元社畜悪役令嬢ですが、『婚約破棄してください』と頼んだら王太子に全力で引き止められました
婚約破棄を願い出たのは、ほかでもないこのわたくしだ。
(……なのに、どうしてこんなことになっているのかしら)
黄昏色のシャンデリアが輝く大広間の中央で、わたくしはいま、王太子殿下に膝をつかれて求婚されている。
「エリシア・アルベール公爵令嬢。どうか、これからも俺の婚約者でいてほしい。いや、将来の王妃として、俺の隣に立ってほしい」
楽団の奏でる音楽が止まり、令嬢方の扇子の動きがぴたりと静止する。
そしてわたくしは、心の中で盛大に頭を抱えた。
(ちょっと待って。わたくし、今日ここで婚約破棄される予定だったのよね……?)
話は、少しだけ遡る。
*****
わたくしがこの世界に転生したと自覚したのは、十歳の誕生日の夜だった。
蝋燭の火を吹き消した瞬間、脳裏に洪水のように流れ込んできたのは、灰色のオフィスと、終電のホームと、スマートフォンの小さな画面。
残業続きの毎日。山のような書類。蛍光灯の白い光。
そして、最後の夜。
仕事が終わって、夜風の冷たさに肩をすくめながら、会社の前の歩道を並んで歩いていた。ネオンの光。赤信号。横断歩道の前で交わした他愛もない会話。
──そのときだ。
眩しすぎるヘッドライト。悲鳴。急ブレーキの音。歩道に乗り上げてくるトラックの黒い影。
視界の端で、誰かの手が勢いよくわたしの肩を押した。
衝撃。宙を舞う感覚。砕けるガラスの音。世界が反転して、すべてが真っ白に塗りつぶされる。
そこで、ぷつりと記憶は途切れた。
ところどころ黒く塗りつぶされたみたいに思い出せないのに、最後に伸ばされた誰かの手だけが、妙に胸に引っかかった。
(あ、これ……わたし、知ってる……)
前世のわたしは、日本という世界で社畜として生きていたらしい。残業続きの毎日に心を削られ、唯一の癒やしが乙女ゲームだった、ちょっと哀れな独身女だ。
けれど、その生き方も、あのトラックにまとめて轢き潰されたのだろう。
よりにもよって、そのお気に入りゲームの悪役令嬢が、現在のわたくし――エリシア・アルベールである。
彼女は王太子殿下への恋に盲目になり、ヒロインを虐めに虐めた挙げ句、学園卒業パーティーで派手に断罪される。爵位は剥奪、家は没落、最後は国外追放。
(……いやいやいや。そんなルート、まっぴらごめんですわ)
前世でブラック企業の社畜として叩き込まれたのは、ひとえに「事前準備の大切さ」である。
というわけで、わたくしは十歳のその日から、未来の破滅フラグを一本一本へし折る作業に取り掛かった。
ヒロインを虐める? 論外だ。むしろ恩を売っておくべきだ。
平民出の聖女候補を見下す? 馬鹿なことを。国の戦力よ。
王太子に盲目的な好意を向ける? ……それは、まあ、少しだけ、気持ちは分かる。金の髪に瑠璃の瞳、完璧な微笑み。攻略対象としては、確かに最上級。
初めて公式の場で対面したとき、その完璧な笑顔を見上げながら、わたくしの中の「ブラック企業経験者センサー」は、条件反射のように警戒音を鳴らした。
(ああいう完璧スマイル、前世の管理職にもいましたわよね……)
それ以上深く考える前に、わたくしは意識して思考を切り替えた。過去を振り返るより、破滅回避の段取りを組む方が性に合っている。
だが、前世のわたしは知っている。この完璧王太子は、ゲーム本編で平民ヒロインにあっさり心変わりし、悪役令嬢を切り捨てるのだ。
(……そんな男、上司だったら絶対信用しないタイプよね)
ごめんなさい殿下。ビジュアルは最高ですが、前の世界みたいに、仕える相手に裏切られるのは二度と御免ですわ。
だから決めた。
王太子殿下への婚約は、いずれこちらからお返しする。
きちんと準備を整えて、アルベール公爵家も、わたくし自身も、誰ひとり割を食わない形で。
*****
幸いなことに、エリシアは優秀だった。
魔力は平均より少し高い程度だが、座学は得意、外交にも向いている。社畜時代に鍛えられた記憶力と分析力も加わり、王宮での勉学は、恐ろしく順調に進んだ。
父も母も兄も、わたくしが王太子妃になることを当然のように受け止めている。
(ごめんなさい、お父様。わたくし、王妃になる気はさらさらありませんの)
その代わり、公爵家の領地経営は誰にも負けないくらい真剣に学んだ。商会と手を組み、新しい作物を導入し、読み書きのできる平民を増やすための学校も建てた。
王宮勤めの貴族たちは、「アルベール公爵令嬢は随分と現実的だ」と噂したらしい。
ええ、現実しか見ておりませんわ。
なにせ破滅回避とセカンドライフのためですもの。
そんな風に地道な準備をしているうちに、学園入学の年がやって来た。
*****
王立学園での生活は、前世の記憶とほぼ同じだった。
入学初日から、平民出の聖女候補――リリアが注目を浴びる。
とろりとした蜂蜜色の髪、大きな青い瞳。少し泣き虫で、でも芯は強い、絵に描いたようなヒロインだ。
ゲームのエリシアは、ここから彼女を徹底的に虐めていた。
だが、わたくしは違う。
「初めまして、リリアさん。アルベール公爵家のエリシアですわ。困ったことがあれば、いつでも頼ってくださいね」
「え、えっ……! こ、光栄です、エリシア様……!」
初手から笑顔で握手だ。攻略対象を先に確保するのが社畜……いえ、できる悪役令嬢の基本である。
それからというもの、リリアが陰で嫌がらせを受ければ、さりげなく犯人を特定して別件で叱り飛ばし、彼女の魔法訓練が危険な目に遭いそうなら、騎士科の生徒をさりげなく配置して守らせた。
(ゲームの悪役令嬢ポジションって、視点を変えれば管理職よね。ほんと)
そのうちリリアは、わたくしを「エリス様」と慕ってくれるようになった。
かわいい。とてもかわいい。
もしわたくしが男だったら、間違いなく落ちていたわ。
もちろん、王太子殿下――レオンハルトとリリアが二人きりになる機会も、さりげなく増やしておいた。
図書室で偶然出会うように本を返すタイミングを調整したり、訓練場で魔力が暴発したふりをして彼にリリアを庇わせたり。
(自分でやっておきながら、ちょっと胸がちくりとするのは秘密です)
けれど、それでいい。
ふたりが惹かれ合い、恋を育み、やがて「婚約破棄」に至る。
そこまで行けば、ゲーム本編とだいたい同じ。
違うのは、その瞬間を待っているのが、今度は覚悟を決めて準備万端のわたくしだということだけ。
*****
そして迎えた、学園二年の終わり――卒業パーティー。
黄金のシャンデリアが輝く夜会は、ゲームのクライマックスそのものだった。
(さあ、来なさい。わたくしの平穏な田舎ライフへの扉……!)
わたくしは胸の内で拳を握りしめる。
今日この場で、王太子殿下からの婚約破棄宣言を受ける。
その証拠はすべて、もう準備してある。
アルベール公爵家と王家との間の契約書。婚約解消後の領地と軍の配置。外交問題が起こらないように他国とのパイプも立てておいた。
わたくしの退場は、王国にとっても痛手にはならない。むしろ、自由を得た公爵家は、好きに動ける分だけ強くなるだろう。
それでいい。王家の内輪揉めに巻き込まれるより、ずっと健全だ。
拍子木でも鳴らされそうなタイミングで、楽団が次の曲を終えた。
レオンハルト殿下が、壇上へ歩み出る。隣にはリリア。彼女の頬は緊張で上気し、わたくしをちらりと不安げに見た。
視線が合う。
(大丈夫。予定通りですわ)
わたくしがうなずいて微笑むと、リリアの肩の力が少しだけ抜けた。
さあ、殿下。台詞はこうだったはずです。
『エリシア・アルベール。お前との婚約を破棄する――』
レオンハルトは、深く息を吸い込んだ。
「本日は、皆に大事な報せがある」
うんうん、それですわ。
――ところが。
「エリシア・アルベール公爵令嬢。どうか、これからも俺の婚約者でいてほしい。いや、将来の王妃として、俺の隣に立ってほしい」
(は?)
頭の中で、ぱきん、と何かが折れた音がした。
「婚約を破棄してほしいなど、お前がどれだけ口にしたとしても……俺はお前を手放す気はない」
「ちょ、っと、お待ちなさいませ」
思わず、上品さの欠片もない声が漏れた。
ざわ、と大広間が揺れる。殿下が苦笑を浮かべ、わたくしに手を差し出した。
「エリシア。ここで話すと長くなる。少し、席を外さないか」
(長くなろうが今ここで終わらせてほしいのですけれど……!)
とはいえ、この場で派手な修羅場を演じるのは、本意ではない。
わたくしはドレスの裾をつまみ上げ、殿下の手をわざとらしく無視して、ひとりで壇上を降りた。
背後から、慌ててついてくる足音が聞こえる。
ついでに、少し離れてリリアのものらしき小走りの足音も。
*****
中庭は夜気に冷やされ、吐いた息が白く揺れた。
月光がバラのアーチを青白く照らし出す。その下でわたくしは振り返り、レオンハルトを睨み上げる。
「殿下。わたくし、何度お伝えしましたかしら。婚約解消の件、認めてくださると」
「数え切れないほどだな」
「でしたら、なぜ今日になって、真逆のことを仰るのです」
レオンハルトは、困ったように眉尻を下げた。
ゲームでは見たことのない表情だった。
(……やめてくださいません? そんな顔。攻略対象のくせに、妙に人間味を出してくるの)
殿下はしばし黙り込み、ふと視線を逸らした。
その先には、アーチの陰から覗くリリアの気配。
殿下は彼女にも聞かせるように、ゆっくりと口を開く。
「エリシア。お前は……自分だけが、異世界から来たと思っているのか?」
「…………はい?」
予想外の単語に、完璧に固まった。
「ちょっと、殿下。それは、どういう――」
「俺もだ」
短く落とされた言葉は、夜気よりも冷たく、そして熱かった。
「俺も、前世の記憶を持っている。日本という国で、同じ会社で働いていた。お前の隣の席でな」
心臓が跳ねた。
前世の、灰色のオフィス。
キーボードの音、書類の山、終電間際のコンビニ。
そして──夜道に突っ込んでくるトラック。
「あ、あの……歩道にトラックが……」
「そうだ。あの帰り道だ」
レオンハルトは静かにうなずいた。
「俺はお前を咄嗟に突き飛ばして、そのまま一緒に跳ね飛ばされた。痛みも、息が詰まる感覚も覚えている。そのあと気づいたら、この世界で王太子として目を覚ましていた」
息がうまく吸えない。
「どうして……どうして、そんな大事なことを、今まで」
「お前を巻き込みたくなかったからだ」
レオンハルトは薄く笑った。
「俺はこの世界に目覚めたとき、すぐ気づいた。これは、お前がハマっていたあの乙女ゲームの世界だと。俺は王太子で、お前は悪役令嬢で、いずれ断罪される運命だと」
「……でも、どうしてその悪役令嬢が、わたくし――高梨だと?」
「最初は、信じたくなかったさ」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「けど、お前が十歳になった頃から、誰も知らないはずの『残業』とか『社畜』なんて言葉をぽろっとこぼすようになっただろう? 『これ、完全にブラック企業のやり方ですよね』なんて、こっちの世界の誰が言う」
「……覚えていらしたんですの、それ」
「それだけじゃない」
彼は指を折る。
「書類を書くとき、一行目を少し空ける癖。数字をやたら漢数字で書きたがるところ。締め切りが近づくと、端っこに小さく『すみません』って書き込むところまで、全部高梨のままだ」
「そ、そこまで観察なさっていましたの?」
「毎日、隣の席に座ってた部下の癖くらい、嫌でも覚える」
コピー機の前でくだらない冗談を言ってくれたときと同じ、どこか照れた笑み。
終電間際、ふたりでコンビニのおにぎりを食べながら、他愛ない話をした夜の笑顔。
わたくしの膝から、力が抜けた。
支えを求めて伸ばした手を、殿下――先輩が当然のように掴み取る。
その手の温かさも、知っている。
「だから俺は、決めていた。ゲームの筋書きどおり、お前を一度突き放し、その上で必ず迎えに行くと」
「……殿下。どれほどのポンコツ上司ムーブをなさるつもりなのですか」
思わず、辛辣な言葉が口から滑り落ちる。
「突き放される側の身にもなってくださいませ。わたくしがどれほど、その未来を恐れて準備してきたか」
レオンハルトの瞳が、わずかに揺れる。
後ろで、リリアが小さく息を呑んだ気配がした。
「エリス様……」
彼女の震える声に、わたくしはようやく気づく。
この場で、自分だけが登場人物ではないのだと。
レオンハルト。リリア。そしてわたくし。
三人とも、それぞれの「物語」を抱えてここにいる。
(……そうよね。わたくしだけが、好き勝手に脚本を書き換えられるわけじゃない)
わたくしは深く息を吸い、レオンハルトを見据えた。
「殿下。いえ、黒川先輩」
「ここではレオンでいい」
「では、レオン様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんでも聞け」
「わたくしと婚約を続けることは、王太子殿下として、この国のためになりますか?」
レオンハルトは、すぐには答えなかった。
考え込む癖は、前世から変わらない。
やがて彼は、静かに首を振った。
「……正直に言えば、リリアを王妃に据えた方が、この国の信仰と魔力の均衡のためには、良いだろう」
リリアの肩がぴくりと震える。
わたくしは、その横顔を見つめる。
(そう。そうなのよ)
リリアは聖女だ。この世界の「システム」に愛された、特別な存在。
彼女を王妃にすることで、国はより安定する。ゲームのシナリオも、その前提で組まれている。
「ですが、」
レオンハルトは、わたくしの手を握り直した。
「それでも俺は、お前を手放せない」
「個人の感情で国政を歪めるおつもりですか」
「王は、人でしかいられないときもある」
真っ直ぐな瑠璃色の瞳が、わたくしを射抜く。
「高梨。お前は前の世界で、何度言った? 『会社のため、プロジェクトのためって、自分の生活を削り続けたら、いつか壊れますよ』って」
「それは……」
「俺はあの世界で、お前の言葉を守らなかった。守れなかった。だからこそ、この世界では、俺の心を、俺自身で選びたい」
その言葉は、ずるかった。
だって、それは――
(わたくしが、前の世界で一番欲しかった言葉だから)
社畜時代、どれだけ残業をしても、どれだけ体を壊しても、会社はわたしを褒めこそすれ、止めてはくれなかった。
自分の心を、自分で選んでいいのだと、誰かに言ってほしかった。
それを、いま、この世界で、レオンハルトがくれるなんて。
胸の奥が、熱く、痛く、苦しくなる。
そこへ、おずおずとリリアが口を開いた。
「エリス様……」
「ええ。リリアさん」
わたくしは彼女に向き直る。
彼女の青い瞳は、涙で潤んでいた。
「わたし……ずっと、エリス様が怖かったんです。本当は優しい方だって分かっていたのに、王太子殿下の婚約者だから、近づいちゃいけないって、自分に言い聞かせて……」
「そんなに堅苦しく考えなくてもよろしいのに」
「でも。今日、殿下がエリス様を選ぶのを聞いて、やっと分かりました」
リリアはぎゅっと拳を握り締めた。
「わたしも、自分の心を、自分で選んでいいんだって」
「……リリア?」
「だから、殿下。わたしは――」
彼女は涙を拭い、まっすぐレオンハルトを見上げた。
「王妃にはなりません」
夜気が、一瞬止まった気がした。
「わたしは聖女として、この国全体を守りたい。王妃になるよりも、ずっと遠くから、皆のために祈りたいんです」
「しかし、それでは――」
「殿下。エリス様を悲しませたら、聖女の祈りなんて届きませんよ?」
小さな笑みを浮かべるリリアは、ゲームのどのスチルよりも凛として美しかった。
(……参りましたわ)
わたくしは思わず、くすりと笑ってしまう。
「リリアさん。本当に、逞しくなられましたわね」
「エリス様のおかげです」
彼女は胸を張る。
「エリス様が、いつも現実的に、でも諦めずに道を作ってきたから。わたしも、自分の道を選びたいって思えました」
その言葉は、わたくしの胸の奥に静かに沈み込んだ。
わたくしが、この世界でやってきたことが、誰かの心を変えていたのだ。
破滅回避のためだけではなく、ちゃんと、誰かを支えていた。
(……なら)
少しくらい、自分のためにわがままを言っても、いいのかもしれない。
*****
「殿下」
わたくしは、改めてレオンハルトを見上げた。
「わたくしは、王妃には向きません。自由に動ける立場でなければ、窮屈で仕方がないのです」
「知っている」
即答だった。失礼ではなくて?
「しかし、王妃ではなくとも……俺の隣に立つ方法はいくらでもある。王家の補佐役として、政務の片腕として」
「それはつまり、前世と同じく、隣の席で残業をしろと?」
「今度は、定時で帰れるようにする。俺が王だ。残業は悪だと法律に書き込んでやるさ」
「そんな前代未聞の法令、歴史書に載りますわよ」
「いいだろう。『残業撲滅法』。かなり響きがいい」
(この人、本当に王様になる気があるのかしら)
思わず天を仰ぎたくなる。
だが、笑いながらふと気づいた。
この人となら。
前の世界で果たせなかった「まともな暮らし」を、もしかしたら掴めるかもしれない、と。
「……分かりました、殿下」
わたくしはゆっくりと、手を差し出した。
「王妃にはなりません。ですが――あなたの隣の席は、またお借りいたします」
レオンハルトの瞳が、ぱっと輝く。
「それはつまり、イエスと受け取っていいのか?」
「プロポーズの文言としては、三割ほど不満が残りますけれど……ええ。イエスですわ」
次の瞬間、わたくしは強く抱きしめられていた。
前世と同じ、少しだけインクの香りの混じった、あの先輩の匂い。
「高梨。いや、エリシア。今度こそ、一緒に生きよう」
「……はい。レオン様」
横で、リリアがぱちぱちと拍手をしていた。
「お似合いです、お二人とも! あの……もしよろしければ、わたしの祈りのための教会、建てるときはお手伝いしてくださいますか?」
「当然だ。国家予算の許す限り、最高の教会を建てよう」
「予算はわたくしが管理しますわよ、殿下」
三人で笑い合う。
夜風が、バラの香りを運んでくる。
ふと、遠い記憶がよぎった。
終電を逃した夜、窓の外のネオンを見上げながら、先輩がぽつりと呟いた言葉。
『いつかさ、どこか別の世界で、ちゃんと生き直せたらいいのにな』
(……そうでしたわね、先輩)
わたくしは、胸の奥でそっと呟く。
(ここが、その「どこか別の世界」。ならば――今度こそ、ちゃんと、生き直しましょう)
王太子殿下と、聖女と、元社畜悪役令嬢。
三人で選んだこの未来が、きっと「異世界恋愛物語」なんて軽い言葉では括れないほど、長い物語の始まりなのだとしても。
今はただ、この瞬間だけは。
彼の腕の温かさと、リリアの笑顔と、バラの香りを胸いっぱいに吸い込んで――
わたくしは、小さく微笑んだ。
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