11 僕の最初の記憶
最初の記憶がどこから始まるのか、周囲の人に聞いて回っていた時期が僕にはあった。
たいていは幼稚園ぐらい。早くても五歳ぐらいだ。人によっては十歳以降のことしか覚えていなかったりする。
僕の一番古い記憶は二歳のときのものだ。父が母の肩を揉んでいる、夫婦仲のいい姿だ。うつぶせになった母の腰を揉んでいる場面もぼんやりと覚えている。
なぜその記憶が二歳の記憶と言えるのかというと、僕の三歳の誕生日に母の葬儀があったからだ。
後日聞いた話だが、母は駅のホームから転落して亡くなった。飛び込んだというより、つまづいて落ちたような感じだったそうだ。
誕生日のアイスケーキは冷凍庫に入ったまま出されず、いろんな人が家の中に入って来ていた。十歳の姉と三歳の僕は、葬儀が始まるまで子供部屋にいなさいと言われた。
母が死んだことを理解できず、「ケーキ、食べたい」と泣いた僕のために、姉が冷蔵庫からホールのアイスケーキを持ってきてくれた。アイスケーキは誕生日の前の日に配達されていた。
「切らずにこのまま食べようか」
「いいの?」
「いいよ。今日はみんな忙しいから、誰も何も言わないよ」
姉と二人でホールケーキに直接スプーンを刺して食べながら(これはいけないことだけど、楽しい)と思いながら食べた。その当時の僕は、母が死んだことを理解していなかった。
その後、七歳上の姉は本当に僕の面倒をよく見てくれていた。
母の後は僕が小学五年の時に祖父の葬式があった。祖父は階段から落ちて亡くなった。階段と風呂場は、家庭の中での死亡原因になりがちなのだと、近所の人が慰めのように教えてくれたっけ。
遠足の日と葬式が重なり、僕は祖父のために泣く一方で、薄情にも(遠足行きたかったな)と思いながら葬儀の白菊を眺め、読経を聞いた記憶がある。祖母は僕が生まれる前に交通事故で亡くなっていた。
◇
祖父の葬式から少しして、僕は母の実家の福島で祖父母と暮らすことになった。姉は高校生だったからか、そのまま父と家に残った。
僕が家を出る日、姉は僕を強く抱きしめて普段大切にしているクマのぬいぐるみを僕にくれた。
僕を抱きしめながら姉は、耳元で「後でクマの背中のチャックを開けてね。中に私の電話番号を入れておいた。困ったら電話しておいで。電話は必ず朝の八時から夜の六時までの間にね」とささやいた。
母方の祖父母は僕を可愛がってくれた。
僕から姉に電話するほどの用事はなかったけれど、時々、姉の携帯に電話した。大好きな姉の声が聞きたかった。
姉はいつでも最初の呼び出し音が鳴り終わる前に出てくれて「ケイちゃん、元気? 何か困っていることはない?」と聞いてくれたっけ。
「ないよ。でも、お姉ちゃんに会いたくて、ちょっと寂しい」
僕がそう答えると、姉は電話の向こうで泣いていた。
◇
これ、実話なんだけど、その姉が父親を殺した容疑者として逮捕されたのは、三週間前。
僕は高校を休み、拘留されている姉のところへ面会に来ている。
九年ぶりに会った姉は、実年齢より老けて見えた。
「ケイちゃん、ごめんね。迷惑をかけたね」
「僕は何も。お姉ちゃんこそ何があったの? 警察の人はなにも教えてくれないんだ」
姉は答えない。
「何か大変な事情があったんでしょう? お姉ちゃんは優しい人だもの」
「もう会いに来ないほうがいい。私のことは忘れなさい。ケイちゃんに迷惑をかけたくないの。それより私は、ケイちゃんが無事でよかったと思ってる。ケイちゃんが無事だったから、私の人生は大成功よ」
何を言っているのか理解できず黙っていると、姉がこんなことを言う。
「ケイちゃんはすごく記憶力がいいでしょう? だからずっとヒヤヒヤしてた。アイツが母さんの肩を揉んでたとか、腰を揉んでたとか、何度か言っていたじゃない? それもアイツの前で」
「うん」
「アイツはそんなこと、しない人だよ。母さんが電車に飛び込んで死んだのだって、私は本当はどうだったのか怪しいと思ってる。おじいちゃんだって、本当に階段から落ちて首を折ったのかどうか」
「え? まさかお父さんがやったと思ってるの?」
姉は穏やかな表情で僕を見て答えない。
しばしの沈黙の後、これだけは聞かなくてはと思った。
「どうしてお父さんを殺したの? 暴力を振るわれていたの?」
お姉ちゃんは僕を見て、少しだけ微笑んだ。
「殺さなきゃ、私が殺されるからよ」
「DVだったってこと?」
「そんな生ぬるいものじゃない。お父さんは壊れていたんだ。家の外では完璧な夫や父親だったそうだけど。家では相手が失神するまで首の動脈を絞めたり、二階から庭仕事をしているおじいちゃんのすぐ近くに植木鉢を落としたり。そうやって相手が驚いたり苦しんだりするのを見るのが大好きな人だった」
僕は大人しそうな眼鏡の父を思い出した。七三分けのきっちりした髪型。大きな声を出さない人。まじめな会社員。姉の言うことはあまりに僕の記憶と食い違っていて、思わず眉間にしわを作ってしまった。
「母さんでさんざんそれを楽しんで、次第にエスカレートして、ついにホームから突き落としたんだと思ってる。ケイちゃんが見ていたのは。肩や腰を揉まれていた母さんじゃないよ。幼いケイちゃんに見せつけるようにして、父さんに首の動脈を締められたり、馬乗りされて背骨を強く押されている姿だよ。母さんはいつか背骨が折れるんじゃないかって怯えてた」
「母さんはなんで逃げなかったんだろう」
姉は答えない。
「お姉ちゃんは父さんに何をされたの?」
「例えば、ある日階段に紐が渡してあるんだよ。私は引っかかって階段から落ちた。紐はすぐになくなっていたけど、紐は間違いなくあった。私が階段から落ちても怪我をしなかったのを見て、アイツは残念そうな顔をして見下ろしていた。その手のことは何度もあった」
「だったら逃げればよかったじゃないか!」
姉はまた澄んだ目で僕を見た。慈愛に満ちた優しい顔。
「私が逃げたらケイちゃんを手元に取り戻すって言っていたからね。母さんにも同じことを言っていたらしいよ。『逃げたら必ず見つけて、敬也は僕が育てるよ』って。ケイちゃんが高校を卒業したら、私も逃げようと思ってたんだけど、アイツ、寝ている私にライター用のオイルをかけたんだ。ああ、いよいよ自殺に見せかけて殺されるんだなって思ったから、隠し持っていたナイフで刺した」
姉は僕を見て微笑んだ。
「この話を信じてもらえれば、情状酌量してもらえるかもね。でもどっちでもいい。今は毎晩安心して眠れる。ケイちゃんも無事だった。ケイちゃんにはどう見えているかわからないけど、私の心は今、すごく平和で穏やかよ」
姉は「じゃあ、来てくれてありがとう」と言って立ち上がり、面会室から出ていった。
僕は立ち上がれないで座っている。
僕の人生最初の記憶は、仲睦まじい夫婦の姿ではなかった。
母が恐怖と痛みを堪えている姿だったのだ。