トウモロコシ畑で捕まえて
それは突然の事だった。
その日も、つぼみちゃんとそらちゃんに会おうと例の場所に足を運んだ僕達。
しかし、そこには既に先客が居た。
しかも――
「あ、師匠。見てください、あの男は」
「うむ」
僕達の秘密スポットに陣取っている、先客。
それは以前より何度か見かけていた、あの暑苦しい長髪の男だった。
幼女鑑賞道の者とはとても言えない荒んだ態度で鑑賞を行っていた彼に、新米鑑賞者であった僕ですらも強い不快感を抱いたものである。彼は今日も汚らしい長髪にサングラスという、いかがわしい姿をしていた。
「またしても不愉快な奴ですね。どうしますか、師匠?」
「うむ。私としてもやはり看過はできぬ。ここはひとつ、きっちりと話し合ってみようでは……む?」
言い差して、ふと言葉を止める摩耶さん。彼の行動に不審な何かを感じたのだろうか、声を殺してじっと見つめていた。
そして、その時。
いつもの様につぼみちゃんとそらちゃんが、僕達に会いにフェンス際まで歩いて来るのが見えた。
次の瞬間――
「いかん!」
摩耶さんが慌てて走り出した。見ると、例の男がフェンスを乗り越えて今まさに園内に侵入しようとしている。その手にはナイフが握られていた。
「なんだって!」
僕もすぐに摩耶さんの後を追う。
しかし。僕達がフェンスに辿り着く前に、男はつぼみちゃんとそらちゃんの目の前まで迫っていた。
「お前ら、おとなしくしろ!」
ナイフをちらつかせる男。
彼女達は恐怖に固まり、動けない。
そんなふたりを、男はまるでポーターがトランクでも運ぶかの様に両手にひとりずつ抱えて正門まで走り出した。
「何をするつもりだ!」
フェンス越しに僕と摩耶さんが追いかける。正門から出てきた所を、ふたりがかりで押さえ付けようと僕は考えていた。
ところが。
男は、あらかじめ正門前に逃走用の車を用意していたらしい。見た目もボロい軽自動車の後部座席にふたりを押し込むと自分も運転席に乗り込み、僕達に向けて急発進させた。ていうか正門ガラ空きとか警備員何してるんだよ!
「摩耶さん! 危ない!」
軽自動車は、僕の前を走る摩耶さんを轢こうと路肩に片輪を乗せたまま突っ込んで来る。
それを間一髪、摩耶さんは横に飛んで回避したのだけれど。
「くうッ!」
無理な姿勢で飛んだ彼は、着地した時にどこかを捻ったみたいで足首を抱えてうずくまっている。
「摩耶さん!」
「私に構うな! 奴を止めろ!」
見れば、路肩に片輪を乗せていた軽自動車は生垣に突き刺さっている。さすがにそのままでは進めない様で、一端バックして路肩から降りようとしていた。
「止まれ!」
僕は車に走り寄り、助手席を開けた。
しかし男はそれに構わず車を発進させる。
「うわっ! 止めろ! 止めろお!」
走り出した車の、開いた助手席側のドアにしがみついて叫ぶ。しかし男は止めるどころか更にスピードを上げ、激しく蛇行運転をして僕を振り落そうとした。
十七年間キャシャリンを貫いてきた僕が、そんな猛攻に耐えられる筈も無く。
「うわああああっ!」
ついに僕は、しがみ付いていたドアから振り飛ばされた。
車から離れる最後の瞬間、やけに鮮明に見えたものは――
醜く顔を歪めて笑う運転席の男と、後部座席で恐怖に震える天使達の姿。
あ、僕……死ぬんだ。
やたらとスローモーに景色が流れる。
刹那、脳裏に浮かんだのはつぼみちゃんとそらちゃんの笑顔。そして聖なるおぱんつ。
嗚呼。これが走馬灯ってやつか……思えばショボい人生だったな……それに、彼女達の事も助けてあげられなかった……師匠……後は頼みます……
と、勝手に人生の幕を下ろそうと思った直後。
「ぅわあっ!」
がささっ! と僕の身体が柔らかくて青臭い何かに包まれる。
そのまま、『何か』の束の中に身を躍らせた僕は、それに上手い事衝撃を吸収されて大した怪我も無く柔らかい地面に転げ落ちた。
「いててて……これは……」
放り出された僕を救ってくれたもの。それは、路地のすぐ隣に設けられたトウモロコシの畑だった。
「は、はは……」
この町が、中途半端な田舎で本当に良かった。これでもしもコンクリの壁か何かに叩き付けられていたら、今頃本当にあの世行きだったかも知れない。これは正に天使の加護と言っても、言い過ぎではないだろう。
天使……あれ? 天……使……?
「そうだ! つぼみちゃんとそらちゃんは!?」
我ながらびっくりのバイテリティですかさず立ち上がる。顔とか腕とかがトウモロコシの葉っぱで切れて傷だらけだけど、そんな事はこの際全然気にならない。彼女達を助ける事が、何よりも優先されるべきなのだ。
そこへ、
「おう兄ちゃん! 大丈夫か!?」
どうやら畑の持ち主らしいおじさんが駆けつけて来てくれた。
「一体どうした! 事件か!」
おそらくは一部始終を見ていたのだろう。おじさんは興奮した様子で僕に話し掛けて来る。
「子供をさらわれたんです!」
すかさず僕がそう答えると、おじさんは道端に止めてあるスーパーカブを指さして、
「あれを使え!」
と僕に向かって鍵を投げてくれた。
見知らぬ人からの思わぬ厚意に、目頭が熱くなる。
「ありがとうございます!」
大きく頭を下げて、言われたスーパーカブに飛び乗った。
そしてエンジンキーを挿し込み、ぐりっと回して。
ぐりっと回して。
「すいません! どうやってエンジン掛けるんですか!」
ペダルを踏み下ろすという思いもよらないアナログな方法でエンジンを掛けてくれたおじさんに改めてお礼を言って、ついでに簡単な動かし方も教えてもらってから僕はスーパーカブを走らせ追跡を開始した。
バイクなんか乗るのは生まれて初めてだけど、原動機付き自転車と言うだけあって走らせるだけだったら自転車とあんまり変わらない。ギアチェンジとかは今一つ良くわからなかったけれど、とりあえず走る事にはさほど苦労をしなかった。
「それにしても……どこに行った」
当然、僕が走り出した時には例の軽自動車は既に姿を消していたので、追跡は全くの当てずっぽうである。このままダラダラと走っても、絶対に見つける事などできないだろう。
「……僕が、逃げる立場だったら?」
ふと、先日摩耶さんから教わった逃走術が頭に浮かんだ。
もしも僕が逃げる立場だったら、ここからどうやって逃げるか。それこそが追跡のヒントになるかも知れない。どうする、伊織……考えるな。感じろ……
「うん、無理だな。よし、じゃあ例えば犯人が摩耶さんだったとしたら」
今度はやたらと鮮明にイメージが浮かんできた。
――もしも摩耶さんが二人をさらって逃げるとしたら、おそらく心理的効果を狙うだろう。
『車だから遠くに逃げられる』という予想の裏を搔いて、あえて近所に身を隠す筈。
その為には、どうする?
追手を撒くには、自分の有利なフィールドに逃げ込む事が大切だ。例えば、小さな路地の入り乱れた裏町あたりに逃げ込んで、人が通らなそうなルートを徹底的に使う。
そして身を隠すに相応しい場所に隠れて――
推理を重ねつつ、教わった逃走術を頼りにカブのハンドルを切る。
ギリギリ軽自動車が通れそうな道を選び、目立たないようなルートを意識しつつ進んで行くと、
「あ、ここは……」
忘れ様も無い。この場所は、以前摩耶さんのとばっちりを受けて逃走した時に逃げ込んだ、あの廃工場。そして――
その敷地内には、ものすごく見覚えのあるボロい軽自動車が止まっていた。