12 憎しみの棘ボール
あえて今回は文章の頭の一字下げをしていません。
僕の住んでいる街は、電車で東京都内まで40分。
ただし最寄り駅まで車で40分。バスの便は少ない。
だから東京に行く人はほとんどいなかったんだけど、リモートワークが定着したあたりから引っ越してくる人がぽつりぽつりと出てきた。
うちの斜め前にある家は一人暮らしのおばあさんが階段から落ちて二日後に息子さんが発見したという家だ。二年くらい空き家だったけど、そこに母と娘の二人が引っ越してきた。そしてその子は僕と同じクラスに転入した。
名前は浮羽美央さん。色が白くて華奢な、前下がりのおかっぱカットの女の子だ。
「よろしくお願いします」
美央さんは僕の前の席に座って真面目に授業を受けているけど、僕は彼女が気になって授業に身が入らない。だって……。
美央さんの体を中心にして、人工衛星がグルグル回るように、リンゴくらいの大きさの、棘だらけの黒くて丸いものが二個、結構な速さで回っているんだよ。二個は初めて見た。今まで一個の人しか見たことがない。
僕には他人の黒い感情が見える。
憎しみ、恨み、妬み、そんなもの。でも、今までこんな悪意たっぷりの黒いものを見たことがない。たいていは薄黒いぼんやりしたものだ。でも彼女の黒いものは、触れられそうなくらいはっきりした形をしている。
あれは、浮羽さんの殺意だと思う。妬みや恨みなんて生易しいものとは思えない。
あんなものが向けられたら、その人が無事なわけない。
もちろん他の人にはそれが見えない。だから僕も見えることを言わない。言えばたちまちハブられるか病院送りだ。
幸いうちのクラスにいじめっ子はいないんだけど、浮羽美央さんはクラスで浮いている。
あの黒いものが見えないクラスのみんなも、彼女のヤバい雰囲気を感じるんだと思う。そこは人間も動物だから、彼女の異質さを肌で感じ取るんじゃないかな。
そんな浮羽さんと僕は今日、美化委員会に参加している。
先生が僕の相棒として浮羽さんを指名したからだ。先生ったら、「浮羽さんは美化委員会に入ってみたら?」なんて余計なことを言って。
校内ゴミ拾い週間を話し合っていても、全校生徒の机の中の定期点検について話し合っていても、浮羽さんの体の周囲には棘つきの黒い鉄球みたいなものがブン回っている。話を頭に入れろってのが無理だ。
なのにその浮羽さんが僕に初めて話しかけてきた。
「青山君、一緒に帰らない? 家同士がすぐ近所よね。おしゃべりしながら帰ろうよ」
「う、うん。いいよ」
断って恨まれたくない。
二人で歩きながら、僕は猛烈な勢いで近所の美味しいラーメン屋とか小さなショッピングモールのフードコートの話をした。弟が野球やってるとか、父さんが大工だとかも話題にした。
浮羽さんが興味を持っていてもいなくても、とにかく沈黙が怖かった。
「青山君」
「はいっ?」
「青山君は見える人なんだね。初日からずっと私の体から少し離れた場所を見てる」
「僕はっ! 浮羽さんの体なんて見てないよ!」
「だから私の体から少し離れた場所って言てるじゃない」
「うん、そうだったね。ごめんね」
あまりに恐ろしくて、背中にじっとり汗をかいてきた。
「この黒い棘ボールはさ、誰かを殺したいほど憎むと出てきちゃうの」
「えっと、それは浮羽さんが今現在、誰かを殺したいほど憎んでいるってことだよね?」
「だからそう言ってるってば」
「ごごごごめんなさい」
「そんなに怯えないでよ。青山君のことを憎んでいるわけじゃないから」
そこで浮羽さんが黙り込んだ。家まであと少し。もうこの話の先を聞きたくない。早く家に着いて、玄関ドアと全部の窓に鍵をかけて、ゲームをしたい。
だけど僕のそんな願いは簡単に打ち破られた。
「小野さんてさ、うざいよね。引っ越してきたその日の夜にはうちに来てさ。お父さんはいないのか、なんでいないのか、離婚したのか死別したのかってお母さんに聞いてた。生き生きしちゃって楽しそうだったわ」
小野さんは町内のボスみたいなおばあさんで、70代。町内会のために市役所にいろんなことを掛け合ってくれるんだけど、その見返りみたいに町内を仕切る。人の家のことに首を突っ込んで指導する。
ゴミ回収所に出されたゴミを「片づけ」と称して中を見る。そしてごみの内容からわかったことを楽しそうにしゃべる害獣ならぬ害老人だ。
「一番許せなかったのはさ、私に向かって『可哀想にねえ。うちの子たちは全員両親揃ってるうちに社会人になれて恵まれてるわ。感謝してもらわなくちゃ』って言ったこと。ご馳走を食べ終わった猫みたいな嬉しそうな顔で、何度も私を『可哀想』って言ったんだよね。お母さんがしょんぼりしちゃってさ。クソババア、地獄に落ちろって思った」
「あの人、人の神経を逆撫ですることを言うらしいね。うちの母さんも引っ越してきたばかりの頃は、小野さんにずいぶんいろいろやられたみたいだよ」
「お母さんがパートに出る前の忙しい時間にうちに来て、家族の自慢話をするらしいよ。その上でお父さんのこともしつこく聞くんだって。最低。お母さんが可哀想でさ」
うちの母さんが言うには、小野さんの旦那さんは上級公務員で、なんとかいう国会議員のために答弁の文章を書いていた次官だったとか。自分の実家が代々庄屋だったとか言ってるらしい。
庄屋って。いったい何時代の話だよと僕だって思うけども。
それでも殺したいと思うほど憎んだことはない。
やっと家に着いて「じゃ」と分かれた時は、手のひらが汗で濡れていた。
その夜の早い時間、近所にいろんなサイレンの音がした。パトカー、消防車、救急車。すごく騒がしかった。
父さんと母さんは仕事でまだ帰っていない時間で、僕は布団にくるまってその音を聞いていた。外に出たら浮羽さんに会いそうな気がして、窓の外を見ることもできなかった。
やがて母さんが帰り、さっそく近所の人と電話でやり取りしている。
「まあ! ほんとに? やだ、恐い。それで?」と、恐がってもいたが好奇心の気配もした。
「悠斗、大変よ。小野さんの奥さんが、悲鳴を上げながら杉山さんちに駆け込んだんだって。そして杉山さんのご夫婦が見ている前でどんどん血まみれになったらしいの。そんなことあると思う? ないわよねえ。今、杉山さんとこはご夫婦で警察に呼ばれてるんですって」
「え? 杉山さんが小野さんを殺すわけないじゃん」
「そうだけどさ、人間が突然体中を尖ったもので殴られたみたいに血を出すなんてことは、ありえないでしょ?」
「あのさ」
僕は全身に鳥肌を立てながら、母さんに一番聞きたかったことを聞いた。
僕が「浮羽さんはその時どこにいたか知ってる?」と聞いたら、母さんは知っていた。
叫びながらどんどん血まみれになっていく小野さんと、それを見て悲鳴をあげた杉山さんの奥さんの二人の悲鳴を聞いて、近所の人たちが駆けつけたそうだ。
町内の人たちが集まって、全員が悲鳴を上げたり救急車を呼んだりしているところへ、パート帰りの浮羽さんの母親と浮羽さんが仲良く手を繋いで帰ってきたとか。
「それがさ、浮羽さんの奥さんは話を聞いたその場で倒れて気絶しちゃったんだけど、娘さんのほうは血まみれで倒れている小野さんを見ながらニヤニヤ笑ってたんですってよ。気味が悪いわねえ」
翌日の学校は、ざわついていた。
凶悪な犯罪なんて聞いたこともなかった田舎の住宅街の学校だ。こんな怪奇現象みたいな事件に全員が不安そうにしながらも、はしゃいでいる。
浮羽さんは誰ともしゃべらず、机で本を読んでいる。僕は静かに彼女の後ろの席に着いた。
浮羽さんは冷静に授業を受けて、帰りに僕を誘った。
断る理由を必死に考えたけど何も思いつかなくて、黙って浮羽さんと並んで帰った。
「小野さん、死んじゃったね」
「……うん」
「私、お母さんと一緒でよかった。疑われずに済むもの」
「え? 疑われるも何も、他の人が見ている前で死んだんでしょ?」
「そうらしいね。怖いね」
声が明るくて、思わず浮羽さんを見た。浮羽さんは笑ってた。こんなに楽しそうな浮羽さんは初めてだ。
浮羽さんは、転入から半年もしないで転出していった。彼女に関して、クラスの誰にも何の記憶も残っていないと思う。浮羽さんはとにかく目立たない人だったから。
そもそも彼女と母親は、なぜこの街に引っ越してきたのか。母親がリモートで働く人ならともかく、パートならこんな不便な街に来る必要はなかったはずだ。
これ、実話なんだけどさ。
僕は高校生になってからやっと小野さんが死んだ事件を調べた。それまで、あの件に関しては新聞記事もテレビのニュースも避けてたんだ。
結局あの事件は未解決のままで、令和の怪奇事件としてしばらくマスコミをにぎわせたけど、犯人は見つからずに終わった。そりゃそうだ。複数の人間の前で、小野さんは何かに殴られながら死んだのだから。
小野さんの事件を調べた結果、同じような事件が過去に二件あるのを知った。
そのうちのひとつは、浮羽さんの父親が被害者だった。
浮羽雄次、三十三歳は、勤め先の工場で尖った何かで殴られているみたいに、あちこちに体をふらつかせ、悲鳴を上げ、血を流して死んだらしい。死因は脳挫傷。
そのとき、浮羽さんは五歳だ。週刊誌によると、父親は酔うと奥さんを殴る人だったらしい。近所の人は奥さんの悲鳴をよく聞いたし、警察に通報もしたそうだ。
もう一件は三年前。
子供にちょっかいを出して逮捕された経歴のある男が、同じような死に方をしている。これは僕も資料を読んでから、ニュースで見たのを思い出した。
これも未解決。
世の中には解決されない殺人事件がたくさんある。
浮羽さんみたいな力を持っている人は、この世に何人くらいいるんだろう。
僕は、よく無事だったなと思う。
僕が棘の生えている黒い球を見える人だってこと、気づかれていたのに。




