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居酒屋店員が異世界転生して、兵站で魔王を倒し元の世界へ帰るまで  作者: もしものべりすと


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第二十一章 暖簾を下ろす夜

戦の後、王国は急速に復興した。


 補給線が整い、料理人ギルドが各地に出張所を開き、聖騎士団が地方の治安を回復した。


 俺の業務日報、第二巻は、ほぼ空白の頁がなくなった。あと数枚で終わる。


 ある夜、俺はノートの最後から三枚目の頁に、こう書いた。


 「本日、所感。帰国のしおり、入手」


 いつもの業務日報の書き方。


 書き終えた瞬間――ノートが淡く青白く光った。


 その光の中に、ひとつの声が響いた。ヴァルガの声だった。


 「貴公が望めば、いつでも元の世界に戻れよう」


 俺はペンを握ったまま、しばらくノートを見つめていた。


 ……戻れる。日本に。本当に、戻れる。


 俺は立ち上がった。


 ノートをエプロンの内ポケットにしまい、王城の廊下を歩いた。


 夜だった。窓の外で月が満ちていた。


 俺はリリアナさんの部屋の扉を、軽くノックした。


「ナルミ様、どうぞ」


 彼女の声は、もう最初の日のように、芯がしっかりしていた。


 俺は扉を開けた。


 彼女はベッドではなく、窓辺の椅子に座って月を見ていた。


 白い、新しい礼服。胸元の聖騎士団の紋章が、夜の灯火に淡く光っていた。


 俺は彼女の隣の椅子に座った。


 しばらく、ふたりで月を見ていた。


「ナルミ様、お話、ありますね」


「……はい」


「やはり」


「リリアナさん」


「はい」


「俺、明日、元の世界に戻ります」


 彼女は月から、ゆっくり視線を降ろした。


 その顔は、ほんのわずかに青ざめていた。


 でも、唇は固く結ばれていた。


 彼女は静かに頷いた。


「はい」


「……驚かないんですか」


「驚いております。ですが、ナルミ様のお選びには、私はただ頷くだけです」


「あ、いえ、引き止めてもいいんですよ」


 俺は思わず、そうこぼした。


 彼女はふっと口元をほどけさせた。


「ナルミ様。引き止めることで、ナルミ様のお心の中の暖簾が揺れてしまうのなら、私は引き止めとうござりません」


「……」


「ナルミ様のお心の中には、ずっと藍色の暖簾がかかっておりました」


「藍色の」


「ええ。最初に私を店の中に運んでくださった、あの暖簾です。あの暖簾の内側に、ナルミ様の本当のお居場所がござります」


 俺は目を伏せた。


 彼女の言葉が、深く胸に染みた。


「リリアナさん。一緒についてくる、っていう選択肢もあるんですよ」


「……」


「あ、いや、その、迷惑なら、ぜんぜんいいんですが」


 俺の口が急に、しどろもどろになった。


 いつもの現場の声ではなかった。


 彼女は目を見開いた。


 頬に桜色がぱっと差した。


「ナルミ様……」


「あ、いえ、その、本当に迷惑なら、」


「迷惑だ、なんて、思っておりません」


 彼女の声は震えていた。


「ただ、私はここで生まれ、ここで聖騎士団に入りました。ここに、私の剣を捧げる相手が、まだござります」


「そうですか」


「ナルミ様、お一人で、お帰りくださいませ」


 彼女は深く頭を下げた。


「ですが、お願い、ひとつ、よろしいでしょうか」


「はい」


「最後の賄い飯を、もう一度いただきたく」


 俺は頷いた。


「もちろんです」


 俺は立ち上がり、王城の調理場に向かった。


 米を研いだ。味噌を漉した。鶏もも肉を串に打った。炭火台に串を並べた。


 ジュッ、といつもの音。


 ……でも、いつもよりずっとずっと長く、その音に聞き入った。


 最後の賄いだった。


 お盆にふたつ用意した。


 ひとつは彼女のため。もうひとつは俺のため。


 最後のふたりのご飯だった。


 部屋に戻ると、彼女はテーブルに座って待っていた。


 俺はお盆をテーブルに置いた。


 彼女は両手を合わせた。


「いただきます」


 俺も両手を合わせた。


「いただきます」


 味噌汁をひとくち。白い湯気がふたりの頬を撫でた。


 彼女の頬に、ぽろり、とひとしずく涙が伝った。


 俺の頬にも、なぜか、ひとしずく伝っていた。


 俺たちは無言で、最後の賄いを食べた。


 食べ終わると、彼女は深く頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでした」


 そして彼女は、テーブルの上で手を組んだ。


 俺はゆっくり、自分の右手をその上に重ねた。


 彼女の白い指が、俺の指を強く、強く握り返した。


 その握り返しは、八年分の現場の誰の手の握り返しよりも――深く、深く、温かかった。


 彼女は目を伏せ、低く囁いた。


「ナルミ様。お元気で」


「リリアナさんも」


「ナルミ様の暖簾が、いつまでも藍色でありますよう、お祈り申し上げます」


「ありがとうございます」


 翌朝、王城の大広間で、別れの儀が開かれた。


 国王陛下、アリエル王女、セバス参謀、ガイウス料理人筆頭、マルキューズ団長、ザムザ・ギルドマスター、ローガス司教――全員が、大広間に集った。


 俺はエプロンと調理服の襟元を整え、その前に立った。


 国王陛下がゆっくり頭を垂れた。


「鳴海どの。あなたは我が王国の暗き夜を終わらせ、無数の命をお救いくださった」


「いえ、ただの現場の業務です」


「あなたがそれを業務と仰る、そのお心の潔さこそ、我らが最も学ぶべきものにござる」


 大広間に深いお辞儀が、波のように広がった。


 アリエル王女が両手を差し出した。


 その手のひらの上に、小さな銀のブローチが載っていた。


 二本の翼と剣とひとさし指――王国の紋章を彫った、最小の印。


「鳴海どの。これをお持ちください」


「いいんですか」


「ええ。我が王国の永遠の客人として」


 俺はブローチを両手で押し戴いた。


 そしてエプロンの内ポケットに、業務日報と並べてしまった。


 俺はもう一度、大広間の全員を見渡した。


 マルキューズ団長は、剣の柄に手を添えていた。


「鳴海どの。我が剣は貴公に捧げたまま。世界を超えても、それは変わらぬ」


「ありがとうございます」


 ガイウス氏は白い口髭を震わせていた。


「鳴海どの。本日より、王国の各料理人ギルドの教本に、貴公の串打ちの工程図を、必修といたします」


「ありがとうございます」


 ザムザは、こぶしを軽く突き出してきた。


「現場の男どうし、また、いつか」


 俺は自分のこぶしを当てた。


 骨と骨が、こつん、とぶつかった。


 ザムザのこぶしは、戦場で何百回も敵を殴ったこぶしだったが、その当て方は優しかった。


 セバスは片膝をついて、白い髪を垂れた。


「鳴海どの。我が生涯の最後の誇りを、頂戴つかまつった」


 ローガス司教は、両手を合わせ、目を伏せた。


「貴公の業を、《調停の御使いの書》の最終頁に、永遠に書き残しまする」


 俺はいつも通りお辞儀した。


「皆様、お元気で」


 最後に、リリアナさんがこちらに進み出てきた。


 彼女は深く深くお辞儀した。


「ナルミ様、ありがとうございました」


 俺は頷いた。


「リリアナさんも、お元気で」


 彼女の頬に、もう涙はなかった。


 代わりに、穏やかな誇りらしきものが、淡く灯っていた。


 俺は振り返らずに、大広間の中央に進んだ。


 業務日報を両手で持ち上げた。


 窓の外で、月が最も明るく輝いた。


 その光がノートを、ふわりと青白く包んだ。


 俺の視界が、白く、白く、白すぎる光に満たされた。

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