君の手をとるそのために
「宮音、ちょっといい?」
とりあえずといった感じで制服に着替え、帰宅するべく更衣室を出た直後に呼び止められる。
振り向いた先には部活の先輩、腰まで届く長髪が特徴的な女性であり、「姐さん」なんて呼び名が恐ろしいほどしっくりくるひとだ。
「……先に言いますけど俺の財布は軽いですよ」
なにやらただならぬ雰囲気を感じ取り、軽口を叩きつつ全力で記憶を探ったりするのだが、呼び止められる理由の推測は不可能だった。何があっても対応できるように心をフラットな状態にしつつ、眉根を寄せて不機嫌そうな先輩の顔を見つめる。
「そういう冗談は立て替えてやってる部費を払ってからになさい。それより宮音、キミは朝の占いとかチェックするタイプ?」
「見ますけど、記憶には止めてませんね。意味ないし」
まったく要領の掴めないままで機械的に答えると、先輩はなにやらため息を堪えるような様子で腕を組み、結局小さく吐息した。だろうね……と小さく呟き、まるで深刻な命題でも見つめるかのような視線を俺に向ける。
「ちょっと気になったんだけどね、宮音の今日の恋愛運」
――うむ、良い月だ。
誰にというわけでもなく、心の中でつぶやく。夜空の中にぽつりと浮かぶ満月は、よく考えればありきたりなもの。しかしあえてそんなことを言ってしまいたくなるような心境だったりする。
深夜の公園、制服姿でベンチに寝転がってる俺ってのはどうなんだろう?
一瞬そんな疑問が脳裏をよぎるが、面倒なので考えるのは後回しにする。
まあ、誰に見咎められるというわけでもない。気にしなくても平気だろう。
「とまあ、すぐに逃げようとするのはよくないな」
脱線しかけた思考を言葉を発することで引き戻す。今の俺にとっては月も太陽も後回しだ、もっとごく身近な、俺の精神活動に直結する難題を解決しなければいけないのだから。
時間にして四時間と……三十二分ほど前か、部活を終えてさあ帰るかと思った直後のことだった。突然先輩に声を掛けられ、連れて行かれた先で待っていたのが一年生の後輩。
普段やらないようなミスを散々やらかしたのを覚えていたので、なにかあったのかと訊ねる前に発せられた台詞に疑問は粉砕された。
白状すれば、思いもよらない愛の告白なんてものは初体験だった。
知り合ってから三ヶ月ばかり、俺が知っている彼女のことといえば、ひたむきな性格と過去の負傷をいくつか、あとは部活規模で交換したメールアドレスくらいのものだった。
どこでかぎつけたのか、待ちかまえていた男共からは無責任にはたき倒され、女からは泣かせたら殺すなどと本気で脅され、家にも戻らずこんな場所にたどり着いてから無益に時を過ごしていたりする。
――久々に受けた本気の言葉。頬を染め、目に涙まで浮かべた表情が今でも目に焼き付いている。
いい子だ。以前から感じてはいたが、今日で確信に変わった。
それだけに、悩みも深い。
あれだけの台詞、あれだけの心を持った彼女の気持ちに応じる根拠が俺にはない。
言葉だけなら造作もない。俺でよければと前置きして、彼女の申し出に応じればいいだけなのだから――。
だが、そうして俺は何をしてやれる……? 彼女と登下校を共にして、休日にはどこかへ連れ出して、彼女のことを一番に考えてやれるようになればそれで充分か?
今の俺にとってそれは難しいことではないし、必要ならば命を賭してやってもいいと、彼女になら言える確信も得た。
しかしそんなものに価値など無い。自慢できる話じゃないが、俺は俺という存在に全く興味がない。何故生きているのかと考えることすらとうに止めたし、突発的な死が訪れることを待ち侘びてすらいる。
今こうして生きているのは俺の人生が俺の自由に出来るものではなく、俺にとっての生きる理由は俺を生み出した両親が望んでいるからに過ぎない。
俺という人間は両親が望んだが為に生まれてきたものであり、ここまでの成長にも両親の労力がつぎ込まれている。この命を好きにするのは、少なくともその借りを返済しきった後のことになる。
つまりは、詰まらない人間なわけだ。無難と思える生き方を選択し、必要最低限の努力でもってありきたりな人生を送ろうとしている、どう考えても平均以下の価値しかあるはずはない。
彼女が俺の何を勘違いしたのかは知らないが、それが幻想であることを否定できない。
果てしなくネガティブな思考はとろとろと下降を続け、そろそろ底に落ち着きそうだというところで声が聞こえる。
「見つけました。宮音春人さんですね」
固まりかけていた決意を遮るようにして、降ってきたのは幼さを残した高い声。
思考に集中しすぎた迂闊を反省しつつ、声の出所に目を向ける。防犯灯に照らされる姿はセーラー服姿の少女のもの、三メートルと離れていない場所に仁王立ちになっていて、柔らかそうな髪が肩の上で揺れている。見覚えのある制服は卒業した中学校のものであることに気付くが、相手が誰かなんていうところまでは判るはずもない。
とりあえず、俺を捜していた様子なのは理解できる。
「名前は思っているとおりだが、なにか?」
上半身を起こす。固まっていた筋肉をほぐしながら訊ねると謎の中学生は足音も高く俺に詰め寄ってきて、
「はじめまして! あたし、麻野真矢っていいます」
夜の公園に響き渡るいい声で、俺に頭突きをかまさんばかりの勢いで直角の御辞儀――、これ以上ないってくらいあっけにとられている俺に気付いた様子もなく、なにやら物理的に押し切られそうな勢いでまくし立ててきた。
「突然すいません。宮音先輩の居そうな場所ってのを教えてもらってはいたんですけど、ビルの屋上だとか地下駐車場だとかって意見があまりにも多かったので先にそっちを回ってみたんですが、なぜだか比較的まともな場所にいたのではっきり言って拍子抜けです。散々走り回ったあたしの体力はいったいどうなるんでしょう?」
麻野真矢とやらは責めるような目つきで俺を見て、何かに気付くと慌てて首を振る。
「すっ、すみません! あたしちょっと混乱しているみたいで。ごちゃごちゃ考えながら走ったのがよくなかったのかも知れません、今のは忘れて下さい。カットです、テイクツー行きましょう」
「よし、なら最初に声かけるところからだな」
「そうですね、あたしがベンチで寝ている人にもしやと思って近寄って――じゃなくて、あっさり乗らないで下さい! 余計に混乱するじゃないですか」
両手で何かを押しのけるようなジェスチャーまで入れて、なかなか愉快なリアクションをしてみせる麻野真矢。ひとしきり穏やかな気分に浸ったところで、ベンチの脇に置いていた缶コーヒーを放り投げてやる。
「とりあえず落ち着け。話があるならちゃんと聞こう」
「……どうもすみませんでした。男の人と話すのはあまり慣れて無くて」
缶コーヒーを両手で包み込み、項垂れる麻野。警戒されているのか、座っているベンチこそ一緒だが彼女は端のぎりぎりに腰を下ろしている。
「支障はない。とりあえず話は判った」
というのは、横に座っているのは麻野真矢という名の少女。現在中学三年生で、俺に告白してきた美原明菜の後輩で部活では世話になっていたということだ。二人が女子バレー部だったのに対し俺は男子バレー部に入っていたのだから同じ体育館で練習したことも少なくはないはずなのだが、そこは他人の顔を覚えない俺のこと、どちらも全く記憶にない。
「しかし、先輩のことが心配だったと言うところまでは判る。そこで何故俺を訪ねてくるんだ?」
「そんなっ!? 知らないようだったら言っておきますけど。ウチの先輩は飼ってたカナリヤが死んだショックで半月寝込むんですよ? 三年越しの想いが砕けてたなんて事になってたりしたら、あたしが訊いた瞬間に人格が崩壊しかねません」
迫ってきた麻野が勢いよく手をついたせいでベンチがみしりと音を立てる。回避があと一瞬遅れていたら潰されていたであろう右手をさすっていると、彼女は自分が何をしたのか理解して眉尻をさげた曖昧な笑みを浮かべる。
「えと……その、ですね。とにかく真っ直ぐな人なんです。そこらに生えてる竹なんかとは比べるべくもありません、ちょっと間違えたら光にもタメ張れるくらいの直進性なんですけど、やっぱり女の子ですから脆くて……。けれど針灸の針くらいしか強度がないくせにコンクリートにも真っ直ぐ突っ込んでいってしまうような人なんです――。放っておけるはずないじゃありませんか」
良い先輩には良い後輩が懐くものか、ひょっとしたらお節介が過ぎるかも知れないが悪くない。この子の言葉も力がある。
――まったくもって、うらやましいことだ。
「それで、返答についてなんですが……」
恐る恐るといった感じで目を合わせてくる麻野。
「ああ、少し時間をくれと。そう答えた」
自信を持って言えないのは自分でもその対応に疑問を感じていることのあらわれか、案の定麻野にも少し落胆したような色が見える。
「何故ですか? って、訊いても良いですか」
当然の疑問だろう。数秒かけて言葉をまとめ、視線は前方に向けて口を開く。
「端的に言えば、決められなかった。好意を持ってくれるのは光栄だし、断る理由もない。美原明菜って人間には好感が持てるし、興味もある。しかしね、好きだと言われてじゃあよろしくってのも無責任な話だと思わないか? あんな告白を受けたとなると尚更だしな」
言ってから、概ね本音だなと再確認。俺の人生観の云々は彼女に話す事でもないだろう。
「ふむ……つまり先輩を満足させる自信がないと? それなら大した問題ではありません、美原先輩も初めてのはずですから、焦らずいっしょにステップアップしていけばいつかきっと良くなる日がくるはずです。大事なのは愛ですよ、愛」
「…………」
拳を握った熱い眼差しを無表情で受け止めること数秒間、先にギブアップしたのは麻野の方だった。
「ひっ、非道いです! 冗談なのにそんな態度されたらあたしがヘンなコみたいになっちゃうじゃないですかっ!?」
暗い中でもはっきり判るくらいに頬を染め、無闇に両手を突き出してくる麻野をあやしつつも口元がゆるむのは否めない。
「ヘンとは言わないが、充分に面白いからそのあたりは自信を持っていいとおもうぞ」
「意図しない角度で面白がられてもはずかしいだけですってば~!」
両手に顔を埋める麻野は素直に愉快だと思う。とまあ、しきり直せたところでついでに訊いておくかと思い立ち、黙り込んでしまった麻野を見やる。
「参考として訊いておきたいんだけど、告白ってのはなにを求めてするものだ?」
「え――?」
何気ない質問だったつもりが、麻野の反応は俺の予想とはずいぶん違うモノだった。まるで頬に平手打ちを食らったかのような勢いで振り向いて、たぶんその勢いが良すぎたのだろう……バルサ材を折るような乾いた音が俺にも聞こえた。
「~~~~~~!!!」
「……安心しろ、骨が鳴っただけだ。そのまま動くなよ」
目を見開いて悶絶する麻野の首を撫でてやる。過敏な神経が痺れた状態になるからかなりの悪寒を伴うのは俺も経験があるからよく判るのだが、それも数十秒で収まるもの。
「……く、首が折れたかと思いました」
荒い呼吸を繰り返しながら涙目になる後輩を見やり、なにが悪かったのだろうと考える。
まあ、どうやら俺の質問がまずかったらしい。ということくらいしか思いつかない。
「何かまずいこと言ってしまったようですまない。しかしマジだ」
「手を触れずしてあたしの脊髄を破壊するための巧妙な手口というわけではナシに?」
「ああ、ナシに……」
「…………」
そして妙な沈黙。俺は問いを投げかけた後なのでとりあえず待つ。
「質問で返してしまうので申し訳ないんですが……」
少し先の地面をじっと見つめていた麻野はついと視線を向けてきた。
「先輩は、誰かを好きになった経験はないんですか?」
「まあ、記憶にある限りはってことになるけどな」
掘り返せばそういう想いを抱いた相手も居たかも知れないが、そのあたりのシナプスはとうに死滅しているだろう。ならばないと言っても間違いないはずだ。
麻野なにやら難しい顔をしてぶつぶつ呟いている。
そして俺は、空の向こうに見える光をぼんやり眺めていて思い出した。
……晩飯を頼まれてたな。もはや手遅れだが。
もっとも、我が家の妹殿は夕食の作り手が居なくなったところで困りはしまい。機嫌は損ねるだろうが、帰りがけにプリンのひとつも買っていけば何とかなる――と思う。
「とりあえず言わせて貰いますけど、求めて――なんて言葉はよくありません。それだとなにか見返りを期待しているみたいじゃありませんか、そりゃあ、いい返事が貰えたらいいな、くらいは考えますけど、告白を打算みたいに言うのはよくありません」
「そっか、すまなかった。そう言うつもりはなかったが、質問の仕方は良くなかったな」
「はい、覚えておいて下さい。では宮音先輩――。憧れという感情は理解できますか?」
「ああ、それは解る。俺にも憧れてる人くらいは居るから」
「良かった。なら話は進めますが、美原先輩の想いはその憧憬が段々と変わっていったものなんです。バレーのプレースタイルから始まって、それが宮音先輩そのものに魅力を感じるようになるまでそんなに時間は掛からなかったみたいですけど」
いやはやホントに……などと、何故か頬を染めて明後日の方を向く麻野。
「――って、別にあたしが照れる必要はないんですよね……。とにかく、です」
突然意気込んで、直後に吐息して身体の力を抜く。ここに来てやっと無闇に力んでいた瞳に穏やかなものが戻った気がした。
「素敵だな、あんな風になれたらな、なんて風に見ていたら、いつのまにか恋しちゃったわけなんです。なんというか、憧憬と乙女心が化学反応を起こした化合物のようなものだと思って下さい。しかしながら理屈では説明できません、感じて欲しいんです。とにかく憧れてるだけじゃ我慢できなくなったというか、自分とその人の領域が共有する領域をできるだけおっきくしたいと思うような感情です」
人差し指を立て、こちらの目を見据えて言う麻野。子供にものを教えるようなその態度には意見がないわけでもないが、ここは黙するが吉だろう。
「美原先輩はある日言ったんです。あの人と並んで歩けたら幸せだろうな……と。そりゃもう、思わず待ったをかけてじっくり眺めてしまうほどに乙女乙女した表情でした。写メ撮ろうかとも思いましたが、電気信号ごときに記録は出来ぬと止めておきましたけど」
その記憶は電気信号に他ならんけどな――。そんなツッコミが喉までせり上がってくるが飲み下す。そんな俺の苦労に気付いた様子もなく麻野は続けた。
「話がずれましたが、そんな美原先輩があなたに言いたいのは、友達になって下さい、でも、一緒に歩いて下さいでもないんです。相手のことを知りたい、自分のことを知ってもらいたいだったり、二人だけの特別な関係になりたいって想いを告げる言葉っていうのは決まっているんです」
言葉を切り、軽く握った拳を胸に。麻野は僅かに頬を染めて告げてきた。
「好きです――、付き合って下さい」
思わず聞き返さなかったのは、たぶん俺のやさしさだと思う。
どこかでケンカをしているらしい猫の鳴き声が嫌に大きく聞こえる。
とりあえず麻野の肩に手を置いてからベンチを立つ。手近な自販機で缶コーヒーと紅茶を購入。ベンチに戻ってから、固まったままの麻野が手にしていたコーヒーの缶と紅茶を入れ換える。
ぎくしゃくと礼を言った麻野はおずおずと訊いてきた。
「あの、けっこう一生懸命だったんですけど伝わりました?」
「まあ、麻野が役者を目指すとしたら少しばかり難しいだろうな、ってことは」
今度は耳まで赤くして叫く麻野をなだめてから、小さく吐息。
「いやすまん。冗談だ」
肩で息をする後輩を横目にコーヒーを一口啜る。
そのままなにも言えずにいる俺に対し、麻野は唇を尖らせて訊いてきた。
「あの美原先輩に好きって言われて脊椎反射で即おっけーを出さない時点で、あたしの左ストレートでマットに沈んできたクズ男共とは一線を画しているとは思うんですが、先輩は一体なにを悩んでいるんです?」
「さっきも言ったと思うが、安易に頷けないだけだ。そもそも俺はそんなに出来た人間じゃない。美原がなにかを勘違いしているんじゃないかという疑問すらある」
そんなことを言いながらふと気付く、つまり俺は美原に対して『俺は君に相応しい男じゃない』なんてことを言って断ろうとしているのか。
妙な話だ、彼女の想いを無駄にするだけの根拠を持った理由だろうかと熟考するが、答えははっきりしない。そもそも俺は彼女の求めて――いや、表現が悪いんだったな。彼女を幸せに出来る自信が無いと思っている。では彼女の幸せとは何だ? 俺に与えられるものが何であり、俺はその中のどれに対して自信がないのか。
何一つはっきりするものがない、頭の中には曖昧な感情の積み重ねから結論を出しているようにしか思えない構図が出来上がっている。
そして、『足りないもの』とはなにか……?
「では確認です。美原先輩に気に入らないことがあるわけではない、これはいいですか?」
「無論だな、むしろ上等すぎる」
「街を歩くカップルの姿に自分と美原先輩を当てはめて想像してみて下さい、不快ですか?」
「……慣れないものはあるが、不快とは違うな」
言うと、麻野は笑った。なにやら満足げに、俺を見てぐいっと親指を立てる。
「なら何も問題はありません。先輩は、よっしゃ! 付き合おうぜとサムアップで十分です。先輩に女の子を喜ばせる技術とか意欲がないのははっきり言って残念ですが、ウチの美原先輩に限ってはそういうのがあんまり要りません。たぶんそこらの公園を一緒に散歩してちょっと話をするだけで幸せゲージも満たされることでしょう。それに宮音先輩だって、美原先輩ほどの方が側にいたら喜ばせてあげたいと思うはずです。そしたらその欲望に正直になって下さい、あたしでよければいくらでも相談に乗りますしお手伝いもします。むしろお二人のデートにこっそり追従してここぞというポイントを教えてあげたいくらいです。
いいですか、このあたしが保証します。お二人はぜったい上手くいきます。
先輩はきっと美原先輩を大切に出来る人だって信じます。先輩も弱気なこと言わないで自信持って下さい、先輩自身がなんと言おうと、美原先輩は宮音先輩を好きになったんです。だから……だから、あとは宮音先輩がそれに応えてあげるかどうかなんです」
よほど気持ちが詰まっていたのか、息継ぎもそこそこに麻野はまくし立てる。聞いていてすがすがしいほどの本気っぷりで、ほんとに美原のことを慕ってるんだなと思い知らされる。
おまけに――、
「まあ、とりあえず涙を拭いたほうが良い。流石に強烈すぎて対応に困る」
俺にしては気が利くものだと自分で感心しながら、運良く未使用のままだったハンドタオルを差し出す。綺麗に筋を作って涙を流していた麻野は言われて気付いたとばかりに驚いた顔でタオルを受け取る。
「すっ、すいません。な、なんだかあたしばっかり熱くなっちゃって。でもやっぱり、先輩本気だから、先輩が悲しむところは見たくなくて……お節介だし、たぶん迷惑だろうなってことも判ってるんです、けど、あ、あたし――」
「安心しろ麻野、最終的にどうなるかは知らないが、俺も君の大切な先輩を悲しませようとは思わない」
何か吹っ切れたような気持ちでベンチの背もたれに体重を預け、綺麗な満月を見上げてのんびりと告げる。
「少し前から気付いてはいたんだが、俺が美原にイエスと答えようとしない原因ってのは、美原のためとか言いながら結局のところ俺が生き方を変えたくないってだけなんだよな。しかし、俺の生き方がこのままじゃ良くないってのも白明の理でね、良い機会だからここらで人生ねじ曲げてみるのも悪くないと思ってる。
美原明菜の期待を裏切らない男になるってのは、なかなか目指し甲斐のある目標だ。
もっとも、ここ十数年で凝り固まった詰まらん生き方を変えるのも難しいだろうけど、やってみる価値はある。何よりこの決意を後押ししてくれた彼女のためにもなる努力だし、そんなに分の悪い挑戦でもないはずだ」
今のところは、口だけという印象が強い台詞だなという自覚はある。しかし嘘にするつもりはない、確かな決意を胸に刻みながら麻野を見ると、驚きと困惑が半々と言った赤い眼。
――こちらからもよろしく頼む。君を幸せに出来るよう、努力は怠らないつもりだ。
胸中で呟く台詞に、まあこんなものかと評価をつける。
おそらくは明日、学校で会えるはずだ。誰よりも早く登校して朝練の準備をしている彼女のことだ、俺も少し早起きをして学校へ向かおう――。
前途は多難な五里霧中、刻みつけたはずの決意はいつふやけてしまうものかと心配になったりもする。
しかしまあ、それほど悪いことにはならんだろう。
曖昧な確信を胸に見上げた月は、不思議と綺麗に見えたような、見えないような……。