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廃妃の呪いと死の婚姻4-3

仕事の関係で1週投稿が飛んでしまいました。申し訳ありません。

廃妃の呪いと死の婚姻4-3


デビュタント・ボールの夜、王宮の一室でジェネヴィエーヴはアリアを見つめて感慨深げにホウっとため息をついた。侯爵家の馬車で王宮へと登城したナイトリー侯爵家のご婦人方は、到着するとすぐに休憩室へ向かった。幸いなことにこの事態を見越して度の家門よりも早く到着した一行の姿を目にしたのは、事情を知るごく限られた者たちだけだった。ぐったりと抱きかかえられるようにして、ナイトリー侯爵家のために用意された特別室に運び込まれたのは、勿論ジェネヴィエーヴその人だった。

ゆったりとしたソファに横たわりながら、前後とも左右とも分からぬほど不愉快な眩暈に目を閉じて、ジェネヴィエーヴは今日ほどクラレンスの厚意をありがたく思った日はなかったと思い返していた。彼女の前には、アリアが馬車酔いに青ざめるジェネヴィエーヴの手を握りしめている。

このデビュタント・ボールこそ原作が本格的に始動する日だった。本来であればアリアはジェネヴィエーヴに寄り添って、彼女を看病しているなどということはなく、会場の隅で好奇と嘲りの視線にさらされながら、ただ一人不安気に肩を震わせていたはずだった。そしてジェネヴィエーヴをエスコートしていたクラレンスは彼女に目を止めるのだ。クラレンスはアリアのあまりの可憐さを長いこと忘れられずに過ごすのである。

しかし、実際はどうだろうか。アリアは舞踏会などそっちのけで、ドレスの裾をからげてジェネヴィエーヴの前にかがみこむと、彼女の看護につききりだった。

アリアは光の魔力まで使おうとしたため、青白い顔のジェネヴィエーヴがそれを押しとどめた。

「ありがとう。でも大丈夫よアリア。こんなことに魔力を使わなくてもいいのよ。ただの乗り物酔いだもの、あと一時間も横になっていればよくなるわ」

 言った端から、うっとこみあげてくるものをこらえてジェネヴィエーヴは眉間に皺を寄せた。

「強がっている場合ではありませ。こんなに青ざめて、水すら嘔吐してしまったじゃないですか。今使わずにいつ魔力を使うというんです。侯爵閣下だって、よろしく頼むとわざわざ私なんかに言い置いて部屋を出て行かれたのですよ。もし、私の治療を受けてくださらないのなら、絶対に舞踏会には参加させませんから。ジェネヴィエーヴ様はお加減がすぐれなくて、舞踏会にはとてもじゃないですが耐えられそうにありませんと、侯爵閣下にもそう申し上げます」

 絶対です、と言い切るアリアの目は完全に据わっていた。ひどい嘔気と眩暈が続いていたジェネヴィエーヴは、目を開けていても閉じていても、世界が回っているのか自分が回っているのかわからないといった有様だったから、正直なところアリアの申し出に心がぐらりと揺れた。しかし、原作を思い出して思うところもあり、アリアにあまり負担をかけすぎるのもどうかと躊躇ったが故の発言だったが、却ってそれは逆効果だったようだ。

「う・・・、分かったわ。あなたに任せるわ」

 ジェネヴィエーヴが弱々しく呟くと、アリアは早速その奇跡の力を解放したのだった。その効果は絶大だった。ジェネヴィエーヴは嘘のように症状が軽くなり、苦しさに流れ続けていた涙もようやく止まった。それでも、元々大してありもしない体力をすっかり奪われてしまった彼女は、それから四半刻はソファに体を横たえていなければならなかった。

 その間も5分とおかずにナイトリー侯爵や、クラレンスの使い達がジェネヴィエーヴの様子を知ろうと部屋を訪れていたから、終いにはシャペロンであるルノ伯爵の令夫人からこちらから声を掛けるまで扉をノックしないでくれるなと追い返される始末だった。

「全く殿方たちも困ったものですね。ジェネヴィエーヴお嬢様のことがご心配なのはわかりますが、こうもしつこい・・・あら、いけない、口が滑ってしまいましたわ」

 ホホホと笑声をあげた伯爵夫人は、ソファへ歩み寄るとかがみこんでにっこり笑った。彼女は40絡みの貴婦人で、社交界の中心人物の一人だった。夫のルノ伯爵ともどもナイトリー侯爵の昔馴染みで、ブルネットの巻き毛が印象的な美女だった。

「流石ですね、ラトクリフ嬢。お噂通り素晴らしい魔力をお持ちだわ。ほらご覧になってジェネヴィエーヴお嬢様の頬に赤みがさしてきたわ。これなら一曲目に間に合いそうね」

 ジェネヴィエーヴはアリアに支えられながら起き上がると、令夫人に礼を述べた。

「私のせいですっかり舞踏会に遅れてしまいましたね。申し訳ないことをしてしまいました。胸が痛みますわ」

 令夫人は気に病むのはおやめくださいと言ってからりと笑うと、ジェネヴィエーヴの支度を直させるため、ソファを離れると侍女にあれこれと指示を出し始めた。

「アリアもごめんなさいね。あなたのデビュタント・ボールでもあるのにこんな風に拘束してしまって」

 ジェネヴィエーヴが眉尻を下げて言うと、アリアもまたにっこりと笑みを浮かべて

「とんでもない。王宮の舞踏会は確かに素晴らしいのでしょうけれど、ジェネヴィエーヴ様のいない舞踏会場にいてもこれっぽっちも意味がありません。私にとってジェネヴィエーヴ様が一番大切なんですから」

 と言うと、ジェネヴィエーヴの手をキュッと握りしめた。

「アリア・・・」

 感激してジーンと胸を震わせる二人の令嬢達をしばらく眺めていたルノ令夫人だったが、ぱんぱんと手を打って二人の注意を向けさせると、両手に化粧道具を持って構えた侍女たちを背後に、

「さあ、お嬢様方、時間がありませんよ。乱れた御髪やお化粧を完璧に手直しさせていただきますからね」

 覚悟なさってください、とにっこり笑った。

 それから二人は侍女たちの超絶技巧に目を白黒させながら、されるがままに身を任せたのだった。

「ああ、少し待って」

 最後に香水を吹きかけようとした侍女に、ジェネヴィエーヴが珍しく慌てた風に声を上げた。

「会場では貴婦人たちはそれはそれは素敵な香りを纏っていらっしゃるのでしょうけれど、私はあまり得意ではないの」

 困ったように微笑む彼女にルノ令夫人が、ご安心くださいと言って侍女から香水を取り上げると自身の手首に吹きかけて見せた。

「これはラベンダー水です。普段であれば精油を使うところでしょうが、強い香りが苦手だと伺っておりましたので、こちらに代えさせていただきました。ラベンダーは寝室でもご使用になっていらっしゃいましたわね。こちらを扇に振りかけくださいませ。もしも会場で香りに酔ってしまわれた時も、慣れ親しんだ香りがあれば少しでも気分がよろしくなるかと思いましたの」

 ジェネヴィエーヴは、まあ、と目を見張り、アリアはにっこり笑った。

「それは良いお考えですね。香りもとっても良くて」

 ルネ夫人はラトクリフ嬢もよろしければこちらをお使いになってねと優雅に微笑んだ。

 暫くして扉がノックされると、対応に出た侍女がルネ令夫人に告げた。

「クラレンス殿下と、ミスター・ラトクリフがおみえです」

 令夫人は頷くと、扇をパらりと開いてジェネヴィエーヴとアリアを振り返った。

「さあ、素敵なお嬢様たち。今宵のパートナーたちが首を長くしてお二人をお待ちですわ。さっそく参りましょう」



 舞踏会場は大変な熱気に包まれていた。もう既に他の参加者たちは集まっており、最初のワンフレーズが流れ始めるのを今か今かと待ち構えていた。

 彼らの興奮が最高潮に達したころ、ダンスの先頭を切るクラレンスとジェネヴィエーヴが入場すると、今夜の最も高貴なカップルである彼らに会場全ての視線が一斉に降り注いだ。

「大丈夫、私がついています。リラックスして」

 慣れない大勢の注視に肩をこわばらせたジェネヴィエーヴの耳元で、余裕の微笑みを浮かべたクラレンスがそっと囁いた。ジェネヴィエーヴが彼の顔を振り仰ぎながら小さく頷くと、クラレンスは嬉しそうに相好を崩した。美しい婚約者同士の甘やかな雰囲気に、周囲の参加者たちはうっとりと溜息を漏らした。

 クラレンスとジェネヴィエーヴはお互いの瞳の色と同じ色の宝石を身につけていた。ジェネヴィエーヴのアクセサリーはクラレンスから贈られたものだったが、彼女は迎えに来たクラレンスを見て初めて、そのことに気付いたのだった。

 これではまるで、仲の良い恋人同士のように見えてしまうのではないかしら。彼女の視線が自分の首元に向けられていることに気付いたクラレンスは僅かに頬を染め、恥ずかしそうに視線を泳がせた。珍しい彼の仕草に虚を突かれた思いのジェネヴィエーヴだったが、いつもの物憂げな様子を崩すことなく、クラレンスに手を委ねたのだった。

「まるで女神が舞い降りたのかと思いました」

 ゆったりとした調子の曲が会場に流れ始めると、クラレンスとジェネヴィエーヴを先頭に、今日デビューを迎えた若い男女たちが一斉にステップを踏み出した。

「会場の紳士たちが貴女の美しさに目を奪われています。無理を言ってこうして参加していただきましたが、今になって判断を間違えたのではないかと心配になってきました。・・・今夜のジェネヴィエーヴ嬢はとても魅力的で目が離せません」

 踊りながら熱っぽく語り掛けるクラレンスに、ジェネヴィエーヴは一つも言葉を返すことができなかった。こんなに注目されるの婚約式以来だったが、その時はクレメンティーンの呪いの影響で恥も何も感じていなかったし、その上、このように大きな舞台で踊るのは初めてだったから、ジェネヴィエーヴの頭の中はステップを間違えないかという心配で占められていた。

 クラレンスから見たジェネヴィエーヴは穏やかで、何の衒いもない普段通りの様子だったから、クラレンスは自分一人が焦りを感じているのだと勘違いして苦笑した。

「あちらをごらんなさい。ラトクリフ姉弟が見えますよ。流石音楽に堪能なだけあって、演奏に乗った美しいステップだ」

 彼の言葉に、漸く周囲を見渡す余裕が出てきたジェネヴィエーヴはアリアとノクターンの楽しそうに踊る彼らの姿を目にして、今日無理にでも参加したことを心の底からよかったと思った。

 ジェネヴィエーヴが嬉しそうに表情を崩すと、今夜初めて目にした彼女の微笑みにクラレンスは言葉を失い、二人の間には沈黙が下りた。二人はしばらくだまりこくったまま音楽に合わせて優雅に踊り続けた。

「・・・殿下、どうかなさいまして?」

 とうとうジェネヴィエーヴが怪訝な表情でクラレンスを見つめ返すと、クラレンスはハッと我に返った。

「失礼しました。まるで夢のような時間にぼうっとしてしまいました。ああ、もうすぐ曲が終わってしまいますね」

 演奏が終わり、二人が向き合って礼を取ると、途端にワッと喚声が上がった。クラレンスはジェネヴィエーヴの手の甲にひとつキスを落とすと、彼女の手を自分の腕に巻き付け、踊りの列からそっと離れた。

「お疲れになったでしょう、何かお飲みになりませんか。私は祖父を呼んで参ります。ぜひご紹介させてください。ここには騎士を残して行きますので、しばしお待ちください」

 クラレンスはジェネヴィエーヴをそっと座らせて、アルコールの入っていない果実水のグラスを彼女に渡すと、女騎士に目配せしてその場を後にした。

 実際、ジェネヴィエーヴはもうクタクタだった。礼儀の上のことを考えれば、彼女もクラレンスと共に辺境伯の元へ行くべきだと理解していたのだが、歩くことはおろか、こうして背筋を伸ばして優雅に腰かけているだけで精一杯というありさまだった。こんな調子では、今夜の最大の目的であるケイ・フェラーズを知っている人物を探すことなど絶望的だった。

 がっかりしながらも、ジェネヴィエーヴはアリアとクラレンスが一度もパートナーをかかすことなく踊り続けているのを見やって、少し気を取り直した。仕方ない、今日はミスター・フェラーズの手掛かりを得ることができなくても、こうしてアリアとノクターン二人が生き生きと楽しげに躍っている様子を見ることができただけで良しとしよう。ジェネヴィエーヴは若く健康に恵まれた彼らが、ジェネヴィエーヴのために中々外出したり長い時間運動したりする機会に恵まれないことに引け目を感じていた。彼女は穏やかな笑みを浮かべて彼らを見守っていた。

 暫くしてシャペロンのルネ令夫人が騎士の一人に連れられて姿を現すと、ジェネヴィエーヴはあれこれと話しかけ、世話を焼いてくれる彼女に上品な微笑みを絶やさず礼儀正しい様子で接した。普段滅多に表に出ることがないジェネヴィエーヴがこうして公の場に現れただけでも人々の注目を集めるのに、彼女の抜きんでた美しさに参加者たちの視線が彼女からそらされることは一時たりともなかった。今宵の参加者の中でジェネヴィエーヴに比肩する美貌を持っていたのはアリアただ一人であったが、光の乙女とはいえ準男爵家出身のアリアと、ナイトリー侯爵の一人娘であるジェネヴィエーヴとでは比べ物にならなかった。彼女は何もせずとも、そこにいるだけで人々は彼女に注意を払った。特に若い紳士たちは、怖い侯爵も婚約者のクラレンスも丁度席を外しているこの機会に、彼女と近づきになろうと、しきりに話しかけてきたため、ジェネヴィエーヴは内心どうしたものかと頭を抱えた。しかしルネ令夫人が彼らの対応を一手に引き受けてくれたため、ジェネヴィエーヴは彼女の陰でおっとりと微笑みながら、安堵していた。心の底からルネ令夫人対して感謝の気持ちが湧いてきたし、ルネ令夫人を連れてきてくれた父ナイトリー侯爵の深い愛情と細やかな気遣いをありがたく思った。

「ジェネヴィエーヴ嬢!」

 僅かに焦りを孕んだ声に、彼らを取り巻く人垣がさっと開くと、二人の紳士を連れたクラレンスが戻ってきた。クラレンスは優雅さを失わないぎりぎりの速度でジェネヴィエーヴのもとに歩み寄ると、鋭く周囲に視線を巡らせた。

ジェネヴィエーヴがクラレンスに手を取られて席を立つと、彼はにっこりと笑みを浮かべて、

「随分とお待たせしてしまったようで申し訳ありません。何か困ったことはありませんでしたか?」

と問いかけた。ジェネヴィエーヴがルネ令夫人がご一緒にいてくださいましたので、大丈夫です、お気になさらないでくださいませ、と答えると、クラレンスは周囲の若い紳士たちにちらりと視線を遣って、牽制するようにジェネヴィエーヴの背中に手を添えた。ジェネヴィエーヴを取り巻いていた紳士たちがどうやら好機は去ったようだと、すごすごと去ってゆくと、クラレンスは鋭い視線のままその背を見送った。

「はっはっは。これはこれは、愉快なものを見せてもらいましたな」

 磊落な笑い声にクラレンスの背後へと顔を向けると、初老の紳士が一歩進み出た。

「御祖父様・・・」

 心底愉快そうに笑う老紳士を見つめて、クラレンスがちょっとすねたような表情を浮かべた。しかし何を言っても効果なしと判断したのかクラレンスは小さく息をつくと、

「エルヴェシウス辺境伯、こちらが私の婚約者であるないジェネヴィエーヴ・ナイトリー侯爵令嬢です。ジェネヴィエーヴ嬢、こちらが私の外祖父で北の砦を護るエルヴェシウス辺境伯です」

 クラレンスが紹介すると、エルヴェシウス辺境伯は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「デビュタント誠におめでとう存じます、ナイトリー嬢。素晴らしい踊りでした。それに、クラレンス殿下の新たな一面も見ることができました」

 エルヴェシウス辺境伯はこわもてなその外見とは裏腹に樹策で話し上手な人物だった。ジェネヴィエーヴは彼から向けられる好意にそむくまいと礼を尽くした。クラレンスは祖父と婚約者の談笑する様子を嬉しそうに眺め、しばしば会話に加わった。

「ああそうだ。ジェネヴィエーヴ嬢、もう一人ご紹介したい方がいるのです。私の家庭教師の一人で・・・」

 クラレンスの言葉に背後で控えていたすらりとした線の細い紳士が頭を下げた。紳士が再び顔をあげると、ジェネヴィエーヴは驚きのあまり声をあげそうになった。

「ミスター・フェラーズです。学者で今は爵位こそありませんが、近い将来きっと素晴らしい功績をあげて陛下から爵位を賜ることになるだろうと嘱望されている方です」

 クラレンスの紹介にミスター・フェラーズは僅かに頬を染めた。世事に疎いであろことを感じさせるその様子に、クラレンスはこの通りとても謙虚な方ですと言って微笑んだ。

「お目に掛かれて光栄ですナイトリー嬢。ケイ・フェラーズと申します」

 ジェネヴィエーヴは動揺のあまり声が震えそうになるのを抑えながら、微笑を浮かべた。

「お会いできて光栄ですわ、ジェネヴィエーヴ・ナイトリーと申します。これほどお若くして、殿下の家庭教師をお務めでいらっしゃるなんて、とても優秀なのでしょうね」

 彼女の言葉にクラレンスはクスリと笑った。エルヴェシウス辺境伯が愉快そうに声をあげて笑いながら、

「彼がとても優秀なのはその通りですが、ナイトリー嬢のお言葉を聞いていると、フェラーズ君がまだ20歳にもなっていない若者のように聞こえますね。こう見えて彼は今年で25歳にはなっているはずですよ」

フェラーズ君という親しげな呼称に、ジェネヴィエーヴはおや、と内心首をかしげた。いや、そもそも原作が始まる前のこの時点で、ケイ・フェラーズとクラレンスに関わりはなかったはずである。ケイ・フェラーズは優秀だが、若輩で出自の低さゆえ、表舞台で華々しく活躍することはなかった。彼が日の目を見るのは、もう少し先のことだったはずだ。

「私は童顔で、年相応に見られたことがないのです」

 彼らのやり取りにミスター・フェラーズが恥ずかしげに頬をポリポリと掻いて苦笑した。

「まあ、そうだったのですね。失礼いたしました。ご不快に思われていないとよろしいのですが。ご容赦くださいませ、フェラーズ様」

 ジェネヴィエーヴが謝罪するとミスター・フェラーズは焦った様子で胸の前に挙げた両手を左右に振った。

「めっそうもありません。どうか、私のような身分の低いに頭をおさげにならないでください」

では、お許しくださるのですかと首をかしげて見つめると、ミスター・フェラーズは勿論ですと頷いた。

「まあ、お若くして成功されただけあって、お心も広くいらっしゃるのですね」

 ありがとうございますと言って微笑むと、ミスター・フェラーズは僅かに頬を染めて目を伏せた。

「ミスター・フェラーズはとても良い方ですよ」

 クラレンスはジェネヴィエーヴとミスター・フェラーズの間にさりげなく一歩踏みいれると、そっとジェネヴィエーヴの肩を抱き寄せた。その様子を見て、エルヴェシウス辺境伯の瞳の奥がきらりと光った。

「殿下たってのご希望で招聘したのですが、何分珍しい研究分野である故殿下の家庭教師として相応しい人材をお探しするのには骨が折れました。ふふ、ナイトリー嬢、フェラーズ君のご専門が気になりませんか?」

 エルヴェシウス辺境伯の言葉にジェネヴィエーヴは内心ぎくりと身をすくませた。ミスター・フェラーズの専門分野なら熟知しているとは口が裂けても言えることではなかった。

「クラレンス殿下のご希望で?それは気になりますわね。エルヴェシウス辺境伯様は随分と親しくていらっしゃるご様子でしたので、ミスター・フェラーズとは旧知の間柄でいらっしゃるのかと思っておりました」

 ジェネヴィエーヴの問いにエルヴェシウス辺境伯は頷いた。

「直接的な知り合いというわけではなく、私の末の息子がフェラーズ君と同窓でしてね。先般、殿下からある分野の専門家を紹介して欲しいという手紙を受けとったのですが、郊外で研究している者たちが多くて、難儀していたところ偶々息子が彼を紹介してくれたのです。フェラーズ君の専門は薬草学や薬学と言われる分野でして、私は武骨物ですから、こういった分野の学者の方々と話す機会はありませんでしたが、話してみるとこれがなかなか気持ちのよい青年でしたので、これならばと殿下にご紹介申し上げたのです」

 なるほど、早すぎるクラレンスとミスター・フェラーズとの出会いはエルヴェシウス辺境伯からの繋がりだったのか。

「薬学、ですか。あまり耳にしたことのない分野ですが、どのようなことを研究されているのですか?」

 関心を装って訊ねると、ミスター・フェラーズがゆったりとした口調で話し出した。

「マイナーな分野ではありますが、幾つかの系統に分かれておりまして、その中でも私は動植物や、鉱物など様々な天然資源から医薬品を実用化する研究をしております」

「医薬品というと、傷薬や風邪薬などのような?」

「はい、その通りです。貴族の方々は基本的に治癒術師の治療を受けます。それでも治らなければ教会から聖水を購入したりなど、基本的には治癒術や聖力を用いて傷や病を治療されています。ですが、術師にかかったり聖水を購入することのできない平民などは、民間療法を用いることがほどんどです。その中にはかえって症状を悪化させかねない怪しげなものも含まれていて、長年悩みの種になっております。私たちはそうした民間療法の中でも薬草や鉱物に注目して、口伝で何となく伝わってきたものを系統だてて整理し、レシピを成文化したり、新薬を開発したりといった研究を行っています」

 ミスター・フェラーズの言葉の端々からは研究に対する自負を見て取ることができた。

「それは素晴らしい研究ですね。マイナーな分野だと仰っていましたが、とても残念ですわ。やはり貴族に馴染みのないものゆえ後援を得難いのでしょうか。ですが、領民の健康と安楽を考えれば、せめて一教区に2軒ほどそうした薬学を学ばれた専門医官のような方が常駐されていて、金銭的な負担をそう考えることなく安心して利用することができるとよろしいですね」

 ジェネヴィエーヴの言葉にミスター・フェラーズはぱっと顔を明るくした。

「ああ、その通りなのです。中々ご理解いただけず、研究費の捻出なども難しい状態で・・・。申し訳ございません、このようなお話を申し上げるべきではありませんでした」

 恐縮の態をとるミスター・フェラーズにジェネヴィエーヴは、一考した。研究のための費用に事欠かれているなんて、それは大変なご苦労だと存じますと同情を寄せると、

「私は不勉強でお恥ずかしながらあまりそういった学問を存じ上げなかったのですが、資金的な援助でしたら私にもお力になれることがあるのではないかと思います。もしよろしければ今度、詳しいお話を伺うことができるでしょうか?」

微笑みを浮かべながらそう告げると、ミスター・フェラーズは虚を突かれたような表情を浮かべた。

「ナイトリー侯爵家のご令嬢にそう言っていただけただけでもとても幸いです」

「ふふ、この場限りの言葉ではありませんわ。クラレンス殿下とエルヴェシウス辺境伯様もご同席されているこのような場で、ナイトリー侯爵家の人間が口先ばかりの約束をする等あり得ぬことでございます。私は健康面に不安があって、中々外出ができませんので、ご迷惑でなければ遣いの者を近々お伺いさせてもよろしいでしょうか」

 ジェネヴィエーヴが微笑みながらもきっぱりと告げると、ミスター・フェラーズはありがとうございますと言って深く頭を下げた。

「まあ、顔をあげてくださいませ。貴族が素晴らしい研究を後押しすることは当然の義務ですもの。クラレンス殿下もきっとそう思っていらっしゃいましてよ」

 ねえ、とクラレンスに水を向けると、クラレンスも頷いた。

「勿論です。ジェネヴィエーヴ嬢ならきっとそうおっしゃると思っていました。身分の上下にとらわれず良いものをよいと判断される方だと考えていたので、こうしてご紹介したのですが、正解でしたね」

 思いがけぬ称賛の言葉にジェネヴィエーヴは慌てて首を左右に振った。

「そんな買い被られては困りますわ。殿下こそこのように埋もれている素晴らしい研究にいち早く注目されるなんて、上に立つものとして得難い才能ですわ」

「それこそ買い被りです、私にそんな才能はありませんよ。素晴らしい研究であることは違いありませんが、私の目的に丁度ぴったり合っていたのが、ミスター・フェラーズの研究だったというだけです。ですが、ジェネヴィエーヴ嬢にそう褒めていただけるなんてとても光栄ですね」

 クラレンスは嬉しそうに微笑むと、ジェネヴィエーヴの手を取って軽くキスを落とした。エルヴェシウス辺境伯は愉快そうに目を細めると、

「おや、殿下はミスター・フェラーズを招いた本当の動機をお話しなさらないのですか?」

 と言って、人の悪い笑みを浮かべた。

「エルヴェシウス辺境伯」

 クラレンスが頬を染めてエルヴェシウス辺境伯をとがめる。

「本当の動機、ですか?」

 ジェネヴィエーヴが首をかしげると、エルヴェシウス辺境伯はご令嬢はお知りになりたいようですよ、恥ずかしいのは分りますが正直に打ち明けられてはいかがですかと言ってますます笑みを深めた

「エルヴェシウス辺境伯が妙な言い方をするからではないですか」

「おや、殿下が照れておられるなどこれはまた珍しい。ジェネヴィエーヴ嬢、殿下は体の弱いご婚約者様のために何か力になりたいと仰でした」

「え?」

「ジェネヴィエーヴ嬢はなんといっても王国屈指の家門のご令嬢ですから、有能な医師や術師などを雇うのに困りはしないでしょう。その上、ご令嬢の傍には最上級の治癒術を操る光の乙女までいらっしゃる。殿下はご自分にできることなどほどんどないとわかっていらしても、何もせずにはいられなかったのです。ひょっと民草の間から生まれた研究分野の中に何かまだ見つかっていない有用な手立てがあるのではないかと考えたのですな。それで若き天才であるミスター・フェラーズに白羽の矢が立ったというわけです」

 エルヴェシウス辺境伯の言葉にクラレンスは口元を覆っていた右手をぱっと放すと、ジェネヴィエーヴをじっと見つめた。

「ジェネヴィエーヴ嬢、お気になさらないでください。経緯はどうであれ私も本気でミスター・フェラーズの研究を後押ししようと考えています。勿論、その過程でジェネヴィエーヴ嬢のためになる薬ができればとも思っていますが」

 ジェネヴィエーヴはすっかり面食らってしまった。クラレンスの感情が移ったように、今ではジェネヴィエーヴの頬も薄紅色に染まっており、エルヴェシウス辺境伯は微笑まし気にそれを見つめて一人悦に入っていたのだった。

ご覧いただきありがとうございました。

また次話もお読みいただけると幸いです。

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