廃妃の呪いと死の婚姻5-5
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廃妃の呪いと死の婚姻5-5
「―――――街へ、噴水のある広場へ向かって」
そう言うと、ジェネヴィエーヴはぎゅっと眉を寄せて、背もたれにぐったりと身を預けた。
「そんな風に唇をかみしめてはいけませんよ」
頬に添えられた手にそっと目を開くと、案じ顔のクラレンスがいた。
「お辛いのでしょう、遠慮せずに私に凭れてください。ここから先は馬車が揺れます、無理をしないで、何かお考えがあるのでしょう」
クラレンスの言葉にジェネヴィエーヴは僅かに頷くと、そっと頭を彼の肩に預けた。彼女の体をさりげなくクラレンスが支える。悪寒に震える体に彼の体温が温かかった。なぜこれほどの無茶をするのか、きっと気になっているだろうに訳を問うてこない彼が有り難かった。
しばらく馬車を走らせた頃、躊躇いがちにクラレンスが口を開いた。
「訪問の理由を尋ねないのですね」
彼の言葉にようやくそのことに想到する。本来であればアリアと同じく王宮に詰めているはずの彼が、何故こんな時間にナイトリー侯爵邸を訪ねてきたのだろうか。
「ミス・ラトクリフに頼まれました」
思いがけない返答にパチクリと瞬くジェネヴィエーヴに、クラレンスは僅かに苦笑する。
「正確には、ミス・ラトクリフから相談を受けたヒューバートに、ですが」
アリアとヒューバート・ノートンは相談を持ちかけられたりするような仲だったろうか。まさかジェネヴィエーヴの知らないところで二人は交流を深めていたのだろうか。
「私の使いで何度かヒューバードをナイトリー邸に遣わしていたのですが、ご存知ではありませんでしたか。実はあまりにも訪問を断られるので、私が無理に頼んだのです。彼ならあなたが一番信頼しているミス・ラトクリフにも直接掛け合えるかと思って・・・。」
きまり悪そうに目を伏せるクラレンスの耳は赤く染まっている。沈黙の降りた車内にはガラガラという車輪の音と、護衛たちの騎馬の音だけが響く。
「アリアは何をお願いしたのでしょう」
一向に口を開こうとしないクラレンスに、ジェネヴィエーヴはしかたなく物憂げな口調で問いかけた。どうやら熱が上がってきたようだ。耳を塞がれたように声がくぐもっている。耳の奥に膜が張った様な不快感に彼女は眉を顰めた。
「ミス・ラトクリフは」
僅かに顔をずらして顔を見上げると、彼は懐から小さなガラス瓶を取り出した。その中にはとろりとした黄金色の液体が入っている。
「ヒューバードの話によると、彼女は貴女が強い副反応に苦しんでいるのではないかと危惧していました。本来であれば、王宮から戻り次第治療を行うつもりだったようですが、それが不可能になってしまい、次善策としてこの薬を私に託したのです」
発熱やめまい、耳鳴りといった症状が出ているのであれば小匙に一杯程度を、半刻おきに服用し、それ以上の激烈な症状が見られた場合には、様子を見ながらキャップ半量を5分おきに服用すること。
クラレンスが手にする便箋には、アリアの丁寧な筆跡でそう記されていた。
――ああ、アリアはなんて健気で優しい娘なのだろう
王宮に半ば軟禁状態になりながらも、私のために最善を尽くそうと努めてくれた。今頃、彼女はどれほど心配していることだろうか。
「お辛いでしょうが、服用していただかなければなりません」
眉根を寄せて気遣うクラレンスに、ジェネヴィエーヴはコクリと頷いた。
「ありがとうございます」
馬車に取り付けられた魔晶石の僅かな光を頼りに、ガタゴトと揺れる車内で苦労しながらクラレンスはキャップに僅かな薬を注いだ。ジェネヴィエーヴがそれを受け取ろうと手を伸ばすと、彼は軽く首を振って、空いている片方の手で彼女の頭を支えると、そっと口元に薬を近づけた。
ジェネヴィエーヴは躊躇う気力もなかったため、されるがままにそれを嚥下した。彼女の喉がコクリと動くと、クラレンスはほっと安堵のため息をついた。
「これで少しは楽になるとよいのですが」
ジェネヴィエーヴは彼の声を聴きながら瞳を閉じた。
馬車の中が薄暗くて助かった。もし、クラレンスが明るい照明のもとで彼女の顔色を目にしていたら、驚いてすぐにでもナイトリー邸に引き返したことだろう。高熱で頬は真っ赤に染まり、潤んだ瞳は疲労と馬車酔いとで青黒い隈に縁どられていた。
今はどのあたりだろうか。ひどい嘔気とめまいを必死に堪えながら、ジェネヴィエーヴは車窓の外を何度も何度も確認した。
どれほどの時間が経ったのだろうか、彼女にとっては永遠とも思えるような時間の後、馬車はようやくその速度を落とした。御者の馬を制する声が聞こえたかと思うと、軍靴のカツカツと言う音が石畳を叩き、馬車の扉がさっと開いた。
「殿下」
ヒューバートはジェネヴィエーヴを意識して、かしこまった呼称でクラレンスを呼んだ。クラレンスは頷くと、そっとジェネヴィエーヴの手を取って
「噴水の広場の前に着きました。降りますか?」
と訊いた。目を開いたジェネヴィエーヴ小さく頷くと、自らが先に立ち、ジェネヴィエーヴが馬車を降りるのに手を貸した。
日の落ちた広場に人影はない。ジェネヴィエーヴはぐるりと辺りを見渡すと、闇の蹲る路地の先に目を凝らそうとして途方に暮れた。現場近くに行けば何とかなるだろうと漠然と考えていたが、ここからどうやってミス・フェラーズを探したらよいのだろうか。彼女は必死に記憶を辿った。
夢の中で印象的だったことは、ミス・フェラーズが見つけた大通りの店の照明だった。路地から見た大通りの様子を必死に思い出し、目の前に広がる店舗に視線を這わせるが、どの店も灯りを落としひっそりとしている。外出などめったにしたことのないジェネヴィエーヴの目には、どの店も変わり映えなく同じように見えた。
「ジェネヴィエーヴ嬢?目的地はこちらで合っていますか」
クラレンスの訝しげな声に、ジェネヴィエーヴは悲愴な顔つきで彼を見上げた。
「あ、それが・・・」
どうしよう、今更わからないなどいってもよいのだろうか。せめて何か物音が、いや、声の一つでも聞こえれば。
そのとき、暗い店舗の一つにぱっと明かりがともると、店主だろうか恰幅の良い中年の男が不安気にこちらを覗いた。突然店先に見たこともないような立派な馬車が停まったのだ。その上、物々しい護衛騎士付きとくれば、思わず顔をのぞかせた店主の気持ちも分からなくなかった。
「あっ」
灯りの方へと視線を遣ったジェネヴィエーヴは、目を見開いた。明かりの灯ったショウウィンドーには、印象的な影絵が踊っていた。それこそ、夢の中でミス・フェラーズが目にした希望の光だった。
ジェネヴィエーヴは店舗を挟んで向かいの暗い路地へと身を翻した。焦る気持ちに足がもつれて、身体がぐらりとかしぐ。クラレンスがとっさに彼女の腰を支えると、ジェネヴィエーヴはその腕をきつくつかんだ。
「あちらです。あの路地の奥に、若い女性が。暴漢に追われています。ミス・フェラーズが危険です!!」
思いがけない彼女の言葉にクラレンスはぎょっと目を見開いた。
「ジェネヴィエーヴ嬢、それは一体」
どういう意味ですか、そう継ごうとした彼の言葉をジェネヴィエーヴの焦った声が遮る。
「本当なんです。信じてください!ミス・フェラーズの身に危険が迫っています」
ただならぬ彼女の様子に、クラレンスはひゅっと喉を鳴らすと、ヒューバードを振り返った。
「ヒュー」
クラレンスの鋭い呼びかけに、ヒューバードは僅かに頷くと、一人の騎士を連れて路地の闇へと駆け出した。
「ああ、どうか」
ジェネヴィエーヴは両手をきつく組み合わせると、祈るようにギュッと目を閉じた。その時、闇をつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。
「――――!!」
甲高い女性の悲鳴の後に、バタバタと掻ける複数の音が響く。びくりと身を震わせて顔を上げたジェネヴィエーヴの肩をクラレンスがギュッと抱く。残った騎士たちが、緊張に身を包み、警戒を強めた。
心臓がうるさい程ドキドキと音を立てている。ジェネヴィエーヴは暗い路地を凝視した。そして、暫くして静かな足音と共にヒューバートが姿を現すと、彼の腕に抱かれた若い女性を目にしたジェネヴィエーヴはさっと立ち上がって、ふらりと駆け寄った。
「ミス・フェラーズ」
ああ、どうか無事でいて。
必死の形相のジェネヴィエーヴに、ヒューバートが思わず歩を止める。彼の腕の中、生気のない顔色でぐったりと身を任せている女性を目にして、すがるように彼を見上げたジェネヴィエーヴに、ヒューバートは穏やかな声音をつくった。
「ご安心をナイトリー嬢。今は気を失っていますが、ご無事です」
その言葉に、ほっとしたジェネヴィエーヴの身体から力が抜けた。崩れ落ちるようにその場に座り込んだ彼女の瞳からは、涙の筋がつうっと伝った。
「よかった。ああ、本当によかった。なんとお礼を申し上げたらよいか。ノートン卿、本当にありがとうございます」
涙を流しながら礼を述べるジェネヴィエーヴに、ヒューバートは礼儀も忘れて彼女をまじまじと見つめた。
「ジェネヴィエーヴ嬢」
慌てて駆け寄ってきたクラレンスが彼女を抱き起すまで、ヒューバートは彼女を呆然と見つめていた。
「何があったんだい?」
クラレンスの言葉に我に返ったヒューバートは後ろを振り返った。一人の騎士が、男を押さえつけながら引きずってくるところだった。
「こちらのご婦人が、あの男に襲われているところを発見したので、直ちに制圧いたしました」
「こちらのご婦人は?」
「ミス・フランシス・フェラーズです。意識を失う前に本人がそう申していたので間違いありません」
クラレンスは軽く目を見張った。
「本当に・・・。いや、ご苦労だった。すぐに医者に診せるように。そして、兄のミスター・フェラーズにも連絡を」
彼の命令に、騎士たちが素早く従う。にわかに慌ただしくなった路地に、近所の者たちまでが何事かと顔を覗かせていた。それでも、物々しい雰囲気の騎士達と立派な馬車を目にして、慌てて首を引っ込める。好奇の視線を懸念したクラレンスは、ジェネヴィエーヴをそっと促した。
「ジェネヴィエーヴ嬢、我々も場所を移しましょう。ここは人目に付く」
クラレンスの言葉にジェネヴィエーヴは周囲を見渡すと素直に頷き、差し出された彼の腕に手を載せた。
「殿下、大変恐縮ですがミス・フェラーズを馬車に乗せることをお許し願えませんでしょうか」
いまだにぐったりと意識を取り戻さないミス・フェラーズに視線を遣って、クラレンスは頷くと、
「あの状態では騎馬で運ぶのは困難だろう。万が一頭を打ってでもいる恐れもある」
と度量の広さを見せ、ジェネヴィエーヴを安堵させた。
馬車の中ではジェネヴィエーヴがミスター・フェラーズの手を握り、頬についた汚れを拭ってやる。甲斐甲斐しく世話を焼くその姿に、クラレンスは僅かに驚きの声を上げた。
「随分と手慣れていらっしゃいますね」
ジェネヴィエーヴは苦笑すると、いつも自分がしてもらっていることを行ったまでですと答えた。
「貴女の体調も万全ではないのです、無理をなさらないでください。私が替われればよいのですが」
気遣わし気にジェネヴィエーヴを見つめるクラレンスに、
「貴族ではないとはいえ、若い未婚の女性のお世話を殿方にお任せするわけにはまいりません」
彼女はゆるゆると首を振った。
いくつかの通りを折れると馬車はゆっくりと速度を落として停車した。そこは、ミスター・フェラーズの勤める研究所の前だった。連絡が行っていたのであろう。表には幾人かの白衣を着た研究者たちが一行を出迎えた。王妃の治療で王宮に召し出されている数人を除き、多くの研究員たちが仲間の身を案じて研究室に集っていた。そこに、クラレンスの名のもとに、ミスター・フェラーズの妹の危急を告げる使者が訪れたのである。
「お待ちしておりました」
年配の学者が進み出ると、クラレンスに深々と首を垂れた。
「こんな時間に済まない。たまたま、暴漢に襲われていたご婦人を見かけたのだが、驚いたことにミスター・フェラーズの妹君のようだったのでこちらにお連れした。どちらにせよ、身なりから言って平民のようであるし、治癒術師に診せるのもためらわれたので、こちらで診てもらいたい」
このご婦人に見覚えがあるかと問われた老学者は、はっきりと頷いた。ミス・フェラーズは兄に連れられて研究所を訪れていた。ミスター・フェラーズが王宮に召し出されて以降は、兄の代わりに様々な差し入れをもって男所帯の研究所を訪問していたから、彼女のことを知らない研究員たちはいなかった。
「どうだろう。明らかな外傷は見当たらないのだが、目を覚まさないのだ」
研究者たちの手で研究所に運び込まれたミス・フェラーズの後を追いながら、クラレンスが手短に経緯を説明する。
「とりあえず診てみましょう。彼女を助けたという騎士の方にお話を伺うことはできますか?発見時の状況を教えていただけるとありがたいのですが」
老学者の言葉に、それまで後ろで控えていたヒューバートが進み出た。ヒューバートはクラレンスの顔をちらりと伺ったが、彼が頷くと、
「私がお話ししましょう」
と言って学者と共に治療室へと姿を消した。
今やジェネヴィエーヴにできることは全てを学者たちに委ね、経過を見守ることだけだった。それまで彼女はミス・フェラーズを救わなくてはならないという強い使命感に支えられていた。その上、ミス・フェラーズを決定的な危機から救ったという安堵と、完全に全てが成功裏に収まったかどうかわからないという不安感から、極めて強い興奮状態に陥っていた。こうした精神状態は彼女の身体的不調に劇的に作用し、一時の間彼女は全く身体的問題を意識せずにいることができたが、今急激な揺り返しが彼女を襲おうとしていた。
「ジェネヴィエーヴ嬢、お加減が悪いのではないですか」
決して座り心地がよいとはいいかねるソファに腰かけている彼女の頭部は、先程からゆらりゆらりと揺れており、涙で潤む瞳は焦点を結んでいなかった。長い睫が目元に影を落としていたが、それでも誤魔化しようのない程の青黒い隈が彼女の目元を覆っていた。
「だいじょうぶ、まだ、だいじょうぶですわ。せめて――は」
ぼんやりとした微かな声音で応えた彼女をクラレンスは心配そうに見つめた。研究所についてから、アリアから渡された水薬を服薬したが、どう見てもジェネヴィエーヴの様子は異常だった。彼女が頑として帰宅することを拒んだため、せめて横になって欲しかったが、ジェネヴィエーヴはミス・フェラーズの治療室の前から動こうとしなかった。
ジェネヴィエーヴはじっと待ち続けていた。きっとあと少しだけ持ちこたえられれば、帰邸したノクターンが駆け付けてくれるはずである。ナイトリー邸には研究所に向かうと決まってすぐにクラレンスが一報を入れていた。流石にこの時間であればノクターンも戻っているはずである。報せを聞けば一も二もなくジェネヴィエーヴの元へ馳せ着けるだろう。
彼女には時間の進みが遅々として感じられた。
「拳の力を抜いてください。美しい掌に傷ができてしまっては大変です」
無意識に固く握りしめていた両の拳に、クラレンスの指がそっと触れた。ジェネヴィエーヴはビクリと肩を揺らしてクラレンスの顔を見返した。
「心配でしょうが、ご自分の体のことも考えてください」
正面からジェネヴィエーヴの顔を見つめて、あまりの顔色の悪さに、クラレンスは顔をしかめそうになるのをぐっと抑えて、強いて穏やかな声音を作った。
「隠そうとしないで。お辛いのでしょう。見ればわかります。遠慮せずに、どうぞ私に凭れ掛かってください。断らないで、どうか私を安心させると思ってそうしてください」
誠実で真摯な彼の態度に、ジェネヴィエーヴはそっと彼の肩に寄り掛かると、瞳を閉じた。
「先程部屋から出てきた者の話によると、もう暫くすればミス・フェラーズも目を覚ますでしょう。何らかの薬を嗅がされていたようです。本当に彼女を助けられてよかった。あのまま誰にも気づかれなければ大変なことになっていたでしょう」
ジェネヴィエーヴはクラレンスの静かな声音を聞きながら、時々小さく頷いた。まるで小鳥の雛の様に身を委ねきっている彼女の身体を心から案じながらも、クラレンスはこれまでになく彼女との距離が縮んだように感じられて、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
どれほど時が経ったのだろうか、見渡す限りこのフロアには時計の類は一切置かれていなかった。明り取りの窓すらなかったから、一体今が何時なのかわからなかった。ただ、研究員たちの交わす言葉だけが時折漏れ聞こえてくる。
ガタン
突然の大きな物音に、ジェネヴィエーヴの肩がびくりと揺れた。何事だろうか、耳を澄ませていると、階下がにわかに騒々しくなってくる。その音は次第に大きくなり、バタバタという足音と共に何者かが階段を駆け上がってくるのが分かった。護衛騎士たちがすっと前に出ると、フロアに足を踏み入れようとしたその人物を止めた。
「私は、ナイトリー侯爵家の――」
耳慣れた、男性にしては少し高い声音にジェネヴィエーヴは顔を上げた。
「ノクターン・・・」
ふらりと立ち上がろうとした彼女に手を貸しながら、クラレンスは護衛騎士たちに、通してやるようにと合図を送る。
「ジェネヴィエーヴ様!」
彼女の姿を見止めたノクターンが蒼白な顔で足早に近づいて来る。ジェネヴィエーヴはパッとクラレンスの手を離すとノクターンへと両手を差し伸べた。その様子にクラレンスが口の端にちらりと苦い笑みを浮かべる。
「遅くなり申し訳ありませんでした」
ノクターンは差し伸べられたジェネヴィエーヴの手を取って深く首を垂れた。
「伝言を聞いたのね」
彼女の言葉にノクターンは秀麗な容貌を苦しげにゆがめながら、首を振った。
「実はどうも胸騒ぎがして、ナイトリー侯爵邸に戻る前に、グレイ夫人の侍女のミス・エアのお宅を訪ねたのです。そこで、ミス・エアからミスター・フェラーズの身に何かが起こったので、ミス・フェラーズは急ぎ帰宅したと伺いました」
入れ違いになったことに気付いたノクターンは慌ててミスター・フェラーズの家に戻ったのであるが、待てど暮らせどミス・フェラーズが戻らない。何かあったのではないかと危惧した彼は、行動を共にしていたナイトリー邸の騎士に自分はこれから、ミスター・フェラーズの研究室に行くから、一旦ナイトリー邸に戻って、ジェネヴィエーヴかアリアにこのことを伝えて欲しいと頼んだ。
ジェネヴィエーヴは邸宅を出る前に、もしかすると行き違いになるかもしれないがノクターン宛に伝令を飛ばすよう命じていた。彼のおおよその場所は分っていたから、御者と顔見知りの伝令であればノクターンの載った馬車が分かるだろうと判断したのである。伝令はその途中でナイトリー邸に戻る馬車と行き合い、言伝を聞いた騎士は慌てて伝令の騎馬を拝借すると、ノクターンの元へ取って返したのだった。
騎士の話を聞いたノクターンは血の気が引いた。
「騎馬に同上させてもらい、この研究所までたどり着いたのですが、そこで研究所を覗いている男を見つけたのです」
ノクターンの背後では見知らぬ初老の男が、護衛騎士たちに囲まれながら不安気に辺りを見渡していた。
「あの者のことか?」
クラレンスの問いにノクターン頷いた。
「エア家の従僕です。今夜、ミス・フェラーズはエア家に宿泊するはずだったのですが、お兄様の件で、急ぎ帰宅することになり、夜道を心配したミス・エアがこの者を付けたのです」
彼の説明に老僕はくしゃくしゃの帽子を握り締めたまま、頭を下げた。
「我々が行き合った時にはミス・フェラーズは一人だったのだが」
訝しげに眉根を寄せたクラレンスの問いに、
「確かに途中まではミス・フェラーズと同行していたらしいのですが、持病の発作が起きてしまって、別れたそうです」
顔色の悪いその老僕は、ぶるぶる震えながら
「つ、痛風の気がありまして。途中でどうしても歩けなくなってしまったんでさ。お嬢さんにもいったん戻って、別の者を付けてもらおうと言ったのですが、直ぐに戻らないといけないからと仰って、結局御一人で行ってしまったんです。お、お嬢さんは、お嬢さんに一体何が、ご無事なんでしょうか」
人の良さそうな初老の男は目に涙を浮かべていた。
「安心しろ、命に別状はない」
護衛騎士の一人が見かねて告げると、老僕は安堵の表情を浮かべた。クラレンスが指示すると、騎士が老僕を階下に連れて行った。改めて事情を聴くようだった。
「ジェネヴィエーヴ様自らが出向かれたと聞いて肝を冷やしました。一体何があったのですか、それに殿下まで」
ノクターンは言いながら、ジェネヴィエーヴにピタリと寄り添っているクラレンスに視線を向けた。
「ご無理を言って、連れてきていただいたの」
怪訝な表情を浮かべるノクターンにジェネヴィエーヴが手短に経緯を説明する。彼らの背後では、話声を聞きつけたヒューバートがいつの間にか扉を開けて姿を現していた。
「そうでしたか。僕が不在にしていたばかりに、クラレンス殿下やノートン卿にも多大なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げるノクターンにクラレンスは苦い笑いを浮かべた。
「他ならぬジェネヴィエーヴ嬢の頼みだ。君が気に病むことはないよミスター・ラトクリフ。婚約者として当然のことをしたまでだからね」
ジェネヴィエーヴの背に手を添えながら上品な笑みを浮かべたクラレンスに、ノクターンが冷ややかに
「それでも、私がおりましたらこのような事態は起こり得ないはずでしたから。すべて私の責任です。御寛大なお心でお許しいただけますと幸いです」
とジェネヴィエーヴの手を握ったまま慇懃に言った。
「ノートン卿、お話は済みまして?ミス・フェラーズのご様子はいかがですか」
彼らの様子を興味深げに見つめていたヒューバードは、不安気なジェネヴィエーヴから急に水を向けられて、素早く愛想のよい笑みを浮かべた。
「ご安心をナイトリー嬢。先程意識を取り戻されました。今は診察を受けていらっしゃいます。もう暫くすれば起き上がることもできるでしょう」
彼の言葉にジェネヴィエーヴはほっと息をついた。そして気が抜けたのか、安堵したとたん足の力が抜けてぐらりと身体揺れる。慌ててクラレンスとノクターンが彼女を支えた。
「ここは私にお任せになって、ジェネヴィエーヴ様はご帰宅ください」
ノクターンが言うと、クラレンスもまた深く頷いた。
「それがいい。もう随分無理をされています。ミス・フェラーズのことは後で報告を受けることにして、私と共に侯爵邸に参りましょう」
気遣わし気に眉根を寄せる二人に、ジェネヴィエーヴもまたコクリと頷いた。
「そうね、ええ・・・」
そうさせてもらうわ、そう答えようとしたジェネヴィエーヴは突然の胸の不快感に言葉を詰まらせた。
「ぐっ!・・・ごほっ」
肩を丸め、口を覆ったジェネヴィエーヴの手と胸元に、鮮やかな赤い色が散った。そのまま二度三度とせき込むたびに、赤い花が幾つも飛び散る。
「ジェネヴィエーヴ嬢!」
「ジェネヴィエーヴ様!」
二人が驚愕の叫びをあげた。
激しくせき込みながら次第に目の端がちかちかと点滅し出す。
彼女はクラレンスの声を聴きながら、これはもう言い訳はできないなとぼんやりと思った。ああ、邸宅に戻ったら殿下と、そしてお父様にお話ししなければいけないわ、そう考えながら、ジェネヴィエーヴは意識を手放した。
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