8 甘党
「はい、今日はここまで」
「せんせ、ありがとうございました」
茶道教室の生徒さんたちが三々五々帰って行くけれど、一人、最古参の佳代子さんが帰らない。
「どうしたの? お姑さんが待ってるんじゃないの?」
「お姑さんが待っているから、帰りたくないんですってば」
「それもそうね。佳代子さんを虐め倒したあの婆さんも、いまじゃ佳代子さんなしじゃ生きられない、か。皮肉なものね」
「まるで何もなかったような顔をして、私の世話になっていますよ」
佳代子さんの旦那さんは腰抜けで、母親が妻を虐めていることを知っていたのに注意できずに知らん顔をしていた。佳代子さんがあまりの仕打ちだと訴えても「家の中のことはお前の仕事だろ? 俺は外で戦ってんだ。帰って来てまでガタガタした話は聞きたくないんだよ」とぬかしたらしい。
その挙句に若い女に入れあげた。佳代子さんには結婚記念日も誕生日も知らん顔していたくせに、カードでブランド物のバッグを買っていたとか。
だがある日、その女の家に行く途中で居眠り運転をして下り坂で電柱に突っ込んだ。腰抜けのマザコンは近所中を停電にしてからあの世に行った。
そして現在、意地悪ばばあが寝たきりになって生きている。
「昨日、美鈴ちゃんを見ました」
「えっ。どこで?」
美鈴はどうしようもない男と駆け落ちして三年。ずっと探している私の娘だ。
「新大久保のバーの前で、お客さんに『またどうぞ』って言いながら見送っていました。はい、これが店の名前と住所」
私は高木さんの手をギュッと両手で握った。
「ありがとう、佳代子さん。恩に着ます」
「せんせには散々お世話になったじゃないですか。これはほんのささやかな恩返しです」
佳代子さんを見送り、着物を洋服に着替えた。新大久保を目指して家を走り出る。
大通りでタクシーを拾い、美鈴がいたという店の前につけた。「料金は払いますから、ここでこのまま止まっていてくれる? 料金がいくらになっても払います」と頼むと、タクシーの運転手は嬉しそうな顔をした。
夕方の五時まで待っていたら美鈴がきた。別人かと思うほど痩せて、下品で派手な化粧をしている。艶やかだった長い黒髪は、パーマを当てていてパサパサに傷んだ茶色だ。
タクシーを降りて駆け寄り、「美鈴」と声をかけると、娘は驚いた顔をした後にみるみる涙を浮かべた。
「ママ……」
「あなたまだあの男と一緒なの?」
美鈴が私の肩にぽすん、と頭を載せて小さく首を振る。
「陽介には今、他の女がいる」
「別れたの? だったらなんでおうちに帰ってこないの!」
「借金があるの。陽介に頼まれて断れなくて、町金でお金を借りて、私はそれを返さなきゃならない」
「借金はいくらなの」
「今は確か二千万くらい。毎週利息を返さないと私、陽介に風俗に売られちゃう」
陽介の顔が浮かぶ。嘘くさい笑顔の顔だけの男。きっとこういうことになると思っていた。
「わかった。そのお金はママが払う。だから家に帰ってきなさい」
「いいの? ママ。ありがとう。ごめんなさい」
「我が子がよくよく困っているんだもの。親なら助けるのが当たり前よ。さあ、帰りましょう。ママがお店の人に事情を話してくるから」
美鈴は家に帰ってお風呂に入り、ガツガツと食事をして眠っている。青白い肌色。乾いた唇と肌。まだ二十三歳なのにずいぶん疲れて老けて見える。
美鈴はしばらく呆けたように寝ては起き、食事をしてまた眠るという生活を繰り返していたが、最近になってやっとアルバイトを始めた。それでいい、陽介という男は一瞬だけ美鈴と人生が交差しただけ、と思っていたのだが。
今日、陽介が我が家に来た。美鈴の借金がまだあると言っている。
「わかりました。今、警察を呼びます。警察署でどちらの言い分が正しいか、話し合いましょう。先ほど弁護士にも連絡しました。きっちり話し合いましょうか」
私がそう言うと「それはどうでしょうね。美鈴の恥ずかしい写真をうっかりネットに流してしまわないよう、気をつけますね」と言う。
なるほどね。美鈴に借金をさせただけじゃ足りなかったわけだ。
泣いている美鈴に「大丈夫よ。あなたには弁護士さんがついているんだから」と慰めて寝かせた。
深夜にティラミスを作った。一人で食べきるのに、ちょうどいい大きさのティラミス。
そう言えば、佳代子さんの夫は私が作るティラミスが大好きだったっけ。
翌日、私は陽介のマンションを訪れ、二度と美鈴に関わらないことを条件に手切れ金を渡してきた。おそらくこれで手が切れることはないだろうが、それでもいいのだ。縁が切れるまで、何度でも手切れ金を渡せばいい。
陽介は私が持って行ったティラミスをバクバク食べた。甘党なのは美鈴から聞いている。私も毒が入っていないことを証明するために一切れ食べた。
陽介のマンションを出て、待ち合わせをしていた佳代子さんと喫茶店でお茶をした。お茶の途中で紙包みをテーブルの上に置いた。中身は私が病院で処方された睡眠薬だ。佳代子さんは何も言わずに紙包みをバッグにしまった。きっと、薬をどこかに捨ててくれるだろう。私は眠気と戦いながらタクシーで家に帰った。
大田川陽介がニュースに出ている。美鈴と二人でテレビ画面を眺めた。
夜更けの繁華街で、陽介は睡眠薬を飲んでスクーターに乗り、対向車線にはみ出してトラックと衝突した。心肺停止の状態で病院に運ばれたものの、すぐに息を引き取ったらしい。あの男にふさわしい最期だった。
あの男の事故死から五年。
美鈴は派遣で働いていた会社で見初められて、誠実そうな人と結婚した。もうすぐ孫が生まれる。佳代子さんが、お祝いを持って遊びに来てくれた。
「せんせ、よかったわね」
「本当にね。あの男が死んでくれたのは、神様の思し召しよね」
「そうよねえ。私たちは真面目に暮らしているんだもの。このくらいのご褒美があってもいいわよね」
「おたくのお姑さんも無事に亡くなったしね」
「最後は肺炎でずいぶん苦しんで。気の毒でしたわ」
「そう。気の毒ねえ。でも、苦しんだのは罰が当たったんじゃない?」
「どうでしょうねえ。そうかもしれませんねえ」
近所の和菓子屋さんで買ってきたおはぎが、甘くて美味しい。
私も佳代子さんも、薬は飲まない。薬を常用していると、それが胃腸薬であれ睡眠薬であれ、いつ他の薬にすり替えられないとも限らない。または知らず知らずのうちに過剰摂取になってしまったり、ね。
「ティラミスの苦みは、薬の苦みと相性いいのよね」
私がそう言うと、佳代子さんが「くくっ」っと笑った。
「せんせ、私たちは棺桶に片足を突っ込んでいる年齢なんですから、余計なことは言いっこなし。墓場まで持っていく荷物を落としたりしないで」
「ああ、ごめんなさいね。私、今何か言ったかしら?」
「いいえ、なにも。せんせ、おはぎもうひとついただきましょうか」
「そうね。たまには二個食べてもいいわよね。中性脂肪の数字のことは忘れましょう」
さっきは粒あん。今度はきなこのおはぎを、私は小皿に載せた。
翌日、美鈴が大きなおなかで遊びに来た。
「ねえママ、ママは一人暮らしが寂しくないの?」
「寂しくないわね。教室の生徒さんとお出かけしたりしているし」
「パパはさっさと天国に行っちゃって、ママは私を一人で育ててくれて、苦労したよね」
「そうねえ。でも、お教室の収入があったから、お金の苦労はしていないわ」
これは実話なんだけど、お酒を飲むと人が変わる夫がいたときより、夫が亡くなってからの方がずっと楽しい。
「パパはママが作るケーキが好きだったんでしょう?」
「そうね。酒飲みなのに、甘いものも好きだったわね」
「私、パパの記憶がないけど、パパはどんな人だった?」
「優しい、仏様みたいな人だったわよ。あんまりいい人は、神様が自分の近くに置いておきたくて早死にさせちゃうって言うわよね」
「そっかあ」
当時は美鈴が小さくて、夫が酒乱だったことを何も覚えていないのはとても幸せなことだ。