お嫁ちゃんはラブコメをしてみたい
「唐突ですが、ラブコメをしたいと思います」
黒ぶち眼鏡をクイとさせて、嫁さんがそんなことを言い出した。
「…………はい?」
「何ですか、旦那さん。その『この人、何か変なこと言いだしたんですけど』といわんばかりの顔は?」
「いや、まさに心読まれたとしか思えないレベルでその通りなんだけどさ」
「はぁ、やれやれ……」
固まっている俺に、嫁さんはため息と肩をすくめるという、『分かってないヤツに向けるリアクションの双璧』を同時にカマしてくれた。
え? 何? 俺がそのリアクションされる側なの?
「……えーと、お嫁さん?」
「何でしょうか、旦那さん」
キョトンとしている嫁さんは可愛い。可愛いのだが、
「どーしていきなりラブコメ?」
「まさかそんなことをきかれるだなんて!?」
「すげーな、『!?』まで含めて棒読みだよこの人。……で、何で?」
重ねて尋ねると、嫁さんはまたいきなりキョロキョロと部屋の中を見回し始めた。
「旦那さん」
「はいな」
「この部屋を見てください。アパートです」
「ですね。俺と君が住んでるアパートですね」
「私と旦那さんはここで1年半暮らしてますね」
「ですなー」
「旦那さん」
「はいな」
「旦那さんと私はお見合い結婚ですね」
「ですなー」
「なのでこれは、ラブコメをしなければ、と!」
「んんんん?」
拳を握り締めて、今度こそ力説する嫁さんを前に、俺は首を右45度に傾けた。
何だ、今の文章の繋げ方。理屈的に鳥人間コンテストの優勝グループ並の大飛躍をしていまいか?
「とゆーわけで……」
「お嫁さん、待って、待って」
「はい」
俺が制止すると、嫁さんは俺の前にちょこんと正座した。
「お見合い結婚だからラブコメをしなければならない、と、お嫁さんはそう仰せなのですね」
「おっしゃる通りです! ふんす、ふんす!」
「あら鼻息荒い。……つか、何でいきなり?」
「はい、実はですね!」
「あら元気いい。……はい、実は?」
「じゃじゃーん!」
大きな声で効果音を出すと共に、嫁さんは文庫サイズの本を取り出して見せた。
「ラブコメのす~ゝ~め~!」
「こないだ実家帰ったときに、姉ちゃんに勧められてたヤツですね」
「その通りです!」
ははぁん? 何となく見えてきたぞぅ。
「つまり」
俺はそこで一度区切って、嫁さんの様子を伺った。
「お嫁さんはその本を読んで、ラブコメしたくなった、と」
「なのです!」
ブンブンと、嫁さんは首をすごい勢いでタテに振った。赤べこか。
「…………必要?」
「必要です!」
問う俺に、嫁さんは正座したままズズイと迫ってくる。器用だなこの子。
「だって、お見合いでしたから……、こう、恋愛のキュンキュンとかなかったじゃないですか?」
「あー、だからラブコメしたいのか……」
「ですです!」
ここまで言われて、俺もようやく嫁さんの言わんとしているところは理解できた。
お互い、すでに20代半ば過ぎ。お見合いで結婚したはいいが、嫁さんの言う通り、恋愛をしていた期間は無きに等しい。
「……お嫁さん?」
「何ですか、旦那さん」
「実は結構、恋愛に憧れてたりしました?」
「えぅっ」
嫁さんが短く鳴いてのけぞった。図星だったらしい。可愛いな。
「えと、その……」
「そういえばお嫁さん、恋愛経験あんまりないって言ってたもんね」
「じ、実はあんまり、じゃなくて……」
俺の言葉に、嫁さんはおずおずと手をあげてきた。むむ?
「何ですか? 本当は恋愛経験豊かだった、とか?」
「あの、ぎ、逆……」
「逆とな」
「あんまり、じゃなくて……、まったく……」
「ほぉ! 恋愛経験皆無! まったく少しも! なのですね!」
「えぅー」
俺がそこをことさら強調すると、また鳴いた。
まぁ、知ってたけどね。
嫁さん、明らかに恋愛できるようなタイプじゃない感じだったし。
「ち、中学高校とず~っと図書委員してて……、大学もその、あんまり外に出てなかったから……」
正座したまま、嫁さんがうつむき加減で何やら言い訳を並べ立てている。
何でそんな縮こまってるんですかねぇ、この眼鏡っ子。
「……いやー、よく俺と結婚しましたね、お嫁さん」
「人生最大の決断でしたっ!」
いきなりこっちに顔を上げた嫁さんの表情は、一転して明るかった。
「で、ラブコメしたくなったんですね」
「はいっ!」
「じゃあする?」
「え、何をですか?」
何でそこでキョトンとするの?
「ラブコメ」
「えええええええええええ! いいんですか!?」
何でそこで超ビックリするの?
「だってお嫁さん、ラブコメしたいんでしょ?」
「はい、したいです! ……こう、……ってくらいしたいです!」
そっかー、言語化するにも時間かかっちゃうレベルでかー。
うーん、しかし悪い気もしない。
俺をキュンキュンしたい相手に選んでくれた、ってのがほんのりうれしい。
まぁ夫婦だけどさ。そこはそういうんじゃないんだよなー。と、自分に何でか言い訳をする。
「します? します? ラブコメします?」
正座したまま、嫁さんがさらにズズイと迫ってくる。
瞳の輝き具合がパネェんですけど。
「お嫁さん、ちょっと落ち着いて」
「はい」
俺が言うと、嫁さんはピシッと背筋を伸ばして正座しなおす。鮮やかで速やかな、聞く姿勢へのチェンジだった。
そんな嫁さんに、俺は質問した。
「具体的に、ラブコメって何するんですか?」
「はい、この教本によるとですね!」
嫁さんは片手に持ってた『ラブコメのすゝめ』を颯爽と開いた。
あ、教本なのね、それ。
「ラブコメには重要な準備が1つと、愛を育む大切なシチュエーションが4つあるそうです!」
「へぇ~」
初耳。
「じゃあまずは準備から?」
「はい、そうです!」
「どんな準備?」
「え、え~っと……」
俺の尋ねられた嫁さんが、教本をペラペラめくって中身を確認し始めた。そして、
「ん、んっ、っんー! うん、コホン!」
何かいきなり咳き込み始めたんだけど……?
「……お嫁さん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。わた……、じゃなかった! ボクは全然平気ですから!」
「んんんん?」
「……どうかしましたか?」
「え、準備って……?」
「ヤですねー、旦那さんは。ほら、変わったでしょ? わた、じゃない、ボク!」
準備ってボクっ子になることですか!?
「……自分のこと呼んでみてくれます?」
「はい? わた……、じゃない! ボク!」
「お嫁さん」
「はい」
「無理してません?」
「してません! 私、無理なんてしてませんよ!」
「私って言っちゃったじゃん」
「あっ」
俺が指摘すると、嫁さんは口に手を当ててめっちゃ目を丸くしてた。
「わた……、んっ、コホン。ボクはボクですから!」
「頑張ってるのは認める」
「ありがとうございます!」
「でもラブコメの準備がボクっ子になることというのは認めぬ」
「えぅっ!?」
嫁さんが鳴いた。
しっかし何が準備だよ、『ラブコメのすゝめ』。怪しいわー。
これ、あとの4つの大切なシチュってのもどうなんだろうなー。
うーん……。大丈夫か?
「と、とにかくですね! ボクはこれから旦那さんとこの『愛を育むシチュエーション』をしたいんです!」
「あ、うん。内容によるけど、いいよ。どんなの?」
「わぁ……」
俺がうなずくと、嫁さんの顔がパァっと明るくなった。
「じゃあまずは『朝、学校に遅刻しそうな男の子がパンを加えて走ってたら曲がり角でヒロインと激突!』からですね!」
「タイム」
「はい」
俺のタイムの宣言に、嫁さんはまた背筋を伸ばして正座した。
「何そのシチュ! ベタ過ぎません!?」
「旦那さん、ベタっていうのは大事ですよ。王道ってことですから!」
「いや、そもそも俺も君も学生ちゃうやん? 俺リーマンで、君専業主婦やん?」
「心の中の高校生を復活させるのです!」
「今日はやたらグイグイ来るね、お嫁さん!?」
こんな彼女ですが、いつもは控えめで大人しい楚々とした女性なんですよ。
本当ですよ。
「ではラブコメです! 『いけなーい、遅刻遅刻! 曲がり角でドーン★』を――」
「でも今日雨だよ」
「…………」
俺と嫁さんは一緒になって窓の方を見た。
外では、雨粒が勢いよく窓を叩いている。
その様子が、ここからでもはっきりと見て取れた。
フルフル震えつつ、嫁さんだけが俺の方に向き直った。
「あ、明日……」
『――なお、接近中の台風の影響であさってまでは雨が続くでしょう』
嫁さんにとっては無情すぎる天気予報が、テレビの方から聞こえてきた。
「えぅー……」
嫁さんがションボリして鳴いた。猫なら耳ペタンしてるパターンのアレだ。
「でもあと3つあるんでしょ。シチュ」
「はっ!」
俺が言った途端に、嫁さんが再起動した。
すごい。
バネ仕掛けみたいに跳ねたよ、この子。
「わた、……ボクはまだあきらめません! そうです、まだあと愛を育むための方法は3つあるんです!」
「鼻息荒いなー! 前髪揺れちゃうよ!」
「旦那さんは前髪が揺れててもカッコイイので問題ありません! では、2つめです!」
「ハイ、2つめ、どんなの?」
「えーっと」
嫁さん、教本のページをめくりめくり。
「『ヒロインがお風呂に入ろうとしていることを知らずにお風呂場にやってきた主人公。服を脱いで裸になってるヒロインと遭遇してドッキドキ★』です!」
「ベタだー! ベタオブベタ! いや、王道だけどさー!」
ラッキースケベは愛を育むシチュエーションと呼べるのだろうか。
俺の中に湧いてしまう、きっと至極普通の感想。
「…………」
そして、嫁さんは読み上げた直後から何やら難しい顔になっていた。
「どうかしましたん、お嫁さん」
「あのー……」
「はいな」
「そんなにドキドキしますか、これ」
「…………」
彼女の口から出たその疑問に、俺も同意するように首をひねった。
「まぁ、ねぇ……」
「ええ」
「「いつも一緒にお風呂入ってますもんね」」
俺と彼女の言葉が重なった。
「そもそも違うタイミングでお風呂……? えぇ~……」
嫁さんが、理解できないといった様子でさらに首をひねった。
俺はそこでひとつ気づいたことがあった。
「お嫁さん」
「何でしょう、旦那さん」
「もしかしてあなたが持ってるその教本」
「はい」
「対象者が中高生に限られるのでは?」
「――――ッ」
眼鏡の奥で、嫁さんの目がカッと見開かれた。
「その可能性は、考えていませんでした」
彼女はその顔に深刻なものを浮かべて、唇をにわかに震えさせながら『ラブコメのすゝめ』に目を落とした。
その表紙には、露骨なまでの萌えイラストが描かれているのだが、衣装がセーラー服。
ううむ、これは――
「み、3つめのシチュエーションがあります!」
だが嫁さんはどうやら、まだラブコメをあきらめていないようだった。
普段は大人しめの彼女を何がここまで駆り立てるのか。
まぁ、わからんわけではないのだけど。
ここまで来れば、俺としてももはや気分は『毒も食らわば何とやら』。
嫁さんの気が済むまで付き合う所存である。
「で、3つめは?」
「はい!『意を決して告白したけど相手が突発性難聴を発症して聞こえてませんでした★』です!」
「それは王道っていうか、『できの悪いラブコメあるある』なのでは?」
「そ、そんなことは……」
嫁さん、否定しようとするも、目が泳いでるんだよなー。
「じゃあお嫁さん、俺に告白してみてよ」
「はい!?」
「だから、告白」
「え、あ、私が、ですか……?」
このお嫁ちゃん、ボクっ子演技も忘れるレベルで動揺しちゃってるぞー、おーい。
「うんうん、そうそう。ほら、早く」
ちょっと、いじめっ子な気分になりつつ、俺は笑顔で嫁さんを急かした。
嫁さんはその目を幾度もしばたたかせながら、頬を軽く朱にそめて、
「あ、あの……、その、好き、です……」
うつむき加減で、恥じ入った感じのか細い声での告白に、俺の胸がドキンとすくむ。
あ、これヤバイな。
ヤバイ。
すごいヤバイ。
だが――
「え、ごめん聞こえなかった。今、何か言った?」
「えぅっ」
嫁さんの顔が一気に青ざめた。
「ぁ――――」
しかも泣きそうに歪んでる。アバー!?
「ウソウソウソウソウソウソウソウソ! 聞こえてた、ちゃんと聞こえてたかーらー!」
俺は慌てて身を乗り出し、嫁さんを両腕で抱きしめた。
あ、クソ、スンスン泣いてる声が聞こえる。
この教本ダメだよー! 全然ダメだよー!
こんなもんお勧めしやがって、恨むぞ姉ちゃんッ!
「あう、あの、私、旦那さんに嫌われてません……、か?」
「嫌ってるわけないじゃないですかー! もー! 好き好き大好き愛してるってばー!」
「……ホント?」
「ホントホント、チョー本当! 神にも仏にもご先祖さまにも誓ってホント! 愛してるって!」
「ぅ~……」
嫁さんの方から、俺にすがりついてきた。
よっぽど告白をいなされたのが堪えたらしい。
告白を聞いてなかったとか、リアルじゃ絶対やっちゃいかん案件だということを、俺は骨身に実感した。
「……もう、ラブコメやめとく?」
泣き止みそうな嫁さんに確認してみようとする。
すると、声での返事はなく、しかし俺の腕の中で彼女はその頭を横に振ってきた。
君、無駄に不屈ですね!?
「えー、じゃあ4つめのシチュエーション、見てみる?」
「……ぐす、はい」
しゃくりあげながらも、嫁さんのうなずきは力強かった。
今、『ラブコメのすゝめ』は床に転がっている。
嫁さんは両手を俺の体に回して、抱き着いているためだ。
俺は本を拾い上げると、4つめのシチュエーションが載ってるページを探した。
「お、これか――」
ページ冒頭にデカデカと『ラブコメをキメろ! アイハグシチュその4!』とか書いてある。
アイハグシチュ……、ああ、愛を育むシチュエーション、か。
何でも略せばいいとか思ってるのは日本人の悪いクセだよなー、と思いつつ、俺はそこにあるシチュを読んでみた。
「『ハーレム』」
「ふぇ?」
言った俺を、嫁さんが見上げた。
俺はパタンと『ラブコメのすゝめ』を閉じると、そのまま嫁さんをギューっとハグった。
「ひゃっ、だ、旦那さん……?」
「うん、何でもない何でもない。何でもないからこのままお嫁さんを抱き枕にします」
「何でー!?」
閉じた『ラブコメのすゝめ』をその辺にほっぽって、俺は嫁さんの抗議に構わず熱烈に抱擁する。
とりあえずこのバカ本を嫁さんに勧めた甘党の姉ちゃんには今度逆襲の激辛料理を振る舞うことを固く誓った。
「あ、あの、あの、旦那さん……?」
「何かなお嫁さん。言っておくけどしばらく離さない――」
「旦那さん、あったかいです……」
ちょっとはにかんだ様子で言って、嫁さんがその頬を俺の胸板にすりすりしてきた。
「…………」
「ひゃっ、旦那さん、あの腕、力こもってます。きついですぅ~!」
嫁さんが苦しげに足をバタバタさせている。
でも無理です。ダメです。
ちょっと嫁さん可愛すぎます。
しばらくこのまま嫁さんを堪能します。
「えぅ~、助けてくださ~い!」
「フハハー、このまま俺とイチャラブするがいいんだぜー」
「はいぃ~」
あ、そこは素直なのね。
と、ゆーわけで、別にラブコメする必要もなく、俺と嫁さんはイチャイチャと夫婦の時間を過ごすのでありました。
なお、のちの姉曰く、
「あんたらお見合いでの結婚だけど、お互い一目惚れだから今まさに恋人期間真っ最中だよね」
とのこと。
だったら何であんな本をお勧めした!?
テメェ、激辛麻婆豆腐で咳き込ませてやらぁ!
などと激怒する俺を嫁さんが必死になって止めたりしたが、それはまた別の話である。