廃妃の呪いと死の婚姻7-4
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今回は校正に非常に時間がかかってしまいました。
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廃妃の呪いと死の婚姻7-4
ジェネヴィエーヴの居室に呼び入れられたアリアとノクターンはぎょっと目を見開いた。足早に近づいた視線の先で、ジェネヴィエーヴは部屋の奥の赤々とした炎の燃え盛る暖炉の傍に据えられた寝椅子にぐったりと身を沈めている。彼女は億劫気に肘置きに頬杖をついていた。
足音に顔を上げた彼女の様子にノクターンは息をのみ、アリアは悲鳴のような声を上げて駆け寄った。彼女は毛足の長い絨毯に膝をつくと、ジェネヴィエーヴの手を握り締めた。
「ジェネヴィエーヴ様!」
気にするなという風に片手を挙げた彼女の目の周りは、泣き明かしたかのように赤く縁どられ、色濃い疲労の色が浮かんでいた。
「なぜ、一体どうなさったのですか」
眉根を寄せるノクターンに、ジェネヴィエーヴは皮肉気に片頬だけで笑みを浮かべた。
「話があるの」
敢えて逸らされた返答に、彼がそうではなくてと口を開くよりも先に、ジェネヴィエーヴは鋭い声を上げた。
「この後すぐにお父様の元へ同行してもらうわ。あなた達の言いたいことは理解しているけれど、とりあえず私の話を聞いてちょうだい」
ノクターンがもの言いたげな視線を投げかけつつも、黙って椅子に腰を下ろした。ジェネヴィエーヴは治癒魔術を施すアリアの両手に軽く触れた。彼女がしぶしぶといった調子で席に着くと、ジェネヴィエーヴは卓上に置かれた木箱を押しやった。
「これを」
テーブルの上には木箱の他に数冊の古い書籍が積み上げられている。それらはすべて日記帳のようであった。日記帳にはブックマーカー代わりに幾つものリボンが挟み込まれていた。ジェネヴィエーヴが木箱を動かしたことで、支えを失った日記帳がカタリと音を立てて崩れた。彼女はそれを気に留めるそぶりも見せずに、グイっと木箱を二人の前に押しこくった。彼らが身を乗り出して箱をのぞくと、その中には数枚の真新しい紙と幾通もの書信が収められていた。
「拝見しても?」
ジェネヴィエーヴがコクリと頷くと、ノクターンはパラリと数枚の紙を手に取った。アリアが彼に頭を寄せてその手元を覗き込む。そこにはジェネヴィエーヴの筆跡で何事かがびっしりと書き込まれていた。
二人の顔つきが見る見るうちに険しくなってゆく。最後のページに目を走らせた彼らが物問いた気な目つきで、顔を上げるとジェネヴィエーヴは片手を上げてそれを押し留めた。
「まずは私の話を聞いて欲しいの」
ジェネヴィエーヴは二人の顔をちらりと見遣ると、崩れた日記帳の上からおもむろに2冊を手に取って赤いリボンの挟まれたページを開いた。一冊はそのままテーブルの上に、もう一冊を膝の上に置く。頭痛を堪えるように寄せた眉間に指を当てて、目を閉じたままに口を開いた。
「この十数代というもの、記録に遺されただけでもナイトリー侯爵家にはこれまでに分家も入れれば50を優に超える数の女の子たちが生を受けたわ」
ナイトリー侯爵家とそれに連なる一族たちは決して子福者ではなかったものの、各世代に於いてそれなりに子を産み、血を繋いできた。ここ2代余りは一人っ子が続いていたが、それ以前は、特に本家においては血筋の存続を重要視する向きもあり、複数の子ども達が家譜に名を残していた。
ナイトリー侯爵家の家系図を見ると長男ないし男児が本家を継ぎ、更にその男の子どもが家を継承していくという、王国の中でもある一点を除いては特段珍しくもない代物であった。しかし、そのたった一点がこれ以上なく奇妙で不可思議なものであった。
「出生比率だけで言えば女児の方が若干多い印象を受けるわ。でも、それが無事成人してさらに次世代を残すまで生き残った人数で言うとまるで比べ物にならないの」
おかしな話だと思うわ、ジェネヴィエーヴの眉間の皺が一層深く刻まれる。彼女は頭痛をこらえるかのようにきつく閉じていた瞼を開いて、アリアとノクターンを見遣ると皮肉気な笑みを浮かべた。
「生没年が分かっているだけでも、女児のうち半数以上が成人を迎えることなく命を落としているわ。幼児の死亡率を考えればそう不思議ではないと感じるかもしれないけれど、女の子の方が男の子の場合よりも亡くなった数がずっと多いの。それに、それだけではないわ。彼女たちはね、仮に結婚したとしてもその数年後には命を落としているの。子を産むこともなく死去したのよ。ただの一人の例外もなくね」
ナイトリー侯爵家の女たちは若くして命を落とし、例外なく子を遺すことができない。信じられないような推測に思い至ったジェネヴィエーヴは夜を徹して記録に当たった。ナイトリー侯爵家の家譜だけではなく、寝室に分厚い何冊もの貴族名鑑を持ち込んで、令嬢達が嫁いだ先の記録まで当たったのである。ナイトリー侯爵家の令嬢と婚姻を結んだ各家門の後継者たちの生没年や生母の記述を検めたものの、そこに彼女たちの名前が記されることは一切なかった。彼女たちは若くして亡くなった元夫人として、夫の記録に小さく付されるだけであった。
「彼女たちの没年はまちまちだけれど一貫しているのは、25歳を超えて生きた女性はいなかったという事実よ。彼女たちは誰一人として25歳の壁を超えることはできなかったの」
「まさか」
アリアが思わずと言った様子で声を漏らした。ジェネヴィエーヴは嘘ではないわと言って軽く首を振った。
「いつからそんな風になってしまったのかしら?ナイトリーの一族は初めから25歳以上生きられないし、子どもを産むことはできなかったのかしら?」
謳うように問いを口にするジェネヴィエーヴの瞳に狂気じみたものを見て取って、アリアとノクターンは息をのんだ。
「そんなことはないわ!」
ハッと吐き捨てる様に息をついたジェネヴィエーヴは忌々し気に顔を歪めた。
「ある時を境に突如としてこの現象は現れたの。それは一体いつから?あなた達なら容易に想像できるのではない?」
彼女の問いにノクターンは唇を震わせた。
「クリスティーン夫人・・・」
「クレメンティーンの双子の妹の?」
二人の視線がジェネヴィエーヴに集まる。彼女は小さく笑って肯定の意を示した。
「女児が長生きできない、子を産めない。これらは全てクリスティーンの子ども達の代から始まっているわ」
眦をキッと吊り上げ、固く握りしめられた拳が震えている。アリアはジェネヴィエーヴの拳にそっと触れた。
「落ち着いてください。あまり興奮されてはお体に障ります」
「遺伝的な疾患の可能性はありませんか?出産できないと仰いましたね。例えば悪性の貧血のような病の可能性はありませんか。昔、こちらに引き取られる前に預けられていた先でそんな話を聞いたことがあります」
「私もそのことは覚えているわ。クレイ夫人のことね。引き取られた先の夫人の親友だという女性です。彼女のお母様も質の悪い貧血をお持ちで、妊娠中もずっと具合が悪かった上に非常な難産だったと。クレイ夫人の母方の親族にはそうした女性が多くいて、夫人も妊娠することをとても畏れていらしたわ」
そういう病気の可能性も考えてみたわ、でも、とジェネヴィエーヴは首を振った。
「でもそれをお父様がご存じないなんてことがあるかしら?よしんば深いお考えがあって敢えて私に隠していらっしゃるとして、私の健康を全面的に託しているアリアにそんな病があることを、お話しされないなんてありえないわ」
確かにジェネヴィエーヴを掌中の珠と溺愛しているナイトリー侯爵に限って、そんなことはあり得なかった。
「では、やはり?」
「ご覧の通り、クレメンティーンの死後に生を受けたナイトリー侯爵家の女たちは、一人として25歳を迎えることはできなかった。それも一人二人といった数ではないわ、50名を超える子供がいて、ただの一人たりともよ」
ジェネヴィエーヴはこの不穏で陰険な符号に、不安を拭い去ることができなかった。
「祖先の秘密を暴き立てるようなことは心苦しかったけれど、遺されていた侯爵夫人たちの日記や手紙を全て読み込んだの。夜更かしなんてこの方、経験したことがなかったものだから、おかげでこの有様よ」
ジェネヴィエーヴは黒々としたクマに縁どられた目元を細めてフフ、っと皮肉気に笑った。
「あなた達なら私がこの事実に一体何を重ね、恐れているのか説明せずとも分かるわよね」
彼女は半眼になると、膝の上に置いた日記帳に視線を落とした。実際に何が起きているのか当事者の言葉より重いものはない。彼女は表紙を開くと、先々代の侯爵夫人であり私にとっては曾祖母に当たる方の日記よ、と固い口調で言葉を続けた。
「この方は後に跡を継いでナイトリー侯爵となる長男の他に、二人の姉妹を産んでいらっしゃるわ。でもその姉妹を早くに亡くしているの。そうはいっても姉妹の享年は二十歳を超えているのから、歴代の令嬢達の没年と比べれば長寿な方なんでしょうけれど」
ジェネヴィエーヴは手に取った日記をぺらりと捲ると、付箋代わりの赤いリボンを挟んだページを開いた。
侯爵夫人はまめな人であった様で、年代が近いことも奏功してか、数多くの日記や書簡が状態の良いままで保管されていた。ジェネヴィエーヴが手に取ったのはそれらの中でも夫人の結婚後、十数年あまりが経過した30代半頃の物だった。
「夫人は結婚後立て続けに二人の女の子をお産みになったの。子煩悩な方だったらしくて、日記にもお子様たちのことが多く記されているわ。二人のご令嬢の内、姉君の方は物静かな方で詩歌音曲に堪能でいらして、一方で妹君は明朗で活発な方で乗馬やダンスがお好きだったようなの。どちらを特別扱いするということもなく、日記からはお二人の健やかな成長を願う愛情深いお心がうかがえるわ」
潮目が変わったのは夫人が長男出産後の長期療養を経て、領地の屋敷から首都へ戻った後のことだった。この頃、姉妹は10歳前後であり、帰宅前までの日記には離れて暮らす娘たちを案じる記録が多かったが、再開後の溢れんばかりの愛情と感動が一段落すると、次第に様子が変わってきた。元々、対極と言ってもよい性格と才能を持つ姉妹だったが、長じるに従いその違いはいよいよ顕著になり、年が近い分、侯爵夫妻や周囲も姉妹を比較し時に辛辣なまでの批判の言葉を並べることが多くなっていった。
今でも侯爵家の画廊に並ぶ一家の肖像画から推察するに、揃って美しい容貌を持つ姉妹だったが、特に妹のヘンリエッタは光り輝くような美貌の持ち主だった。夫人の日記にも、年頃になると求婚の申し込みが山と届いたことが後に記されている。そんなヘンリエッタを夫人も誇らしく思っていたようで、「お断りの手紙を書くのに一苦労だわ」と困惑しつつも、隠しようのない誇らしさと喜びが筆致からもうかがい知れた。ヘンリエッタはデビュタント前から持ち前の快活さと愛らしさで周囲の大人たちを虜にした。日記には「我が家の誇り」、「大切な宝石のような子」、「心優しい天使のような娘」と絶賛する言葉が書き連ねられている。
一方で、ナイトリー嬢(長女のためこのように呼称される)エリナーは一家の悩みの種であり、夫人の日記にも深い苦悩がにじんでいた。「あの子はどうしてこんな風に育ってしまったのかしら、幼い頃は素直な良い子だったのに」といった内容を皮切りに、
“エリナ―ときたら、身分を笠に着てやりたい放題。名門の貴族令嬢としての名誉ある義務や責任をなんと心得ているの”
“心優しいヘンリエッタが庇うのをよいことに、一向に反省するそぶりすらなくて困ったもの”
“ナイトリー侯爵家になぜこんな子が生まれてしまったの。いいえ、夫が言っているようにきっと生まれつきよくない性質を持っていたに違いない”
「これはほんの一部だけれど、全てが実の母親が娘を形容するのに用いられた言葉だなんてね」
それどころか、とジェネヴィエーヴは皮肉気な笑みを浮かべて次のページを捲った。
「年を追う毎に夫人の口舌はより苦々しく、激しいものへと変わっていくわ。とくに、ここ・・・」
彼女は赤いブックマークが挟まれたページを開くと、眉間の皺を深くした。
“もうこれ以上あの娘の蛮行を看過することはできない。優しいヘンリエッタは涙を流して反対するでしょうけれど、愚かなエリナーのために、愛するなヘンリエッタを危険にさらすことだけはあってはならない。夫も私も既に心は決まっているわ。大切な家族を、伝統あるナイトリー侯爵家の名誉を守る義務が私達にはあるのだから”
「あらあら、この口ぶりでは夫人の言う“家族”の中にエリナー嬢は含まれていなかったのね。でも待って頂戴、次の部分はもっとヒステリックになっていくから。こうよ」
“エリナー、あの娘はとうとう超えてはならない一線を越えてしまった。家門に泥を塗ったあの娘を放置しておくことはできない。妹を、自分とは比較しようがないほど出来の良い、素晴らしい妹を妬むあまりの愚行!いいえ、そんな言葉では言い表せないわ。なんと悍ましい。ああ、神よあの娘をあるべき場所にお導きください。そして、あの娘をこの世に産み落としてしまった愚かな私に罰を下してください。今も起き上がることのできない愛するヘンリエッタが哀れでならないわ。傷が残らないといいのだけれど。実の姉にあのようなことをされたにもかかわらず、いつものように貴女はあの娘を庇うのね。「お母様、お姉様にもきっと何かご事情があったのよ。だからどうかお姉様を叱らないで。きっと許してあげてちょうだいね」私の手を握り締めるあの子のなんて愛おしく可哀想なこと。でもヘンリエッタの願いとはいえ、今回ばかりは聞き届けることはできないわ。エリナ―、あの悪魔のような娘!あの娘は私たちの手で始末をつけなければ”
ジェネヴィエーヴは口を閉じると、ふうと不快気に息をついた。
「随分と不穏な書きぶりだわね。一体どんな出来事があったのかしら?母親にこれほどこき下ろされるだなんてエリナー嬢は何をしでかしのかしらね。でも安心して、ナイトリー侯爵夫妻は流石に娘の命を奪うような無慈悲なことはしなかった様子よ」
ジェネヴィエーヴが次に箱から取り出したのは幾つもの書簡だった。それは一見して上質とはいいがたい便箋で、ちらりと見た筆跡はいかにも事務的で簡素なものだった。それらの送り主は全て現在も存在する、辺境の神殿に属するいわくつきの施設の責任者であった。この施設は精神や素行に問題のある貴族の娘たちの流刑地として悪名を取っていた。
「どうやらエリナー嬢は没落貴族の墓場と綽名されるこの施設に送られたようだわ。年に2回程、施設長から彼女の動静が報告されていたらしいけれど、この手紙には、春に届けられた贈り物を見てエリナー嬢が涙を流したと書かれているわね。ナイトリー侯爵夫人の日記と照らし合わせると、どうやらこの頃、妹のヘンリエッタ嬢が結婚したそうなの。“心優しい”ヘンリエッタ嬢は姉を忘れていなかったのね。彼女は結婚式に参列できない哀れな姉に宛てて心を込めた特別な贈り物を贈ったらしいわ。侯爵夫人も愛情深い彼女を絶賛しているわ」
クスリと片頬で笑ったジェネヴィエーヴは手紙を再び箱に戻すと、フッと表情を消した。
「この時エリナー嬢は24歳。これが生前のエリナ―嬢の様子を伝える最後の手紙になったわ。その年の冬を待たずにエリナ―嬢はお亡くなりになったの。これは家譜でも確かめたから間違いないわ」
エリナー嬢逝去の報せが届いたと思われるその日の夫人の日記には、黒いベールを用意させたとだけ書かれていた。長女を亡くした母親とは思えないほど淡白な反応だった。でも、夫人を弁護すると丁度この頃、腕白な長男が木から転落して腕を骨折してしまい、大切な後継者の一大事とあって、ナイトリー侯爵夫妻はそれどころではなかったのである。
「それから数年間、夫人がエリナー嬢を思い返すことは絶えてなかったようだわ。少なくとも日記帳に記すほどのことはね。思い出したくもなかったのかしら、敢えて記憶に蓋をしていたのかもしれないわね。だって数年の間、彼女の命日のその日にさえその名が日記に現れることはなかったのだもの」
しかし夫人の日記も代を重ねた数年後、唐突にエリナー嬢の名は再び登場するのである。
幸福な結婚から2年が過ぎたある年、ヘンリエッタは病に倒れ病状は急速に悪化していった。愛するたった一人の娘を案じる侯爵夫人の日記は連日その話題で持ちきりだった。
“ヘンリエッタの病は一向に良くならない。お医者様は気鬱の病だと仰るけれど、心配でならない。せっかく授かった子どもが流れてしまったのだから、心根の優しすぎるほどの子だもの。随分と答えたのだろう。こういった時こそ、母親である私が何とか支えてあげなければいけないわ”
気鬱の病、確かに日記にはそう記されていた。刻一刻と悪化するヘンリエッタの病状を、夫人は克明に記録していた。それほど夫人の憂慮は深かったのだろう。半年もするころにはヘンリエッタはまるで性格が変貌してしまったらしい。日記には侯爵夫人の戸惑いや苛立ちがありありと表出していた。
“ヘンリエッタはどうしてしまったのだろうか。あのいつだって愛らしく朗らかで、まるで天使のようだったあの娘は一体どこに行ってしまったの。ああ母親である私がこんなことをいってはいけない、でもいけないと分かっているけれど、どうしてもそう思わずにはいられない!あの子はすっかり変わってしまった。ひどく痩せこけて、白魚のようだった手は枯れ枝の様になって、色のない唇はカサカサで、肌なんて老婆の様にそそけだっているわ。”
元が美貌の持ち主だったがために一層嘆きが深かったのだろう。初めは容色の急激な衰えに対する憂いが長々と記されていた。しかしそれは間もなく、ヘンリエッタの奇異な言動にとって代わるのであった。
“あの目!全く見ていられない。昼日中だというのに真っ暗に締め切った部屋に、緞帳まで下ろして、引き被った布団の隙間からげっそりと落ち窪んだ瞳だけがギラギラと覗いている。いつも臆病な獣のようなおどおどとした目つきで、落ち着きなく視線を彷徨わせては、意味のわからないことを口走っている”
そしてここに至ってようやく、もう何年も前に儚くなった長女の名前が登場するのである。その再登場の仕方もまた奇妙な内容なのだが、それはこんな具合であった。
“エリナ―!あの娘は一体どこまで私たちを苦しめるの!!心優しいヘンリエッタは今までずっと、負い目を感じてきたのだわ。自分が姉をあんな場所に閉じ込めるきっかけとなり、結局は死に追いやってしまったのだと、ずっと胸を痛め続けてきたのだ。ああ、なんて忌々しいの。死んでからもこんなに私たち家族を苦しめるなんて!こうなっては私達の責任だわ。私たち夫婦がもっと早くヘンリエッタの苦しみに気付いてさえいたら、こんな仕儀にはなかったかもしれないのに。そうよ、エリナーをもっと幼いうちにどこか遠くに養子に出してしまうとか・・・。義母が言っていた通りだわ、姉妹を早く引き離すべきだと。悪い芽は早く摘んでしまわなければならなかったのに、肉親の情に引かれてついついエリナーを切り捨てることができなかった。それがこんな風に可愛いヘンリエッタに返ってきてしまうなんて”
一体何があったのだろうか。ヘンリエッタの悪疾の原因は全て亡くなったエリナーになると侯爵夫人は頭から決めつけているようだった。長々とした悔恨と怨みの言葉は全て亡き娘に向けられていた。それらはどれも異様な内容だった。ジェネヴィエーヴもまた日記を読み上げながら、口の中が苦く感じるような錯覚を覚えたほどだった。とにかく、侯爵夫人はヘンリエッタを哀れみ、病の進行を愁うのと同じくらいエリナーに対する憎悪を膨らませていった。
「侯爵夫人の願いもむなしく、ヘンリエッタ夫人の病は須臾の間も快方に向かうことなく、いよいよ悪くなるばかりだった。日記にも娘を案じる母親の苦衷が赤裸々に描かれているわ。そして、この後にとても興味深い出来事が記されているの」
ジェネヴィエーヴは顔を上げてアリアとノクターンを見つめ、よく聞いていて頂戴と念を押した。二人はこれまでの内容に十分すぎるほどの胸の悪さを感じていたから、更に不快な罵詈雑言を耳にせねばならないのかと顔をしかめた。しかし、二人の胸の内を知ってか知らずかジェネヴィエーヴは構わずページを捲った。
“いよいよヘンリエッタは悪いらしい。今ではあの真っ暗な部屋で、昼夜を問わずうわごとを叫んでいる”
“一体、何をあれ程悔やんでいるのだろうか。「ごめんなさいお姉様、許して頂戴」そう言って何度も何度も謝罪し続けている様子は哀れでならない。すっかり声も枯れてしまって・・・”
“ヘンリエッタは一体誰のことを言っているのだろう。これまで「お姉様」といっていたのはエリナーのことではなかったの?クレミーとは一体誰のことなの?なぜ、あの子は「お姉様」や「エリナー」だけではなく、「ごめんなさいクレミー」と口走るのだろうか。あの娘の交流関係者の中にそんな知り合いがいたかしら?いいえ、そんな知己はいなかったはずよ、聞いたこともないわ。それではあれは一体誰?誰に対して血を吐くように後悔の言葉を繰り返すの”
え、と思わず声を漏らしたのはアリアだった。ノクターンは息をのみ、二人ともそれはよく似た表情で目を見開き言葉を失った。ジェネヴィエーヴは小さく頷くと、まだ続きがあるのだけれど、と言って日記を脇に置いた。
「この後も日記は続くのだけれど、ここで一旦やめるわね。時代が前後するのだけれど、二人にはこちらを先に耳に入れておいた方がいいと思うの」
ジェネヴィエーヴは白い細身の手袋をはめると、箱から先ほどの物とは明らかに年代の異なる、表装がところどころはがれた日記を取り上げた。
「こちらの方が直截的だから分かりやすいわ。これはね、3代前の侯爵夫人の日記よ」
「それにしては随分と痛みが激しいですね」
けげんそうに首をかしげるノクターンに、ジェネヴィエーヴはああそれはね、と日記をよく見えるように顔の上にまで掲げて見せた。
「紙の質が悪いのよ。これの一つ前の日記も残っていたけれど、そちらの方がずっと上等な紙が用いられていたわ。当時は戦時中だったから例え侯爵家であっても上質な紙がなかなか手に入らなかったようね」
ノクターンは成程と頷いた。当時王国は史上最悪と言われた戦争の真っ只中にあった。些細な領地戦に端を発した内紛は、数年後には隣国の介入を招き、以後、20数年にも及ぶ陰惨な時代の幕開けとなったのである。国民の怨嗟は王家への批判となって現れ、失政を批判する言説が指導者の目を憚らず叫ばれるようになった。各地で暴動や蜂起が頻発するようになった。これは影の王家として長らく厳然たる権力を振るってきた、アクランド公爵家の体制を崩壊させる大きな要因となった。
それまで息を顰める様にアクランドの横暴を耐え忍んできた王国各地の貴族達を一致団結させ、王家に一刻でも早い戦争の終結と政策の誤りに対する引責を要求させたのである。その先陣を切った人物こそが国王の又従兄弟の公爵と当時のナイトリー侯爵であった。自ら鎧をまとい、辺境の暴動を鎮圧した彼らは兵力を糾合すると、そのまま一途王都へ駆けあがった。「日々無辜の民草が命を落としている。彼らは死んだ子や親を埋葬することもできず、その死を悼む暇すらない」これは侯爵が王家へ差し向けた使者に語らせた一節である。民の貧窮と泥沼の戦場の惨憺たる有様を語り、速やかな戦争の終結を迫ったのである。ナイトリー侯爵はアクランド公爵の豺狼のような酷薄さと国王の怠惰で臆病な性格を熟知していた。彼は王城には目もくれず、王家の墳墓を包囲しそこに陣を張った。要求が受け入れられなければ墓を掘り返し、高貴な方々を野に晒すこともいとわないと暗に示したのである。墳墓に対陣したナイトリー侯爵の意図は明白だった。その上、彼らに与する軍勢は日に日に膨れあがっていった。国王は震えあがり、叔父であり舅でもあるアクランド公爵に事態の収束を命じた。結局、戦後国王は失政の責任を取って従兄弟に禅譲し、アクランド公爵もまた執政の地位を追われたのである。こうして、数百年ぶりにアクランド公爵家の娘の所生にならない王族が王位についたのであった。
ともかく、終戦間近になるとその余波は高位貴族の生活にも及ぶようになり、食材や衣類や文具と言った物も粗悪品が入り混じることが多くなっていったのである。
「彼女は正確には息子がナイトリー侯爵位を継いでいたから、当時は前侯爵夫人と呼ばれる身分になっていたけれど、便宜的に夫人とだけ呼ぶことにするわね。夫人は歴史に名を残した長男の他にもう一人息子がいたの。その息子は分家して一家を立てていて、妻との間にエリザベスという名前の一人娘を儲けていたわ。前侯爵夫人にとっては孫娘に当たる方だけれど、彼女は夫人の日記にもたびたび登場しているわ」
もっとも、ここで紹介するのは幼い令嬢の溌溂とした可愛らしさではないのが残念なことねと、ジェネヴィエーヴはフッと冷たく笑った。
「記録によるとナイトリー侯爵家の令嬢の例にもれず、エリザベス嬢は12歳で亡くなったことになっているわ。これはその数ヶ月前の夫人の日記よ」
“エルザ(著者注:エリザベスの愛称)は数週間合わないうちに一層ひどく痩せこけてしまった。今では一杯の水ですら受け付けない。あの娘が口にするのは意味の分からない妄想ばかり。ジョージ(著者注:夫人の次男でエリザベス上の父)の手紙を見てまさかとは思っていたが、一体どういうことかしら。エルザが存在もしない「姉」に謝罪し続けているなんて。一体全体なんだというの。あの子に姉妹などいはしないのに!”
“まさか本当にこんなことが?なぜか妙に引っかかると思っていたのだ。そうだ、可哀想なマライアの残した手紙・・・。あの遺書ともいえない支離滅裂な書き散らし、きっとあの手紙にあったに違いない。明日、必ず確認しなくては”
“まさかとは思ったがやはり私の推測は正しかった。マライアの遺書には、恐ろしく震えた筆跡だが確かに「Clementine」と記されている。なぜ?なぜかしら?どうしてこの名前が今になって再び出てくるの?エルザがマライアのことを知っているはずもないのに。マライアはエルザの父親が生まれる前に死んだのだから。幼いジョージに姉の死の原因を悟られまいとどれ程苦慮したことか。ナイトリー侯爵家の令嬢ともあろうものが自死を選ぶなんて。とにかく、ジョージは今もマライアの死の真相を知らないはず。父親もよく知らない伯母のことをエルザはなおのこと知りようがない。でも、だったらなぜエルザは叫び続けているの?ああ、あの子の泣き声が頭にこだまして離れない。エルザ、貴女は何故「ごめんなさいお姉様」、「ごめんなさいクレメンティーン」と繰り返すの?”
孫娘のエリザベスの葬儀の日、夫人の日記は次のように結ばれていた。
“クレメンティーンとは誰?”
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
次話でもお会いできましたら幸いです。