廃妃の呪いと死の婚姻5-3
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廃妃の呪いと死の婚姻5-3
クラレンスは苛立っていた。王妃の毒殺未遂でおいそれと身動きできない自分自身だけではなく、病に倒れた後も頑なに自分を拒むジェネヴィエーヴに対しても、ままならない現状の全てに、激しい焦燥感と憤りを感じていた。だから、戻ってきたヒューバードからジェネヴィエーヴの病状は思っていた以上によくないようだと告げられ、顔を青ざめさせた。
「そんなに悪いのか?彼女の病状はどれほど」
食って掛かるように詰め寄った彼の肩に軽く手を置いて、ヒューバードは
「どうやら俺を行かせたのは人選ミスだったようだ。ミス・ラトクリフの俺を見る顔つきと言ったら、あなたのことを好きではありませんとはっきり書いてあったよ。いやあ、ショックだった。あの瞳に浮かぶ軽蔑の色ったら、胸をえぐられたね」
と茶化すようにへらへらと笑った。
「ヒュー!」
眉間に皺を寄せて言葉を遮ったクラレンスに、ヒューバードはごめんごめんと両手を上げて今度こそ真剣な顔つきになった。
「実際、彼女からほとんど情報を聞き出すことはできなかったんだよ・・・クリスには言いにくい話だが、ナイトリー嬢が望んでいない以上、話をすることはできないってさ。お手上げ状態だな」
クラレンスはふらふらと一歩二歩後ろへ下がるとソファへ座り込み、顔を伏せたまま暗い声で言った。
「王宮への招集の件は?」
「王命とあらば従わざるを得ないだろう。いくらなんでも。でも、そうだな・・・ミス・ラトクリフからすれば、今のナイトリー嬢の傍から離れたくないというのが本心だろう」
やはり話はそこに行きつくのか。クラレンスは両手で前髪を救い上げるようにしてうつむいた顔を覆うと、小さく長くため息をついた。
「その件は僕ができる限り手を尽くす。召し出されたとしても城へ留めおくことはせず、毎日必ず帰宅できるように取り計らうことはできるだろう。他でもないジェネヴィエーヴ嬢に関することだ、ナイトリー侯爵からも口添えしていただこう」
「ああ、それがいいだろう」
ヒューバートは去り際のアリアの思いつめたような表情を思い出しながら、ほっと息をついた。
「ところで、王妃様のご容体は?」
「お命に別状はないが、激痛に苦しんでいらっしゃる。口の中や咽喉までも焼けるような痛みがあるらしくて、水分も口にするのを拒まれて、このままでは・・・。それなのに、使用されたのが複合毒だったせいで、王宮医師団もお手上げ状態だ」
「毒か・・・。また、嫌な感じだな」
ヒューバートは顔をしかめた。歴代、王宮の特に後宮では陰湿で凶悪な権力闘争が繰り広げられてきたが、そこで用いられてきたのが毒だった。これは没落した元アクランド公爵家が最も得手とした手法であり、これによって多くの后妃や王子王女たちが命を落としてきた。銀の匙にも反応しない無味無臭の毒さえあり、高貴な者達は常に口に入るものに深く注意を払ってきた。そして今でも、長年皇宮に君臨し続けてきたアクランド公爵家の害毒は未だに根深く救っているようだった。
「陛下は王妃様のために如何なる手段も辞さないと仰っている。どのような方法でもよいから、王妃を助けよとのご命令だ。・・・僕も王子として最善を尽くすまでだ」
一刻でも早くジェネヴィエーヴのもとに会いに行くためにも、とクラレンスは心の中で誓った。
その数日後、ナイトリー侯爵邸にはミスター・フェラーズの妹フランシス・フェラーズが都に到着したという知らせが届いた。その頃、ミスター・フェラーズは薬学の専門家の内の一人としてアリアと同じく王宮に召し出されており、中々帰宅することが困難となっていた。
「ミスター・フェラーズの処方のおかげで王妃様のお体の痛みが緩和されたとかで、陛下もことのほかお喜びでした。ですが、王宮にとどめ置かれていらっしゃるため、お妹さんと約束していた王都見物もできなくなってしまったようですわ」
日もとっぷりとくれた頃に馬車で帰宅したアリアは着替えるとすぐにジェネヴィエーヴ部屋に向かい、その日の出来事を報告するのが日課となっていた。
「あらまあ、それじゃあミス・フェラーズは知り合いのない場所で全くの一人きりなの?」
「それが、ご一緒の馬車でいらしたグレイ夫人の侍女が不憫がって、お夕食に毎日招いてくださっているそうです。昼間はミスター・フェラーズの研究室に顔を出したり、あちらこちら見て回ったりして、それにミスター・フェラーズのお家のお掃除をしたりと忙しくされている様子です。それでなんですが、私はこの通り中々身動きが取れませんし、未婚の娘さんがたった一人のお家にノクターンを向かわせるわけにも参りませんので、メイドの一人を時々様子見に伺わせてはどうかと思うのですが、いかがでしょうか。これまでもミスター・フェラーズの所には食材やお料理を届けさせていらしたでしょう?」
アリアの提案にジェネヴィエーヴは、そうねそれがよいでしょうねとおっとりと言った。
「その、グレイ夫人の侍女という方はきっとしっかりしたお宅の方なんでしょう。でも、馬車は持っていらっしゃるの?ディナーの後などはミス・フェラーズは一人きりで歩いていらっしゃるのかしら」
「私もそれが心懸かりでしたので、それとなく聞いてみましたが、帰りの際には必ず老僕を一人つけてくださっているらしいです。ミスター・フェラーズからも昼間であっても裏路地には入らないようにと何度も忠告してあるそうです」
ではそれで安全とするしかないのだろうと、ジェネヴィエーヴはざわざわと落ち着かない心持のまま一つ息をついた。
「それよりジェネヴィエーヴ様、お加減はいかがですか?お熱は下がった様で何よりですが、まだ食欲が戻られていらっしゃらないようし。何でもよろしいので、口にできると思ったらいつでも、お申し付けくださいね」
アリアはジェネヴィエーヴの額に手を載せて熱がないことを確かめると、ベッド脇の椅子に腰かけた。
「明日も早くに出かけるのでしょう。何かあったらベルを鳴らすからもうおやすみなさい」
ジェネヴィエーヴはアリアの手をぽんぽんと軽くたたくと、微笑んだ。アリアが王宮に呼ばれて以来、ジェネヴィエーヴの部屋には常時看護師とメイドが控えるようになっていた。彼女たちはアリアが魔力を使う時を覗いて常にジェネヴィエーヴの傍にいてその用を足していた。それ以外にも、侍女を通じて毎日ジェネヴィエーヴはノクターンから報告を受けていた。
ジェネヴィエーヴは侍女に、メイドの誰かを明日ミスター・フェラーズのお宅にやるように指示することにした。簡単な食事を差し入れて、入用なものがないか聞いてくるように、その際にはノクターンを同伴するようにとも伝えた。ジェネヴィエーヴはあの夢で見た事件はきっと近いうちに起こるだろうという確信をもっていたので、ノクターンにミス・フェラーズの顔を覚えさせておくべきだと考えたのである。
翌朝、ジェネヴィエーヴは名刺に一言メッセージを添えると、ノクターンに訪問の口実として名刺を届けさせた。その結果、ナイトリー嬢の親切な心遣いに、ミス・フェラーズはひどく恐縮し何度も礼を述べた。ミスター・フェラーズは男性にしては筆まめな性質で、妹に宛てた手紙に度々ノクターンのことを年の離れた友人として記していたから、ミス・フェラーズは初めて会った彼のことを兄の友人として快く出迎えてくれた。
ミス・フェラーズはミスター・フェラーズとよく似た穏やかな目元と知的な雰囲気を漂わせた人物だった。年のころはノクターンよりも少し年上という話だが、苦労している分年齢よりも若干年嵩に見えた。とびぬけた美人というわけではないが、兄よりも陽気で朗らかな人柄を持つ彼女にノクターンは好印象を抱いた。それと同時に、ジェネヴィエーヴの見た夢通り彼女が凶刃に倒れることのないように最善を尽くそうと心を新たにしたのだった。
ノクターンが何か困っていることはないかと訊ねると、
「実は兄と連絡が取れないもので、着替えなど何か入用なものがないかと思いつつ、届ける方法もなくて途方に暮れていたんです」
ミスター・フェラーズは他の学者と共に王宮に召し出されており、時折研究室に王妃の治療に必要な道具や資料の類の要請の手紙があるほか、ほとんど連絡を取ることはできなかった。それでも、ミスター・フェラーズは兄からちょっとした連絡があるかもしれないと、日に必ず一度は研究所に顔を出すようにしていた。
ノクターンはミス・フェラーズに、それならば自分の双子の姉がミスター・フェラーズと同じく王宮に上がっているので、ついでに荷物を届けさせましょうと請け合うと、ミスター・フェラーズは顔をぱっと明るくして、礼を言った。
帰り際、ノクターンは一緒に来ていたメイドを示して、明日も彼女がうかがうので彼女にミスター・フェラーズ宛ての荷物を託して欲しいと伝えた。
「まあ、何から何までご親切にありがとうございます。それに、ナイトリー嬢にもくれぐれもお礼を申し上げてください。ここまでしていただいて、お心遣いに深く感謝しておりますとお伝えくださいませ」
ミス・フェラーズに見送られてナイトリー邸に戻ったノクターンは、ジェネヴィエーヴへの報告を侍女に託すと、ジェネヴィエーヴの夢の内容をおさらいすることにした。
そう遠くない将来、ミス・フェラーズは夜の闇に覆われた路地裏で暴漢に襲われ、命を落とすことになる。しかしノクターンが会ったミス・フェラーズは兄の忠告を無視して、夜の路地を一人でうろつくような向こう見ずな女性とは到底思えなかった。女がそんなことをするとしたら、何か深い事情があってのことだろう。
彼女が暴漢に襲われるのは一体いつのことなのだろう。ノクターンはテーブル一杯に何社もの新聞を広げた。これはミス・フェラーズが来ると聞いて以降、購入し始めたものだった。中でも貴族が取るような上等なものではなく、特に庶民が手に取るような世俗的なものを選んでいた。ノクターンはいくつもの書き込みが加えられた書付を取り出すと目当ての記事を探し始めた。
ジェネヴィエーヴの話によると、ミス・フェラーズが襲われる前にも同じような事件が起きているようだった。ノクターンは若い女性に関する記事を中心にさらって行った。そしてある記事に目を止めた。
――××街にて娼婦の死体が発見された。
たった3行の記事だが、なぜか目を引いた。続報がないかと探すも、珍しい事件でもないのだろう、どの新聞にも見つけることはできなかった。その代わりに、怪しげな薬についての注意喚起の記事を見つけた。関わっているのはどれも人相卑しくない男であり、気分の良くなる薬や不眠によく効くリラックス効果のある薬だと言って、若い女性に声を掛ける事例があり、誤ってそれを口にした子供がけいれんを起こしたというのである。
若い女性と薬、嫌な符牒にノクターンは眉根を寄せた。彼は何事かをメモすると、席を立ち外套を羽織って出て行った。
珍しく9時を回る前に帰宅したアリアは階段の踊り場で、大きな荷物を抱えるノクターンに出会った。
「ただいま。それ、なあに?」
一抱え程もある大きな布袋にアリアが手を伸ばすと、ノクターンは嫌な顔をしながらさっとそれを持ち上げた。
「何でもない」
くるりと背を向けて足早に歩きだしたノクターンを、アリアが早足で追う。
「何でもなくないでしょう、ちょっと、ノクターン待ちなさよ」
足の長さが違うため、最終的にアリアは小走りになりながらノクターンに追いすがった。
「廊下を走るなんて礼儀がなっていなんじゃないか、ミス・ラトクリフ」
がしりと手首を掴まれたノクターンは皮肉気な口調で言った。
「だったら、レディーが呼び止めているにもかかわらず、理由も話さずに逃げ出すような方は、紳士とはいいがたいのではございませんこと、ミスター・ラトクリフ?」
手を振り払おうとするノクターンに必死に食らいつきながら、アリアはずるずると引きずられるようにノクターンの部屋の前までやってきた。
「まさか部屋までついてくるつもり?」
心底嫌そうに顔をしかめるノクターンに、アリアはコクリと頷いた。ノクターンは眉根を寄せながらも、もう好きにすればいいと言いつつ、アリアを部屋の中へと招き入れたのだった。
「で、それはなんなの?」
扉が閉まった途端、アリアがびしりと大きな荷物を指さした。ノクターンは観念したのかげんなりした表情で、机上に置いた袋の結び目をほどいた。
「え、なにこれ・・・」
袋の中の一つを手に取ったアリアは戸惑った様子で、それとノクターンを交互に見比べた。そこに入っていたのは平民の若い女性が身に着ける女物の人揃いと、長髪のウィッグだった。靴だけは用意することができなかったのであろう、それでも男物にしては華奢なつくりのもので、ペチコートで足元を隠せばわからないような品だった。
彼の意図は明白だった。先程のノクターンの抵抗から考えて、彼がこれらを身につけるつもりだったのだ。しかし、理由がさっぱりわからない。とりあえずアリアは椅子に座ってうなだれるノクターンの頭にそのウィッグをそっとかぶせてみた。
「何するんだ」
ウィッグを振り払いもせず、髪の間から嫌そうに眇めた瞳を覗かせるノクターンに、アリアは思わず笑みを浮かべた。
「だって、せっかくなら試してみた方がいいじゃない?女装、するんでしょう?」
おかしなところがないか他人の目から見てもらった方がいいでしょうと、笑いをこらえもせずに言うアリアにノクターンは深いため息をついた。
「・・・楽しんでるだろう」
「あら、当然でしょう?じゃあ、さっさと着替えてちょうだい。そうしたら、どうしてこんな突拍子もない格好をしようと考えたのか教えてね」
そう言うとアリアは荷物をまとめてノクターンに押し付けると、衝立の向こうを指し示した。のろのろと席を立ったノクターンは、不覚だ、どうしてあの階段を使ってしまったのかとブツブツ呟きながら衝立の蔭へと消えていった。
数分後、姿を現したノクターンを目にしてアリアは微妙な顔つきをした。
「・・・黙っていないで、何とか言ったらどうなんだ」
ブスッとした表情で椅子にソファに腰かけたノクターンをまじまじと観察していたアリアは、ハアとため息をついた。
「まるで案山子だわね。なんていうかこう、期待値が高かった分、がっかり?」
左右に首を振る双子の姉を見ながら、ノクターンは口の端をひくひくとひきつらせた。
「勝手に期待して勝手に落胆されているとか・・・別に完璧な女装を目指そうとか思ってないから。そもそも明るい所で披露するわけでもなし、暗がりでちょっと女に見えればいい程度なんだ」
ノクターンのその言葉にアリアの瞳が鋭く光った。
「やっぱりノクターン、あなた危険なことを考えていたわね」
不貞腐れたように頬杖をついていたノクターンの肩がわずかに揺れる。
「別に・・・」
アリアはノクターンの正面に陣取ると、しゃがみこんで下からじいっと彼の顔をねめつけた。
「え?なに?なんですって?じゃあどんな理由があってそんな恰好するの?危険じゃないとすると、趣味?まあ、たった一人の姉の私にまで隠そうとするなんて、お姉ちゃんかなしいわ。たとえあなたの趣味嗜好がどのようなものであったとしても、頭からそれを否定してかかるような狭量な人間ではないわよ。それなのに、ああ・・・。ショックだわ。この気持ちをどこにぶつければいいかしら・・・。そうだわ、ジェネヴィエーヴ様から常日頃、何か辛いことがあったらどんなに些細なことでもすぐに相談しなさいって言われていたんだった。そうよ、これほどの一大事、到底私の胸に収めておくことはできないわ。早速、これらからジェネヴィエーヴ様のお部屋に行って、この苦しい胸の内を是非とも聞いていただかないと・・・」
立て板に水の如くそうまくしたてると、アリアはすっくと立ちあがって踵を返そうとした。慌てたのはノクターンである。いつになく素早く扉まで移動したアリアがノブに手をかける寸前で、その手首をつかむと、アリアはノクターンの顔を睨んだ。
「痛いわノクターン」
冷たい声音でそういったアリアに
「話す。話すから、どうかやめてくれ」
ノクターンはうなだれつつ弱々しい声で懇願した。
彼の顔見つめて、分かればいいのよと、にっこりと笑みを浮かべたアリアは再び部屋の中心へと戻ると、ソファに腰かけたのだった。そうしてノクターンがよろよろと着座すると、早速訳を話すようにと命じたのだった。
「新聞で気になる記事を見つけたんだ」
話が進むにつれてアリアの表情は暗く沈んだ。
「じゃあ、ノクターン、あなた囮になろうとしたの?その怪しげな男に接触するために?そんな危険なことをどうして一人で黙ってやろうとするの」
アリアの非難にノクターンはくしゃくしゃと前髪を掻き揚げた。
「だって、それが一番手っ取り早いだろう。幸い薬を渡すだけで直接危害を加えるようなことはないそうだから、もちろん夜中に出歩くつもりはなかったし、危険はそうないだろうと判断したんだ。だって気になるだろう?ジェネヴィエーヴ様の話にも出てきたじゃないか。ミス・フェラーズを襲う男が薬を使うって」
彼は一旦言葉を切ると、ハアとため息をついて、落ち着いた口調で説明を始めた。
「都に出てきたばかりで知り合いもほとんどいないミス・フェラーズを狙ったのは計画的犯行とは考えにくい、十中八九通り魔的犯行だと思うんだ。そういった類の連中は必ず大きなことをしでかす前にいくつもの練習を繰り返すものだろう。それに、薬の正体も気になるし。もし手に入れられたらミスター・フェラーズに見せて、成分を調べてもらおうと思ったんだ」
「・・・なんで私に話してくれなかったのよ。勿論話してもらったとしても反対したでしょうけど、それでも事前に相談ぐらいしてくれたっていいじゃない」
「そうしたら囮役はアリアがするって言うだろう」
ノクターンの指摘にアリアが口ごもった。
「やっぱりね。だから自分でやろうと思ったんだ」
「でも、危険だわ。ノクターンったら、背ばかりのびて武芸や剣術なんかはからっきしじゃない。もしそれで襲われたらどうするつもりだったの?」
「別に、護身術位ならできるさ。僕だって何の備えもなしにやろうなんて思っていないよ。相手だって女だと思って声を掛けているんだ、急に男の力で抵抗されれば隙ができるだろう。そこでこれを使えば、逃げるのは容易いはずだ」
そう言って彼が取り出したのは濃い黄色の石が埋め込まれた指輪だった。
「これは?」
「護身道具の一種だよ。こう指輪の石を掌の側に回して、石を握った状態でこの先端部分を相手に押し付けると、一時的に相手を昏倒させることができるんだ」
指輪にそっと触れようとしていたアリアは、さっと手を引いた。その様子にノクターンはフっと笑うと
「今は大丈夫だよ。どう、これで少しは安心した?」
「ちょっとだけね」
悔しげに横目でアリアがノクターンをねめつけると、ノクターンはまだ納得できないのかと言って溜息をついた。
「せめて誰か護衛を連れて行って、それがだめなら若い馬丁でもいいわ。どうせどこかで着替えるんでしょう?その大荷物を抱えてい徒歩でなんてありえないでしょうから、馬車がどうしても必要だわ」
これだけは譲れないわよとアリアが真剣な表情で見つめると、ノクターンは観念したように分かったよと答えた。
「それと」
「まだ何かあるの?」
げんなりとするノクターンにアリアは大ありよと言って頷いた。
「ノクターンの女装はひどすぎるわ。それじゃあ、女じゃなくて不格好な案山子よ。いくら薄暗い所だと言っても、もう少しそれらしくしなくちゃ却って怪しまれるわ」
じゃあどうしたらいいんだとノクターンが首をかしげると、アリアはにやりと笑った。
「ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出て行くと足早に自室に戻り、小さな小箱と一冊の本を持って再び現れた。
「それは何?」
「化粧道具よ。ノクターンはもとは悪くないのだから、しっかり対策すればそれ何に見えるはずよ。少なくとも今みたいな中途半端な女装じゃなくてね」
にっこりと笑うアリアに、ノクターンは押しとどめる様に片手を前に出した。
「待て、どうせ暗がりなんだ、そこまでする必要があるとは思えない」
「何を言っているの。顔も合わせないで男がはいどうぞとその薬をくれるとでも思っているの?」
声を掛けたはいいものの、それが変装だと気づけば男は逃げるだろうし、今度はどこで行動するのか予測することも難しくなるだろう。説得力のあるアリアの言葉にノクターンはとうとう観念すると、言われるがままにアリアの方を向いて目をつむったのだった。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。
次話でもお会いできると幸いです。