解体
床の上で動かなくなった彼女を、雨田は静かに見詰めていた。どうして彼女が動かなくなったのか、雨田には分からない。ただ急に彼女は動きを止めて、その暖かさを失ってしまったのだ。青白い雨田の手が、沈黙を続ける彼女に伸ばされる。床の上の彼女の肌はどこまでも白く、艶めいている。どうして、と雨田は心の中で呟いた。ぼくたちはあんなに上手くいっていたのに、と。
彼女と雨田の出会いは三年前に遡る。大型ショッピングセンターを当ても無くうろついていた雨田の眼に、彼女の姿が飛び込んできたのが全ての始まりだった。今と変わらない、艶やかな白い肌と優しげな緑の瞳に、雨田は人生で初めて一目惚れをした。それからは寝ても覚めても彼女のことばかりが頭を占めて、雨田の心は浮き沈みを繰り返した。どうすれば彼女にふさわしい人になれるだろう。薄い煎餅布団に包まって凍えながら、雨田は眠れずに寝返りを繰り返した。毎日、ショッピングセンターの片隅で一人物悲しそうに佇む彼女の姿を見ては、今日こそ声を掛けよう、と意気込んだ。一週間が経ったとき、なんと彼女のほうが雨田に声を掛けてきた。二人は両想いだった。
それからの日々はまるで常春のようだった。三年の間、お互いに少し距離を取り合ったりすることもあったけれど、雨田と彼女の関係は良好だった。
彼女の様子がおかしくなったのは、一昨日頃からだっただろうか。いつものように仕事を終えて帰宅した雨田を迎えてくれる声が、少しだけしゃがれていた。大丈夫?と声を掛けて身体を摩ると、彼女は緑の眼を細めて冷えた雨田の身体を温めてくれた。それで安心してしまったのだ。少しずつ体調を崩す彼女に気付いてやれなかったことを雨田は悔やんで悔やんで、悔やみ尽くした。指が彼女の肌をそっと撫でる。
動かなくなった彼女を見詰めて、暗い部屋の中、雨田は思考する。これから彼女を待ち受けるのはどんな運命だろう?命無いものと見做されて、炎に焼かれてしまうのだろうか。彼女の身体の上に置かれた雨田の手が強張る。彼女のことを何も知らない他人に、彼女を永遠に奪われてしまうのが恐ろしかった。けれど、いつまでも自分の手許に動かなくなった彼女を置いておくことも出来ない。ならば、と雨田の心にある思いが芽生える。彼女と日々を共に過ごした証を得よう。一生の思い出として取っておくことができるように。
静かに眠る彼女の白い額に口付けすると、雨田は立ち上がった。居間を通って台所に向かい、一番下の引き出しから昔集めていたあるもの達を取り出す。それは雨田の密やかな趣味の一部だった。彼女がここに来る前までは、輝く切先のそれを見て夜を過ごすのが雨田の愉しみの一つだった。暗く狭い一室でそんなことをしているとは誰にも言えず、また誰も訊かなかったので雨田の隠された趣味を知るものはいない。彼女でさえも、ひた隠しにしてきた雨田の秘密は知らなかった。この三年間ずっと封印しておいた収集物のカバーに掛かった埃を息で吹き飛ばす。数あるそれらの中から細長い数本を取り出すと、雨田は横たわる彼女の横に膝をついた。
自分が求めているものは何だろう。雨田は自問した。”心”、一文字が頭に浮かんだ。口数少なく控えめな様子で、はにかんでいた彼女の心が知りたい。それと、いつも自分を見詰めてくれた暖かな緑の瞳。
求めるものを確かにした雨田は彼女の頬を片手で包んだ。小柄な彼女を汚れの飛散を防ぐ青い化繊布の上に運び、その傍らに何本かの収集品を置く。部屋の電気を点けると、大きく息を吸って雨田は彼女の身体に鋭く光る切先を当てた。黙々と手を動かす雨田の目の前で彼女の肌が開き、その中が露わになる。激しい罪悪感と共に、微かな興奮が雨田の心に湧いた。剥がれ落ちた彼女の肌を恭しく化繊布の上に並べ、まずは美しい緑の瞳を取り出す。まだ光沢を失っていないそれは、彼女が動いていた時と同じように綺麗だった。取り出した瞳に白く伸びる筋が付いていることに気付いた雨田は頭を悩ませる。瞳と身体を繋ぐ白い筋は煌いて、切り取ってしまうことが躊躇われた。暫らく考え抜いた後、細心の注意を払って筋を根元から切る。緑の瞳と白い筋を大切にガーゼの上に置くと、雨田は再び息を整えて静かに横たわる彼女に向き直った。
瞳を無くしたその場所にはぽっかりと暗い穴が開いている。愛するものの無残な姿を煌々とした灯りの元で眺め、自分が行ったことのせいなのに雨田の胸は痛んだ。なるべく彼女の容を損ねないようにしよう、と雨田は独り心に決めた。宵闇の中から、寂しそうな猫の鳴き声が聞こえる。
完全なる無音の中で彼女の一部を手に取り、雨田は三年の間彼女と過ごしてきた日々を思い出していた。寒い夜、炬燵に入って蜜柑を食べる自分が語る仕事の愚痴を、彼女は只黙って聴いてくれたっけ。前面を覆う肌を慎重に剥がしながら思い出し、懐かしさが胸に込み上げる。複雑に入り組んだ彼女の中身は蛍光灯の白い光を浴びてきらきらと輝いて見えた。まだ温もりの残る身体の中にそっと手を入れ、雨田は目的の”心”を探す。静寂に包まれた部屋の中でかち、と小さな音がして、壁掛け時計が真夜中を告げる鐘を鳴らした。汚れた手を止め、雨田は額の汗を拭う。
探せど探せど、彼女の”心”は見つからない。一際大きい赤い管を握り、雨田は悩んだ。これを切れば、その奥にあるものを動かすことができる。けれどそんなことをしたら、彼女の容は二度と元に戻らないだろう。身体から取り出されて青い化繊布の上に置かれた中身にも眼を向ける。蛍光灯の元できらきらと輝くそれは、彼女の中に入っていたと思えないほどの体積があった。ここまで来たら、もう後戻りはできない。”心”を探すため、雨田は断腸の思いで彼女の赤い管に手を掛けた。絡み合っていた管が解けて奥のものが見える。それをそっと両手で包むと、一息に持ち上げた。
動かした後には、艶やかな皮膚の裏側が見えるだけだった。冷たい汗で濡れたシャツの奥で、肺が縮まる。どうして。すっかり冷えてしまった彼女を見詰める雨田の唇が動く。全てを見たのに、探したのに、”心”は見つからなかった。俯く雨田の喉から嗚咽が聞こえた。
目の前ですっかり解体されてしまった電気ストーブの外殻に、一粒の涙が落ちた。
つい先週、我が家の電気ストーブが動かなくなりました。
母が「この電気ストーブって電池で動いてたよね!」と言ったので、電池を入れる場所を探すか……とドライバー片手に解体開始。
結局、全部ばらばらにしても電池を入れる場所は見つかりませんでした。
そりゃ、後ろにコードが付いてるんだもん。あるわけがないですよね。
無意味に分解された電気ストーブに捧げます。