廃妃の呪いと死の婚姻7-3
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廃妃の呪いと死の婚姻7-3
ジェネヴィエーヴがようやく床を払ったのは、きっかり半月後のことだった。アリアが案じていたような後遺症はなく、ただ運動時の休憩頻度がこれまで三倍に増えただけだった。
ジェネヴィエーヴは久方ぶりに顔を合わせたノクターンから、クラレンスとヒューバードとの面談の報告を受けると、愉快気に笑った。
「ではこれで、親愛なる紳士方は、この私のアクランド公爵家へいわれのない疑念を信じてくださったのかしら」
ふふ、と笑みを浮かべるジェネヴィエーヴの一方で、アリアは顔を曇らせ眉根を寄せた。そんな彼女の心情を感じ取って、ジェネヴィエーヴは困った様に向かい直ると、
「あらあら、アリアったらそんなに暗い顔をしてはダメよ。せっかくこうして私が再び寝室から出られたのだもの、あなたの可愛らしい笑顔を見せてくれなくてはね」
ジェネヴィエーヴに眉間をツンツンとつつかれて、アリアは頬を染めると眉根を寄せたまま困ったように顔をそむけた。
「ジェネヴィエーヴ様の言葉を疑うなんて、いくら殿下達でもあんまりです。・・・許しがたいです」
すねたように視線を逸らすアリアに、ジェネヴィエーヴは一瞬目を丸くすると、次いでコロコロと笑い声を上げた。鈴を転がしたような笑声が室内に響く。
「アリアったら、なんて可愛らしいのかしら。ふふふ、こんなに愛らしいことを言われてしまっては、ますます、あなたを手放したくなくなってしまうわ」
ジェネヴィエーヴは両手でアリアの頬をそっと包み込むと、顔を寄せて耳元で囁くように言った。アリアは頬を一層赤らめさせると、うっとりと瞳を潤ませてジェネヴィエーヴを見つめ返した。
「んんっ」
ノクターンのしびれを切らしたような咳払いに、じっと見つめ合っていた二人はようやく身体を離して、同席していたもう一人に顔を向けた。アリアが少し不満げな視線を弟に投げかけると、彼は素知らぬ顔付きで肩をすくめた。
「ふふふ。ごめんなさいね、ノクターン。どうぞ報告を続けてちょうだい」
悪びれた様子の全く感じられない謝罪に、ノクターンは呆れたように、ため息をついた。
「そういうことはお二人のだけの時になさってください」
ジェネヴィエーヴはそうねぇ、と小首をかしげると、観衆がいるからこそ楽しいのじゃない、と悪戯気な笑みを浮かべた。
「心臓によくありません」
タイプの異なる妙齢の美しい令嬢二人が、耽美な雰囲気を纏いながらじっと見つめ合う様子など見せつけられては、たまったものではないと、ノクターンは顔をひきつらせた。
「ジェネヴィエーヴ様、ノクターンは羨ましいのですよ。あんなに憎たらしいことを口にしておいて、実は妬ましくてたまらないだけですから」
澄ました調子でアリアが言うと、ジェネヴィエーヴはますます笑みを深くして
「あら、だったら今度はノクターンも混ざってみる?きっと絵画の様に素敵な一場面になってよ。私が受け合うわ」
よい考えだわ、と軽く両手を打ち合わせた。
「あら、でも、それでは観衆役がいなくなってしまうわね。流石にクラレンス殿下とノートン卿の前でお披露目するには早すぎるかしらね。そうすると、残念だけれどもう少し先に延期しなくてはいけないわね」
心苦しいけれどわかって頂戴ね、と悲し気に訴えるジェネヴィエーヴにノクターンはめまいを覚えた。彼はぐっと閉じた目に力を入れると、
「お元気になられたようで、誠に喜ばしい限りです」
ニコニコと楽しそうに微笑むジェネヴィエーヴ達に、何とかそう返した。これ以上戯れに巻き込まれてはたまらない、とノクターンは報告書に目を落とすとさっさと軌道を修正することに決めた。
あら、うまく躱されてしまったわねとほほ笑み合う二人に構わず、ノクターンは書類をパラリと捲る。
「報告を続けますが、ノートン卿と僕はミス・スミス――怪しい男から薬を渡されたという女性の一人です――、彼女の協力を得て、怪しい男と、ミスター・プリチャーが同一人物であることを突き止めました。彼女には例の酒場でミスター・プリチャーの顔を直接、確認してもらっています」
一旦言葉を切ったノクターンから、ちらりと視線を向けられたジェネヴィエーヴは小さく頷き、後を促した。
「まだ被害者も少なく大きな問題にはなっていませんでしたが、薬による実害も出ていましたし、そもそもこういった類の薬物の非合法な取引は禁じられておりますから、この件だけでもミスター・プリチャーを捕らえることは可能になりました。しかし、彼一人を捕らえたとしても、トカゲのしっぽ切の如く切り捨てられるのが落ちでしょう。背後にいるアクランド本体を確実に絡めとるには別の大きな手掛かりが必要だと思われます」
報告を聞いていたアリアが、でも、と首をかしげた。
「ミスター・プリチャー、つまりアクランド元公子はアクランド元公爵の寵愛を受けているのじゃなかったの?末端の召使ならともかくとして、愛息子の危機となれば、そんなふうに切り捨てるかしら。ジェネヴィエーヴ様はどう思いますか?」
アリアの視線を受けてジェネヴィエーヴは、そうね、貴方はどう思う、と言ってノクターンに顔を向けた。
「アクランド元公爵は非常に利己的な人物です。己の身分や利益が保証されているのであればともかくとして、現在の様に権威の回復を掛けた一世一代の大舞台を前にして、足を引っ張るような真似をすることは、仮に溺愛する末息子といえど赦しはしないでしょう」
ノクターンの分析に、ジェネヴィエーヴは、私もそう思うわ、と頷いた。
「アクランド元公爵に付いてはその通りでしょうね。でも、彼の夫人はどうかしら。アクランド元公爵にとって、ミスター・プリチャーは数多い子息の中の一人にすぎないけれど、後妻である夫人にとってはたった一人の血を分けた息子よ。もし、夫がその掛け替えのない息子を非情にも切り捨てたとしたら、どう感じるかしら。今彼らは目的を同じくしたどうしよ。非常に強い絆で結ばれている、ね。でも一方で彼女は情のこわい、とても気位の高い方ですもの、もし夫が彼女や彼女の大切な存在を傷つけたとしたら、きっと夫妻の間には深い溝が刻まれることでしょうね」
ジェネヴィエーヴは目を軽く伏せるとフフフ、と暗い笑みをこぼした。
「ところで、目撃者の証言によってミスター・プリチャーの関与がはっきりしたのはよいことでしょうけれど、彼の所持していたの薬物の分析はどこまで進んだのかしら。確か、御多忙のミスター・フェラーズに代わって研究所の方が調べてくださっているといっていたわね」
ジェネヴィエーヴの問いかけに頷くと、ノクターンは2枚の資料を取り出した。
「その件もご報告させていただくつもりでした。実は2種類の薬物が存在していたことが分かりました。このうち、一つ目の薬物の薬効は相手の意識はそのままで、身体の自由を奪うものです。そして、これはミス・フェラーズが襲われた際に用いられた薬物と同じものだという結果が出されています」
「つまり、これでミス・フェラーズを襲った男とミスター・プリチャーとは何らかの繋がりがあるということが判明したと思っていいかしら。勿論他にも確実な証拠があるのでしょうね」
「はい。男はもう一種類の薬物を所持していましたが、これがミスター・プリチャーが裏路地で配っていた薬物と一致しています。男はどちらも同じルートから手に入れたものだと証言しています。彼らの目的は二つ目の薬物を婦女子に配り、使用させることであり、本来であれば一つ目の薬物は捕まりそうになったり危険になった時にのみ使うようにと指示されていたそうですが、男はこれを専ら婦女への暴行のために使用していたと証言しています」
棟の悪くなるような報告に、アリアがひどく顔をしかめた。
「なんて野蛮で、卑劣な・・・!」
ノクターンはジェネヴィエーヴが沈黙を続けているの確認して、再び報告書に目を落とした。
「二つ目の薬物についてですが、これはミスター・プリチャーがミス・スミスに渡したという薬物と同一のものだという分析結果が出ています。無色無味の液体ですが、独特のにおいが鼻を衝くと書かれています。ミスター・プリチャーはいくばくかの金銭を渡して貧しい子どもに薬をのませていたようですが、その内の一人がこの薬を服用したことで一時危篤状態となっています。子どもは嫌な臭いがしたがお金をくれるという上に、体にいい薬だと言われた言わたので気乗りはしなかったが呑んだと話していました」
ジェネヴィエーヴは眉間に皺を寄せ、じっと話に耳を傾けていたが
「二番目の薬の効果はなに?報告書には記載がないみたいだけれど」
と問いかけると、ノクターンは眉尻を下げて申し訳ありませんと言った。
「研究所の方々の話ではまだ、報告できる段階ではない、と。鋭意調査中であるので、もう暫く猶予をもらいたいとのことです」
「少なくとも一つ目の薬のような明らかな薬効を突き止められなかったということでいいのかしら」
ノクターンは首を振ると、重ねて申し訳ありませんと答えた。
「そういったことも含めて、はっきりとした答えは得られませんでした」
ジェネヴィエーヴはそう、と小さく呟いた。
「専門家がそうおっしゃるのであれば、待つよりほかないわね。・・・でも、そうだとすると、この方向からのアプローチは手詰まりということになるのね。少なくとも暫くの間は」
ジェネヴィエーヴは、ハアとため息を零すと、背凭れに体を委ね、両手を組んで目を閉じた。
「・・・何か見落としていることがあるのかしら」
ポツリとこぼされた言葉に、アリアとノクターンが目を上げた。
「見落とし、ですか?」
「ええ。そうよ」
ジェネヴィエーヴは瞳を閉じたまま、何か大切な欠片を見落としているような気がするのと言った。
「これといった目に見えるような成果がないからかしら。それが何なのかはわからないけれど。このところずっと――」
漠然とした不安に心が苛まれている。じりじりとした焦燥感が胸を灼き、まんじりともせず夜が過ぎるのを耐えるのだ。
ふと言葉を止めて眉根を寄せたジェネヴィエーヴに、アリアとノクターンは不安気に顔を見合わせた。
翌日、ジェネヴィエーヴは侯爵家の女主人の続き部屋に位置する、歴代侯爵夫人の遺品の眠る保管庫の前に立っていた。
――何か見落としがあるのではないか
これはこの1、2年の間、ずっと心のどこかで感じてきたことだった。奇妙なめぐりあわせで、王妃暗殺未遂の調査に関与するようになったものの、一貫して彼女の目的の第一は、クレメンティーンの呪いを解くことであった。呪いの実態を知るため、クレメンティーンの生涯を紐解き、クレメンティーンに連座した彼女の実家であるオルティス公爵家の一族を探した。それによって、彼女や彼女の一族の悲劇は明らかになったものの、呪いを解き明かすには至らなかった。
次第に降り積もった焦燥感の欠片が、ジェネヴィエーヴを再びこの部屋に足を向けさせたのだった。メイドを扉の脇に控えさせると、彼女は薄い手袋をはめるとキャビネットへと歩を進めた。
――確信が欲しい
彼女は焦りを感じていた。この1,2年で急激に進行した身体の不調も、無効化しつつある治癒魔法もまた、彼女の惧れに拍車をかけていた。何度夜中に目を覚ましては、震える体を掻き抱いたことだろう。長い夜の白々空けに風の運ぶ微かな下仕えたちの囁き声に、耳を澄ませては、安堵の息をつくのだ。ああ、大丈夫、今日もまた乗り切ることができた。
看護婦の起床をうかがう声にほっと胸を撫で下ろす。大丈夫、今日もまた昨日と同じ私が息づいている。そうして、連続した記憶と自我の中で、ほんの僅かにも呪いに精神を蝕まれてはないかと、爪の先ほどの僅かな浸みすらも見逃すまいと息を凝らして意識を巡らせるのだ。
――なぜ、よりにもよって私が選ばれてしまったのか
何度同じ問いを繰り返したことだろう。自分自身がクレメンティーンの呪いの的となった訳とは、果たしてこれまで推測していた通り、血筋に由来するものなのだろうか。結局は全てが憶測にすぎないのだ。答えは未だに明示されていない。確信が欲しい。
――もしも
と考える。震える手で扉の中から古びた手記を取り出す。
――もしも、これまでの推測が誤っているとしたら?
否、と頭を振る。全く見当違いの憶測であるはずはない。様々なピースをあてはめながら、こうして多くの事実が判明したのだ。クレメンティーンとナイトリー侯爵家の因縁、全く関係がないと思われたフェラーズ家との血縁、アクランド元公爵家の陰謀。
――そうだわ。ミスター・プリチャーのことだって、記憶の通りだった。
ミスター・プリチャーことセント=ジョン・サープリーチャー・アクランドは、ジェネヴィエーヴがクラレンスに執着し、アリアを虐待していた未来軸で、彼女が後ろ暗い指示を出すときに走狗となって悪事を働く下僕の一人だった。その未来軸の中で、彼女は何度も毒物を用いて、目障りな貴族達を害していた。そのミスター・プリチャーが思いがけずアクランドの血縁者だと判明した時には驚愕したものだった。それと同時に納得もしたのだ。なぜ、深層の貴族令嬢であるジェネヴィエーヴが毒薬などという暗器を手にすることができたのかと、疑問を抱いてきたのだが、彼女は”毒の公爵”として長きにわたり王国を支配してきたアクランド公爵家との伝手を得ていたのだ。
彼女は未来軸の記憶を頼りにこれまで、繋ぎ得なかった点と点を繋ぎ、暗闇に絵を描くような努力を積み重ねていった。そんな中で手探りに結んだ縁は、今や彼女の心強い味方となって、ジェネヴィエーヴに寄り添い尽力してくれている。アリアやノクターン、クラレンス、ノートン卿にケイ・フェラーズ彼らを思い浮かべて、ジェネヴィエーヴは顔を上げた。
――私は私にできることをしなければいけない。
ジェネヴィエーヴはぐっと手を握り締めると、部屋の奥へと歩を進めた。
――呪いの根源についての疑問。このわずかな違和感を素通りしてはならない
彼女自身でも説明のしようのない、靄を掴むような奇妙な確信である。それでも、決して無視することはできなかった。
とはいっても、この侯爵夫人の遺品の中から一体何を探ればいいのだろう。いくつものキャビネットをめぐり、これはと思うものを手にとっては落胆に目を伏せた。おろしたての白い手袋が黒く染まる頃、ジェネヴィエーヴは改めて入り口近くに戻ると、部屋をぐるりと見渡した。これっぽっちの成果もないのに疲労感だけが積み重なっていた。
入り口近くの空間にはジェネヴィエーヴの作業用に適えばと、しばらく前から新たにテーブルが運び込まれていた。そこには参照用に持ち込んだナイトリー侯爵家の家譜が置かれている。倦怠感に彼女はスプリングの利いた椅子に深く腰かけながら、何気なくその本を手に取るとパラパラとページを捲った。
それは一服の歴史絵巻のようであった。王朝の興亡と歴史の移り変わり、中流貴族であったナイトリー家が建国の尽力に対する功績を認められ、新たに侯爵に封じられたこと、初代ナイトリー侯爵夫妻とその子ども達、そこから枝分かれして累々と紡がれてきた血脈を辿っていく。どこか御伽草子のように感じられた系図も、代を下り、そこにクリスティーンの名前を見つけて、ようやくこれがそれぞれの時代を生きてきた人間たちの縮図なのだと改めて感じさせられた。
――あら?
我知らず夢中になって頁を繰っていた手がピタリと止まった。おや、と首をかしげる。
これまでクレメンティーンの双子の妹であり、ナイトリー侯爵夫人となったクリスティーンの系譜ばかりに注目してきたため、その前後の系譜には目もくれていなかった。しかし、こうして改めて振り返ってみると、これはどうしたことだろう。
ジェネヴィエーヴはナイトリー侯爵家の親類縁者がごく少ないことを自覚していた。当代のナイトリー侯爵である父には兄弟姉妹はおらず、ジェネヴィエーヴもまた同様であった。今でも交流のあるグレイ夫人は、先代のナイトリー侯爵の姉に当たる人だが、彼女はジェネヴィエーヴの曽祖父に当たる方の継室となった女性が、前夫との間に設けた娘であった。その上、グレイ夫人は母親の再婚後まもなくグレイ家に嫁いだため、ナイトリー侯爵家の系図には載せられていなかった。
幼い頃、ジェネヴィエーヴの周囲に同じ年頃の子どもがいなかったのはその所為である。彼女は、大人に囲まれながら育ったため、自然と自分の家門は不幸なことに血縁に恵まれない家系なのだろうと思うようになっていた。
ジェネヴィエーヴは前のめりになるようにしてページを捲っていった。
ナイトリー侯爵本家の縁者を求めるには、曽祖父の代より以前に遡らねばならなかった。家譜によれば、ジェネヴィエーヴの曽祖父には二人の姉がいたようだった。しかし、そのどちらも若くして亡くなっていた。その他に兄弟姉妹はいなかったようなので、末子であった曽祖父は自身の婚姻以前には既に全くの一人っ子も同然であったようである。その前代はというと、夫人は多産の家系であったのか6人の男女を儲けていた。しかし、無事成人を迎えることができたのは2人の男の子だけで、他の子どもは或いは夭折し、或いは20歳を超えることなく亡くなっていた。生き残った男の子は長じて、分家を立てたようであるが、その家も次の代には潰えていた。娘が一人産まれたようだが、その人も結婚することなく若くして亡くなっていた。
ジェネヴィエーヴは眉根を寄せ、じっと文書を見つめた。彼女は自分自身の虚弱体質は、クレメンティーンの呪いだけに由来するものだとは思っていなかった。生来の羸弱な身体が災いし、呪いの相乗効果もあいまって、一層顕著なものになっているのだと分析していた。彼女の母は元々蒲柳の質のある人で、産褥で没した一端はその病弱な体質にあると聞いていたため、ジェネヴィエーヴは彼女の体質は母方から受け継いだものだとばかり思い込んでいた。
しかしこうして家譜をあらためてみると、どうしたことだろう。ナイトリー侯爵家の血筋もまた負けず劣らず、決して頑健な家系ではないのではないかという疑念が生じた。当代のナイトリー侯爵が壮健な方であるため、虚弱な家系というのは当たらないように思われるが、ひょっとと女性にだけ受け継がれる、病のようなものがあるのかもしれない、などと推測させられた。
――なにかしら、これ
奇妙な興奮を覚えてページを遡っていたジェネヴィエーヴの顔が、次第にこわばっていく。ガタリと音を立てて立ち上がり、本に覆いかぶさりながら食い入るように本に見入る彼女の尋常ならざる様子に、入り口で控えていたメイドが恐る恐る声を掛けた。
「お嬢様?いかがなされましたか」
その言葉にびくりと肩を揺らしたジェネヴィエーヴは震えそうになる声を抑えながら、
「――紙とペンを」
紙面から顔を上げずに固い声で命じられた言葉に、メイドが素早く品々を彼女の手元に用意した。無言で腰を下ろしたジェネヴィエーヴは、メイドからインクを浸したペンを渡されると、何度も何度も頁と紙面を見比べながら、一心不乱にペンを走らせていった。
そうして長いこと、部屋の中にはページをめくる音と、ペンを走らせる微かな物音だけが響いていた。どれほど時間が流れたのだろうか、かたりとペンを置く僅かな音を最後に部屋の中は再び静寂に包まれた。
ジェネヴィエーヴの頭に添えられた左手に徐々に力がこもっていく。くしゃりと握り閉められた髪が乱れるのを気にするそぶりもなく、彼女は険しい顔つきで、書き上げた紙面を睨みつけていた。
重苦しい雰囲気が部屋中に満ちていく。主人のただならぬ様子に息を詰めていたメイドは、声を掛けようか逡巡しては口を噤むことを繰り返していたが、暫くしてから静かに扉がノックされたことで、ほっと安堵の息を吐いた。予定の時間を大幅に過ぎても部屋に篭りきりであるジェネヴィエーヴを案じた家令が彼女を呼びに来たのだ。
「もうすぐ夕暮れ時でございます」
やんわりとたしなめられたジェネヴィエーヴは無言で頷くと、恐縮の態のメイドと共に部屋を後にしたのだった。
ジェネヴィエーヴがそこから読み取ったのは、いいようのない悪意であった。
家譜にはその人物の名前の他、成年と没年、婚姻、爵位などが記されている。しかしその人が何歳で亡くなったかということまでは言及されていなかった。そのため、一目でこの不可解な一致に気付くことはできなかった。
「なんということ」
口元を震える手で覆ってジェネヴィエーヴはつぶやいた。
当主やその夫人、後継者と言った主だったものを除き、その兄弟姉妹や傍系に当たる人物たちの中には、生没年が判然としないもの達も少なくなかった。しかし、それであってもこの異常性を証明するには十分すぎるほどであった。
ナイトリー侯爵家に生を受けた女子は記録に残されている限りでも、相当数の人数がいた。しかし、その中で25歳を超えた者は一握りに過ぎず、その上、ある代を境として25歳以上の寿命を得た女性は絶えて存在しなかったのだ。
そう、唯の一人もだ。50人を優に超える女子たちの半数近くは20歳を前に命を落としており、そうでなくとも誰一人として、25の壁を超えることはできなかった。
ジェネヴィエーヴはサアッと背筋が冷えてゆくのを感じた。
――それに、これって・・・、まさか本当に?
彼女たちの中には結婚しているものもおり、――年〇〇の〇〇伯爵と結婚などと言うように記されていた。異様なのはこの後、何も記されていないことである。結婚の記事以降、彼女たちの項目にはただ、「――年死去」とのみ記されていた。本来であれば、次いで彼女たち所生の子女の名が記されるべきであったが、全くと言って記載を見つけることはできなかった。いや、数人ばかりは死産等と記されており、その場合には没年がそれと同年であることから、産褥で没したのであろうことが推測された。つまり、彼女たちは唯一の例外もなく、全員が子孫を残すことなく夭くして没していたのである。
そして、それは直系の女子に限られたことではなく、当主の弟の産んだ女児にも適用されていた。ナイトリー侯爵家に生まれた女たちは、血縁の遠い近いに関わらずことごとく血筋を遺すこともなく、25歳に満たずに亡くなることが運命づけられているようであった。
これを偶然の一致と片付けていいのだろうか。ジェネヴィエーヴは冷たい下唇をきつく噛みしめた。
――これは、これではまるで、呪いのようではないの
根深く絡みついた、ナイトリー侯爵という血筋に祟る呪い。全ての子孫がその因子を保有しながら生まれ、特に女子が産まれた時にのみ顕現する呪いである。
ジェネヴィエーヴはゾクリと背筋を震わせた。そして、何かに思い至ったようにハッと目を見張ると、
「まさか」
と短く呟いた。焦ったようにノクターンがまとめた資料の束から、目当ての書類を見つけだす。
――やはり
ジェネヴィエーヴは短く息をのんだ。一気に顔から血の気が引いていく。
――呪いだ、やはり、全てが彼女へと繋がっているのだ
ジェネヴィエーヴが取り出したのはクレメンティーンの記事をまとめた報告書だった。彼女は10代で后となり、その後、王妃を廃された。子を籠ったまま冷宮とは名ばかりの古い塔へ幽閉されたが、ついに我が子を一度も腕に抱くことなく、ラクランド家出身の后に謀殺されている。
――クレメンティーンの没年は、25歳。いや、没年月日を考えれば24歳が正しい。彼女は25歳を迎えるその年に没しているのだ。
そして、このナイトリー侯爵家の血筋に顕れた奇妙な符号は、クレメンティーンの死後、双子の妹であるクリスティーンの子孫以降に始まっていた。それ以前には、90歳を超える長寿で天命を全うした女性も家譜には記されていた。時代を反映し、全員が長寿を得られるということはできなかったが、多くの女性たちが結婚し子供を産み、妻として母としての寿命を迎えたであろうことが、彼女たちの短い記録からうかがえた。
クレメンティーンの双子の妹であるクリスティーンの末裔に、突如として発現した呪い。それも女子にのみ受け継がれる呪いである。それに想到したジェネヴィエーヴは、震える肩を両の手でぎゅっと抱きしめた。
「ハハ・・・っ」
思わず、口から渇いた笑いが零れた。彼女はきつく瞼を閉じると、身体を抱く腕に力を込めて、じっと体の震えが止まるまで耐え続けた。
――動揺するな、落ち着け。まだ何も決まってはいないわ
確証のない憶測にすぎないのだ。これ以上、未知の変数の介在を許容したくはなかった。
—―この身に宿しているのは廃妃クレメンティーンの呪いに違いない。これに間違いなどあるはずがない。
ジェネヴィエーヴはゆっくりと目を開いた。
明日、再びあの部屋へ行こう。女子にだけ祟る呪い、そんなものの存在を歴代の侯爵夫人たちが忍従するはずがない。もし仮に、この臆断が事実であるならば、夫人たちの遺品の中にきっと他にも根拠となる何らかの手掛かりがあるはずだ。何も見つからなければ、妄想と切って捨てればいいだけのこと。後に、あの時は呪いへの焦りでとんでもない憶測をしたものだったと笑い話にできるだろう。
――杞憂にすぎなければそれでいい。心を乱す必要はないのだ。
ジェネヴィエーヴは静かに深呼吸すると、部屋の外に控えていた侍女を呼んだ。
しかし、翌日、彼女の推測は確証へと変わり、彼女の心は千々に乱れるのだった。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
次話でもお会いできましたら幸いです。