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廃妃の呪いと死の婚姻1-3

3話です。

誤字脱字等ございましたらご指摘いただけますと幸いです。

廃妃の呪いと死の婚姻1-3


 ある日の夕方、食事のために着替えをすませたアリアとノクターンに、侍女が告げた。

「明日はジェネヴィエーヴお嬢様とご一緒に、大聖堂へお出かけになるようにと仰せです」

 思いがけない言葉に二人は大きな目を更に見開いた。そっくりな顔をして驚いて見せる二人に、侍女は笑いをこらえるようにうつむいた。

「大聖堂へ?」

「左様でございます。ジェネヴィエーヴお嬢様はご婚約者様であるクラレンス殿下のご公務に付き添われます。閣下より、アリア様とノクターン様お二人も丁度良い機会ですので、同行されてはいかがかとのことでございます」

「閣下もいらっしゃるのですか?」

「ご主人様は御前会議に出席予定ですので、今回は参列されません。その代わりに乳母と侍女の他にも護衛騎士たちが同行いたします」

 アリアとノクターンは特に断る理由もなかったため、素直にうなずいた。二人は首都の大聖堂に行くのは初めてだっ。特に、大聖堂には有名なパイプオルガンが備えられていたため、密かに胸をときめかせたのだった。

 翌日、約束通りの時間の少し前に準備を整えたアリアとノクターンが玄関ホールで、ジェネヴィエーヴの登場を待っていた。

「よく考えてみると、お出かけするのは初めてだったね」

「そうだね。ねえ、パイプオルガンってどんな感じなんだろう。少しでもいいから演奏を聞けるかな」

 珍しく興奮気味のノクターンにアリアはクスリと笑った。二人とも、先日ナイトリー侯爵から贈られた新品の訪問着を身に着けている。二人とも端正な顔つきをしていたから、こうして着飾って並んでいると、それは引き立って見えた。

 暫くして、扉が開いて乳母と侍女を従えたジェネヴィエーヴが姿を現わすと、アリアとノクターンは彼女へ頭を下げた。

「待たせてしまったかしら。もっと楽にして頂戴。私たちは親戚なのだし、そう固くならずとも良いわ。では、皆そろったことだし、参りましょうか」

 ジェネヴィエーヴが例のおっとりした調子で告げ、家令の手を取り馬車に乗り込んだのだった。1台目の馬車にジェネヴィエーヴと乳母と侍女のリリーが、2台目にはアリアとノクターンそれともう一人侍女が乗り、その2台の馬車の周りを騎乗した騎士たちが護衛するという格好だった。

 馬車が動き出すと、同車することになった若い侍女が二人に声を掛けた。

「お二人は大聖堂にいらっしゃるのは初めてでございましたね。ステンドグラスがとても有名なので、是非注目してご覧ください。新しい南棟以外は古い建築様式で建てられていて、塔の上からの眺望は素晴らしいものですよ。本日はお天気も良いですから、御祈りが終わりましたら庭園に出てみましょうね。そうそう、大聖堂の隣にある庭園は迷路のようになっているのですよ」

 にこにこと人好きのする笑みを浮かべる若い侍女の言葉に、二人は胸を躍らせた。

「それは素敵ですね、でも庭園を見て回る時間があるんでしょうか?」

 ノクターンの台詞に若い侍女は、あらといって目を丸くした。

「昨日、侍女がお話しておりませんでしたか?ジェネヴィエーヴお嬢様は第3王子殿下にご同行されるので、御祈りが終わり次第、別館でまた別のご用事おありなんだそうです。お嬢様も殿下のご婚約者様としてご同席されますので、その間私たちは自由時間になるんですよ。実は、お二人にはお小遣いもお預かりしているんです。せっかくのお出かけですから、目いっぱい楽しみましょうね。私は運がいいです、お二人のおかげでこうしてご一緒できるんですから。皆からとっても羨ましがられたんですよ」

 これを聞いたアリアとノクターンはますます到着が楽しみになった。自由時間があるのなら、パイプオルガンもじっくり見る時間があるかもしれない。二人は目をキラキラさせながら車窓の景色を眺めたのだった。


 大聖堂に近づくにつれて、近代的な建物群が減り、昔ながらの古い町並みが続いていった。小さな旧様式の家々が並ぶ街並みを抜けると、大聖堂の全容が目に入った。それからしばらく車を走らせてようやく車寄せへと到着した。

 二人が騎士の一人の手を借りながら馬車を降りると、既にジェネヴィエーヴたちは馬車から降りて、クラレンス殿下の到着を待っているところだった。

出発時はじっくりと彼女の様子を見る機会はなかった、入り口近くの石畳に立つジェネヴィエーヴは、年齢よりもずっと大人びて見えた。髪を複雑に編み込み、片側に垂らしており、膝下までの上品なドレスに、同じ濃い緑のヘッドドレスをつけていた。

 ジェネヴィエーヴとアリアが並んで立っていたとして、誰が二人が数ヶ月しか年が違わないなどと思ったことだろうか。ジェネヴィエーヴは既に幼さから抜け出した容貌をしていた。

「お人形さんのようね」

 アリアとノクターンが初めての場所柄、無意識に手をつないでいる様子に目を止めたジェネヴィエーヴは、ほんのりと微笑んだ。大人びたその微笑みに二人は頬を染めた。

「あらまあ、本当でございますね。お二人とも新しい訪問着がよくお似合いでございますよ」

 機嫌の悪くない主人に乳母が相槌を打つ。

 アリアとノクターンは夜明けの空を映したような紺色の服装を選んでいた。二人の明るい金髪が濃紺の布地によく映えている。彼らを目にするものがあれば、大聖堂の壁画に描かれている天使が絵から飛び出てきたのではないか思ったことだろう。それほど、二人は美しい子どもたちだった。

「せっかくのお出かけですから、閣下に戴いたお洋服の中から選ばせていただきました」

「お父様が?そう、それはよかったわね。・・・お父様に申し訳ないことをしたわ。本来なら私が気を付けて差し上げるべきことだったわね」

 ナイトリー侯爵家にはもう長いこと女主人が不在だった。領地経営はともかくとして、家庭内の細々したことにナイトリー侯爵の手を煩わせるべきではなかったと、ジェネヴィエーヴは目を伏せた。

「お嬢様・・・!」

 思いがけない台詞に、乳母が感動のあまり声を詰まらせた。いつの間にかこのように謙虚な台詞を言えるようになったのだろうか。

 すると、和やかな空気が漂う一向のもとに、一人の騎士が走り寄ってきた。彼が侍女のリリーに耳打ちをすると、リリーは心得たように頷いた。

「お嬢様、殿下がご到着されたそうでございます」

 リリーの言葉を耳にした途端、ジェネヴィエーヴの顔つきがガラリと変わった。その急激な変化にアリアとナイトリーは目を見開いた。

「殿下が?まあ、直ぐにお出迎えしなければ。どちらにいらして?」

 今にも駆けださんばかりの彼女を、乳母たちが何とか押しとどめようとしていると、侍従と護衛を引き連れた第3王子のクラレンスが姿を現した。

「ナイトリー侯爵令嬢、お待たせて申し訳ありませんでした」

「クラレンス殿下!」

 乳母の手を振り切ったジェネヴィエーヴがクラレンス殿下に駆け寄る。

「ジェネヴィエーブ様!」

 乳母の諫めに、ジェネヴィエーヴはしぶしぶといった様子で、淑女の礼を取った。アリアとノクターンたちもまた、頭を下げる。

「ごきげんよう殿下」

「ごきげんようナイトリー侯爵令嬢。お加減はいかがですか?病み上がりだというのに、こうして公務につき合わせてしまって申し訳ありませんん」

「まあ、クラレンス殿下。ナイトリー侯爵令嬢なんて他人行儀な呼び方はおやめくださいと申しておりますでしょう。どうか、ジェネヴィエーヴとお呼びくださいませ。身体はすっかり良くなりましたわ。その折にはたくさんのお見舞いの花束をありがとうございました。大変うれしゅうございましたわ」

 ジェネヴィエーヴの甘ったるい声に、首を垂れたままのアリアとノクターンは、これまでの物憂げな彼女と乖離したジェネヴィエーヴの言動に二人はすっかり面食らってしまった。

 そんな彼らの心など知らず、ジェネヴィエーヴはクラレンス殿下の差し出した手に、腕を絡めると彼の身体にピッタリとしなだれかかった。いつものことなのかクラレンス殿下は苦笑すると、アリアとノクターンに顔を向けた。

「おや、はじめてお目にかかる方だいらっしゃいますね、ご紹介いただけますか」

 クラレンス殿下の言葉にようやく二人の存在を思い出したのか、ジェネヴィエーヴは遠い親戚のご令嬢とご令息ですわ、事情がございまして我が家に身を寄せておりますの、と二人を紹介したのだが、その間もうっとりとクラレンスを見つめ続けていた。もはや、彼女の瞳にはクラレンス殿下以外の人間は写っていないようだった。

「ジェネヴィエーヴ嬢のご親戚なのですね」

 よろしくといって微笑む殿下に、アリアとノクターンは光栄でございますと言って再び頭を下げた。

「殿下、早く参りましょう」

 ジェネヴィエーヴに促されれ、クラレンス殿下は大聖堂へ入っていった。

その後も、礼拝の間中彼女はずっとそんな調子だった。ジェネヴィエーヴのあまりの豹変ぶりに、アリアとノクターンは礼拝中ジェネヴィエーヴの様子が気になって、司祭の言葉が全く耳に入ってこなかった。楽しみにしていた賛美歌すらほとんど記憶に残らなかったほどである。

ようやく礼拝が終わると、クラレンス殿下とジェネヴィエーブたちを除く参列者たちのほどんどが礼拝堂を出て行った。アリアとノクターンもまた侍女と一人の護衛騎士と共に、礼拝堂を後にして、教会に隣接する庭園へと向かった。

「びっくりしたね」

 侍女と護衛騎士から少し離れて珍しい品種の花を眺めるふりをしながら、アリアはノクターンに囁いた。

「ジェネヴィエーブ様、なんかまるで人が違っちゃったみたいだった」

 ほとんど接点のないノクターンと違い、ここ数日毎日顔を合わせて言葉を交わしていたアリアの衝撃は大きいものだった。

「恋すると人が変わるって言うけど、あんな感じなのかな」

「うーん、よくわからないけど、熱狂的って言うのかな、周りなんて見えてませんって感じだね。・・・どうしたの。また何か気にかかってるの?」

 ノクターンの問いかけに、アリアは戸惑いつつ頷いた。

「うん。普段のジェネヴィエーブ様とあまりにも違っていたから。ジェネヴィエーヴ様はいつもこう、そこにいるんだけど曖昧でしっかりつかんでないと消えちゃいそうな危うさっていうのかな、そんな感じがある方なんだけど、さっきのジェネヴィエーブ様は見てるとすごく違和感があった。なんかこう、・・・見ていると、不安になる感じがしたんだよね」

 ジェネヴィエーブの上気した頬と、とろりと濁った瞳を思い返して、アリアはスカートの裾をぎゅっと握った。

「不安ねえ。それはよくわかんないけど、とにかくジェネヴィエーヴ様が殿下にぞっこんなのは分かったよね。殿下との温度差は歴然だったけど。殿下ははずっとジェネヴィエーヴ様に微笑みを返していたけど、その笑顔もお手本通りの表情を作っていますって感じでジェネヴィエーヴ様みたいな情熱は一切感じなかった。高位貴族ってあんなもんなのかな?ちぐはぐですっごい不自然で、いけ好かない感じ。・・・おっと」

 思わずそう口にしてしまったノクターンは慌てて周囲を見渡すと、誰にも聞かれていないことを確認してほっと息をついた。

「そろそろ行こう。同じ場所にずっといたんじゃ変に思われる」

 ノクターンはそういいながら立ち上がるとアリアへ手を差し出した。

「うん」

 アリアはノクターンに手をひっぱられて立ち上がると、ワンピースの裾をぱんぱんと払う。そんな彼女の肩をノクターンがポンポンと叩いて注意を引いた。

「おい、アリア」

 ノクターンの声に振り向くと、顔色を変えた侍女が走り寄ってきたところだった。

「どうか、急いで大聖堂へお戻りください」

 二人がその言葉に吃驚して、侍女に手を引かれながら早足に大聖堂への道を戻ると、狼狽した様子の護衛騎士が駆け寄ってきた。

「お早く!」

 大人たちのただならぬ様子に、何か良からぬことが起こったのだと二人は察した。

「何があったんですか?」

 ノクターンの質問に侍女は歩くのを止めぬまま、声を潜めて答えた。

「ジェネヴィエーブお嬢様に何か起こった様です」

「え」

 侍女の言葉にアリアの顔はさっと青ざめた。

「ご無事なんですか」

「きっと大丈夫です。ですが、光の魔力をお持ちのアリア様に来ていただきたいと」

 アリアはコクリと頷くと、精一杯足を動かした。貴族たちの目が煩わしい。ラトクリフ家の領地内なら、全速力で走っていったのに。


 一行が大聖堂に入ると、見習い司祭と思われる人物がこちらですと言って奥の扉を指示した。そのまま見習い司祭について歩きながら幾つもの廊下を抜けていくと、ある部屋の扉の前に腕を組んで立ちつくしているクラレンス殿下達の姿が目に入った。彼の顔色は紙のように白く、ずっと張り付けていたはずの笑顔も今ではすっかり剥がれ落ちてしまっていた。扉が開いて修道女が姿を現すと、クラレンスは焦った様子で修道女に詰め寄った。その表情は初めて彼を年相応にみせた。

「ジェネヴィエーヴ嬢は意識を取り戻されたのか?」

 アリアとノクターンは漏れ聞こえたクラレンス殿下の言葉に、ジェネヴィエーヴの身になにかのっぴきならぬ事態が生じたことを察した。

「はい。ですがまだ混乱なさっているご様子です。申し訳ございません。詳しいことは治療が済みご報告いたしますので、どうかもうしばらく・・・」

 クラレンスと修道女の押し問答をする背後で、再びかちゃりと音がして扉が開くと、今度はジェネヴィエーブの乳母が姿を現した。乳母は廊下を見渡し、その奥にアリアの姿を見とめると声を上げた。

「アリア様」

 乳母の台詞に皆の視線が一斉にアリアに注がれる。

「はい」

 とっさに返事をしたアリアの声が長い廊下にこだました。

「こちらへ」

 乳母がそう言って手を差し出すと、さっと人垣が割れた。その間をアリアが進んでゆくと、憔悴した様子の乳母がアリアの肩に手を置いて言った。

「お嬢様がアリア様にお傍に来ていただきたいと仰っています」

「承知しました。ですが、ジェネヴィエーヴさまはどうなすったのですか?」

 アリアの質問に乳母が口を開こうとすると、横でそのやり取りを聞いていたクラレンスが焦燥感も露わにそれを遮った。

「乳母殿、少し待って欲しい。医師は?医師はなんといっている。令嬢はご無事なのか」

「はい殿下。医師は命に別状はないと申しております。ただ、頭を打っていらっしゃいますので、暫くはこのまま動かさずに経過を診るべきだということです。ですが、もうすぐ診察が終わりますので、誠に恐縮でございますが、詳しいことは医師から直接お聞きくださいませ」

 乳母の困り切った表情を見たクラレンスは、

「そうかわかった。いや、すまなかったな。会話に割り込むなど無作法なことをした、許せ」

と言って身を引くと、多少ホッとした様子で元の位置へと戻って行った。近くで見た彼の胸元には血のようなものが付着していた。乳母アリアの肩に置かれた手にぐっと力を入れると、眉根を寄せつつ告げた。

「アリア様、ジェネヴィエーヴ様が階段から落ちたのです。頭部も負傷なさっていて、随分出血された上に、意識を失ってしまわれたので、医師の診察を受けることになりました。つい今しがた意識を取り戻されたのですが、どうやら記憶が少々混乱なさっているようなのです。初めよりも今はだいぶ落ち着いてきていらっしゃるのですが、お嬢様がアリア様とお話をされたい、どうしても二人きりにして欲しいと仰っているんです」

 乳母の言葉にアリアは内心首をかしげた。自分は光の魔力による治癒力が目的でここに呼ばれたのではなかったのか。疑問に思いつつも、アリアは首肯した。

「わかりました」

「私とリリーは隣の部屋に待機しています。呼び鈴を鳴らせば音は必ず聞こえますので、何かあればどんなに些細なことだったとしてもすぐにお呼びください。私たちはいなくなりますが、お部屋の前には護衛騎士を幾人か残しておきます」

「はい」

「ではこちらへどうぞ」

 そうしてアリアが乳母に促されて部屋へ足を踏み入れると、医師がちょうどジェネヴィエーヴの診察を終えたところだった。

「アリア」

 ジェネヴィエーヴの小さな声に、アリアがベッドへと小走りで駆け寄ってゆくと、リリーと乳母は小さく頷き合い、医師を連れて扉を出て行った。

 扉が完全に閉まり、がやがやとした人々の気配が遠くなったのを確かめると、ジェネヴィエーヴのはアリアの両手をギュッと握り締めた。

 彼女の頭部や首、両手に巻かれた包帯が痛々しかった。きっと布団に隠れた部分にも幾つも怪我を負っているのだろう。

 アリアの手を握るジェネヴィエーヴの両手は冷たく震えていた。アリアがぎゅっと握り返すと、ジェネヴィエーヴはアリアの手に額を当てて、震えた声で告げた。

「ああ、アリア。どうか私を助けて。このままではそう遠くない将来、私は命を落とすことになる。アリア・・・アリア、どうか、私を助けてください」

 そう懇願すると、ジェネヴィエーヴは大粒の涙を流してベッドに上半身を伏せた。




 それは大聖堂に足を踏み入れた瞬間に訪れた。

初め鋭い頭痛をおぼえたジェネヴィエーヴだったが、暫くすると眩暈が加わった。それでも祈祷中は何とかこらえて、礼拝を終えたところまでは良かった。司祭に案内され、北棟に向かう途中で事故は起こった。ジェネヴィエーヴはクラレンスの腕にしがみつきかろうじて歩を進めていたが、クラレンスは彼女が普段も彼の腕を取り、べたべたともたれ掛かるようにして歩くことが常であったため、彼に縋り付くようにして歩を進める彼女の異変に気付くことはできなかった。

 幾つもの階段を上った先に目的の部屋はあった。この党は研究棟としても使用されており、ある階から資料を運び込んでいた修道士たちと途中で鉢合わせし。彼らが殿下に首を垂れたところで、手前の修道士の持っていた山の様な書類がぐらりとバランスを崩した。近くにいたクラレンス殿下がさっと手を伸ばしたが、それより先に近くにいた護衛騎士の手が伸びて、書類を支えたため、書類は階段に散らばらずに済んだ。しかし、そのせいで、よりにもよって、クラレンスの腕に巻き付けていたジェネヴィエーヴの腕は振り払われる甲地となってしまった。ひどい眩暈の波に襲われていた彼女は、縋り付いていた支柱を突然外されて、体勢を崩して階段へと倒れこんでいった。タイミングの悪ことに、修道士たのために道を開けて、脇によけていた侍女や騎士たちの間を縫うようにジェネヴィエーヴは石の階段を落ちていった。

「お嬢様!」

 乳母とリリーの悲鳴が階段にこだました。

 最も焦ったのは先程まで腕を組んでいたクラレンスであった。彼は我先にと転がり落ちたジェネヴィエーヴに駆け寄った。落ちる時に打ち付けたのだろうか、彼女の額からは真っ赤な鮮血が流れ落ち、白い顔に筋を作っていた。クラレンスはシャツが汚れるのも構わず、不自然な格好で倒れていた彼女を抱き上げた。

「頭を動かさないでください!」

 駆け寄ってきた騎士の言葉に、ジェネヴィエーヴを揺り動かそうとしていたクラレンスはハッとして手を止めた。

「まずは止血を、あなたは医師を呼んでください」

 騎士の台詞に修道士の一人が足早にその場を去ると、リリーが清潔なハンカチを当てて簡易的な止血を行う。一行を案内していた司祭が、ベッドのあるお部屋にご案内しますと言って先頭に立って歩きだすと、一番がっしりとした体躯を持つ騎士がそっとジェネヴィエーヴを抱きかかえた。そして頭を揺らさないように注意しながら司祭の後に続いた。歩く間にもジェネヴィエーヴの頭に添えられたハンカチがみるみると赤く染まっていく。

 部屋に到着して、ベッドに横たえられてからも、ジェネヴィエーヴは固く目を閉じて、身じろぎすらしなかった。

「お嬢様、お嬢様!ああ、閣下になんとお伝えすれば・・・!」

自責の念に駆られていたクラレンスは、取り乱した乳母の台詞に我に返った。そうだ、彼女の父親であるナイトリー侯爵に一刻でも早く知らせなければならない。

「侯爵は今日は屋敷に?」

 握りしめたハンカチで零れ落ちる涙をぬぐいながら、乳母は、本日は王宮にいらっしゃっていますと答えた。頷いたクラレンスは自身の護衛騎士の一人を呼ぶと、直ちに王宮に戻り、このことをナイトリー侯爵に伝えるようにと命じた。

 しばしの後に、若い修道士が、教会付きの医師を連れ戻ってくると、一同は部屋の外で待つようにと指示された。

 ジェネヴィエーヴが意識を取り戻したのは、それから更に暫く経ってからだった。

 初め、うっすらと目を開いた彼女は、慌てて駆け寄ったクラレンス殿下を視界に入れると、カっと瞳を見開き、息を漏らした。

「ひっ」

 飛び起きた拍子にバランスを崩したジェネヴィエーヴを支えようと、手を伸ばしたクラレンスの手を彼女は振り払った。

「いやっ、こっちに来ないで、いや、いや、いや、いやーっ!」

 クラレンスは慌てて手を引っ込めたが、ジェネヴィエーヴはなおも逃れようとベッドの反対側へ体を翻し、あわや転落というところを侍女のリリーに抱き留められた。

「お嬢様、お気をしっかりお持ちください」

 彼女の異様な取り乱しように、リリーが体を支えながら呼びかけるが、その言葉がジェネヴィエーヴの耳に届いているとは到底思われなかった。うわごとを口走り、腕で庇うかのように蒼白な顔を覆い、その細い肩を震わせる様に一同はぎょっとした。それでも、彼女を幼い頃から知っている乳母とリリーはいち早く我に返ると、どうにかジェネヴィエーヴを落ち着けようと試みた。いままでの癇癪とは異なる感情の昂ぶりをいぶかしんではいたものの、彼女たちにとってジェネヴィエーヴの錯乱はそう珍しいことではなかった。

 反対に、最も衝撃を受けたのはクラレンスであった。彼にとってのジェネヴィエーヴは常に甘ったるい笑顔を浮かべ、砂糖菓子のような言葉を紡ぐ煩わしい少女だった。そうでなければ、クラレンスに近づこうとする他の令嬢達を敵視する嫉妬深い女だった。クラレンスにとって、彼女にこのような恐怖と憎悪の入り混じった瞳を向けられるなど、未だかつてないことだった。

「患者の体に障ります。乳母殿と侍女以外の皆様はお部屋の外でお待ちください」

 医師に告げられてクラレンスはしぶしぶ部屋を後にしたが、その後、再び乳母が姿を現すまで彼の混乱は続いたのだった。

お読みいただきありがとうございます。

二日後にもう一話投稿予定です。

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