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廃妃の呪いと死の婚姻3-1

確認に時間がかかりこんな時間になってしまいました。

廃妃の呪いと死の婚姻3-1


 ジェネヴィエーヴの目標は非常に簡潔なものだった。


 クレメンティーンの名誉を回復し

 命を蝕む呪いを解く


 アリアという最高の協力者を傍らに置き、意気軒高たるジェネヴィエーヴだったが、事態はそう容易くなかった。

「ふがいなくて、自分が本当に嫌になるわ」

 臥床したジェネヴィエーヴは天蓋を睨みつけた。

 あの日、彼女が記憶を取り戻して、アリアに秘密を打ち明けてからもう3年が経っていた。

「あせりは禁物だとお医者様が仰っていらっしゃいましたでしょう?」

入り口からの冷気を遮るため、さっきから衝立の位置を調整していたアリアはようやく納得がいったのか、満足そうな表情で立ち上がった。そうして静かにジェネヴィエーヴのベッドの脇に置かれた座り心地の良さそうな肘掛椅子に腰を下ろすと、窘めるように言った。


あの日以降、アリアはジェネヴィエーヴの傍にピタリとと付き添そうようになっていた。元々、心優しく献身的な性情の彼女にとって、病がちでしばしば誰かの援助を必要とするジェネヴィエーヴの必死の訴えは彼女の琴線に触れたようだった。その上、クレメンティーンの呪いによって命の危機に瀕しているジェネヴィエーヴは、光の魔力という特別な力を有すアリアの使命感を掻き立てる存在だった。アリアは運命を感じた。呪われた少女の元に、奇跡の力を授かった自分が導かれたという事実が、何よりの証左ではないか?アリアは神の思し召しであるとすら感じていた。

アリアはノクターンと共にナイトリー侯爵家に引き取られたことで、経済的危機からは逃れたものの、次第に疎外感や寄る辺なさを感じるようになっていた。ノクターンは大切な双子の弟で、たった一人残された家族であり心から愛情を抱いていたが、一方で常に彼との立場の違いを感じるようになっていた。それは、彼らの教育が本格的に開始されたことで加速した。ノクターンは将来、亡き父であるラトクリフ準男爵の爵位と領地を継ぐべく教育を受けていた。二人の子どものうち、唯一の男子であるノクターンが後継者となることに誰も疑問を持たなかったし、アリアも当然のことだと思っていた。しかし、将来帰属すべき場所を持たないという事実はアリアの心情に影を落とした。

光の魔法は素晴らしく貴重なものだったが、ただそれだけだった。幸か不幸かアリアは貴族の令嬢だった。これが聖職者や騎士、冒険者であればまた違ったことだろう。経済的問題が解消された今、平時にあって彼女のような音楽家の家系の後嗣でもないデビュタント前の令嬢が、表舞台に立つことはあり得なかった。いや、例えデビューした後であったとしても、慰問や奉仕活動以外でうら若き令嬢がその能力を発揮することは好まれたものではなかった。貴族令嬢にとってあるべき姿というものは決められていた。能力を持ちながらそれを発揮する機会を得られないことは大層虚しいことだった。

しかし、アリアは能力を磨き、それを思う存分発揮する正当な理由を得た。溺愛する愛娘のジェネヴィエーヴのためとあって、ナイトリー侯爵は協力を惜しまなかった。彼女はこの3年間、魔力の底上げと制御のために特別な教育を受けた。そして彼女を必要とするジェネヴィエーヴのために、存分にその力を振るった。

アリアはそうして甲斐甲斐しくジェネヴィエーヴの世話を働くうちに、彼女でなければ救うことのできない、真実彼女を必要としてくれるジェネヴィエーヴを守るべきかけがえのない存在として認識するようになっていた。今ではアリアはナイトリー侯爵と同じくらい過保護で愛情深い保護者の一人だった

そんな彼女にナイトリー侯爵も信頼を寄せた。彼女の光の魔法による治療と、教会から届けられる聖水が愛娘の安楽に必須であることを悟ったナイトリー侯爵は、アリアに家政婦長に次ぐ権能を授け、彼女を自分が傍にいられない間のジェネヴィエーヴの健康と安楽のための守護者に任じたのであった。


僅かに開いていた扉がノックされ、侍女が水差しを持って現れると、ジェネヴィエーヴは

「扉は空けたままにしておいて。ノクターンの演奏を聞いていたいの」

と声を掛けた。

ジェネヴィエーヴは脆弱な気管支のために、声を張り上げることができなかった。しかし、彼女の穏やかでけだるげな声はどんなに小さな声でも、必ず聴く者の耳に届き、注意を向けてもらうことができたのだった。この時も部屋の奥から掛けられた声に、侍女は扉をわずかに開けたままにした。侍女はアリアに水差しの入った盆を手渡し、他に御用はございませんかと尋ねた。アリアは瞼を閉じているジェネヴィエーヴにそっと耳打ちをした。

辺りにはノクターンの奏でる豊かな音色だけがゆったりと流れていた。ノクターンはどんな楽器も上手に弾きこなしたが、特に弦楽器に堪能だった。中でも幼い頃から弾きつけていたヴァイオリンを得意としていたが、ジェネヴィエーヴが中音域から中低音域を好むと知ってからは、ヴァイオリンに拘らずビオラやヴィオロンチェロにも手を出すようになっていた。特にジェネヴィエーヴが臥せっている時などは、それらの楽器を演奏することが多かった。

そのため、ここ数日というものナイトリー侯爵邸には厚みのある心地よい音色が響いていた。ノクターンはジェネヴィエーヴの徒然を紛らわせるため、演奏が聞こえるように彼女の居室のある階で楽器を奏でていた。

瞼を上げたジェネヴィエーヴは、少し考えてから

「もう二時間以上、弾きどおしね。ノクターン所へ行って、部屋の暖炉に薪を追加して、何か温かいものを持って行ってあげて」

と言った。ジェネヴィエーヴの言葉に侍女が一礼して出て行くと、アリアが水差しの吸い口をジェネヴィエーヴの口元に寄せた。

「大丈夫、起きられるわ。・・・手を貸してくれればね」

「ですが」

 アリアが言いよどむと

「もうほとんどめまいも収まっているし、少しは起き上がったほうがいいのよ。アリアも少し休んで頂戴。ここのところ、つきっきりじゃない」

 手を借りて身を起こしながら、ジェネヴィエーヴが顔を曇らせた。

「私は自分で望んでこうしてるのでお気になさらないでください。ノクターンだって同じです。思う存分音楽ができる幸せをかみしめてるって言ってましたよ。もし、気になるようでしたら、後で感想でも伝えてやってください。きっと喜びますから」

 この数年でジェネヴィエーヴの周囲の顔ぶれは随分変わった。乳母と筆頭侍女であったリリーが今では屋敷を去っていた。乳母は凍った路面に足を取られて転倒し、尾てい骨と手首を骨折して長期の療養を余儀なくされてしまい、屋敷を辞去し、領地にある息子の家へと移っていった。その翌年、今度は侍女のリリーが結婚した。勿論すぐに新しい侍女が付けられたが、人見知りで神経質なジェネヴィエーヴは乳母やリリーほど新しい侍女たちに打ち解けることができなかった。自然とジェネヴィエーヴの最も信頼を寄せ、頼りにするのはアリアになった。

「ありがとうアリア。あなたがこうして傍についていてくれてとても安心するわ」

コクリコクリと小さく喉を鳴らしつつ、長い時間をかけてジェネヴィエーヴは聖水を嚥下した。グラスを受け取り、彼女の口元をそっと拭ったアリアは、心配そうに言った。

「頭痛はいかがですか?」

この2,3カ月の間、ジェネヴィエーヴは頭痛とメマイに苦しめられていた。たちの悪いことに、2,3日は少し良くなったかと思うと、すぐにまた症状が再燃してベッドに逆戻りするという生活が続き、ジェネヴィエーヴは鬱々とした日々を送っていた。

「残念ながら、よくはないわね」

ジェネヴィエーヴはアリアと聖水のおかげで、身体を蝕む呪いの精神汚染を抑えることはできていたものの、一方で身体の不調を訴えることが多くなっていた。恐らく体力のない身体で無理に呪いを抑制している影響が出ているのだろうと思われた。

「いいかげんに元気にならなくてはね。せめて動き回れるようにならないと、呪いをどうにかするどころか、クレメンティーンの手掛かりを調べることもできないわ」

 アリアが整えてくれたクッションにもたれかかり、ベッドサイドに置かれているクリスティーンの遺品の手紙と日記の入った箱を見つめながらジェネヴィエーヴが言った。

「ジェネヴィエーヴ様、そのことで一つご提案があるのですが」

 少し間をあけて、アリアがおずおずと口を開いた。

「なあに」

 ジェネヴィエーヴがわずかに首をかしげてアリアへ視線を移すと、アリアは思いきって言った。

「少し方法を変えてみてはいかがかと思うのです。この一年というもの、クレメンティーンの手掛かりを見つけるためにお屋敷中を探しましたけれど、これといった手掛かりを得ることはできませんでしたよね?」

 アリアの問いかけに、ジェネヴィエーヴが苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。

「遺憾ながらそのとおりね。では、方法を変えるというと、どうしたらいいと思うの

?」

 アリアはクリスティーンの遺品から手紙を指で示した。

「クリスティーン様のご遺品からは、クレメンティーンが何故人を呪うような怨念を抱くようになったのか、どうしてもわからないんです。クレメンティーンの手紙は悲嘆と後悔に満ちていました。それは、ジェネヴィエーヴ様の仰った、クレメンティーンの様子とはあまりにも違って、どうしても違和感を拭うことができませんでした」

だから、クレメンティーンの変質の原因を調べることが、ジェネヴィエーヴの呪いを解く鍵になるのではないかと思い、二人は捜索を続けていた。手始めに歴代侯爵夫人たちの遺品のしまわれた保管庫を数カ月かかって調べ上げたが、何分遠い過去のことでもあり、新たな手掛かりを得ることはできなかった。

「保管庫の中は調べ尽しましたし、宝物庫や図書館も調べました。でも、はかばかしい成果はありませんでしたよね」

「そうね。でも、それならどうしたらいいというの?もしかして、クレメンティーンの封印されている場所を探そうということかしら」

「まさか、違います!」

 ジェネヴィエーヴの言葉にアリアが慌てる。

「ジェネヴィエーヴ様を危険にさらすことは絶対にありえません。もしクレメンティーンのお墓を調査するとしても、それは最終手段です」

 クレメンティーンの葬られた場所を探ること、これはクレメンティーンの謎を探るためにジェネヴィエーヴとアリアが考え付いたことの一つだった。しかし、思い出した記憶の中でジェネヴィエーヴがクレメンティーンに完全に体を乗っ取られた場所というのが、何を隠そうその墓所であったことを聞いたアリアは激しく反対した。ジェネヴィエーヴとしても何が起こるかわからないクレメンティーンの墓所の捜索はできれば避けたいところだった。それにその場所についてはあらかた見当がついていた。ジェネヴィエーヴの思い出した記憶によると、彼女が呪いを受けたのは、彼女が3歳の年、親族の葬儀で行方不明になった時だとされていた。古くから使える家令に確認したところ、ジェネヴィエーヴはよく覚えていないのだが、実際にそういった事件があった様だった。

「私が言いたいのは正直、私とジェネヴィエーヴ様の二人では、出来ることも行ける場所も限られているということです。これまでも、何度それで困ったことか。ですので、ジェネヴィエーヴ様さえよければ、誰かに手を借りてはどうかと思ったんです。勿論、信頼できる人物にですよ。それで・・・ノクターンなんかどうかな、と。ノクターンなら私の姉弟ですし、口も堅いし、私が言うのもなんですが頭も悪くないし、ちょっと頑固な点が玉に瑕ですが、何より男の子ですから、何かと力になると思うんです。女の私達じゃできないことや、行けないような場所にも行けるし、私達よりずっと自由に動けて融通が利きます。だから、どうでしょう」

 上目づかいでジェネヴィエーヴを見つめるアリアは、可憐な美少女だった。元々、人目を惹く少女だったが、ここ数年でぐっと背も伸びて、体つきも女性らしく成長していた。その上、原作と違ってナイトリー侯爵家での待遇もよく、良い食べ物を食べ、素晴らしい教育を受け、人から必要とされ、多くの人間から信頼と信愛を寄せられていた。そうした恵まれた環境下で彼女の生来の珪質がさらに磨きあげられたことで、アリアは非常に美しい女性へと成長していった。

 ジェネヴィエーヴとアリアが寄り添うところを見た人々は、全くタイプの異なる美貌に必ず目を見張ることになった。アリアが降り注ぐ陽光の下で燦然と咲き誇る薔薇だとしたら、ジェネヴィエーヴは月光の下で咲き強い芳香を放って一晩で散ってしまう月下美人だった。

「ノクターンを?」

 ジェネヴィエーヴは思いがけない提案に目を見張った。

「はい。・・・ダメ、でしょうか。勿論もっと相応しい方がいればもちろんその方でいいんです。ですが、協力者は必ず必要だと思うんです」

 考え込んだジェネヴィエーヴをアリアは心配そうに見つめた。

「ノクターンより信頼できる人間なんて、お父様とアリアくらいしかいないわ。協力者・・・、そうねえ、いいと思うけれど、果たしてノクターンが信じてくれるかしら。私が呪いに掛かっているなんて荒唐無稽な話を」

 ジェネヴィエーヴが心配そうに顔を曇らせると、アリアが

「ありがとうございますジェネヴィエーヴ様。そうおっしゃっていただけてよかったです。大丈夫です、ジェネヴィエーヴのたってのお願ときいて、ノクターンは絶対に断れっこありませんから。それにノクターンは押しに弱いところがあるので、少し強引に行けば問題なく仲間に引き込めるはずです!」

と力強く言った。

「そ、そう?お手柔らかにね」

 ナイトリー侯爵邸に引き取られた自分と比べて、アリアは随分と自分を出すようになっていた。元々、こんな少女だったかしら、と思わないでもないジェネヴィエーヴは目の前で息まくアリアを見ながら、ちょぴり複雑な気持ちになった。

「そうと決まれば、早速ノクターンに話をしましょうか。幸い、今はめまいも収まってきたことだし、アリア、ベルを鳴らしてくれる?」

 はい、と返事をしようとしたアリアは、ジェネヴィエーヴの姿を見て、ハッと動きを止めた。

「ま、待ってください。その前にお召し替えをしましょう」

「あら、ノクターンと会うだけだもの、ガウンを羽織れば大丈夫よ」

 のほほんと微笑むジェネヴィエーヴのネグリジェの胸元からは、豊かな谷間が覗いている。病がちでほっそりとしたジェネヴィエーヴだったが、そこばかりは他の部分の栄養を全て奪ったかの如く、豊かに成長していた。

「いいえ、ダメです。ノクターンももう15歳ですから、けじめが大事です」

「アリアの弟だし、私にとっても家族と同様の存在よ。この間だって同じような格好だったけれど、なんともなかったわ」

 それは、とアリアは口ごもった。

アリアが大聖堂に出かけている間、ジェネヴィエーヴは侍女に頼んでノクターンを呼びよせたことがあった。

 いつもの居室ではなく、寝室に通されたノクターンは当然部屋に入ることをためらったが、家政婦長があきらめ切った表情で頷くのを見て、意を決して足を踏み入れた。そこでノクターンが目にしたのは、薄手のシュミーズドレスにガウンを羽織ったジェネヴィエーヴの姿だった。髪をひとまとめにして、右肩に流しているため、白いうなじから鎖骨、ふっくらとした胸元までが露わになっている。耳まで真っ赤に染めて固まった彼を家政婦長と侍女たちが同情を込めた眼差しで見つめていた。

「ああ、ノクターン呼びつけたりしてごめんなさい。でも、どうしてもあなたに見て欲しくて。これよ、お父様が用意してくださったの。リラというのですって。リュラーともいうらしいのだけれど、リラという呼び名が一番ぴったりだと思わない?」

 そういって珍しくはしゃいだ様子で微笑む彼女の膝の上には、馴染みのない弦楽器が乗せられていた。手招きする彼女の腰かけているソファに近づいたノクターンは、強いて彼女の方を見ないように努めながら、勧められるままに彼女の隣に腰かけ、その手元をのぞき込んだ。

「ハープ、いや異国の神話に出てくる女神たちが持っている竪琴に似ていますね」

「そうなの。去年の冬にバードン卿のお宅でハープをお聴きしたでしょう?それで、自分でも演奏してみたいと思ったの。でも私の身体では一曲としてあの大きな楽器を弾きこなすなんて無理な話でしょう。それでも私も一度でいいから、貴方やアリアの様に楽器を奏でてみたいという思いを捨てきれなかったから、お父様にこっそりご相談してみたの。私でも弾けるハープはないかしらって。そうしたら、ほら、こんなに素敵な楽器を作らせてくださったのよ」

 ナイトリー侯爵が溺愛するジェネヴィエーヴの「お願い」をかなえるために、職人に随分と無理を言ったのだろうなと想像して、ノクターンは苦く笑った。

「もしよろしければ、少し触ってみてもよろしいですか?」

「もちろんよ。新しい楽器だから、誰かに習うわけにもいかないでしょう。ノクターンならきっとすぐに弾きこなせるようになるわ。そうしたら私の先生になって欲しいの」

「そんな買い被られて、もしご期待に沿えないかったら・・・」

 思いがけないジェネヴィエーヴの言葉にとっさに顔を上げたノクターンは、至近距離にジェネヴィエーヴの微笑みをみつけて言葉を失った。

「大丈夫よノクターンなら。楽しみにしているわね?先生」

 そう言いながら首をかしげたジェネヴィエーヴの髪が一筋、肩からさらさらと零れ落ちて胸元へと流れていくのを目で追ったノクターンは、我に返るとバッと顔を背けた。

 帰ってきてこの話を耳にしたアリアは、ノクターンに大いに同情を寄せると同時に、危機感の欠落しているジェネヴィエーヴになんといって還元すべきかと頭を悩ませたのだった。


その翌日から、ノクターンはリラの練習を重ねた。彼はハープを弾くことはできたものの、随分と勝手が違ったから、作った職人を訪ねたりして試行錯誤を繰り返したのだった。

そうして、これならばと披露された演奏に、ジェネヴィエーヴは大層喜んだ。数日後からは彼女の要望通り、ノクターンによるリラの手ほどきが始まった。多くは彼女の居室で行われたが、気候が良く彼女の健康状態が許すときなどは、庭園のベンチで行われることもあった。

 ノクターンとアリアはとても良く似た姉弟だった。彼らはお互いの性別が異なればきっとこんな容貌をしているのだろうとみるものに感じさせたが、アリアが思わず笑みがこぼれるような華やかな美しさであるのに対して、ノクターンはどちらかというと冷たい宝石のような端正な顔立ちをしていた。世間では第3王子のクラレンスやその従兄で騎士のヒューバート・ノートンが美男子としてもてはやされていたが、均整の取れた無機質な美貌という点ではノクターンが彼らを数段上回っていた。ここ数年で身長も伸びたノクターンだったが、芸術家らしい優美ですらりとした姿かたちをしていた。

侍女たちからの人気も高く、ノクターンがジェネヴィエーヴの手に長い指をそっと添えて、その指遣いを教えている時や、ノクターンの奏でる音色にジェネヴィエーヴが身を乗り出すようにして耳を傾けている様などは、さながら一服の絵画のようで、年若い侍女のみならず家政婦長なども思わずうっとりとその光景に見入ってしまうのだった。

双子の姉弟であるアリアはノクターンのジェネヴィエーヴに対するほのかな感情に気付いていたが、身分違いの叶わぬ想いにそ知らぬふりを貫いていた。恐らくノクターンもまたアリアにそれを指摘されることを厭うたことだろう。


 とにかく、ノクターンとジェネヴィエーヴはそのそうにして親しさを増していったのであるが、それを快く思わない人物がいた。その人物とは他の誰でもないジェネヴィエーヴの婚約者のクラレンスであった。

ジェネヴィエーヴから婚約解消を持ちかけられた彼はそれを拒絶したが、その理由は彼女に対する愛情などというものではなく、ひとえに自らの王宮における基盤の脆弱さ故だった。原作を知るジェネヴィエーヴは彼の王宮における立場の不安定さを理解していたから、プライドの高い彼が恥を忍んで自身の立場を吐露し、「どうか今しばらく婚約関係を続けさせて欲しい」と懇願してきた彼に無理強いすることはできなかった。

そもそもがジェネヴィエーヴの我儘によって始まったいびつな関係であった。出来ることならば、お互いの了解のもと、穏便に関係を終わらせたかった。だから、ジェネヴィエーヴは「そういった理由がおありでしたら、殿下のお立場が安定するまで婚約解消を延期しましょう」という旨の手紙をしたため、いつかは解消される関係であることを以て納得するしかなかった。

 ジェネヴィエーヴはもともと病弱ゆえに、公の場に出ることはめったになかったが、クラレンスと同席する時だけはどんなに体調が悪くても出席し、恋敵となりうる令嬢達を牽制してきた。しかし、記憶を取り戻してからは、クラレンスに対する執着もきれいさっぱりと消え去り、却ってその恋情は身を亡ぼすことに繋がりかねないと理解していたので、ジェネヴィエーヴはどうしても参加せざるを得ない場合を除いて、公の場でクラレンスと席を同じくすることはなかった。しかし、それも3度に1回は体調不良を理由に欠席していたので、ジェネヴィエーヴの変節は明らかだった。

 そんなことが続くうちに、初めは彼女の変心の真偽を疑っていたクラレンスも、とうとう彼女の言葉を信じざるを得なくなった。そのため、恥を忍んで王宮における自らの立場を明かし、婚約の継続を懇願せねばならなくなったのであるが、それは彼のプライドを非常に傷つけた。

羞恥心と多少の苛立ちから彼は、従兄で親友のヒューバートの勧めもあって、ジェネヴィエーヴが望まないのであればと、暫くの間はできる限り彼女とは会うまいと心に決めていた。しかしその決心もそう長く続かなかった。ジェネヴィエーヴがあまりにも変わってしまったという噂話が、ちらほらとクラレンスの耳に届くようになったからだった。

 その出どころのほとんどは噂好きの侍女や、王妃主催のお茶会やパーティーに来ていた貴婦人やその子女たちだったが、彼らはジェネヴィエーヴがすっかり大人しく穏やかになってしまったと口を揃えて言った。あれ程ジェネヴィエーヴを毛嫌いして、最後まで疑っていたヒューバードでさえも終いには、

「おいおい、あのお姫様はどうしちまったんだ?全く人が変わったみたいじゃないか」

と言って、クラレンスの元へわざわざ報告に来た程だった。どうやら、とある貴婦人に誘われて出席したお茶会でジェネヴィエーヴを見かけたらしかった。ヒューバードは爵位こそ持っていないものの、最有望株の騎士であり、実力も折り紙付きで、最年少の騎士団長に任命されるのも時間の問題だと言われていた。その上、ハンサムで話し上手な彼は令嬢やご婦人方から大人気だった。

 ヒューバードはお茶会で見聞きしたジェネヴィエーヴの様子を、驚きを以てクラレンスに報告した。見た目の軽薄さに反して慎重で疑い深い彼は、それでも彼女の本質が本当に良い方へと変化したのかどうか疑心暗鬼ではあったものの、ジェネヴィエーヴはクラレンスを破滅に導きかねない悪女であるという彼の認識は大いにぐらついている様子だった。きまり悪げに頬を掻きながらヒューバードは

「そういえば、ナイトリー嬢は随分変わった服装をしていたよ。ルダン・ゴートというらしい。見た目は乗馬用の上着に似ていて、薄手のドレスの上にそれを着込んでいるんだ。彼女は病弱だから、あの上着は野外の茶会にはショールなんかよりもずっと保温性も高くて過ごしやすいだろう。一緒に出席していた、何と言ったっけ、ナイトリー侯爵が引き取った双子の姉弟だが・・・そうそうラトクリフだ、彼らがナイトリー嬢にぴったりくっついて離れないんだが、その二人もナイトリー嬢と同じデザインのジャケットを着ていたよ。二人とも目の覚めるような美男美女でね、会場中の紳士淑女たちの目を集めていた。性別の違う3人がお揃いのジャケットを着ていたものだから、眉を顰める頭の固い老人もいたけれど、若い夫婦や恋人たちは自分たちもぜひお揃いの服を着て親密さをアピールしたいと言って、熱心にデザイナーの名前を聞いていたな」

 楽し気に笑うヒューバードとは反対に、クラレンスの胸中は複雑だった。婚約者である自分とは会おうともしないのに、他の貴族の茶会には出席するのか。その上、他の男と同伴で、しかも揃いの服装までしていたなんて。こみあげてくる未知の感情をクラレンスは持て余していた。

 ヒューバードが去ると、クラレンスはこれからナイトリー邸に出かけると言って侍従を慌てさせた。予告なしの突然の訪問に驚いたのはナイトリー侯爵家の家令も同様だった。

「最近はお見舞いに伺うと言っても断られてしまうので、不躾なのは承知でこうして訪ねてしまいました」

 そんな風にクラレンスにした手に出られては、ナイトリー侯爵家の家令といえど拒絶することはできなかった。家令はジェネヴィエーヴに遣いを走らせると、ゆっくりとした足取りで彼女のいる庭園にクラレンスを案内した。ちょうどその時彼女はノクターンからリラの手ほどきを受けているところだった。

 ジェネヴィエーヴのまだ拙い演奏にアリアが歌を合わせていたのだが、分からないところがあったのか、ジェネヴィエーヴが手を止めて隣に腰かけたノクターンに二言三言質問すると、ノクターンは彼女の上にかがみこむようにして、指の運びを教授してみせた。演奏を再開したジェネヴィエーヴは今度は失敗せず弾きとおすことができた喜びで、嬉しそうに顔をほころばせ、ノクターンを見つめた。

 クラレンスは未知の感情に心が沸き立つのを感じた。初めて感じる激しい嫉妬に、心が焼け切れるかと思われるほどだった。彼の拳は白くなるほど強く握りしめられていた。

 家令が言葉を掛けると、それまでの和やかな雰囲気はピタリと影をひそめてしまった。クラレンスは強いて冷静を装うと、突然の訪問を詫びた。

それから屋敷の客間へ席を移し、四半時ほどクラレンスと過ごしたジェネヴィエーヴは、婚約者としての義務を果たしたことだし、これで当分彼と顔を合わせることもあるまいと胸を撫で下ろした。しかし、どうしたことかクラレンスはそれから毎週のようにジェネヴィエーヴの下を訪ねるようになったのだった。

 かりそめの婚約なのだから、こうも頻繁に訪問していただかなくても結構ですと困惑したジェネヴィエーヴが言うと

「急に会う回数が減ると周囲に訝しまれてしまう恐れがあるので、協力してくださると嬉しいです」

 といってクラレンスは申し訳なさそうに微笑んだ。チクリと胸が痛んだジェネヴィエーヴはそれならば仕方がないと、しぶしぶ受け入れたのだった。

 だが、首をかしげるようなクラレンスの挙動はそれだけにとどまらなかった。これまではジェネヴィエーヴから手をつないだり腕を組んだりすることはあっても、彼から積極的に体や顔を寄せたり、親密そうに言葉を囁いたりすることはなかった。しかし、最近のクラレンスはお茶の席ではジェネヴィエーヴの隣に席を設けるようになり、リラを弾いて聞かせてくださいといったかと思うと同じソファに腰かけて、何か考え込みながら演奏の間中、彼女をじっと見つめていることもあった。

「一体何がどうしたというの」

 すっかり調子を狂わされてしまったジェネヴィエーヴは、混乱し、困惑した。

 アリアとノクターンはクラレンスの変化の理由に思い当たることがあったが、クラレンス自身がまだ自分の心を疑っているようでもあり、何よりジェネヴィエーヴが望まぬ事態でもあったため、固く口を閉ざしたのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。次話でもお会いできると幸いです。

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