廃妃の呪いと死の婚姻1-1
第一話です。
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廃妃の呪いと死の婚姻1-1
カイン・ナイトリー侯爵は先代のナイトリー侯爵夫妻の一人息子で、広大な領地とそこからもたらされる莫大な富を受け継ぐたった一人の息子だった。彼は幼い頃から優しく賢い子どもだったから、侯爵夫妻は彼の珪質を称美し、溺愛した。母親譲りの端正な顔立ちと父親譲りの威厳と才能を備えた彼は、年頃になると社交界でも屈指のお婿さん候補になった。ダンスパーティーに出席すれば多くの令嬢達が彼を取り囲み、少しでも彼に気に入られようとお上品な争いを繰り広げた。
しかし、よりにもよって彼が結婚相手に選んだのは、亡命貴族の娘であるアマンディーヌ・ザン トライユだった。父母は既になく、王国に嫁いだ従姉妹を頼ってつましい生活を送っていた。
カイン・ナイトリー侯爵とトライユ嬢は多くの障害があったにもかかわらず、最終的には周囲の意見を押しきって結婚した。しかし、その幸せの絶頂もアマンディーヌが娘を産み落として直ぐに亡くなってしまったことで、終りを告げた。父の死去によって爵位を受け継いだばかりだったナイトリー侯爵は妻の死から目を背け、仕事に没頭した。そのため彼の小さな娘の乳幼児期は誰にも顧みられることなく過ぎていった。小さなジェネヴィエーヴはその名前をくれた優しい母も、母と娘を誰よりも愛して守ってくれたはずの父親も、生まれて数時間ですっかり失ってしまったのだった。
一年後、アマンディーヌの喪が明けると、ナイトリー侯爵は新しい令夫人を迎えた。アマンディーヌとの強引な結婚で、負い目を感じていたナイトリー侯爵は、母の強い要望をはねつけることはできなかった。今度の令夫人は名門アクランド家のご令嬢で、王妃の位すら望みうる高貴な血筋を持った完璧な貴婦人だった。息子の二度目の結婚に満足したナイトリー前公爵令夫人は、その年の夏に流行り病で帰らぬ人となった。
ナイトリー邸に入った新たな令夫人はグローリアという名前にふさわしい、輝くような美貌と王家の親戚であることを鼻にかけた尊大な女だった。うるさい姑もいまや鬼籍に入り、侯爵邸を完全に掌握したナイトリー令夫人は、社交界においても令嬢時代と変わらず重要人物であり続けた。
全てを手に入れたかに見えたナイトリー令夫人の悩みの種は、結婚以降家に寄り付かない夫ナイトリー侯爵その人だった。亡き令夫人の部屋に無遠慮に足を踏み入れ、壁紙をはがし、家具を総入れ替えにした令夫人の無神経な冷酷さにうんざりしたナイトリー侯爵は、仕事を理由に領地に引き籠り、貴族会議がある月を除いて首都の屋敷に滞在することは稀だった。
一時は得意の絶頂にいたナイトリー令夫人は、今では常に不機嫌だった。実家のアクランド侯爵家から、立場を盤石にするためにも一刻でも早く子どもを産めと矢の催促をされていた上に、仲の悪い伯爵夫人から自分はもう3人目ができたのにナイトリー令夫人は随分とのんびりされているのですねと嫌味を言われたからだった。今夜も夫のいない一人の晩餐のために、苛々と着替えていた令夫人は外から聞こえてきた幼い子どもの泣き声に、ヒステリックに叫んだ。
「誰か早くあの泣き声を止めなさい。うるさくて頭痛がするわ。早くして!」
それまで屋敷の誰からも見えないもの、いないものとして、ひっそりと暮らしていたジェネヴィエーヴの不幸はその日から始まった。それ以前の生活が幸せであったかどうかは別として、とにかく彼女は悪意にさらされながら生活することになったのだった。
「ジェネヴィエーヴ、隣国の言葉で白い波だなんで、随分と奇妙な名前ですこと。ああ、母親があちらの出身だったわね、こちら風の名前なんて恥ずかしくて付けられないとでもいうのかしら。それにしてもまあ、本当に痩せっぽちでみずぼらしい子どもね」
ナイトリー夫人の嫌悪と侮蔑に満ちた毒々しい感情の矛先は幼いジェネヴィエーヴに向けられた。召使たちは皆ナイトリー令夫人の顔色をうかがい、ジェネヴィエーヴを庇うどころか、夫人の歓心を買うために積極的に虐待に関与した。
ジェネヴィエーヴは非常に弱々しく、臆病な子どもだった。いつも、おどおどと周囲の大人たちの顔色を窺いその不安げな様子は、ナイトリー令夫人や召使たちの嗜虐心を多いに誘った。
やがて虐待はますます大胆に、そして大っぴらになっていった。碌な食事も与えられず放置されていた彼女は、あと数年もしたらきっと命を落としていたことだろう。そうなったとしても、彼女を悼むものは誰一人としておらず、そのちっぽけな女の子の存在は直ぐに忘れ去られたに違いない。
そんなジェネヴィエーヴに最初の転機が訪れたのは、彼女が三歳の時だった。その日、親戚の葬儀にナイトリー夫妻とジェネヴィエーヴはそろって出かけた。葬儀は恙なく終了し、後は埋葬を済ませるばかりとなった。埋葬地は少し離れたところにあり、折悪しく途中から雨がたたきつけるように降り出した。急いで埋葬を済ませた一行はぬかるむ道を足早に教会へ戻ったのだが、その時小さなジェネヴィエーヴを気にかける大人は誰もいなかった。大人たちがようやく屋根のある所までたどり着いて一息ついたところで、ようやく誰かがジェネヴィエーヴの姿が見当たらないことに思い当たった。
ナイトリー侯爵は令夫人の不手際を厳しく叱咤した。皆の前で恥をかかされた令夫人は、ジェネヴィエーヴの乳母に激しく当たり散らした。乳母は令夫人の意を受けてジェネヴィエーヴを目にかけることはほどんどなかった。今回も形ばかり付き添いつつ、彼女が小さい足で必死についてくる様子を振り返ろうともしなかった。ナイトリー侯爵は令夫人と召使の醜態に顔をしかめながら、従僕たちに捜索を命じた。
ジェネヴィエーヴが見つかったのは夜が明けてからだった。どこをどう歩いたのか、墓所から遠く離れた森の中で彼女は倒れていた。そこは、近在の者達もめったに近寄ることはないいわくつきの場所だった。
発見された時、彼女は蒼白で荒い息をしていた。親戚の家に運び込まれた彼女は、ナイトリー侯爵が令夫人と召使たちを返してしまったため、親戚の家の召使の手でぐっしょりと水を含み重くなった服を着替えさせられた。召使はジェネヴィエーヴがあまりにも痩せ細って骨ばっていることに驚き、熱にうかされた彼女が贖罪の言葉を繰り返す様に顔色を変えた。自分では手に負えないと判断した召使は家政婦長に相談し、家政婦長は女主人である老婦人に報告したのだった。
老婦人は前ナイトリー侯爵の姉で、幼い頃から親しく付き合いのある女性だった。老婦人は片眉をあげると、家政婦長から受け取ったジェネヴィエーヴの服を持って、甥の部屋を訪ねると、厳しい調子で言った。
「閣下、一体これはどういうことですか。貴方の答えによっては私はナイトリー侯爵家とのおつきあいをきっぱりと諦めなければなりません」
驚いたのはナイトリー侯爵である。
「どうか落ち着いてください伯母上。突然どうしたというのです」
老婦人はキッと眦をあげると、ジェネヴィエーヴの服を差し出した。
「これはあの子が来ていた喪服です。召使が言うにはあの子が着るには随分と大きいものだそうです。あの子が履いていた靴はこれとは反対に小さくて、あの子の足には窮屈なものだったそうです。ナイトリー侯爵ともあろう方が、一人娘の体に合った相応しい服飾を用意できないほど、経済的に困窮しているとは驚いたものです」
喪服を受け取ったナイトリー侯爵は老婦人の言葉に目を見開いた。
「家政婦長が言うには、あの子は随分と痩せていて気の毒なほどだそうです。その上、あの子を見た医者は、あの子はひどい栄養失調に陥っていると言っていました。夜にはうわごとで何度も謝罪を繰り返しているとか。これほど明白な虐待の証拠があるでしょうか。閣下は母親を亡くした哀れなあの娘の人生を台無しにしてしまうおつもりなのですか?」
伯母から向けられた辛辣な指摘にナイトリー侯爵は衝撃を受けた。
「あなたがしっかりとした答えを出すまで、あの娘は私が預からせていただきます」
そう言って老婦人が席を立つと、ナイトリー侯爵は茫然としてしばらく身動きすることができなかった。しばらくして時計が時を告げた音で、ハッと我に返ると、急いで娘の病室へと向かった。
ナイトリー侯爵は娘の顔をまじまじと見つめた。年の割に小さな娘だとは聞いていたが、これほど痩せこけているとは思いもよらなかった。腕は枯れ枝のように細く力なく、髪は艶を失ってぱさぱさとしていた。妻譲りの美しい瞳は今は固く閉じられ、青ざめた顔は、死の蔭を孕んでいた。
水分を失い、所々皮の捲れた唇がかすかに動き、何かを訴えているようだった。ナイトリー侯爵が娘の唇に耳を寄せると、ジェネヴィエーヴが弱々しい声で言った。
「どうか、このいやしいわたしに、おめぐみを」
ジェネヴィエーヴの言葉に、ナイトリー侯爵の頭にカッと血が上った。私の娘にこのような台詞を言わせるとは。たった一人の娘、たった一人の後継者になんということを。怒りに我を忘れて部屋を飛び出そうとしたナイトリー侯爵は、ジェネヴィエーヴの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちるの見てスッと胸が冷えるのを感じた。
ジェネヴィエーヴのこのありさまは己の無関心が招いたことだった。最愛のアマンディーヌの死があまりにも悲しすぎて、その娘を受け入れることができなかった。彼女が生まれるまでは、どんなことがあっても、妻と子どもの幸福を守ってみせると誓っていたというのに。自分はなんと卑怯で冷酷な男なのだろう。夫として、父としての責務を全く果たしてこなかったことに想到し、ナイトリー侯爵は悄然とした。がっくりと首を垂れたナイトリー侯爵は、ジェネヴィエーヴの痩せさらばえた手をそっと両手で包み込み、額を寄せると、小さく呟いた。
「今この瞬間から、この愚かな父はお前の幸福のために生きると誓う。お前を苛むものはすべて排除してみせる。お前が望むものは全て与え、お前がしたいということならばどんなことでも実現してみせよう。だから、どうか早く元気になってその瞳を開けて、その声を聴かせておくれ。愚かな父はお前の声も思い出すことができないのだ」
ナイトリー侯爵は長いこと娘の手に額づいていたが、ようやく顔をあげると、馬車を用意するように命じた。信頼できる側近や騎士たちを集めると、首都の屋敷へと嵐のような速さで帰還した。屋敷の召使たちには自室から出ることを禁じ、ナイトリー令夫人と家令、家政婦長、ジェネヴィエーヴの乳母を来客用の居間に集めると、扉の前を騎士で固め、出入りを禁じた。
「この家の女主人である、私になんという仕打ちをなさるのです!わたくしを誰だと思っていらっしゃるのですか、アクランド侯爵家の娘ですよ!そこら辺のつまらない貴族の娘と同列に扱ってよい人間ではございませんっ」
ナイトリー令夫人の言葉を無視して扉を出て行こうとしていたナイトリー侯爵は、最後の当てこすりに、結婚以来初めて妻の顔を見つめた。夫の鋭いまなざしに怯んだナイトリー令夫人が口をつぐむと、ナイトリー侯爵は何も言わずに部屋を出て行った。扉の向こうからはナイトリー令夫人のヒステリックに怒鳴りちらす声と、それを宥める家政婦長の声がかすかに漏れ聞こえていた。
ジェネヴィエーヴの部屋に足を踏み入れたナイトリー侯爵は、もう何度目かわからない衝撃に肩を震わせた。子ども部屋に未だかつて足を踏み入れたことのなかったナイトリー侯爵は、ジェネヴィエーヴ付きのメイドを一人呼びだした。仲間の侍女から引き離され、屈強な騎士に両脇を挟まれた侍女は、ナイトリー侯爵がジェネヴィエーヴの部屋の中にいるのを目にして、足から力が抜けた。騎士に引きずられるように部屋に入ってきた侍女は、ガタガタと震えながら土下座した。
カーテンの引かれていない窓はいつ磨かれたのかわからぬほど曇り、桟には埃が積もっていた。むき出しの床はささくれ立ち、壁には何かがぶちまけられたような染みができていた。貴族の令嬢のらしい装飾や愛らしい家具、玩具は一つもみあたらず、代わりに綿がこぼれた薄汚れたぬいぐるみがテーブルの上に置かれていた。そのぬいぐるみを手にした侯爵は、亡き妻が妊娠中に幸せそうに作っていたものであることに想到した。今では色も褪せ、人形が身に着けているドレスのボタンは取れてどこかに行ってしまっている。
ギュッと手を握り締めたナイトリー侯爵は据え付けられた衣装棚へと歩み寄ると、扉を開いた。ギイイときしんだ音をあげて開いたそこには、まるで召使の子どもが着るような地味で粗末なワンピースが3着かかっているだけだった。ジェネヴィエーヴには十分な予算が割り当てられているにもかかわらず、衣装棚には絹の靴下一枚入っていなかった。あるのは、どれも彼女には大きすぎるか小さすぎるかの品物で、公爵令嬢が身につけるのにふさわしいものは一つもなかった。
今自分はまだ凍えるような寒い日も少なくなく、厚手の寝具が必要な日も多かったが、ジェネヴィエーヴのベッドの上には、ペタンコの枕とペラペラの布が一枚置かれているだけだった。寝具はどれも端が薄汚れてほつれこぼれており、所々虫が食っていた。次に、侯爵は暖炉の前に片膝をつくと、暖炉の床面をさっと指で拭った。厚く埃が積もった暖炉は長い間、火がたかれたことがないことを示していた。
「これは一体どういうことか説明しろ」
地を這うような侯爵の言葉に、侍女はびくっと肩を震わせ、ガツンと床に額を打ち付けて謝罪した。
「も、申し訳ございません。お許しください」
「お前には耳がないのか。私は説明しろと言ったはずだが」
侍女の両の眼からは滂沱として涙が流れおち、顎はがくがくと震えていた。
「侯爵様、こちらをご覧ください」
ジェネヴィエーヴの部屋と続き部屋になっている乳母の部屋に入っていた従僕の一人が、木箱を抱えてやってきた。そこには、乳母の給料では到底贖うことのできない、高価な宝石や装飾品が詰まっていた。乳母の衣装ダンスには絹の洋服が並び、靴や帽子、手袋が所狭しと並んでいた。
「まるで、主従が逆転したような暮らしぶりだな」
子どもの予算も含め、首都の屋敷の管理は歴代ナイトリー令夫人の管轄だった。ナイトリー侯爵は自分付きの執事を呼ぶと、帳簿を調べ直すようにと言いつけた。
「お前たちは全ての召使から話を詳しく聞いて、報告するように」
それから全ての召使からの聴き取りが開始された。ナイトリー侯爵がそれから3日目の朝にナイトリー令夫人を呼びにやった。自室に戻るように命じられていた令夫人は、騎士に両脇を固められて、げっそりとした様子で夫の執務室へと向かった。
「ここに署名し、荷物をまとめて直ちに屋敷を出て行け」
ナイトリー令夫人は夫の言葉にぎょっとして顔を上げた。令夫人の目の前には、ナイトリー侯爵の署名がされた離婚申請書が置かれていた。
「これは一体どういうことですか、離婚?貴族がそう簡単に離婚することなどできるはずがないでしょう、第一理由がありませんわ。私は侯爵夫人としての務めを立派に果たしております。社交界における私の発言力は決して小さなものではございません。私の実家も黙ってはおりませんよ」
肩で息をするナイトリー令夫人を射殺さんばかりの鋭いまなざしで見たナイトリー侯爵は、冷酷な声音で言った。
「理由ならある。ナイトリー侯爵家の唯一の後継者への精神的、身体的虐待がそれだ。そして、召使の長年の横領を見抜けず、召使による令嬢への不敬な振る舞いを諫めるどころか助長し、奨励して家庭内の秩序を乱したこと。これら全てがお前がナイトリー侯爵夫人としてふさわしくないことを証明している」
これが証拠だと言って示した分厚い報告書には、ジェネヴィエーヴの診断書と、屋敷の横領の記録、召使たちからの証言がぎっしりと記されていた。
「本来であれば相応の償いを要求してしかるべき事態だが、今すぐ出て行けば補償を要求することはせずにおこう。一方的に離縁された不名誉を背負って生きることになるのだ、虚栄心の塊のような女には何よりの罰だろう。それとも、この内容を公表して欲しいか?」
夫の言葉に絶望の表情を浮かべたナイトリー令夫人は震える手で、ペンをとると、がっくりとうなだれた。
「早く、アクランド嬢を馬車へお連れしろ」
ナイトリー侯爵が騎士に手を振って合図をすると、今やただのアクランド嬢に戻ったグローリアは、悲愴な声を上げた。
「部屋へ戻る時間すらいただけないのですか。せめて実家に手紙を書いて、荷造りをする時間だけでもお与えくださいませ」
ナイトリー侯爵は、ふんと冷たく笑うと、30分時間をやろう。馬車は用意するので安心して出て行くようにと言って席を立った。
そうして、数十分後にはアクランド令嬢とその乳母であり昨日までナイトリー侯爵家の家政婦長であった女を載せた馬車が、門を出て行った。
ナイトリー侯爵は直ちに離婚申請書を提出し、金の力を使ったそれが早々に受理されたのを見届けると、首都の屋敷に取って返した。そうして、屋敷の使用人を総入れ替えすると告げたのだった。ナイトリー侯爵は鬼ではなかったから、召使たちの推薦状を燃やしてしまうなどというようなことはしなかった。彼らは良くも悪くも主人の色に染まりやすいもの。今回の事態を招いたのはひとえにナイトリー夫妻が原因だった。
使用人たちが悄然として屋敷を出て行くと、別邸や領地から信頼できるもの達を呼び寄せ、それから大々的に新しい使用人の募集を呼び掛けた。
ナイトリー夫妻の突然の離婚の報道と、人員刷新の知らせは社交界でも大きな話題となった。ナイトリー侯爵は慎重に新しい使用人を選出した。ジェネヴィエーヴの部屋を移して家具を入れ替え、衣装ダンスを美しいドレスで一杯にして、可愛いおもちゃや絵本で埋め尽くした。
ナイトリー侯爵は私的にも公的にも精力的に働いた。もともときな臭い噂の絶えなかったアクランド家の汚職を告発し、違法な人身売買や麻薬の取引の証拠を奏上したのである。それまでナイトリー夫妻の離婚劇を報道していた新聞各紙はこぞって、この名門貴族の不名誉な事件を取り上げ、煽り立てた。民衆は怒りに震え、どの貴族もアクランド公爵家を庇いだてできなくなると、国王はアクランド公爵の捕縛、爵位と領地の没収を宣言した。一朝にして没落したアクランド公爵家に連なる人々は可能な限りの財産を馬車に詰め込むと、三々五々逃散した。中には海外の遠い親戚を頼って亡命する者も少なくなく、その中には元ナイトリー令夫人のグローリアも含まれていた。グローリアは、彼女がさんざん蔑み、見下してきた亡命貴族のひとりとして、辞を低くしてほとんど血のつながりなどないに等しい親戚のお情けを頼りに暮らさざるを得なくなったのであった。
ジェネヴィエーヴがナイトリー侯爵邸に戻ったのは、それから数ヶ月が経った後のことだった。老婦人の屋敷で、手厚い看護を受けた彼女はようやく回復し、自力で外を歩けるまで体力も戻った。
ナイトリー侯爵は老婦人の前でジェネヴィエーヴに改めて謝罪した。ジェネヴィエーヴは父親の豹変にすっかり驚き、怯えてすらいたが、ナイトリー侯爵は粘り強く彼女の元に通い続けた。徐々にジェネヴィエーヴがナイトリー侯爵に心を開いていく様子に、老婦人もようやく納得し、帰宅を許可した。
ナイトリー侯爵に抱かれながら帰還したジェネヴィエーヴは、もう自分を虐めていた継母も乳母も誰一人残っていないこと知って驚き、顔を明るくした。
新しい子ども部屋に目を丸くした彼女は、新しい侍女に丁寧に髪をくしけずられて、シルクの寝間着に着替えさせられると、ふかふかの寝具に包まれて眠りについたのだった。
虐待の傷跡がそう簡単に癒えることがなかったためか、ジェネヴィエーヴは神経質で非常に警戒心の強い子どもに育った。ナイトリー侯爵や事情を知る大人たちは、彼女の悲惨な境遇を想って彼女を哀れみ、彼女が時に奇矯な言動をとっても仕方がないと目をつむった。特にナイトリー侯爵は彼女のいかなる言動も許容し、周囲にもをれを要求した。父親であるナイトリー侯爵がそんな風だから、彼女がちょっとしたことで癇癪を起こし、理不尽な要求をしても彼女を嗜める者は誰一人としていなかった。
以前の彼女を知る者がいたら、彼女の変わりようをいぶかしみ、首をかしげたことだろう。しかし、以前の彼女を知る者は今や誰一人としていなかった。だから彼女が時折、うつろな目をして一方向を眺めていたり、何かを呟いていたとしても誰も彼女の異変に気付くことはできなかった。
こうしてジェネヴィエーヴが物心つく頃には、彼女は不健康で手のつけようのない癇癪もちの高慢な侯爵令嬢へと成長していたのであった。
ジェネヴィエーヴはよく熱を出してナイトリー侯爵を悲しませ、度々癇癪を起しては周囲の人々を困らせたが、一方で何かを欲しがることはほとんどなかった。彼女に先んじて周りの大人たちが様々なものを与えていたことも影響していただろうが、それを差し引きしても、彼女は非常に無欲な少女だった。
そんな彼女が初めて何かを切実に要求したのは彼女が10歳の時だった。7日間も熱に苦しんだジェネヴィエーヴはベッドに起き上れるようになると、すぐにナイトリー侯爵告げた。
「お父様、今度の王宮で開かれるお茶会に出席してもよろしいでしょうか。叔母様が一緒に行きましょうと仰ってくれたの」
上目づかいで小首をかしげる愛娘のしぐさに、ナイトリー侯爵は珍しく口ごもった。普段であれば、危ないから到底許可できないと言っただろうが、ジェネヴィエーヴの珍しいおねだりに、とうとうナイトリー侯爵は折れることにした。
「そのかわり、お茶会までに熱が出たり体調を少しでも崩したりしたら行ってはいけないよ」
父の言葉にジェネヴィエーヴはかわいらしく頷いた。
「お父様ありがとう。きっと熱は出ないわ。私王宮に行くのは初めてよ。楽しみだわ」
にっこりの微笑んだ彼女の宣言通り、お茶会の日まで彼女が体調を崩すことはなかった。
お茶会当日、貴族会議のために王宮に向かうナイトリー侯爵はジェネヴィエーヴの小さな肩に手を置くと心配そうに
「王宮に言ったら叔母様の傍を離れてはいけないよ」
そう言い残して先に王宮に向かった父を、ジェネヴィエーヴはうっすらと笑みを浮かべながら見送った。
王妃主催のお茶会には、貴婦人とその子女たちが出席していた。そこで初めて王妃に紹介されたジェネヴィエーヴは、幼い王子たちとも顔を合わせた。
国王には王妃の他に5人の側妃がおり、一人ずつ子供を授かっていたが、国王の愛情は一身に王妃にそそがれていた。王妃は寵愛の深さにも拘らず、長く子どもを授かることができなかった。そのため国王は苦渋の決断を下さざるを得なくなり、とうとう重臣の進言を受け入れて、5人の側室を迎えた。国王は王妃に対する罪悪感を抱きながらも国王としての務めを果たした。国王は側室が身ごもると、ピタリと寝室に通うのを辞めた。そうして5人の側室が産んだすべての王子と王女たちは、国王の意向で王妃の宮で育てられることになった。そのため、子どもたちが産みの母に会う機会は月のうちに数回に限られており、側妃と国王が顔を合わせる機会はほとんどなかった。
王妃は王子王女たちと実母との交流の場を設けるため、度々お茶会を開催しては、鷹揚な嫡母として振舞い続けた。
今回のお茶会には2つになる一番末の王女を除いて、4人の王子が参加していた。ジェネヴィエーヴと最も年が近いのは第3王子のクラレンスだった。クラレンスの手を優しく握った王妃はジェネヴィエーヴを手招きすると、仲良くしてくださいねと言って微笑んだ。
お茶会終了ご上機嫌で帰宅したジェネヴィエーヴは初めてのお茶会出席の疲れが出たのか、ナイトリー侯爵が危惧したとおり、その晩遅く発熱し起き上がれなくなった。通常であれば、体調を崩したジェネヴィエーヴはことさら気難しく不機嫌になり、周囲の気をもませたものだったが、この日の彼女の様子は普段と随分と違っていた。
ジェネヴィエーヴは熱に浮かされ、トロンと潤んだ瞳でナイトリー侯爵を見つめると嬉しそうに微笑んだ。
「お父様、私、今日初めて王子様にお会いしたの。私、大きくなったらクラレンス様と結婚したいわ」
ジェネヴィエーヴの言葉にナイトリー侯爵は目を見開いた。
「お父様、私本気よ」
ふふふと幸せそうに微笑んでいた瞳を閉じた娘の寝顔を見つめながら、ナイトリー侯爵はじっと考え込んでいた。先程の台詞は熱に浮かされたジェネヴィエーヴの冗談だろうか、もしも本気で言っているのであればどうしたものか。
ナイトリー侯爵の危惧は現実のものになった。熱が下がったジェネヴィエーヴはナイトリー侯爵に再び同じ願いを口にした。ナイトリー侯爵が宥めると彼女は瞳に涙を浮かべ、
「お父様は私の願いはなんでもかなえてくださると仰っていたじゃない。それは嘘だったの?私は絶対にクラレンス殿下と結婚したいの。もしも結婚できなければ哀しみで生きてはいけないわ」
そういってしくしくと泣き出した。思い通りにいかなかった彼女の怒りはすさまじく、年若い侍女だけではなく乳母までもが彼女の癇癪と悲鳴じみた泣き声に白旗を挙げた。
一向に回復しない娘の様子に、ナイトリー侯爵はとうとう王室へ婚姻の申し入れをすることに決めた。クラレンス王子にはすでに幾人もの婚約者候補が存在しており、ナイトリー侯爵家はそこに横やりを入れた形になった。病弱で表にめったに出てこないジェネヴィエーヴが他の健康で多才な令嬢達と比べて見劣りすることは否めなかったが、結局ナイトリー侯爵家の権力と財力がものをいった。
ジェネヴィエーヴは強引に婚約者の座を勝ち取った。当事者の一人である第3王子クラレンスは自らの婚約に何ら物申すことなく、頷いて見せただけだった。クラレンスは病に伏しているという婚約者に早速見舞いの手紙を書いて送った。病床で婚約者からの手紙を受け取ったジェネヴィエーヴはようやく機嫌を直して、周囲を安堵させた。
「お父様ありがとう。お父様ならきっと、私の願いをかなえてくれると信じておりました」
久しぶりに笑顔を見せたジェネヴィエーヴに、ナイトリー侯爵以下全ての人間が胸を撫で下ろした。
ジェネヴィエーヴはナイトリー侯爵家の絶対的な権力者だった。その小さな暴君には誰も逆らうことはできなかった。そして、第3王子の婚約者に収まった彼女は、病の床を払うといそいそと王宮に通うようになり、周囲の目を驚かせた。彼女はクラレンスの傍にべったりと張り付いて離れず、王子の傍に他の令嬢が近づこうものならば激しい悋気をみせた。その異常なまでの執着に貴族たちは眉を顰めた。当のクラレンスだけは、にこにことほほ笑みを絶やさず、その真意をうかがうことはできなかった。
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