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「走れメロ!」

作者: 山崎 龍

「幸せとは、そのまま変わらないで続いてほしいようなもの。そんな状態である」byフォントネル(フランスの詩人)


「雨の日もあれば暑い日もある、そして報われる日も」byマレーシアのことわざ

 ガチャガチャと玄関を開ける音がした。午後六時四十分。いつもとほぼ同じ時刻だ。オレは出迎えてやろうかと迷ったが、結局やめた。いつものソファーの肘かけに顎をのせた状態でくつろんでいた。

「メロちゃーん、ただいまぁー」

 オレの・・・一応主人の奈美が、疲れきったような声で視線を投げかける。今日もブーツか、流行りなんだろうけど脱ぎたてのブーツって臭うんだよ。あの革の臭いはどうも好きになれない。奈美が近づいてきた。勘弁してくれ!脱ぎたての足も臭うんだよ!オレは必死に抵抗した。

「クゥーン」

「あら、メロちゃん。どうしたのそんなに甘えた声だして」

 甘えたんじゃない!勘違いするな!足が臭すぎて、たまらずに鳴いたんじゃないか!やめてくれ、こっちに来ないでくれ!オレはなおも抵抗して吠えた。

「キャンキャン!」

 ついでに尻尾まで挙げて左右へ振ってやった。勘違いするなよ、これは「喜び」の動作なんかじゃなく、人間でいう降参の合図だ。つまり白旗を振っているのと同じなんだぞ。奈美はそんなことを知る由もなく、にっこりと笑いながらオレを抱き上げた。オレは半ば失神した状態になり、立ち昇ってくる臭気に神経が朦朧と衰弱していった。そして少し失禁もした。奈美は「あらあら嬉ションなんかしちゃってぇ」なぁんて見当違いなことを言ってやがる。

 どうしてこんなことになったんだ。オレは今や紛れもない犬ではないか!一週間前はこいつの(う~ん、いや、彼女の)、つまり奈美の彼氏だったはずだ。

 その日、オレは奈美と初めて夜を共にした。素晴らしい夜だった。・・・はずが・・・朝起きたら犬になっていた。オレは・・・人間のほうのオレはどうなっているんだ?オレが犬なら、あの時のオレは犬の意識に変わっているんじゃないのか?大丈夫か?犬が人間になったらどうするだろうか?・・・考えたくもない。たぶん今ごろは警察の世話になっているか、それとも精神科の暗い鉄格子の中ではないのか・・・。

 

 島田和也は、目をらんらんと輝かせて取り調べ室の椅子に座っていた。机上には取り調べ官の宮本部長が差し出してくれたコーラと、どら焼き・・・そして証拠物品のかじりかけの丸大ハムが一つ置かれてあった。

「なぁ島田、どうしてこんなことしたんだ、えっ。七丁目のスーパーの中でこのハムを盗んだんだろ?そして、そのまま走り去ったと、そう聞いてるが」

 宮本部長はひとつ伸びをして、首をポキポキ鳴らしながら、「そろそろなんでもいいから喋ってくれよぉ」と呆れたように呟いた。留置場に入って一週間が経っていた。

「耳が悪いわけでもないだろう。目だっていいんだろ?じゃなきゃ運転免許証がここにあるのは不自然だもんな?」

 そこに、同じ刑事課の田中部長が、ドア越しに顔を覗かせた。

「どうです宮本さん、やっぱりダメですか?」

 宮本部長は、ため息を吐きながら力無く首肯した。

「まぁ、前科も無いことだし、今回は起訴猶予ということで処理しますよ」

「そうですか。じゃあ、もうそのへんでこっちの強盗の件、手伝ってください」

「はぁ、そうでしたね」宮本部長は立ち上がりながら言った。「こんな無口は初めてだ。これで社会生活が成り立っているのかねぇ」

「無口な男か。昔ならモテたでしょうな」

「はぁ、どうだかねぇ。いくら昔とはいえ、もう一週間も喋っていないんですよ。それに、これ見てくださいよ。島田のサイン。どう見ても“島田和也”とは読めん。まるで犬にでもペンを持たせたような字だ」


「ねぇ、メロちゃん。あの日から電話もないしメールもないの。かず君どうしちゃったのかな・・・ねぇ、どう思う?」

 奈美はシャワーを浴びたあと、スウェットに着替え、髪の毛をタオルで包みながらオレに話しかけてきた。哀しげに視線を床に落としている。そのまま冷蔵庫に向かい三五〇mlの缶ビールを取り出し、形のいいお尻でドアを閉めた。バタンと音がした。オレのほうへ歩いてきながら三、四口ほど一気で飲んだ。

「ねぇ、メロちゃん。どう思う?」

 奈美は、オレの前で腰を屈めて、視線をオレの顔の位置まで下げた。風呂上がりの奈美の匂いは、やわらかな白い花のような可憐な香りがした。そして一息つくと、オレのいるロングソファーに腰を下ろした。

「やっぱり遊びだったのかな?」言いながらオレの背中を撫でた。ふいをつかれた感じで奈美のほうに向き返った。今度は頭を撫でてくれている。オレは奈美の話しを静かに聞いていた。

「メロちゃん、私ね、男の人を好きになったのってかず君が初めてなの。と言っても付き合ったのはかず君の前に二人いるのよ。でもね、かず君は違うの。うまく言えないけど、前の二人は何て言うのか・・・確かに友達とも違うし、じゃぁ恋愛してたのかって言われると、それもまたちょっと違うんだよね。たとえばさ、ちょっと前だけど宇多田ヒカルの歌に「オートマチック」ってあるでしょ。あれのね逆バージョンって感じ。私はねマニュアルなのよ。一速から五速あって、そのあいだにニュートラルがあるでしょ。それをね手動で切りかえるの。“えいっ”てね。一速から二速にするのにもそのあいだにニュートラルがあるの。たまにはエンストもするのよ。坂道発進なんて、もう大変なんだから!わかるかなぁ。 そういった恋のむずかしさがね、前の二人には無かったのよ。それがかず君にはある。クラッチがあるの。だからね、一速ずつあげていくにも手間がかかるけど、その分“好き”っていう度合いが増していくのよ。わかる、メロちゃん」

 いまいち話しの中身がつかめないな、とオレは思った。奈美は一口ビールを飲んでから話しを続けた。

「だからね、かず君を想う“好き”っていうのは前の二人の“好き”とは違うの。そりゃあ、前の二人も好きになって付き合ったわけだけどさ、中身が全然違うの“好き”の中身が。わかる?」

 奈美と目が合った。目尻に涙の粒がたまっていた。それは、いまにもこぼれそうなほどだった。まばたきをすると、その粒が奈美の白い頬をつたって顎のところでまた粒をつくっている。オレはいたたまれない気持ちになって、その涙を舐めてやった。

「ありがとうメロちゃん・・・」そう言うと、言葉につまったようでただひたすらに涙を流すばかりだった。


 オレが奈美と知り合ったのは三カ月前。四対四の合コンだった。そりゃ最初は遊び気分で合コンに参加した。まだ二十二だし。でもそこで奈美と出会って、オレは生れて初めて一目惚れというやつをした。そしてオレのほうから声をかけて、その日に告った。酔っぱらった勢いで言ったんじゃない。むしろ酒の酔いに力を借りたほどだ。それから三カ月、奈美とはほんとうに純粋な恋愛をしてきた。これまでにはなかったほどの純粋な愛だ。だからこそ大事にしてきた。奈美の身体に触れるのに三カ月もかかったのはそのせいだ。ただの遊びなら、その日にヤッてその日に別れる。奈美だってそうだったかもしれない。

―奈美、わかってくれ。お前との恋愛は決して遊びなんかじゃない。恋愛という遊びじゃないんだ。そりゃあブーツを脱いだあとの足の臭いは最悪だけどさ―


 次の日の朝、オレは決心していた。この家を抜けだして島田和也を見つけ出すんだ。そうすれば、なにかがあるはずだと感じていた。じゃなきゃ、オレは一生犬の姿で終わるんじゃないかと不安と暗鬱の重圧さに押しつぶされそうだった。奈美はいつも同じ時間に家を出る。玄関を開けた時がチャンスだ。オレは、それまでソファーの肘かけに顎をのせてタヌキ寝入りをしていた。犬だけど・・・

 奈美が支度を済ませ、玄関にある鏡で服装とメイクのチェックをしている。一通りのチェックを終えると“よしっ”と言った。

「じゃメロちゃん行ってきまーす。おとなしくしてるのよぉ」そう言ってオレを一瞥すると玄関のノブに手をかけた。一瞬だったが言葉とは裏腹にやはり表情は冴えない様子だった。三十センチほどドアが開くか開かないかというところで、オレはダッシュで駆けだした。

 “走れメロ!”

「あっ、メロちゃんっ、どこいくのー!」

 奈美の叫ぶ声が背後から追いかけてきたが、オレはそれを振り切って走った。今までにないほどの全力疾走だ!

 “走れ!走れメロ!”

 オレは自分に、いやメロに、もうどっちがどっちだか訳がわからなくなっていたが、そう言い聞かせた。無我夢中とはこう言うことかとつくづく思った。


 それにしても、なんて気持ちがいいんだ。オレは走るのが苦手だったが、メロになった今は最高に気分がいい。まだ少し朝靄のかかった景色のなかを走る。しかしその気分の良さも最初の数分だけで切れ切れになってきた。オレを、島田和也をどうやって見つけるのかという難題に阻まれた。一週間も経った今では、嗅覚の鋭い犬でも捜し出すのは難しそうだ。

 色々と考えながら走っているといつしかオレは商店街のアーケードのなかにいた。まだどの店もシャッターが閉じていて閑散としている。ゴミ置き場では二羽のカラスがゴミ袋を突いていた。オレは追い払うつもりで吠えた。

「キャンキャン!」

 二羽のカラスはまったく動じる気配すら見せずにこちらに視線を向けた。

「見ない面だな?」

 オレは丸い目玉をさらに丸くした。―カラスが喋った!-

「うん、そうだな見ない面だな」

 もう一羽のカラスが最初のカラスの言葉に対して返答しやがった。オレはびっくりして思わず声に出した。

「カラスが喋ってる!」

「カッカッ、こいつなに言ってんだ。カラスだって喋るさ。それよりお前さんどこから来たんだ。ここはオレ達の縄張りだ。エサを探すんなら他所へ行ってくれ」

「オ、オレの言葉がわかるのか?」

「オ、オレの言葉がわかるのか?だってよ、カッカッカッ」

 カラスの一羽がオウム返しでオレを嘲笑いやがった。憎たらしい奴めが!だが、ちょっと待てよ。オレはとんでもない発見をしたのかもしれない。こいつらと仲よくなれば、オレを、和也を見つけ出すのに役立つぞ。

「あのう、もしよろしかったら手伝ってほしいことがあるんだ。お願いできるか?」

「なんだその喋り方。敬語とタメ口がまざってるぞ。へんな奴だ」

 オレは精一杯に丁寧な言葉を述べたつもりだった。だって相手はカラスなんだぞ。

「実は、人を捜してる」

「人、人間ってことか?」

「そうだ。島田和也っていうんだ。身長は一七五センチで、細身だ。髪は短くて肌は比較的・・・」

「ちょっ、ちょっと待て、それで十分だ。大体の見当はついている」

「えっ!知ってるのか?」

「知ってるさ。オレ達はいつも空から下を眺めているからな。ちょっと前になるけど、突然オレ達の縄張りでエサをあさってる奴が現れてな、迷惑してたんだよ。まだ若い奴だった」

・・・あのバカ犬が・・・

「たしか、北だったよな」もう一羽のカラスが思い返すように空を見据えながら言った。だが、オレはその話し方から違和感を感じた。

「なんか、その話しぶりって過去形じゃないか?」

「ああ、そうだ。もう全然見てないぜ。おかげでオレ達の食いっぷちが戻ってたすかってるんだ」

 オレは、もう全然見てないと言われて絶望的になった。だが、ここであきらめたら終わりだ。

「どこで見たんだ?どこの場所で見た。その北ってここからどれぐらいのところだ」

「場所なら教えてやってもいいが・・・」

「いいが、なんだ!」オレは、カラスのもったいぶるような言動に苛々しさが募り、さらに今の不可逆的な無力感も相俟って発狂寸前だった。だが、ここは耐えなければ・・・奈美のためにも。

 体がほてり、自然と口を開け、舌をだして過呼吸症候群に陥ったように「ハァハァ」と息を切らしていた。

「なあ、そんな恐い剣幕にならずによ、穏やかに話し合おうぜ。お前さん、その男の飼い犬なんだろ。で、ちょっと取り引きをしないか?」

「取り引き?どんなことだ」

「なぁに、簡単なことだ。お前さんの、ご主人様を見た場所を教えてやるから、その代わりに肉を用意してくれないか。オレ達最近肉を喰ってなくてな。このままじゃ栄養失調になっちまう。お願いだ」

「肉か」

「そうだ、それもなるべく放射線に汚染されてないやつがいい」

「そうか、わかった。じゃあハムでも買ってもらうよ」

「悪くない条件だ!よしっそれで手を打とう」

 お前らに「手」は無いだろう。と、喉もとまで出かけた言葉を呑みこんだ。

「で、場所はどこだ?どこで見たんだ?」

「ああ、ここから北に三カラスメートルの場所に公園があるんだ」

「ちょっと待ってくれ“三カラスメートル”ってなんだ?」

「おっと、そうか!犬のお前が知るわけもないよな。一カラスメートルは約一・六キロだ。その公園で見た。カッカッ、じゃあ三カラスメートルは何キロメートルになる?犬のお前にわかるか?」

「四・八キロメートルだろ。それがどうした?」

「ケッ!おもしろくもねぇ。お前頭がいいんだな」

「それって褒めてるのか、バカにしてるのか?」

「想像にまかせるよ。それじゃハムを忘れるな。じゃあな。カァカァ」

 二羽のカラスは、靄の晴れた空に翔けていった。今まで知らなかったが、カラスは『マイル』を使うのか。よく訳がわからないが、どこか腑に落ちないものが胸中を黒く渦巻いた。メロはまた走りだした。約五キロ弱。すぐに見つけられるだろう。この時は軽率にそう思った。その公園も知っていた。たしか、森ヶ岡公園のことだ。走りながら、ふとしたことが頭をよぎった。あいつらの言ってた三カラスメートルってのは多分、いや、確実に直線での距離だろう。空に交差点などあるはずもない。そして当然だが、この地上では、いや、このごみごみとした街じゃ、真っ直ぐな道などない。多分に六、七キロと踏んでいたほうが無難だろう。

 ふと気がつくと街中は人の波で溢れかえっていた。ほとんどがサラリーマンだろう。オレがまだ大学生でよかった。会社員なら、もうとっくに首を切られていただろう。安堵のため息を吐いた。オレは少し疲れて走るのをやめ歩くことにした。歩いて気づいたのだが、走っている時とあまり景色が相違ないのはなぜだろうか。それはすぐにわかった。オレはブティクのウインドーに写った自分の姿を見て、愕然とともに驚愕した。オレは、今のオレがミニチュア・ダックスフンドだとはわかっていたものの、いざ実際にその姿を見ると、なんとも不思議な感覚に陥った。自分を見ながら走ってみた。次に歩いてみた。ほとんど変わらない速度だった・・・。でも走れ!奈美のために、そしてオレのためにも!。

 交差点にさしかかると、黄色の点滅が終わって赤になってしまった。オレはちゃんと止まった。こんなところで死にたくはないからだ。

 しばらく待っていると、後方から子供の声が耳にとどいた。

「ママ―、ワンワン、ワンワン!」

「あら、かわいいダックスフントね。それにしてもどこのワンちゃんかしら?首輪がついてるから飼い犬よねぇ」

「ママ―、さわってもいーい」

「どうかしら、さわらせてくれるかしら」

 三歳ぐらいの子供がオレに近づいてきた。「まったく」と思いながらも、気持ちはそれほど悪くはなかった。子供の前で“お座り”をしてやった。今の体躯じゃ、たいして変わりもしないが・・・

「かわいいねーワンワン」

 子供は少し緊張しながら、オレの頭を叩くようにパシッパシッとさわった。

「もう、ダメでしょう叩いちゃ」

 母親は子供の手を取り、オレの頭や背中をやさしく撫でさせてやった。よほど嬉しかったのか、子供は左手で口を押さえて“くくっくくっ”と笑いをその隙間からこぼしていた。そうこうしているうちに信号が青に変わった。オレは子供から離れると、横断歩道を走った。母親が驚いたように言った。

「まぁ、お利口なワンちゃんね!ちゃんと青になってから渡ったわ」

 オレは少し得意気になって、一度振り返って尻尾をふりまた走りだした。子供は両手で口を押さえて大いに笑っていた。

 

 もう森ヶ丘町に足を踏み入れていた。ここには二つの公園がある。森ヶ岡公園と森ヶ岡北公園。カラスが言っていたのは「北公園」の方だろう。すでに前方五百メートル付近に森ヶ岡公園がある。見えたのではなく、聞こえたのだ、公園に設置してある噴水から噴きだしている水の音が。オレはそこで少し休もうと考え、限界のスピードで走った。そう、走った。五、六分ほどかけて・・・

 昼間の、しかも平日の公園というのは、なんとなく気落ちするような寂しさや侘びしさがひろがっていた。鳩が数羽なにかをついばんでいる。その先のベンチに白髪のおばあさんが日光浴ついでになにかを読んでいるのか、視線を膝に落としながら座っていた。

 こういう時に限って、好奇心とは湧くものだ。オレはまず、鳩に話しかけてみた。

「やあ、おはよう」

「ポッポッ、おはようやてー。今何時や思うてんねん。ポッポッポッ」

「アホな犬や!相手にせんとこ。アホがうつりよる。ポッポッ」

 ・・・このクソ鳩が!・・・

 鳩は、オレを小馬鹿にするように、その鳩胸を前後に揺らすと勢いよく飛び立った。その瞬間“オマケ”まで落としていきやがった。危うくオレにかかるとこだった。頭にきたので宙に向けて吠えた。その直後、第二弾がオレの目の前に落ちてきた。冷静になってそれを見た。オレは自分のしてることに異常なほどの虚しさに包まれた。相手はただの鳩だったんだ。しかも関西弁の・・・でもなぜ関西弁なんだ・・・疑問を抱きながらベンチまで歩いていった。

 おばあさんはオレに気づかずに、なにかに見入っていた。なぜか悄然とした雰囲気に包まれている。やがてオレに気づいた。

「あらあら、どこの犬かしら?見ない犬ねえ」

「クゥーン」“こんにちわ”と言ったつもりが、人間には通じないようだ。

「まるで、私に元気をくれに来たようだわ。ありがとう」

「・・・?」

 おばあさんは膝に置いたアルバムらしきものを閉じると、オレに向かってにっこりと微笑んだ。

「今日でね、あの人が逝ってから五十日目。昨日が四十九日だったのよ。私を置いて逝くなんて、薄情な・・・」

 どうやら気まずい場所に踏みこんでしまったようだ。

「あの人とはね、五十年も付き添ったの。今思い返すと、長いようでも、ほんとうに短かったわ。あらいやだ、あははっ。五十年が短いだなんて、私ももうおばあちゃんになったわねえ。私はあの頃、お花屋さんで仕事をしていたのよ。そこであの人と出逢ったの。最初はただのお客さんだと思っていたわ。でもね、あまり毎日来るものだから、初めは、なにかお花を扱う仕事関係の人かなって見てたの。あははっ、あとで聞いてびっくり。私に逢うために毎日通っていたんですって。馬鹿よねえ。でも、出逢った当初は毎日が新鮮だったわ。あの人ったら、私に逢うたびにほんとうに緊張した態度でね、映画館に行っても内容なんか、なあんにも覚えちゃいないんだから。笑っちゃうわ」

 おばあさんは、時折空を見上げて、なにかを探すように眼を虚ろに動かす仕草を見せた。

「初めて二人でイギリスに行った時も、とんだ失敗をしてね。ホテルの部屋の番号が『111』だったの。フロントでね、しきりに“ワンワンワン”って犬みたいに。フロントの係員は、皆首を傾げていたんじゃないかしらねえ。私はその時おトイレに行っていたから知らなかったんだけどね。帰ると耳まで真っ赤にして“ワンワンワン”って。あっはは、英語じゃ“ワノワノワン”って言わなきゃ通じないのにねえ。私が言うまでずっと“ワンワンワン”って叫んでいたわ。『まったくもう、犬じゃないんですから』って肘で突いてやったら『じゃあ、お前が言ってみろ!英語が通じんから!』ってね、『あたり前ですよ、あなたの言葉は英語じゃないんですから』って言ってやったらカンカンに怒ってね『もうイギリスなんかには来んっ』って、でもその夜、寝言で言ってたわ『ワノワノワーン』って。それ聞いたらおかしくて笑っちゃったわ」

 おばあさんは、ひとしきり喋り終えるとまたアルバムをひろげて、一枚の写真をオレに見せた。モノクロのその写真は随分と古臭さを印象づけた。よく見ると、さっきのホテルと思われる重厚な作りのドアの前で、二人は仲よく手をつないで写っていた。なぜかその写真に写っている二人の姿が、オレと奈美の姿にダブって見えた。

 そうだ!オレには大切な奈美がいる。一刻も早く和也を見つけ出すんだ。オレはおばあさんに背を向け走ろうとした。その時ふいに、ある遊び心が顔をだした。オレは落ちていた小枝をくわえると、おばあさんの前までいって、地面に「ありがとう」と書いてみた。逆からではわからなかったのだろう。立ち上がってその文字を読もうとして反対側に足を運んだ。背中越しではあったが、その地面に大粒の涙がほろほろと落ちたのがわかった。

 オレはまた走りだした。目的地は次の森ヶ岡北公園だ。「今度こそは」と願いも込めて。

 さっきの鳩がまた戻ってきていた。すれ違いざまに、

「もうかりまっか」と言ってやった。鳩は唖然とした顔つきになり、走り去るオレに向けて言い返した。

「ボチボチですわ・・・」

 その表情はまさしく、“鳩が豆鉄砲を食った”顔だった。


 随分と走った。今日は朝から走りっぱなしで、肉球がボロボロになっている。ところどころ血も滲みでていた。だがオレは、痛みを我慢して「北公園」まで休まずに走りつづけた。そして先ほどの公園から約一時間後にとうとう着いた。オレはよろよろになりながら喉の渇きを癒すために公園中央にある噴水まで歩み寄って、夢中になって水を飲んだ。

 その時だった。なにかがぐらりと揺れたかと思うと、脳振とうを起こした時のような眩暈をうけた。噴水を見ると、まるで写真か絵のようにその綺麗な水しぶきが藤のような形をとどめて止まっていた。さらには急に青空が闇に包まれはじめ、サイクロンの轟音がオレの身体を激しく震動させる。恐怖のあまり目を閉じた。すると、後ろ足からオレの中のなにかがくるくると捲れあがってくるのを感じた。それが頭までくると脳天を突き破って上空高くに翔んだ。“あっ”と声を上げようとしたその瞬間にオレは気を失っていた。

 

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか、気がつくとオレはメロの小さな体から元の和也の身体に戻っていた。どうやら公園で倒れたらしい。そう思いたかったがよく見ると隣にはメロが衰弱しきった様子で一緒になって倒れていた。「夢だったのか・・・」と呟いてみる。夢にしては出来過ぎだった。オレは上半身を起こして自分の服をしげしげと眺めた。それはなんというか、まるで子供がドロ遊びでもしたかのような酷い有様だった。ズボンはいたるところに染みがあり、シャツはところどろこ破けている。おまけに靴が片方なかった・・・

 オレはその片方の靴を脱ぎ捨てて、ぐったりしているメロを抱えて自分のアパートに戻った。案の定、鍵が無くなっていて大家さんに借りにいったところ、心配の言葉をかけてもらえるどころか、露骨に白い目で見られた。無言で鍵を受け取り、久しぶりに部屋に入った。シャワーを浴びて、歯を二回も三回も磨いた。エサをきれいに食べ終えたメロはかなり元気になっていた。というか先ほどの衰弱しきったメロの姿はそこにはなかった。ついでにメロの体も洗ってやった。肉球を見る。綺麗な肉球だ。

 普通に戻っている。不思議だ。オレは靴を片方無くして、あんなぼろぼろな服を着ていたのに、しかもカラスと取り引きをし、鳩にはバカにされたというのに、メロはまったくの無傷だなんて・・・。だが、オレには・・・メロの時の記憶が残っている。

 なんだかキツネにつままれたような感覚だけが釈然としないままにオレの記憶の中で息衝いていた。


 オレは奈美の帰りに合わせて彼女の家まで足を運んだ。その途中でゴミ置き場にハムも置いてきた。何気なく上を向くと、電柱の足かけに、二羽のカラスが止まってこちらを見下ろしていた。そのまま歩き出すと素早く二羽のカラスが地面に降りてきてハムを美味そうについばみ始めた。

「これで取り引きは完了だな」カラスに向けて言ってやったが、完全に無視された。・・・まあ、いいだろう・・・自分にそう言い聞かせて納得させるしかなかった。

 奈美のアパートの前の石垣に、オレはメロを抱えて座って待っていた。時計を見る。六時三十分。そろそろかな?オレは立ち上がって道路の先を見た。途端にメロが嬉しそうに吠えはじめた。そこには奈美の姿があった。なんだかとても久しぶりに思えた。あの夜からずっと一緒にいたのに・・・

「奈美、おかえり」オレは照れくさそうに顔をしかめた。

「かず君・・・それにどうしてメロちゃんと一緒にいるの?」

「話すと長くなる・・・」

 玄関に入るとメロをおろしてやった。メロはすぐにソファーに飛び乗っていつものように顎を肘かけに預けている。オレは奈美の細いウエストに手を回した。

「メロのおかげだよ」そう言ってメロに顔を向けた瞬間、奈美の身体がふわりと浮いて、オレの頬にやわらかな唇がそっとふれた。奈美を見ると泣いていた。そして声を震わせながら「ありがと」と呟いた。

「なあ、奈美。オレの顔になにか付いてるか?」

 奈美は涙目をこすりながら首を横にふった。

「どうして・・・」

「七丁目のスーパーでこれ買ってきたんだけど、そこの店員のオレを見る目が変だったから」

「ふうん、で何買ってきたの」

「備長炭だ」

「びんちょうたん?」

「炭ってさ、邪悪な空気を清浄する力があるんだ。・・・奈美にへんな虫がつかないようにさ」

 そこで初めて奈美が笑った。

「それってまるで、私が浮気でもするみたいな言い方ね」

「ち、違うよ。でもオブジェとしてもいいだろ、玄関あたりに」

「そうかな?」

「ああ、きっとメロも喜ぶよ」

「どうしてメロちゃんが喜ぶの?」

「ん・・・いや、そんな気がしただけだよ」

 ほんとうは・・・ブーツの消臭だなんて口が裂けても言えない。そうだよな!メロ。その時微かだが、微笑んだようにも見えた。

 オレはもう一度奈美の顔を見て・・・それから久しぶりのキスを交わした。


               「了」

実は、ちょっと前にキャベツになってしまった夢を見た。それをちょっと変えて「犬」に置きかえてみた。


なにせ、キャベツだと動けないしね。


太宰治先生の名作「走れメロス」とは一切関係ございません。でも、太宰治先生の「走れメロス」がなかったらこの題名はなかったはずです。

太宰先生、ありがとう、そして、ごめんなさい・・・

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