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廃妃の呪いと死の婚姻8―2

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廃妃の呪いと死の婚姻8―2


 3台の馬車は予定通り出立した。初春のまだ肌寒さを感じさせる風に、馬車の周りを固める護衛騎士たちの息が白く溶けて消えていった。

 馬車は通常の倍以上の日程を費やしてゆっくりと進んでいった。案の定ジェネヴィエーヴはひどい乗り物酔いに苦しめられた。出立から数日間はいっそのこと引き返してしまいたいという思いに駆られたほどだった。それでも彼女の体調を配慮し随所に休息地点が置かれており、そこには必ずジェネヴィエーヴの治療に足る施設が存在していたから、旅路於いても侯爵邸と同等とはいかないいものの、それに準じた手厚い看護を受けることができた。これら旅程は全てノクターンの計画によるものであったが、ジェネヴィエーヴが後ほどこのことを知って、どれほど彼に感謝したかしれなかった。

 だが、この旅路の最大の功労者はケイ・フェラーズであった。ジェネヴィエーヴの容態を耳にした彼は、念のためにとあらかじめ調合していた薬草を供出したのである。それは貴族の間では嗜好品として喫されることの多い植物であったが、長の行商に出る商人などはこの葉をくるりと丸めて奥歯で噛みしめながら、揺れの激しい乗合馬車に乗ることもしばしばだった。ミスター・フェラーズが用いたのは平民が用いる固く苦みや渋みの強い育った葉ではなく、柔らかな新芽であった。爽快な香りが特徴の若芽は熱湯で淹れればほのかな甘みを感じさせるハーブティーとして貴婦人達にも人気の品であった。

貴族であるジェネヴィエーヴやアリアは身近なこの茶葉が、このような薬効を有することを知らず、ケイ・フェラーズの話を聞いて目を丸くした。彼は妹と共に服用方法を教えるといって毒見も引き受けたから、さりげない思いやりにフェラーズ兄妹に対する信頼は深まっていった。

とにかく、その薬が著効したためか、ジェネヴィエーヴは青白い顔はそのままであったが、激しい眩暈と、嘔吐による慢性的な脱水症状に苦しまされることはなくなった。以降、広々とした座席にぐったりと横たわり、終始うつらうつらと夢現の状態で残りの旅程を過ごしたのであった。

 後日談であるが、アリアはこの経験で自らの不見識を大いに恥じ入り、反省した。ジェネヴィエーヴがケイ・フェラーズを後援することになり薬学を身近に見聞きするようになって以降も、彼の専門分野に対して通り一遍の興味関心しかよせていなかった。結局は平民のもの、という凝り固まった旧識がこびりついていたのだろうか。自らが稀有な聖魔法の担い手であるために、新たな可能性に全く重きを置いていなかったのである。彼女自身は生来健康な身体を有し、幼いころ両親を失った直後を除いて、ナイトリー侯爵家から恩顧を受けるようになって以降は金銭的な苦労を知らずに過ごしてきた。その上、彼女の素晴らしい能力を以ってしても手の及ばない疾病や外傷は稀だったから、ケイ・フェラーズの説く薬学の底地からを実感することは絶えてなかったのである。しかし、彼女の能力は素晴らしいが万能ではなかった。ジェネヴィエーヴの呪いに直面して、彼女の能力は初めて挫折を味わった。

今回もそうだった。度重なる治療の中で、アリアの治癒術や聖力が効きにくくなっているジェネヴィエーヴに対して、これ以上強い魔力をかけ続けることは危険性を孕んでいた。それも病ではなく乗り物酔いという軽微なものに能力を用いることは躊躇われた。彼女は同行する看護師を手伝うことしかできなかった。そんな中で、ケイ・フェラーズの手を借りて初めてジェネヴィエーヴの苦しみが和らいでいくのを目の当たりにして、己の自惚れと能力への過信を突き付けられた思いだった。口惜しさとそれを上回る羞恥に顔が赤らみ、涙さえ浮かびそうだった。見識の低さに身に染む思いをした彼女はこの後、ミスターフェラーズへ頭を下げ、教えを乞うようになるのである。


 前置きが長くなったが、とにかくマグノリアが咲き初める頃、彼等は無事に〇〇州はケリンチパークに到着し、グレイ夫人の慈愛に満ちた笑顔に迎えられたのであった。その時、邸宅にはフェラーズ夫人も招かれており、涙を零して子ども達との再会を喜んだ。

ディナーを共にとるとフェラーズ一母子はケリンチパークを後にして、我が家のある〇〇村へと帰っていったが、別れ際、ジェネヴィエーヴがそう遠くない未来にフェラーズ家を訪問しますと言って大いに彼らを恐縮させた。初対面のフェラーズ夫人はこの貴賓の真意が分からず、身に余る光栄ですと曖昧に微笑んだが、子ども達の反応からジェネヴィエーヴが本気で述べていることを理解した。帰途、フェラーズ夫人はナイトリー嬢は一体我が家を準貴族かはたまた有力名家と勘違いしているのではないかと危惧の念を吐露した。

「私は我が家を誇りに思っていますし、決して我が家を卑下しているわけではありませんが、ミスター・フェラーズ、貴方は一体どんなお話をしたらあのような方がわが家のような何の変哲もない田舎家を訪問すると仰るのですか」

 ミスター・フェラーズとミス・フェラーズは母親にジェネヴィエーヴを始めとしたナイトリー家からの受けた一方ならぬ恩顧を改めて説明し、ジェネヴィエーヴの一風変わった性格を懇切丁寧に語った。曰く、身体が弱くお屋敷で過ごされることが多かったためか、世間一般の高位貴族ご令嬢達とは随分と異なる方である。社交界ずれしていない分、偏見なく自分たちや薬学といった民間療法から派生した新分野に対しても、率直に関心を寄せてくれる。この度のフェラーズ家訪問についても、通り一遍のお世辞ではなく、好意から本気で仰っているのだろう、云々。

「そういった事情を鑑みれば我が家にとっては大恩ある方ですから、心を込めておもてなしさせていただきます。でも、お身体が強くない点が気がかりですね。暖炉の掃除も念を入れてしなければね、ああそうだわウォード博士のお宅の衝立をお借り出来ないか聞いてみましょう。隙間風にご気分が滅入ってしまっては大変だわ。まあ、どうしましょう。こんなときにミスター・フェラーズがいてくだされば心強かったのですけれど」

 何年も前に亡くなった夫の不在を夫人が嘆くと、ミスター・フェラーズは苦笑した。

「お父さんは学者肌で社交とは無縁の方でしたから、きっとお母さんにすべて任せると仰っていたと思いますよ」

「そういう問題ではありません」

 フェラーズ夫人はきっと眦を上げて、全くわかっていないという風に首を振った。

「もとよりあの方に世故にたけた返事など期待しているわけではありません。今回のような人生に一度あるかどうかといった珍らかな重大ごとを前に、伴侶が傍にいてひょっと何かあれば相談し合えるということが大切なのです」

 彼女は目を伏せた。視界の端にどうしたものかと頬を掻く息子に夫の面影をみて、内心苦笑した。

「とにかく、準備を万端に整えねばなりませんね。二人にも手伝っていただきますよ」

しかし、ジェネヴィエーヴのフェラーズ家訪問は暫く実現しなかった。彼女は到着したその日の晩から高熱を発し、ベッドの住人となった。再び起き上れるようになるまでには数日を要したことはいうまでもない。


「もうお体はよろしいのですか」

漸くジェネヴィエーヴが居間に姿を現したその日、グレイ夫人は穏やかな調子で尋ねた。

「ご心配をおかけして申し訳ございません。体調はすっかり戻りました」

 ほんのりと微笑むと、すっかりよくなったとは言わないのだなと気付いたグレイ夫人は苦い笑みを浮かべつつ、無理は禁物ですよ、決して無理を押すようなことはお慎みくださいと念を押した。

「口うるさいようですがご寛恕くださいね。大切なご息女様をお預かりしている身ですもの。この数日間、侯爵様からも貴女を気遣うお手紙がたくさん届いていらっしゃいましたね。ナイトリー侯爵様はどれほどお心を痛めていらっしゃることでしょう、お労しい」

 きっとお返事を心待ちになさっていらっしゃいますよ、といって柔らかに目を細めた。グレイ夫人にとって、ナイトリー侯爵は血縁関係はないとはいえ、形式上は叔母と甥の間柄であり、ナイトリー侯爵が最も信頼を寄せている親類の一人であった。

「グレイ夫人のお心遣いにはいつも感謝しております」

 ジェネヴィエーヴの言葉にグレイ夫人は微笑んだ。

「すっかり淑女になられて。最後にお会いした時はまだお小さくいらしたのに、時間のたつのは早いことですね。私の膝の上でうとうとしていらした夕べがまるでつい最近のようですわ。あれから随分と変わりましたね。我が家はすっかり静かになってしまいました」

 彼女はチェイアの上に飾られた一家の肖像画を目を細めて見つめた。数年前に夫のグレイ氏は亡くなっており、子ども達もそれぞれ結婚して一家を立てており、グレイ夫人が小さくないこの邸宅で寡暮らしを送っていた。

「それに引き換え侯爵邸は賑やかになりましたね。よい変化だと嬉しく思っておりましたよ。ずっとお会いしてみたかったラトクリフ姉弟にもお会いできましたし。お二人とも素敵な方々ですね。ミス・ラトクリフは心根の優しい女性ですわ。貴女を看病する献身的な姿に感動いたしました。お手紙で彼女の人となりは予測していましたけれど、実際にこの目で確認して、彼女のような方が傍にいてくれるからこそ、ナイトリー侯爵も貴女を送り出すことができたのだと確信いたしました。それにミスター・ラトクリフも、まだ爵位をお継ぎではなかったのですね、初日にサーとお呼びしたら、気まずそうになさっていましたわ。申し訳ないことをして今いましたね。次の訪問の際にはきっと御父上の爵位を継いでいらっしゃることでしょう、今から楽しみです」

 ノクターンの狼狽えた表情を想像してジェネヴィエーヴはクスリと笑った。

「若いけれど細やかな気遣いのできる方ですね。少々気難しい所がおありなのはナイトリー侯爵の薫陶をお受けになっているからでしょうか」

 近しい方は似てくると申しますものねと、グレイ夫人は愉快気に笑声を上げた。

「なにより、お噂通り、音楽にたいそう堪能でいらして。この才能だけでも十分世の中で身を立てられましょうから、彼の才を惜しむ方も今後少なからず現れるでしょうね」

 ですが、とそこで言葉を切るとジェネヴィエーヴを優しい眼差しで見つめた。

「ミスター・ラトクリフの望みはそこにはないようです。お会いしてまだ日の浅い私にも、彼がどなたの傍にいたいのか分かるほどですもの。彼の決意は固いようですし、その為の努力も惜しまないことは、あの若さで侯爵家の少なからぬ実務を担っていらっしゃることからも推察されます。ナイトリー侯爵の信頼を得ることの難しさは折り紙付きですからね」

 僅かに表情を曇らせたジェネヴィエーヴが目を伏せるのを見とがめて、グレイ夫人は一層明るい口調になるとサッと話題を変えた。

「娘が嫁いでしまってからはこの屋敷のピアノは触れるものもなく寂しいものでしたが、ようやくその真価を発揮できたようです。私も娘たちが幼い頃にはよく引いたものでしたが、近頃は指がこわばってしまってとてもピアノを弾くどころではありませんでした。それに、膝の痛みまでいよいよ悪くなってしまって、演奏会にもめっきりと出かけなくなってしまいましたから、豊かな演奏に飢えていたのですが。ミスター・ラトクリフのおかげでここ数日は、素晴らしい演奏をそれこそ毎日のように耳にすることの喜びをかみしめておりますよ」

 グレイ夫人は紅茶を一口飲むとほっと息をついた。

「全てジェネヴィエーヴ嬢のおかげですわ。わざわざ私のもとに来て、ピアノを弾いてもよろしいですかと聞きに来たのですよ。内気なところが玉に瑕ですが、若さ故と思えば可愛らしいものです。繊細で愛情深い方」

いつか彼の爵位が準貴族にすぎないことを無念に感じる日が来るかもしれない。その時、彼は、ジェネヴィエーヴはどうするのだろうか。グレイ夫人は若い二人の未来を想って目を伏せた。

 グレイ夫人はノクターンとの気の置けない間柄をどう感じているのだろうか。これまでジェネヴィエーヴは他人の視線など全く気にも留めずに来たのだったが、敬愛すべきこの老婦人の考えが気になった。彼との親密さは一見すれば度を超えたものだと判断されてもおかしくなかった。彼女はそれを了解していたし、またこの現状を変えることは絶えがたいものだと確信していた。彼女にとってグレイ夫人は特別な人だった。彼女が愛情を寄せる稀少な人間の一人であり、尊敬する親類だった。衆目を気にしてノクターンを遠ざけるつもりなど毛頭ないが、人生経験の豊かなこの女性から批判を向けられれば、苦痛を感じざるを得ないだろう。

「顔をお上げになって。貴女はいつだって堂々となさっていてよろしいのですよ」

 穏やかに柔らかい声にジェネヴィエーヴが視線を上げると、グレイ夫人はくしゃりと微笑んだ。目じりに浮かんだ皺が彼女の人生の豊かさと愛情の深さを表現していた。ジェネヴィエーヴはそれを美しいと感じた。眼がしらがツンと熱くなった。

「たった一度きりの人生です。貴女の思う通りに存分に歩めばよろしいのです。貴女にはそうする権利があります。謂れのない悪意や誹謗に心を惑わせることはありません。意図的に誰かを傷つけ貶めることはあってはなりませんが、人品を損なわない限り、貴女の望むことをためらう必要はありません。例え少し失敗してしまったとしても、貴女を愛する周りの誰かがきっと手を貸して、支えてくださいます。私も老骨の身ではありますが、短くない人生を歩んできた者として、微力ながらお力添えさせていただきます」

 思いがけない言葉にジェネヴィエーヴは感動に任せてコクリと頷き、直ぐに幼子のような自身の反応にポッと頬を染めた。どういうわけだが、グレイ夫人の前ではいつだって甘えたで赤裸々な本音が出てしまうようだった。恥ずかしがる彼女にグレイ夫人はフフと声を出して笑った。

「そんな風に照れた所はあなたのお父様にそっくりですね。勿論、侯爵様のお若い頃にという意味ですけれど。姿かたちはお母様によく似ておいでですが、ふとした仕草にハッとさせられる瞬間が何度もございますよ」

 ジェネヴィエーヴを慈しむように見つめるグレイ夫人の瞳は、彼女の視線と交わると僅かに震えたようだった。哀愁の色を一瞬浮かんですぐに霧散した。ジェネヴィエーヴの中の何がグレイ夫人を哀しませるのだろうか。グレイ夫人の見せるこの微かな動揺を、幼い頃のジェネヴィエーヴは不思議に感じたものだった。

 だが、今となってみると、彼女にはその理由が理解できる気がした。それに気づいたのはジェネヴィエーヴがナイトリー邸の侯爵夫人の化粧室に出入りすることになって、暫くしてからのことだった。邸宅のギャラリーには歴代の侯爵家の人々の肖像画が飾られていたが、ただ一か所だけ妙に空間の間延びした場所があった。空間の左側には先代のナイトリー侯爵の肖像画が掛けられており、間をあけて右隣には当代のナイトリー侯爵と亡き令夫人が寄り添い合う肖像画が飾られていた。幼い頃、ジェネヴィエーヴは邸宅のいたるところに遺された母の痕跡によって、記憶にない母親を追慕し、時に心の拠りどころとしていた。

彼女にとって、これらの肖像画の類は親類縁者の少ないナイトリー一族とお近づきになる数少ない手立てだったが、その中にただ一人見つけられない人物がいた。そしてある日、長らく封鎖されていた侯爵夫人の化粧室の一角で、思いがけずその人物との邂逅を果たしたのであった。きっかけはほんの偶然だった。歴代の侯爵夫人や若い令嬢達の習作に混じって、随分立派な額縁があるなと奇妙に感じたことが発端だった。まるでその額縁を覆い隠すようにかぶせられた厚手の布をそっと取り除くと、意志の強い瞳でこちらを見つめる美貌の女性と視線が交わった。驚きもそのままに、周辺を捜索してみると、同一人物だと思われるこの女性の描かれた絵画が幾つも見つかった。その多さが女性のナイトリー侯爵家における重要性を物語っていた。その中の一つはジェネヴィエーヴもよく知る人物と並んで描かれたものだった。今から数十年前のものだろう、件の女性の隣にいるのは若き日のグレイ夫人だった。髪の結い方やボンネットから結婚後のものだということが推察された。彼女と腕を組んでベンチに腰掛ける女性は、灰色の豊かな髪にツンと通った鼻筋が冷淡ささえ感じさせる上品な雰囲気の美女だった。

――もしかして。きっと・・・。

淡い期待と僅かな高揚感と共に更に探索を続けると、ようやく目的の絵を見つけることができた。彼女の口元が確信に緩む。それは家族の肖像画だった。不惑の年頃と思われる貴婦人が夫と息子と思われる紳士達に挟まれて腰かけている。まだ顎のラインに幼さを感じさせる青年は、若き日のナイトリー侯爵に間違いなかった。

ああ、これがあの空白に収まるべき一枚なのだ。ジェネヴィエーヴは自然と了解した。

先代侯爵夫人の死後、ナイトリー侯爵は母の肖像画を唯一つの例外なく屋敷から取り払った。その場所は新たな絵画や美術品で埋められたが、ただ一つ、先祖代々のギャラリーのあの空間だけは手を付けることができなかった。その代わりに彼は件の肖像画を決して視界に入らぬよう、屋敷の奥深くに封印した。存在を忌避しながらも、その空白に手を付けなかった。本来あるべきものの不在によりその存在感はかえって増していた。誰もがそれを意識せざるを得ない一方で、皆がその事実を意図的に無視し続けた。在ることも痕跡を消し去るも拒み続けたナイトリー侯爵の心情は一体どのようなものだったのだろう。不存在にこそ意味を見出だすべきだという逆説があるとすれば、これこそが究極の諧謔であり皮肉であった。ナイトリー侯爵の傷ついた愛情の残骸であり、未だに心に血を流し続ける棘だった。

父の撞着にジェネヴィエーヴは何を感じただろうか。果たして、彼女は多くの肖像画から、両手に収まるほどの小さな肖像画を一点こっそりと持ち出した。結婚して間もない頃だろう、端麗ながらも少し高慢な顔つきでこちらを見つめる若い貴婦人の瞳は、ジェネヴィエーヴとそっくり同じ色と輝きを放っていた。

ジェネヴィエーヴの瞳は父とも肖像画の母とも異なる色をしていた。ギャラリーを見渡す限りジェネヴィエーヴと同じ瞳を見つけることはできなかったから、ナイトリーの血から受け継いだものではないことは確かだった。彼女の瞳は祖母譲りのものだったのだ。

この事実を知って以後、父母の婚姻を肯ぜず、彼女の存在を無視し続けた祖母に思いをはせずにいられなかった。そして、ナイトリー侯爵家の娘たちに降りかかる不幸な呪いの存在を知ってからは、その思いは急速に加速していった。

ジェネヴィエーヴは顔に手を持っていくと、自分の瞳を指しながらグレイ夫人を見つめた。

「わたしと同じ瞳を持っていらっしゃった方のことを、グレイ夫人はご存知ですね?」

 穏やかながら誤魔化しや言い訳を許さぬ毅然とした調子に、グレイ夫人はハッと顔をこわばらせた。

「先代のナイトリー侯爵夫人のことですわ。グレイ夫人の親友であり、わたしの祖母に当たる方のことです」

「それは―――」

 グレイ夫人の唇が僅かに震える。

「大丈夫、私存じておりますの。その上でお聞きしたいのですわ」

 夫人を安心させるように、ジェネヴィエーヴはふんわりと微笑んだ。

「貴女にとって、大層つらいお話になることでしょう。それでもよろしいのですか?」

「私を心配してくださいますのね。・・・優しいグレイ夫人、でも大丈夫です。私、知りたいのです」

 古い文献だけではなく、生きた証言が必要だった。その時当事者たちが何を知り、知らなかったのか。何を犠牲にして、何を選択したのか。一体誰のどのような決断が現在を取り巻く環境を作り出したのか。その時彼らは何故その選択を選んだのか。葛藤、後悔、喜び、その選択の先に今の自分が在るのだ。歴史は感情のある人々の多くの思想と相克の中で連綿と紡がれてきたものだ。彼らの導き出した結果こそが今を作り上げ、今に生きる我々の思想、信条に多大な影響を与えている。私たちは手の中にあるものを選択せねばならず、例えそれを打ち破るための思想や根拠も過去を知った先にこそ存在する。だが、そのためには痛みを伴うこともあるだろう。

ジェネヴィエーヴは一度言葉を切ると静かにグレイ夫人を見つめた。

「もしも辛くてたまらなくなったとしても、グレイ夫人が慰めてくださるでしょう?」

 ジェネヴィエーヴが悪戯っぽく微笑むと、グレイ夫人はまあ、と目を見張って口元を僅かに緩めた。

「そうですね。そう申し上げましたね」

微笑み返したグレイ夫人に、ジェネヴィエーヴはコクリと頷く。

「はい」

 グレイ夫人は目を伏せると、目の前に置かれているカップに口を付けた。すっかり冷めてしまった紅茶は渋くそれでも芳香が鼻腔に残った。

「――お答えせねばなりませんね」

 令嬢は何をお知りになりたいのですか、グレイ夫人は穏やかに尋ねた。


 グレイ夫人た人払いをして二人きりになった部屋の中には静寂が落ちた。

「この数年というもの、私はある問題に取り組んでまいりました。それが、つい最近になってようやくこれはという答えにたどり着くことができたと思うのです。ですが、まだ確信が持てない。様々な欠片を寄せ集めてやっと朧気ながら形を成したこれが、果たして正鵠を射ているものかどうか、その解答が欲しいのです」

「ジェネヴィエーヴ嬢はその正答を私が存じているとお思いなのですか」

「正直なところそれは分りません。ですが、グレイ夫人意外にそれを知っている方はもういらっしゃらないのです」

 グレイ夫人は正式にはナイトリー侯爵家の一員ではなかった。しかし事の全貌を知りうる立場にいた人物と、長い間、非常に親密な関係だった。グレイ夫人の母は2代前のナイトリー侯爵の継室であったし、先代侯爵夫人は彼女の親しい友であった。

「グレイ夫人はそれとは気づかずとも、きっと核心に迫ることを見聞きしていると推察しております」

 力説するジェネヴィエーヴに、グレイ夫人は困ったように微笑んだ。

「それは何とも責任重大な役回りですね。ご期待に添えるかどうか気がかりですわ」

「ご負担にならないように致しますので、どうぞご助力くださいませ」

「負担なんて、とんでもない。ですが、本来ならば是非にもご協力差し上げますと申し上げたいのですが、ことがナイトリー家に関わるとなれば話は別です。軽請け合いは致しかねます。ひとまずお話を伺ってからお返事させていただきたく存じます」

 ジェネヴィエーヴはそれでよいと肯うと、グレイ夫人に促されるままにこの度の訪問の第一の目的にも係る、珍奇な物語を話し出した。話は彼女の長年の不調の原因にも及び、呪い、という言葉が彼女の口から出されると、グレイ夫人は僅かに口の端を振るわせた。しかしそれは侮蔑や嘲笑と言った類のものではなく、悲愴や恐怖、混乱を意味していた。

次いで、ジェネヴィエーヴはナイトリー侯爵家の令嬢達に降りかかる不可解な運命について、家譜やその他の資料から得られた事実と、その調査から得た推測を並べていった。その間、グレイ夫人は途中何度も頷きながらじっと耳を傾けていた。

 ようやくジェネヴィエーヴが話し終えると、グレイ夫人は目を閉じてこめかみに軽く手を当てた。

「想像した以上に一筋縄にはいかないお話ですね」

「荒唐無稽とお考えですか」

 眉根を寄せてジェネヴィエーヴが見上げると、グレイ夫人はゆるく首を振った。

「いいえ。私にも思い当たるところがないわけでは・・・。いえ、臆断はよしましょう。それで、ジェネヴィエーヴ嬢は私と、先代の侯爵夫人とのやり取りもお知りになりたいのですね?」

「はい。ナイトリー侯爵家について、侯爵家の“娘”に関することでしたらどのように些細なことであっても教えていただきたいのです」

 グレイ夫人は眉根を寄せながらテーブルの上に組み合わせた手をみつめて、じっと考え込んでいたが、暫くして顔を上げた。

「きっとすぐにでも返答が欲しい所でしょうが」

 はい、出来得ることでしたら、とジェネヴィエーヴは頷いた。

「すぐにお話を伺えるのであればうれしいですが、唐突な話ですから。お答えに時間がかかることも重々承知しております」

 彼女の返答に、グレイ夫人はほっと息をつくと少々時間をもらえないかと頼んだ。頭の中を整理したいし、確認なければならないこともあるからと。

ジェネヴィエーヴの心中は、例えどのような当て推量でも構わないから、今すぐにでも考えを聞かせて欲しいところであったが、焦る気持ちを抑えて、微笑み頷いて見せた。

こと先代のナイトリー侯爵に関わる話題は、ナイトリー侯爵家では禁句となっていたから、彼女を知るための頼みの綱はグレイ夫人ただ一人に掛かっていた。

ナイトリー侯爵家に係る呪いの生き証人たりうる人物は、侯爵夫人を母に持ち、先代侯爵夫人のと私的な打ち明け話をし合う特別な間柄だったグレイ夫人を置いていなかった。


それからというもの、グレイ夫人とは食事とお茶の時間を除いて顔を合わせることも稀になっていった。彼女は自室や書斎に夜遅くまで籠りがちになり、家政婦長の手を借りながら何かの作業を続けていた。グレイ夫人の準備が整うまでの間、ジェネヴィエーヴは表面上は何もないかのように平静を保いつつ過ごしていたが、内心は一日千秋の思いで待ち続けていた。

そんな彼女の焦燥感に気付いていたアリアとノクターンは彼女の心を和ませようと骨を折った。相変わらずジェネヴィエーヴの傾眠傾向は続いていたが、日和のよい日などには散策に連れだしたりした。時節柄穏やかな日が続き、一年の中でも短く最も心地よい時期だった。

 この日も三人はぎっしりと食べ物の詰め込まれたバスケットを持ってピクニックに出かけていた。出がけに邸宅を振り返ると、書斎のいつもの位置にグレイ夫人の後ろ姿を見つけることができた。ジェネヴィエーヴは感謝の思いを込めてじっとその後姿を見つめた。今ではグレイ夫人と顔を合わせられるのは食事の席位だった。

日が半分以上傾く頃には風が出て来るので、厚手のストールを持参するとよいでしょうという家政婦長の忠告通り、ジェネヴィエーヴがアリアとノクターンと共に川辺を散策し始めて四半刻もしないうちに、川面を渡る風がスカートの裾を膨らませるようになった。それから咲き初めたばかりのマグノリアがゆらゆらと枝を揺らすようになるまで、そう時間はかからなかった。

 アリアはノクターンに日傘を持たせると、いそいそとジェネヴィエーヴの肩を持参したストールでクルリと巻いた。

「動きにくいわ」

 ジェネヴィエーヴが僅かに口をとがらせると、アリアはお風邪を召しては一大事ですからと取り合わなかった。助けを期待してノクターンを見上げるも、彼は困ったように眉を下げた。全く過保護なんだから、そう言いかけたジェネヴィエーヴだったが、折から川辺を渡る風がに吹かれて、ブルりと肩を抱くと、気まずそうに言葉を飲み込んだ。そんな彼女をノクターンは柔らかな微笑みを浮かべながら見つめていた。

 心が滲むような穏やかな時間が過ぎていった。春の盛りももう間近の風景は温かく、とろりととかしたように甘い芳香が薫っていた。

――眠いわ

 眠りが浅いジェネヴィエーヴは、今では昼間の内に何度もうたた寝するようになっていた。少しボンヤリしたつもりでいても、気がづくとあの悪夢の中へと落ち込んでいく。所かまわず襲ってくる睡魔に彼女は疲弊し始めていた。

じんわりと引き込まれるような意識を強いてつなぎ止めて、ジェネヴィエーヴは辺りを見渡した。彼女たちのいる小道から少し入った所に、馬車が漸く一台走るような道が続いていた。鬱蒼と茂った木々を抜けていくと、恐らくそこはあの場所へと繋がっていくに違いない。

 グレイ夫人の返答で今後の帰趨が決まる。きっとあの場所へと向かう頃には、自分自身の状態は今よりもずっと悪くなっているかもしれない。現状維持するだけでも精一杯なのだ。ジェネヴィエーヴはストールの首元を握り締め、固い表情で森の奥へと続く闇を見つめていた。

 アリアとノクターンはそんな彼女の様子に顔を見合わせ、不安気に眉根を寄せた。二人は素早く目配せしあうと、アリアはジェネヴィエーヴに身を寄せ、組んでいた腕を僅かに川辺の側に引いた。スッと一歩近づいたノクターンがさりげない素振りで日傘を傾けると、ジェネヴィエーヴの視線を遮った。

「美しい並木道ですね。屋敷のお庭だけではなく、この森の散歩道もグレイ夫人が手掛けたと伺いました。華美な装飾がない分、夫人のお人柄のように上品で心のかよった居心地の良い景観が素晴らしい」

 ため息交じりのノクターンの称賛に、思考に沈んでいたジェネヴィエーヴはつられたように、目を向けた。午後の麗らかな日差しに、咲き初めたばかりの清純な白い花が揺れている。

「殿下がいらっしゃる頃には見ごろになっていることでしょうね」

 うっとりと遠景に目を細めていたノクターンはアリアの台詞にうっと言葉を詰まらせた。嫌な現実を目の前に突き付けられたとでもいうように顔をしかめた。

「ふっ」

 直接言葉を交わすようになってしばらくたつというのに、ノクターンのクラレンスへの感情は相変わらずのようだった。軽く笑みをこぼしたジェネヴィエーヴに、ノクターンが決まり悪そうに眉を下げた。白い頬や耳が染まっているのは、日傘の薄紅色の陰が落ちているだけではないはずである。

「殿下も決してお暇なわけではないから、そんなに早くはいらっしゃらないと思うわ」

 ご訪問されるのはきっと、夏の気配が近づいて来るそんなころになるでしょう。ジェネヴィエーヴは手近な野生の若芽をそっと撫でた。

 今朝、早馬で届けられた手紙には、そう遠くない未来にクラレンスも〇〇州を訪問する旨が記されていた。ついては、ケリンチパークにもぜひ伺いたいと結ばれており、朝食の席で話を聞いたグレイ夫人は目を見開いた。表向き、公務のために王室が所有する別荘の一つに滞在しがてら、静かな田舎に療養に来ている婚約者をお忍びで訪問するという形になるため、仰々しい歓迎は不要であること、グレイ家には追って正式に訪問の打診の連絡が入ることをジェネヴィエーヴが説明したが、生真面目なグレイ邸の人々には何ら効果はなかった。

非公式ではあるもの王族の訪問とあっては、礼を失することなどあってはならない。グレイ夫人は執事や家政婦長と共に今から第三王子受け入れの準備に取り掛かっていた。昼間は関係各所との打ち合わせ、夜にはジェネヴィエーヴとの約束のために、グレイ夫人は八面六臂の活躍を見せていた。なるほど彼女はナイトリー侯爵家を後ろ盾に持ちながら、血筋は悪くないが無爵の地方の一貴族と婚姻しただけあって、野心や功名心といった物とは無縁であったが、生来、責任感が強く活動的だった。生き生きと指揮を執るグレイ夫人を見ていると、頑健な身体と健全な精神が許す限りにおいて、真摯にそして精力的に、自身に与えられた仕事に向き合ってきたであろう彼女の人生が垣間見えるようであった。

そして同時に、彼女を信頼し彼女から敬愛されてきた、祖母である先代のナイトリー侯爵夫人の人となりが一層気にかかるのだった。


ところでクラレンスの訪問はジェネヴィエーヴにとっても寝耳に水の出来事だった。一体どうやったら、王妃の暗殺未遂事件の解決の一端を担う彼が今のこの時期に王都を離れることができるのだろうか。この度のクラレンスからの手紙は珍しく短いもので、よほど急いでいたのだろう、要旨とジェネヴィエーヴの安否を尋ねる二、三の問いかけなどが記されているだけだった。彼の訪問の経緯は僅かな記載より推測するよりほかなかったが、翌日の朝の訪問にやってきたケイ・フェラーズの説明で明らかになったのだった。

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

次話でもお会いできましたら幸いです。

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