けて突進しようとした所に、
「いおりにひどいことするな!」
手首を縛られているつぼみちゃんが、突然立ち上がって犯人の右腕に思いっきり噛みついた。
「ぎゃっ!」
突然の奇襲に、犯人が思わずナイフを落とす。
「このガキい!」
怒りに任せた犯人が、そらちゃんを平手で殴る。
「きゃああっ!」
払い飛ばされた彼女が積み上げられた段ボール箱にぶつかり、倒れたその時――
僕の中で、何かが弾けた。
「ぅがああああああああああああ!」
何も考えずに両手を前に突き出して、僕は犯人に突進した。
急な僕の体当たりに対処できなかった犯人と、正面からまともに衝突する。そして、ぶつかった瞬間、
「おごっ!?」
僕の膝がちょうど犯人のゴールデンな急所に入ったらしく、奴は股間を押さえてうずくまった。
その襟首を掴んで顔を上げさせて、
「これはつぼみちゃんの分!」
渾身の力を籠めて、右手で殴った。
「ごぉっ!」
「これはそらちゃんの分!」
今度は左の拳で思いっきり殴る。
「ぶひゃっ!」
「そして! そしてこれが! 僕の怒りだァァァァァァッ!」
最後に大きく振りかぶって、奴の鼻先に身体ごとぶつける様な頭突きを放つ。
「ぴゅいぃ……」
犯人は鼻血を吹き出しながら、どっさりと倒れて気を失った。