廃妃の呪いと死の婚姻6-1
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廃妃の呪いと死の婚姻6-1
ジェネヴィエーヴが意識を取り戻し、枕を上げることができるようになるまでは半月以上の日数を要した。その間に季節は移り変わり、窓の外は紅や黄の秋の彩りから、薄い灰色の冬空と常緑樹の濃緑へと装いを改めていた。彼女が目を覚ました日は王都に今年初めての霜が降りた日だった。
ナイトリー侯爵は鍾愛する娘の最も愛する季節が過ぎ去るのを惜しみ、紅葉の枝や秋の草花、果ては涼やかな音色を奏でる小さな虫に至るまで保存魔法を掛け、屋敷内に秋を引き留めた。一区画では野辺の風情を、別の部屋々々には紅葉に染まる山々の景色を、また次の部屋には野分の後の月夜のあわれを表現させた。
公私共に多忙を極める侯爵に代わって、これらの陣頭指揮を仰せつかったのはノクターンであった。彼は草木の専門家や、室内装飾の第一人者や魔導士たちを招き、ナイトリー邸所蔵の絵画美術品だけでなく新たに購入した美術品を取り交ぜながら、緻密な計算と豊かな感性が許す限りの作品を邸宅内に完成させた。
この大掛かりな趣向は非常な評判を呼び、この後、高位貴族から果ては平民に至るまで、季節や規模を変えて国内中に広まっていった。勿論、この流行が一種の文化的ステイタスとして定着するに至って以降も、これを牽引したのはナイトリー侯爵家であった。ジェネヴィエーヴがこうした趣向を心から喜んだことで気をよくしたナイトリー侯爵は、めったに外出の叶わない娘のため、折々の季節の装いに屋敷内を彩わせた。
ジェネヴィエーヴが目覚めた時、彼女の眼前に飛び込んできたのは深紅に色づいた大ぶりの紅葉の枝だった。まだ夢の中なのかしらと、ぼんやりした思考のまま目で追えば、憂いをおびた表情で紅葉に手を伸ばしたナイトリー侯爵と、揺れる枝葉越しに視線が交わった。
――お父様、少しお窶れになったようだわ。おいたわしいこと
ゆっくりと瞬きして、微笑みを浮かべようとしたが、うまく笑顔を作れたか疑問だった。顔の筋肉がこわばって、まるで自分のものとは思えず、ジェネヴィエーヴは戸惑いを覚えた。
「閣下?如何なさいました・・・、――っ!」
突然動きを止めたナイトリー侯爵をいぶかしみ、その視線の先を追ったアリアは、こちらを見つめるジェネヴィエーヴに目を止めて、息をのんだ。
「ジェネヴィエーヴ!」
ナイトリー侯爵は大股でベッドに近づくと、もどかし気に天蓋から降りた柔らかなカーテンを開いた。そうして、ようやく目覚めた愛しい娘の姿を視界に収めると、膝をつき震える手でそっと娘の蒼白い頬に触れた。
――お父様。
吐息となって零れ落ちた声は届かずとも、ナイトリー侯爵には娘が何と言おうとしたのか分かった。ジェネヴィエーヴは父親の手にそっと頬を寄せ、恥ずかし気に薄く頬を染めた。これまで死人のように頑なな蒼さで、固く瞼を閉じるばかりだった娘の、生気の灯った微笑みに、冷徹宰相と綽名される彼の瞳から涙がこぼれ落ちた。それらは幾つもの筋となって頬を伝って流れ落ち、真っ白なシーツにいくつもの染みをつくった。
ナイトリー侯爵の背後では、真っ赤な顔をしたアリアがぼろぼろと涙を流している。ジェネヴィエーヴが血を吐き倒れたあの日以降、アリアはジェネヴィエーヴの枕頭を絶えて離れることはなかった。
ジェネヴィエーヴが目を覚ましたという吉報は、すぐさま侯爵邸を駆け巡り、邸内の陰鬱な空気を一変させた。ノクターンもまたこの報せを受け取ると、安堵と歓喜に沸き立つ心を叱咤して、邸内の装飾に精力を注いだ。
また、一両日中にはクラレンスの元へも報せが走り、それ以降、紙面が許す限りの感情溢れる見舞いの手紙が王宮からナイトリー侯爵邸へ届けられることになった。流石にジェネヴィエーヴもこの手紙を突き返すようなことはしなかった。日を置かず届く見舞いの手紙と心のこもった贈り物に、ジェネヴィエーヴはどうしたものかと苦笑した。
暫くの間はアリアがジェネヴィエーヴの言葉を代筆していたが、初めて枕を上げた日に、ジェネヴィエーヴは久方ぶりにペンを取った。たった3行の感謝の言葉を記しただけだったが、今の彼女にはひどく骨の折れる仕事だった。半日かかってようやく納得のいく筆跡で署名まで書き上げると、それをアリアの代筆した手紙に同封した。
病からようやく回復しつつある婚約者からの直筆の手紙を受け取ったクラレンスは、頬を紅潮させて、何度も何度もその手紙を読み返した。
そうして始まった彼らの文通が十数回を超える頃、ジェネヴィエーヴはアリアに告げた。
「お父様に取次りついでちょうだい」
彼女の瞳は静かな決意を灯していた。
ジェネヴィエーヴはナイトリー侯爵に彼女の抱える秘密を打ち明けるに当たって、幾つかの条件を挙げた。許しを請い、協力を願う側が条件を付けるなどとは、転倒した話だったが、これはアリアとノクターンを守るための必須事項だった。
愛娘のベッドの傍に腰かけ、彼女の話に耳を傾けていたナイトリー侯爵は、ふむ、と一つ頷くと紙とペンを持ってこさせると、さらさらと何事かを記してジェネヴィエーヴに渡した。ジェネヴィエーヴはじっと書面に視線を落として内容を吟味した後、ナイトリー侯爵の名前下に署名した。
――お父様はこんな筆跡でいらしたのね。まるでお手本のように美しい文字だわ。罫線を引かなくてもこんなに、真っ直ぐに整った文体でお書きになるのね。内容も簡潔でわかりやすいわ。
国の重鎮であるナイトリー侯爵は多忙な人物で、それは王国内でも一、二を争うほどであったが、病弱な愛娘のために自邸に帰宅しない日は年に10日となかった。どんなに忙しくとも、必ず娘の待つ屋敷に戻ることに決めていた。生真面目で頑固な性質だったから、彼は自分自身の決意を誠実に履行した。だから、帰邸して着替えを済ませると娘の顔をその目で確認して、そのまま乗ってきた馬車に再び乗り込んで王宮へ戻って行くということもざらにあった。仮にどうしても遠方に出向かねばならず、宿泊を要する場合などには、非常に高価な通信石を惜しげもなく使って直接ジェネヴィエーヴと会話を交わしたから、ジェネヴィエーヴはこの年になるまで父親から手紙を受け取ったことがなかった。
ジェネヴィエーヴが初めて目にした美しい筆致にうっとりと見入っていると、ナイトリー侯爵がある一文を指し示して優しい口調で言った。
「この部分はどうしても必要なのかい?削ってしまうことはできないのかな」
困惑した色を浮かべる父親に、ジェネヴィエーヴは目をぱちくりと瞬くと、きゅっと眉根を寄せて答えた。
「まあ、お父様。これはこちらに挙げたものの中でも第2に重要な条件ですわ。削るなんてとんでもございません」
彼女の表情に、幼い頃の大人たちを大いに振り回して見せた気難しげな面影を見て取ったナイトリー侯爵は、それは困ったねと苦笑交じりに呟くと、ジェネヴィエーヴの右手を優しく握った。
「“この件に関わった何者にも罰を与えないこと”この部分は理解できる。ラトクリフ姉弟のことを想っての配慮だろう?でも、次の部分はねえ。ジェネヴィエーヴの願いであればどのようなことでも叶えてあげたいが」
珍しく言葉を濁すナイトリー侯爵に、ジェネヴィエーヴはキッと眦をあげて身を乗り出した。
「絶対にお約束してくださらなければいけませんわ。信賞必罰と申しますでしょう。この件の責任の所在は明確ですもの。一番身分が高くて、全ての事柄に関わっており、指示を出した私が責を負わねば示しがつきませんわ。ですから、お父様は家長として、絶対にこの責任者である私をきつく叱ってくださらなければなりませんわ!」
そうジェネヴィエーヴが宣言すると、控えていたアリアを始めとし、家政婦長や看護師たちはぎょっとして目を見開いた。あのナイトリー侯爵がジェネヴィエーヴを「叱る」とは。そんなことが可能なのだろうか。いくらジェネヴィエーヴの頼みとあっても、掌中の珠と一人娘をそれは鍾愛し、溺愛しているナイトリー侯爵にそんなことができるはずがない、父娘以外の一同の感想は一つだった。
厳しい表情で見つめる娘に、ナイトリー侯爵はやれやれと言った風にため息をついて、
「まあ、ジェネヴィエーヴを叱責するという件はひとまず置いておくとして、ジェネヴィエーヴの話を聞こうじゃないか」
ナイトリー侯爵は娘を宥めるようにその手をポンポンと優しくたたくと
「話が終わり次第呼ぶので、お前たちは下がっていなさい」
と言ってアリアや使用人たちを下がらせた。
ナイトリー侯爵と二人きりになったジェネヴィエーヴは一つ深呼吸すると、彼女にかけられた呪いと、それにまつわる事柄を話し出した。一度も言いよどむことなく、理路整然と説明するジェネヴィエーヴの話に耳を傾けながら、ナイトリー侯爵は彼女がこの話をするために何度も勘案し推敲してきたことを悟った。ジェネヴィエーヴが一通り語り終えると、ナイトリー侯爵が質問し、彼女がそれに答えるということを何度も繰り返した。そして、その質問もとうとう尽きると、ジェネヴィエーヴは掛布団をめくってから背筋を正して父親の正面に向き直り、
「荒唐無稽なとお思いになるかもしれませんが、信じてくださいませ。そして、今までお伝え出来なかったことを深くお詫び申し上げます」
このような重大事を秘したまま、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。そう言って深く首を垂れた。
部屋の中に秒針が時を刻む音が響く。ナイトリー侯爵は暫くの間、微動だにせずじっと彼女を見つめていたが、パチッと暖炉の薪がひときわ大きな音を立てて爆ぜると、ようやく口を開いた。
「ジェネヴィエーヴ、顔を上げて布団の中に戻りなさい」
穏やかながらも断固とした調子のナイトリー侯爵の言葉に、ジェネヴィエーヴは短くはい、と答えると大人しく従った。
「お前の言う通り、この件の責任の所在は明らかだ。そして、その者には相応の罰を与えねばなるまい」
眉根を寄せ、低い調子で告げられた台詞にジェネヴィエーヴは頷いた。
「はい」
ナイトリー侯爵は俯く娘の顔をじっと見つめながら問いかけた。
「では、お前はどのような罰が相応しいと思う?お前だったら、この愚かな父親にどんな罰を与えるかい?」
ナイトリー侯爵の台詞に、目を伏せていたジェネヴィエーヴは目を見開き、ぱっと顔を上げると父親の顔を見返した。
「え?」
「ジェネヴィエーヴは何か考え違いをしているようだ。君が3歳の時にその身に呪いを宿して、ずっと苦しんできたことや、ラトクリフ姉弟の力を借りて子供たちだけで呪いを解こうと、時には危険な行いにも及んだこと、アリアに私の許可なく危険な聖魔法を使わせたこも、全てはお前の父親でありたった一人の保護者である私の責任であることははっきりしている。お前の言う通り、私は相応の罰を受けるべきだ。さあ、今まで娘の本当の苦しみにも気づかず、手も差し伸べられなかったこの無力で愚かな父に罰を与えておくれ」
ナイトリー侯爵はそっとジェネヴィエーヴの髪に触れると、極々優しい手つきで頭をなでながら言った。
「これほどの秘密を抱えて辛かっただろう、呪いに侵されながら日々を送ることは、言葉にできないほどの恐ろしさを伴った違いない。愛しい娘よ。これまで力になれずに済まなかった。どうか、私を許しておくれ。そして、これからは、この父にもお前の重荷を分けて欲しい」
あまりにも優しい声音で告げられた言葉に、ジェネヴィエーヴの双眸からは大粒の涙がこぼれ落ちた。涙は後から後から溢れてきて、一向に止まらなかった。彼女は父親に縋り付くと幼子の様に泣きじゃくった。その間中、ナイトリー侯爵は彼女の背中を優しくたたいてやり、彼女が泣き止むまで頭を撫でていた。
そうして、彼女が泣き疲れて眠ってしまうと、ナイトリー侯爵は紐を引いて呼び鈴を鳴らした。看護師にジェネヴィエーヴを託すと、部屋を後にした。部屋の外で控えている家令に、半刻程したら、アリアとノクターンに書斎に来るように言いつけるとじっと考え込んだ様子で去っていった。
「二人とも、そちらに掛けなさい」
時間通りにナイトリー侯爵の書斎を訪れたアリアとノクターンは、家令が扉を閉めると膝をつき床に額を付けて謝罪した。
「大変申し訳ございませんでした」
「私たちの不思慮によってジェネヴィエーヴ様のお命を危険にさらしたこと、如何なる罰も受ける所存です」
部屋の奥の肘掛椅子に掛けたまま、彼らを見つめていたナイトリー侯爵は冷ややかな声音で告げた。
「私に同じことを二度も言わせるつもりかい」
ハッと視線を上げたアリアとノクターンは顔を見合わせると、頷き合い、侯爵の命令通りにソファに腰かけた。
カタカタと体を震わせながら蒼白な顔色で俯く二人を、侯爵はしばらく見つめていたが、おもむろに立ち上がると彼らの斜め前の席に腰を下ろした。家令がすぐさま3人の前にお茶を供す。ナイトリー侯爵は一口お茶に口を付けると、口を開いた。
「ジェネヴィエーヴとの約束でね、いかなる理由があろうとこの件で君たちを咎めることは決してない」
ナイトリー侯爵は、二人を呼んだのはことの経緯を改めて確認するためであり、ジェネヴィエーヴの現在の状況を確実に把握するためだと淡々と告げた。
「それより、私にはこれからもっとつらい仕事が待っているんだ」
ナイトリー侯爵の表情がぐんと暗くなったのを見止めて、ノクターンが首をかしげた。
「恐らくジェネヴィエーヴ様を叱らないといけないことだと思うわ」
アリアが小声でノクターンにジェネヴィエーヴとナイトリー侯爵が交わした条件を説明すると、ナイトリー侯爵は苦悶の表情を浮かべてため息をついた。国王ですら憚るナイトリー侯爵を悩ませることができるのは、いつだってジェネヴィエーヴただ一人だった。
「さあ、二人ともこれまで君たちが知り得たすべてのことと、現在のジェネヴィエーヴの状態、今後の予想を話しなさい。包み隠さず全てのことをね。」
アリアとノクターンは話し出したが、ジェネヴィエーヴの容態についての話になると、ナイトリー侯爵はぐっと何かを堪えるように眉根を寄せた。一通り彼らの話が済むと、ナイトリー侯爵は微に入り細を穿った幾つもの質問を彼らに浴びせた。
問答が終わる頃にはすっかり外の景色は夕闇に包まれていた。話の最後にノクターンはこれまで判明した全ての事柄をまとめた詳細な経過報告書をナイトリー侯爵に提出した。
「つまり、現段階ではミスター・フェラーズという学者がジェネヴィエーヴに掛かっている呪いを解く鍵だということだね?」
「はい、そのように考えております」
「だが、肝心のミスター・フェラーズは王妃の治療で王宮に軟禁状態だと・・・。ふむ、いいだろう。彼については私が何とかする」
ナイトリー侯爵がノクターンの報告書を受け取ると、さっと近づいた家令が何事か侯爵に耳打ちした。
「ああ、分かった。ノクターンはこのまま部屋に戻ってもよい。アリアは私に付いてきなさい。大司教が到着したそうだ。君にも同席してもらいたい」
ジェネヴィエーヴの呪いの程度を確認するため、ナイトリー侯爵は高名な聖魔法の使い手でありアリアの師でもある大司教を呼び寄せていた。ナイトリー侯爵は応接間で大司教を出迎えると、アリアを伴って早速ジェネヴィエーヴの部屋へと向かった。
ジェネヴィエーヴは倒れて以来初めて寝室を出ると、身支度を整えて続き部屋に用意された座椅子に腰かけながら一同を迎えた。
「体調はどうだい?少しでも辛ければ我慢せずに直ぐに言いなさい」
膝掛を掛け直してやりながらナイトリー侯爵は優しく言った。
「お心遣いありがとうございますお父様。私なら大丈夫ですわ。大司教様、わざわざご足労戴き申し訳ございません。ナイトリー侯爵の一女、ジェネヴィエーヴでございます。本日は何卒よろしくお願い申し上げます。何分病み上がりゆえ、このように坐したままで御前を失礼いたしますこと、ご容赦ください」
ジェネヴィエーヴの言葉に大司教は会釈を一つ返すと、では早速始めさせていただきますと言ってジェネヴィエーヴの前に立つと、彼女の頭の上に手をかざした。そっと瞳を閉じた彼女は大司教の手のかざされた部分から徐々に、じんわりとした温かさが身体中に広がっていくのを感じた。
つっと大司教の額から顎へ汗が伝う。じっと何かを探るように大司教は手をかざしていたが、徐々にその顔が固くこわばってゆく。大司教はふと顔を上げると首だけを巡らせて、ナイトリー侯爵の後ろで両手を組んで見守っていたアリアに視線を止めると、もう片方の手を差し出した。
――こちらへ来なさい
大司教の意を汲んだアリアは軽く膝を曲げて会釈してから、ナイトリー侯爵の脇を抜けて歩み寄ると大司教の手を取った。そして導かれるままにジェネヴィエーヴにかざされた手に彼女の手を重ねた。大司教が軽く頷いたのを確認してから、アリアもまたゆっくりとジェネヴィエーヴの中へと意識を集中させていった。
――まさか、これほどとは
気を呑まれるほどの禍々しい気配にアリアは総毛だった。思わず手を離し一歩後じさりそうになるのを、大司教がぐっと彼女の腕をつかんで押し留める。
大司教の力を借りることで、これまではぼんやりとした輪郭しかつかめなかったクレメンティーンの呪いの全容がくっきりと浮かび上がっていた。今や黒々とした気配はジェネヴィエーヴの身体の三分の二を覆いつくしており、頭部と胸の中心だけがかろうじて元の姿を保っていた。しかし、じっと意識を凝らしてみれば、呪いの輪郭がゆらりと解け、黒々とした数多の靄がその触手を伸長させようとしているのが見て取れた。
「ふっ・・うぅっ」
アリアの口から押し殺したうめき声が漏れた。大司教はこれが限界と判断したのか強く握っていたアリアの腕を離した。その途端、アリアはその場に膝から崩れ落ち、顔を覆って肩を震わせた。大司教はジェネヴィエーヴを身体を覆っていた自らの魔力をゆっくりと回収し、最後に短い祈りを口にした。
「もう結構です」
頭上から落とされた静かな声にジェネヴィエーヴがゆっくりと顔を上げると、表情の乏しい顔と目が合った。早朝の湖面のような瞳からは感情をうかがい知ることはできない。
――陶器にわずかに残った人肌の温かさを思わせる人
愛情と哀しみを感じさせる孤高の人。高位の使徒とは皆このようなのだろうか。ジェネヴィエーヴはそんなことを感じた。
「体に変調はありますか」
問いかけにジェネヴィエーヴが無言で首を振ると、大司教は僅かに顎を引いた。
「愚かな弟子の行いを咎めに参りましたが」
冷淡な言葉に目を真っ赤に腫らしたアリアがハッと顔を上げた。
「ご令嬢の容態は」
大司教は一度口を噤むと、ナイトリー侯爵へ顔を向けた
「わたくしも既に存じ上げております。ご配慮いただかずとも結構です」
ナイトリー侯爵が口を開くよりも早く、ジェネヴィエーヴが応えた。すっと背筋を伸ばし、正面から大司教の顔を見据える。
「お心遣い痛み入ります」
視線を合わせたまま、フッと微笑めば、大司教は小さく頷いた。
「承知しました。では、はっきりと申し上げましょう。ナイトリー侯爵閣下からのお話の通り、ナイトリー嬢のお体は呪いに侵されています。これほど古く純乎たる呪詛を眼前にしたのは久方ぶりのことです。正確には、正身にてこのような呪詛を宿している人間を目にしたのは初めてです。どうやら血筋に係るもののようですが、生質のものではありません。何か心当たりがございますか?」
ジェネヴィエーヴが頷くと、大司教は暫くしてから再び口を開いた。
「3年は保たないでしょう」
室内に、誰かの息をのむ声が響いた。
「はい」
落ち着いた声音で返すジェネヴィエーヴの瞳は静かに澄んでいる。
「ご存知でしたか」
大司教が問いかけると、ジェネヴィエーヴは頷いた。
「はっきりとした年数は存じ上げません。ただし、漠然とではありますが1、2年程だろうと感じておりました」
大司教はがジェネヴィエーヴの瞳を見返しながら淡々とした調子で
「そうですか。それでも身体は更に数年はもつでしょう」
と言うと、ジェネヴィエーヴはフッと目を細めた。
「気休めにはなりますね」
「随分と厳しいお考えをお持ちのようだ」
クスリとも笑わずに大司教が続ける。
「魂の欠けた肉体にどれほどの価値があるでしょうか」
「それを決めるのは私ではありません」
硬質な大司教の言葉に、ジェネヴィエーヴは同意する。
「左様ですね。穏やかな肉体の崩壊は遺された者達のせめてもの慰めとなりましょう」
「主がお救いくださることでしょう」
「はい。その時にはどうか、お導きくださいますようにお願い申し上げます」
ジェネヴィエーヴが目を伏せ僅かに頭を下げる。
「ご自身への救済は不要だと」
「そのようなことはございません。しかし、最期まであがきたいとは思っております」
「険しい道を望まれる」
初めて大司教の表情が動いた。
「幸いなことに、共に歩もうとおっしゃってくださる方々がおりますので」
「左様ですか」
「はい。無様とお思いでしょうか」
大司教がいいえ、と静かに答えると室内には沈黙が下りた。
「貴女は呪いと聖魔力、相反する苦痛を受け入れ続けねばなりません。苦しみは日ごとに増していくでしょう」
「もとより承知の上でございます」
ジェネヴィエーヴは返答に代わりに、おっとりとほほ笑んだ。
「覚悟はできていると」
分かりましたと頷くと大司教は
「また7日後に参ります」
と告げた。大司教の言葉にジェネヴィエーヴは目を見張り、次いで深く頭を下げた。
「深く感謝申し上げます」
大司教はこれも務めの内です、とそっけなく答えてから、懐から布製の小箱を取り出した。
「何かあればこちらで報せを。些細なことでも結構です」
小箱の中には握りこぶしほどの通信石が入っている。
「では私はこれで失礼いたします。貴女は無理をせず、本日はもうお休みになるのがよいでしょう」
大司教は軽く会釈すると、ジェネヴィエーヴからの礼を待たずに背を向けた。ちらりと足元に視線を落とすと、
「ミス・ラトクリフお話を」
と言って歩み去った。慌ててアリアは立ち上がると、大司教の後を追って扉を出て行く。ナイトリー侯爵もまたジェネヴィエーヴに一声掛けると直ぐに部屋を後にした。
残されたジェネヴィエーヴはふう、と一つため息をつくと呼び鈴を鳴らした。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
次話もお読みいただけれますと幸甚です。