婚約破棄?お断りです。ならばあなたを家ごと買います。
「――と、いうわけで、君との婚約も破棄になってしまうんだって」
長い栗色のまつげが、私の目の前で悲しげに伏せられた。いつもなら私をまっすぐ見つめてくれる大きな瞳も下を向いていて、こぼれそうな涙が光って見える。四歳年下のかわいい婚約者を見下ろし、私は彼の両手を自分のそれで包み込んだ。
「ねえリオン、そんな顔しないで」
雲を形にしたようなふわふわの巻毛が今日も可愛らしい。天使みたいにきれいな顔立ちの、まだ少年の域を出ない男の子が泣きそうな顔をしていたら、私も悲しくなる。
リオンはうつむいたまま、子供らしいやわらかい手をぎゅうと握った。私の家を訪れたリオンは、リオンの家――ルオッシュ子爵家は膨らんだ借金を返せなくなり、貴族の地位を商人に売ることにしたのだと説明してくれた。リオンたちは住み慣れた屋敷も出ていかなくてはならないのだと。
この国には少数だけれど貴族の地位を買い求める商人はいる。私のお祖父様もそうだった。貴族の家に養子として入ってその家を継げば、生まれが平民だろうと貴族になれる。裏で莫大なお金が動いていようが、養子縁組で親子の年齢が逆転していようが、書類不備さえなければ通用するのがこの国だ。
「でも僕が子どもじゃなかったら、何かできたかもしれないのに」
「年齢ばかりは仕方ないわよ」
リオンはまだ十四歳。この国では十八歳を成人としていて、家の業務に携われるのは十六歳からと定められている。金で貴族の地位を買ったうちのトルテ子爵家みたいに「知ったこっちゃない、お国にバレなきゃいい」と、もっと幼い頃から実地で経験を積ませる家もあるけれど。
ルオッシュ子爵家は由緒正しきお貴族様だから、古くからの決まりごとには厳格だ。子どものうちは、教育は受けても実務には携われない。自分の家の家計が火の車だと知っていたリオンが、立て直しのアイデアをたくさん練っていたことは知っている。手紙にいつも書いてくれていたから。
でもリオンがそれを実行に移せる年齢に達するまで、家がもたなかった。利息がふくらみ続けた結果、リオンのご両親は貴族の地位も家財も全て商人に売るしかなくなったらしい。
「大丈夫よ、リオン。私も婚約破棄なんて嫌。私がどうにかするわ」
「でも、君のお父上には援助を断られたって聞いたよ」
「そうね。お父様の判断は〝投資しても利益は見込めない〟だったけれど、私は違うと思ってるの」
リオンが自力で家を建て直していくのを隣で支えたいなんて甘い夢を抱いていたけれど、彼を失うくらいならそんな夢は忘れよう。いざという時のために、私だって時間をかけて備えてきたんだ。私はリオンにウインクして、彼の手を力強く握った。
「私が個人的に、あなたを家ごと買うわ」
◇
「お父様!」
書斎の戸を勢いよく開けると、奥のデスクに座っていたお父様が顔を上げた。
「どうした、ルル。リオンを助けてほしいと泣きつきに来たか?」
凛々しい顔の口元だけに笑みを広げて、お父様が鼻を鳴らす。お父様の挑戦的な視線をまっすぐ受け止めて、私は胸を張った。
「まさか。独り立ちすることにしたから、挨拶をしに来たの」
「ルオッシュ子爵家の土地はやせている。投資して改良したところで大した農業収益は見込めんぞ」
「知ってるわ」
「ではどうする」
私は腕を組んでお父様を見据え、口元を釣り上げた。
「商売敵になるかもしれないんだもの、お父様といえど手の内を明かす気はないわ。でも、リオンが練ってくれていた立て直しのアイデアには使えそうなものがいくつかあるから、それを改良して実行していくつもり。私が経営している服飾店と菓子店の本店もあっちに移すわ」
「そうか」
お父様は椅子の背もたれに深く沈み、長い息を吐き出す。とたんに目元がふっとゆるんで、費用対効果に厳しい敏腕商人の顔から、娘に甘い父親の表情に変わった。
「お前が自分で稼いだ金だ。好きにしなさい。そう言うと思って速度の出る馬車を表に準備させたから使うといい。荷物もあとから送らせよう。……たまには実家に顔を出してくれよ」
「さすがお父様、ありがとうございます。お世話になりました。では、ごきげんよう」
スカートを両手でつまんで淑女の礼をとり、書斎を退室する。貴族の令嬢として廊下は走らないことにしているけれど、そのぶん早足になった。
急がなくっちゃ。リオンのお父様が商人との契約書にサインする前に、私がルオッシュ家を買うんだから。
◇
馬車を限界まで急がせたけれど、私とリオンがルオッシュ子爵の屋敷に着いたとき、もう商談は始まっていた。
「失礼します!」
音を立てて応接室の扉を開けると、奥に座っていた男性二人がそろって振り返る。
「来客中だ。あとにしてもらえるだろうか」
手前のソファーに座っていたリオンのお父様、サリアス様が厳しい目で私とリオンを見据えた。リオンそっくりの巻毛だけれど、顔つきは男性らしい精悍さを感じさせる。個人的にはリオンのような可愛らしい子が好みだけれど、サリアス様もなかなかのナイスガイだ。でも、この前に会ったときよりやせて見える。
「非礼はお詫びいたします。ですが、契約の前に私からのご提案も聞いていただけないかと思いまして」
「トルテ卿との話は終わっているはずだが……」
「お父様の遣いでまいったわけではございません。あくまで私、ルルメリア・トルテからのご提案をしにうかがいました」
サリアス様と机を挟んで向かい合っていた男性がむっとしたような顔で私を見た。脂肪をたっぷりお腹にたくわえたおじさまの顔には見覚えがある。お父様の商会とはライバル関係にある商会の会長さん。まあ、ライバルといっても商会の規模はうちのほうがはるかに上だし、お父様は歯牙にもかけていなさそうだけれど。
名前はカルギルさんだったかしら。お父様が貴族の地位を得ているから自分もってことね。わかりやすくていいわ。
奥に進み出て、二人の対角線上にあるソファーの横に立つ。スカートをつまみ、カルギルさんに向かっておじぎをした。
「はじめまして。ルルメリア・トルテと申します。商談に横入りしましたこと、お詫び申し上げます」
「マナー違反とわかっているのなら、やめていただきたいものですがね」
「カルギル様にも十分に利のあるご提案をさせていただければと思いますわ」
「……ほう」
カルギルさんの眉がピクリと動く。どう見ても納得いかなそうな表情だけれど、まずは聞いてもらいましょうか。扉の前に取り残されたリオンが不安そうに私を見てきたので、ウインクで返した。
お祖父様とお父様から教わったとおり、商談のときには堂々としていなくっちゃ。あえてゆっくりソファーに腰を下ろすと、にこやかな笑みを広げてまずはサリアス様を見た。
「私からサリアス様へのご提案は二つ。借金を肩代わりすることと、使用人を含むルオッシュ家の皆様にはこれまでどおりこのお屋敷で生活していただくことです。条件も二つで、一つはリオンが十八歳になり次第、私と婚姻を結んだ上で当主になること。もう一つは、リオンが当主になるまでは私に当主代行としてすべての権限を与えて領地経営を任せていただくこと。以上です。いかがでしょうか」
目を丸くして私の提案を聞いていたサリアス様は、あごひげを人差し指でなでつける。
「もともとリオンは君との結婚を希望して婚約していたし、リオンを当主にすることにも、このまま住まわせてもらえることにも、異存はないどころかとてもありがたいのだが……その、君に支払えるのだろうか」
「ええ、もちろん。父に援助のご相談をされたときに、借金の総額もお話しされましたよね。その数字に嘘がなければ問題なく支払えますわ」
自信たっぷりに、きっぱり言い切っておく。
正直な気持ちを言えば、「借金の精算とカルギルさんへの提案で、十年かけて必死で貯めた貯金の大半が消えるのか、そうか……」とかなり残念だし、だいぶぎりぎりだ。でも払えること自体は嘘ではないし、ここは余裕を見せておかなければ!
サリアス様は、ほうと感心したような息を吐いた。
「君は確か、十八歳になってすぐにお父上から服飾店と菓子店の経営を継いだんだったね。その運転資金を使ってしまうことにはならないだろうか」
「店の費金と個人資産は別で管理していますので、ご心配なく」
〝十八歳になってすぐに継いだ〟か。
うん、そうね。
表向きそういうことになってるのよね。
何も知らない人には〝店を継いだばかりで、急に大金を手にしてイキがってる小娘〟に見えるわよね。この国で成人とされる十八歳になるまでは、私の服飾店も菓子店もお父様が経営していることになっていた。
でも、実態は違う。どちらの店も、立ち上げからずっと私の店だ。七歳になってすぐ、お祖父様とお父様から「新しい店のアイデアを出してみろ」と言われ、一年ががりで二つの店を立ち上げた。
一つは、「貴族の若い女の子たちの間で流行っているドレスやアクセサリーを、簡素化して安価にしたものを庶民向けに売る服飾店」。一つは、「庶民の間では一般的なお菓子を、豪華にして貴族向けに売る菓子店」。
子供の稚拙なアイデアをお祖父様とお父様が練って叩いて実現してくれたから、〝最初から私の店〟っていうのは言いすぎかもしれない。でも、私の店だ。店のコンセプトや出店する場所、商品内容、仕入先や生産体制、人員配置、どれも考えたのは私。
お祖父様とお父様に「これじゃダメだ」と何度も突き返され、そのたび考え直して持っていき、やっと開店してからもいろいろあった。いつも優しいお祖父様とお父様が、店の話を始めたとたんに真剣な仕事モードになって容赦なくダメ出ししてきたから、何度泣いたかわからない。
一代で財を成し、貴族にまで上り詰めた、天才商人のお祖父様。お祖父様の肌感覚を理論に落とし込んで身につけ、商会をさらに大きくした、敏腕商人のお父様。お祖父様はもう亡くなってしまったけれど、二人に厳しく指導されたおかげで、商人としての力はついた。
貴族の女の子の考えや流行を肌感覚で理解しながら、庶民の感覚もわかる、という自分の強みも意識的に活かせるようになった。ここで個人資産をほとんど吐き出しても、店を続ければまた貯めなおす自信はある。
「……」
カルギルさんの口が開きかけたのが視界の隅に映ったので、ぱっとカルギルさんに笑顔を向ける。事前に用意しておいたリストをカルギルさんにそっと差し出した。
「商談を横からかすめ取ろうとしているのですもの、カルギル様には慰謝料としてこちらをお譲りしたいと思います。見ていただけますか?」
「……拝見しましょう」
カルギルさんに渡したのは、私が保有している国債と株式のリストだ。お祖父様もお父様も、投資家としても優秀だったから、投資についても実際の金融商品を売買しながら叩き込まれたのよね。でもおかげで、結構な額になった。商談を譲ってもらうための代金としては破格なはずだ。
「必要なら換金してからお渡ししますが、譲渡の形を取らせていただけると手間が省けてありがたいです」
「……なるほど」
リストに目を落としていたカルギルさんは、薄い笑みを浮かべて顔を上げた。
「このリストには、お嬢さんの店の株式はないようですがね」
「……発行しておりませんので」
「発行してもらうことは?」
絶対やだね!
という気持ちは笑顔の裏に隠し、私は頬に手を当てた。株式を発行しろっていうのは、〝お前の店の所有権をよこせ〟と言っているに等しい。資金調達の面ではメリットもあるけれど、株式を発行してしまったら、店のオーナーは私ではなく株主になる。それが嫌で株式は発行してこなかった。だって私の店だもの。資金が必要になってお父様に借りたことはあるけれど、利息付きできっちり返済済だ。
「お断りします。もともとそちらのリストにある資産をお渡ししようというのは、こちらの誠意でしかありません。足りないと仰るのなら、このお話はなかったことにいたしましょう」
相手の話を受けるだけが交渉じゃない。
よし、話をそらそう。
「カルギル様はルオッシュ子爵領をどう評価されているのでしょう?」
土地はやせていて、目立った産業があるわけでもない。お父様は投資価値なしと判断した。カルギルさんもその点を頭に浮かべて購入する意欲が減ってくれればいいな。
――ただ、待てよ、カルギルさんに費用回収の明確なプランがすでにあるなら、逆効果な発言だったかも!?
失言だったかもしれないという冷や汗を必死で隠し、自信たっぷりな笑顔をどうにか維持する。カルギルさんは、腕を組んで太い体をソファーの背に沈めた。
「さて、どうでしょうな。私以上の大金を払おうとしているお嬢さんの考えをうかがいたいものですね」
このタヌキ、自分の手札は全部伏せたまま、ボールだけ返してきやがった。
「私は土地よりも婚約者の将来性を買っていますので」
「へえ?」
カルギルさんが応接室の扉の前に立ちっぱなしのリオンに目を向ける。戸惑った表情を浮かべたリオンは目をしばたいていた。うん、可愛い。っていやいやそうじゃなくて。まだ実務に参加させてもらえていないリオンは交渉事なんて慣れてないだろうし、あまり注意を向けられないようにしなくっちゃ。
「カルギル様でしたら子爵より上だって狙えるのはありません?」
ライバル関係にあるお父様が子爵なんだもの。その上の伯爵にいきたいんじゃない? もちろん、そのぶん必要な金額も上がるけれど、私が渡したリストの金融資産があれば十分な足しになるはず。
「……なるほど」
表情を消して私に視線を戻したカルギルさんに見つめられ、目が泳ぎそうになったのをかろうじて耐えた。
あ、あれ? なんか怒らせた??
どうしよう。何か言ってよ。無言が一番やりにくい。
「……」
「……」
少しずつ脈拍が速くなっていくのを感じ、ぎゅうと手を握る。黙ってにらみ合っていたけれど、
「交渉の仕方が若いですな」
ふっと口元にだけ笑みを広げたカルギルさんは、自分の膝をぱしんと叩いた。
「だいたいわかりました。いいでしょう、私も若者の恋路を邪魔したせいで馬に蹴られて死にたくはないのでね」
――いよっし!!
心の中でガッツポーズをしていたら、カルギルさんは私が渡した保有証券のリストを返してきた。
「これはお返しします。代わりにお嬢さんへの〝貸し〟といたしましょう。〝タダより高いものはない〟という言葉はご存知で?」
「存じております。ので、できればここで精算してしまいたいですわ」
「いいえ、貸しにしますよ。最も利を得られそうな選択をしたくなるのは商人の性でしょう」
にいと意地の悪い薄い笑みを浮かべたカルギルさんは、ふくよかなお腹の前で腕を組んだ。
「余計なお世話でしょうが、そんな紙は相手にごねられてからお出しなさい。よっぽど焦っているのだなという印象を与えて足元を見られますよ」
株式発行しろと言っておいてそれ言う!? なんなの。私の反応を試しただけで本気じゃなかったの? こいつやっぱタヌキだわ。
「もう一点、相手を挑発するような物言いもおすすめはしませんな」
「……ご忠告ありがとうございます。今後気をつけますわ」
「では失礼するとしましょう」
カルギルさんが立ち上がると、黙って聞いていたサリアス様も腰を上げた。足早に部屋を出ていくカルギルさんをサリアス様が見送りに出ていく。入れ違いにリオンが私に駆け寄ってきた。
「ルル、ありがとう! 大人とあんな風に交渉できるなんて、君は本当にすごいね!!」
「試合に勝って勝負に負けた感はあるけどね……」
キラキラした目で見つめてくれるリオンに苦笑を返す。二つの忠告を受けたことからして、カルギルさんはルオッシュ子爵家を買う契約を譲ってくれたんだろう。彼には私と違ってルオッシュ子爵家にこだわる理由はないし、家計が火の車の貴族なら他にもいる。たぶんカルギルさんにはあえて使わなかった手札がまだあった。そんな気がする。
子爵の地位を得るという目の前の利を捨て、私に〝貸し〟を残すことで未来の利益を狙ったんだろう。タダより高いものはない、そのとおりだ。今回の件であのタヌキに頭を押さえつけられた感がある。早いとこ借りを返してしまいたいけど、あのタヌキは簡単には返させてくれないんだろうな……。
「ルル?」
「ああ、ごめんねリオン。大丈夫よ」
私は一人用の狭いソファーの端に寄り、リオンに隣に座ってもらった。体をピッタリ寄せているとあったかいし、ふわふわの巻き毛がすぐそばにあって心地いい。
「リオンが考えてくれていた領地経営の立て直し案だけど、あのままじゃまだ弱いから、これからビシバシ直していくからね」
「うん、僕も、たぶん父さんも一緒に頑張るよ」
ふわりとした可愛い笑顔を見ていると、私はこの子に厳しく当たれるのかしら、と疑問が浮かんだ。厳しくしすぎてフられないようにしなくっちゃ。まだ借金の精算は終わっていないけれど、そっちはお金の手続きだけだ。そんなことよりは、今後の立て直しのことを考えよう。
リオンの小柄な体を腕の中に収めてぎゅっと抱きしめると、リオンも笑顔で抱きしめ返してくれた。
(終)
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他にも異世界恋愛をいろいろ書いています。よろしければ、他の作品も読んでいただけると嬉しいです!(下にスクロールしていただくと、イラスト&1クリックで飛べるリンクをいくつか置いてあります)