リルグラ
怪しげで怪奇な香り、それは地下の暗がりで放たれていた。フラスコで揺らぐ、うっすらと燐光する液体。モクモクと紫煙を立ち上らせる竃。棚には見慣れぬ薬草や生物の一部が並べている。
そして、部屋の一角には、一メートルにも満たない金髪碧眼の双子――兄のリルと妹のグラが、ビーカーの中でゴボゴボ泡立つ乳白色の液体をかがげていた。
「完成したの」
「したの〜」
兄の後にグラが声を真似する。それから、双子はきらびやかな笑みをして、クスクス笑う。 兄のリルがビーカーの液体にリトマス紙をつけると、見る見る内に紙は黄色に変化していった。
「ああ〜黄色はアニマが宿っていない証拠、失敗なの」
「失敗なの〜」
兄のリルの最後の部分を繰り返して、妹のグラは頭を抱えてうずくまる。
「これ作るの大変だったのに、もったいないの」
「もったいないの〜」
双子は小首をかしげて悩んでいたのだが、急にリルの顔つきが光り輝いた。リルはグラの耳元に囁きかける。グラは吐息のこそばゆさに顔をほころばせながらも、真剣に聞き入っていた。
「ウシシ、琴音、きっとびっくりするの」
「びっくりするの〜」
双子は失敗作の液体をヤクル○容器に移した。そして、二人はほの暗い地下で、低い声で忍び笑う。
玄関のドアが音を立てて開かれる。陽光の輝きを受けながら入ってきたのは、大量の食料品と生活用品を詰め込んだ紙袋とエコ袋を持っていた褐色の良い少女だった。
「ただいま〜」
今年で高校一年生になる琴音が買い物から帰ってきたのだ。玄関に重々しい音を立てて荷物を下ろし、琴音は小麦色の肌にうっすらと汗を浮かべていた。
そこへ、玄関から真正面に位置する地下室の扉が開かれた。こそこそと抜き足、差し足で歩く双子の兄妹。
「コラ、二人とも。どうしたの。また地下で何かしてたんじゃないでしょうね。私が地下に行くのは許さないっていったでしょ」
琴音はスリッパを履きながら、双子に歩み寄る。そして金髪碧眼のリルとグラの弾力性のあるふくよかな頬をつねってみる。
「でも、お父さんがいいって言ったの」
「言ったの〜」
リルとグラの両目は怯えが混じっていた。双子の瞳に琴音はにっこりと微笑んだ。
「駄目ったらだ〜め。おじさんが良いって言っても、ここは、わたしの家なんだからね。二人を預かる身としては、危ないことは絶対にさせません」
そう言って手を放すと双子は片頬を擦りながら、琴音と距離を置いた。
「偉人たちは若いころから実験をしたものなの」
「したものなの〜」
双子は家の中を琴音が見えぬ奥深くに走り去ってしまった。何が楽しいのか、キャッキャッ♪ 言っている。
「ふう、まったく。いくら天才児童だからといって、この年で危険な実験するとはね」
琴音は腕で汗を拭いながらため息をつく。それにしても、おじさんったら、いつだって無茶苦茶なことを言うんだから。
二週間前。
ソファで寝転びながら玉の汗をかいた琴音は足を意味もなくぶらつかせる。
「はあ〜暑い。夏休み、特にすることないな〜。なんかバイトでもしようかな、建物内だったらクーラーついてて涼しいだろうし」
玄関のチャイムが鳴った。
「は〜い」
琴音はホットパンツにTシャツ姿のまま玄関を開ける。
「やあ、琴音ちゃん。久しぶり、大きくなったね〜」
黒の長髪を揺らし、無精髭を指先でなぞる男がそこにいた。目鼻立ちはいいのだが、格好が真夏の真っ只中の今に黒のトレンチコートを羽織って、革の手袋をするという奇抜性抜群の外見だ。
「陽明おじさん? どうしたの急に」
何故だか琴音は嫌な予感がした。その時、陽明おじさんと会うといつも面倒なことになることを思い出した。
だが、玄関のドアを閉める前に、おじさんは入ってきてしまった。しかも、両手に二人の子供の手を握りながら。
太陽の光を反射する金色の髪が特徴的な男の子と女の子だった。顔立ちが良く似ているため双子なのだろう。雰囲気からして欧風の血筋だろうが、東洋風の血も混じっているようで、あどけない童顔さも加わっている。すぐにでも子供向けの雑誌モデルの表紙を飾れそうな逸材だ。
「いやいや、実はね。なんか新型インフルエンザのワクチン造るのに協力しろって言われててさ。それで、無理やりイギリスから日本に連行されてきたんだよね」
さも面倒くさそうな顔で苦笑を浮かべるおじさん。
だが、琴音にとって説明しなければいけない順序は、それではなかった。
「おじさん、この子達、誰?」
「あれっ、言ってなかったっけ。僕、イギリスで結婚して、子供が二人いるんだよ」
今はじめて知る事実。衝撃。まさか、自由奔放がもっとうなこのおっさんを受け入れてくれる人間がいるとは琴音は驚いていた。そういえば、会ったのは五年前のはずだが、そのとき子供の話題は出てこなかった。なかなかに秘密主義のおっさんだ。果たして奥さんでさえも、おじさんのことをどれだけ知っているのだろうか。
「名前はリルとグラね。九歳だよ。可愛い盛りだよ〜。いとこになんだよ。あ、琴音ちゃん。 悪いけど、喉渇いたから、飲み物持ってきてくれる」
ハンカチで双子の汗を拭っているおじさんを見てしまえば断る理由などなく、というより言われるよりも前に、琴音はすでにそうしようと思っていた。
台所に入り、グラスを三つ用意して、冷蔵庫を開け、オレンジジュースを並々と注ぎ、冷蔵庫に戻して扉をパタンと閉めると、双子が突っ立っていた。
「わっ!!」
琴音は飛び上がった。すると、双子がささっと物陰に隠れてしまった。
「は、入ってきたら、声ぐらいかけてくれないと」
リルが伏し目がちにわずかに頷いた。それからおっかなびっくりに持っていた手紙を差し出した。
「これ、わたしに、え〜と、なになに……」
二人をしばらく預かってでちゅ――あなたの大好きな陽明おじちゃんより。
「あんのクソじじいいいいいーーーー!!」
ソファに座っていた琴音は眉間を手で押さえていた。手紙にはいつまでかは書かれていなかった。この日々はどれくらい続くのだろうか。
リルとグラが琴音の上にのしかかってきた。
「琴音、お腹空いたの」
「お腹空いたの〜」
天使のような微笑で額を、琴音の手に押し付けてくる。
でも、でも、でも、なんか悪くもないかも。
あれだけ警戒していた小動物が自分に懐いてくれるのは、なんだか嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。リルとグラが来るまでは、持ち前の料理の腕前が良くても、自分が食べると考えると、面倒でため息をついて三食ともにカップラーメンで済ませていたというのに、ついつい二人のことを考えると、ルンルン気分で一時間近く台所に立っている自分がいる。二人が『おいしいの』、『おいしいの〜』そう言うだけで、夏場のコンロ熱地獄も一気に美化されてしまい、心の中はハチの巣状態に弾丸をぶち込まれている。ショタコンじゃない、ショタコンじゃないけど、二人の笑顔を見ると、なんだか鼻血吹きそう。だが、いけない感情は封印せねば。開けゴマ。あわわ、開けてしまった。閉じろ閉じろ。接着剤で何とか。
琴音は苦々しい表情で二人を押しのける。
「はいはい、ちょっと待っててね」
台所で冷蔵庫を開けて、豚肉や野菜を取り出す。ありきたりだが、工夫をすれば、そこそこのバリエーションは作れだろう。
調理より一番疲れる、何を作るかの計画、レシピ。
――そうだ、夏だし。
「わわあああああああああ」
考えたレシピが一気に吹っ飛んだ。隣の部屋から絶叫だった。
「あいった、つう、なっっなに!?」
途中で小指をぶつけてケンケンになりながら、琴音はリビングを見た。涙目だからなのか、リルとグラに特に変化はなかった。先ほどの叫び声が嘘のようだった。
間違い探しの領域だが、もし違うとしたら、テーブルの上に転がる二つのヤクル○の容器ぐらいか。
「実験で作ったお薬飲んでしまったの」
「飲んでしまったの〜」
琴音の顔が青ざめた。二人が実験で使う材料が大学生の科学レベルを超えることを知っている。
「それって、何の?」
リルが自分の股間を音を立てて叩いた。しかし平然としていた。だが、グラも同じように股間を叩くと、もだえ苦しんだ。
「性転換のお薬なの」
「おっおっお薬なの〜」
ちょっと軽めに落ち込んでみよう。自分のような能無しがどうして人様の子を預かってしまったのだろうか。おじさんを探して二人を渡して、家政婦に世話してもらったほうが、正解だったのだ。あああ、もう本当に馬鹿。本当に図に乗ってすみません。
……おじさんに何て言ったらいいんだろ。
頭を掻きむしる琴音。
「ウシシシシなの」
「シシシなの〜」
それとはどこ吹く風に、リルとグラは笑って自分たちの体を触りまくっていた。何が楽しいのか、さも楽しげに笑っていた。
頭痛がしだした愚鈍な思考能力で琴音は考えた。ひょっとしたらバレないのではないか。確か双子の親でも、自分の子供が誰か判別できないこともあるらしい。二人とも幸いなことに、髪形も体型もかなり似ている。
その時、琴音に二人が抱きついてきた。
「琴音、心配しないの。自分で治すお薬作るの〜」
「心配しないの〜、作るの〜」
誰かにぶん殴られた衝撃だった。
なに考えてるんだろ。わたし。なに考えてたんだろ。わたし。一番辛いのはこの子たちなのに、自分のことばかり心配して。
「ごめんね」
頼りない二人の体をぎゅっと抱きしめる。涙混じりでもう一度謝って、琴音は鼻水もすすった。
「そ、そろそろ、お薬作りにいくの」
「いっ行くの〜」
「そうだね。急いでやらないとね」
本当はもっと抱きしめていたかったが、琴音は双子を解放してやった。
双子はいそいそと地下室の扉に入っていってしまった。琴音はリルとグラが実験室としてからは地下室には今だ入ったことはなかった。元々は父親がビデオ鑑賞用の室内だったのだが、両親が海外赴任をして琴音が一人暮らしをすることになってからは、がらんどうだった。
そこへ、リルとグラが自分たち仕様の実験器具を招きいれ、現在に至るということだ。
トコトコ歩く双子の兄妹。それを切ない瞳で琴音は眺める。
わたしには異次元みたいな話でよく理解できないが、リルとグラは世界的には科学者の地位を築いているようで、開発した薬や実験成果は企業などが買い取っているらしい。
もちろん、わたしは普通の幼児としか見ていないから、通常なら襟首つかんでも入らせないが、今回は特別だ。おそらく平気だろう。なにせ、日本語を三日でマスターした天才児童なら……うん、それって人間か?
「忘れ物したの」
リルが地下室の扉を開けて地上に出てくる。居間にいた琴音の横を通り過ぎる。
「リル、頑張ってね」
しかし、リルは琴音のことなどあまりに眼中にないように、一目たりとも見なかった。なにやら奥で騒がしくひっちゃかめっちゃかしている、実験に夢中になっているときの彼らは本当に科学者らしい態度をとる。
「あったの」
リルが荒い足音をさせて再び、地下室へ戻ろうと琴音の視界を横切ってるとき、琴音は目玉が飛び出そうになった。
リルが持っていたのは小瓶だったのだが、レントゲン室のドアの前で見るような特殊な三つ葉マークのようなものがついていたのだ。
「ちょ、ちょっと待て、なに、なに使うの、そんなの!!」
慌てて姿を追ったが、扉が閉まってリルの姿が消えた。琴音が地下室のドアノブを手に触れさせた瞬間、鍵がガチャリと閉まった。
「だっ大丈夫なのかな、本当に?」
琴音はリルとグラを隔てるドアに呟く。
「グラ、やっやばいの」
「リル、やばいの〜」
双子は手をせわしなく動かして、あらゆる薬品、植物を、鍋にぶち込んでいた。
「琴音に、うっ、嘘だよとは、もう言えないの〜」
「もう言えないの〜」
双子の顔が青ざめたままで、地下室に置いた薬品棚や古い書本棚を行ったり来たりする。
そう、実はまだ性転換薬は存在しない。
もちろん作ろうとはしていた。しかし、失敗が五十五回にも達して、ついストレス解消に、琴音を騙そうとして思いついたサプライズだったのだ。
性転換の種明かしは単純だ。洋服を入れ替えて、いつもの口調を逆にしただけなのだ。髪型は似ているので問題はなかった。多少、性別による顔の違いはあるが、性転換によって顔つきも変わったのだと理解してくれた。全部、うまくいった。そう、それが誤算だった。あまりにも、うまくいきすぎたのだ。
まさかあそこで琴音が泣いてしまうとは、リルとグラにとっては予想外だった。今や二人の天才頭脳を動かすのは知的探究心ではなく、罪悪感という悪魔が引き起こしたパニックから、 リルとグラは手足を動かしていた。
「嘘から出た誠なの。完成させてしまえば問題ないの」
「問題ないの〜」
とりあえず、薬を四つ完成させる。一回、琴音の見えないところで別々に飲んで、そのあと、琴音の目の前でもう一度薬を飲む。
混沌とした頭の中で、リルとグラが導き出した結論はそれだけだった。
そして、三つ葉マークのような瓶の薬品を竈に放りこんだ。
「二人とも遅いな〜。なに、やってるんだろ」
琴音はソファの上でしなだれていた。あれから六時間。日も暮れ始めていた。テレビも雑誌も見てみたが、あらゆるものが不安を抱えた脳みそには拒絶されてしまう。ボスっと音を立てて、クッションに顔をうずくめる。
そりゃあ、わたしが悪いんだから、待つのは仕方ないけどさ。でも、すごく……ふう。あれっ、これなんだ。
琴音はソファの下に落ちていた。古い皮革製の薄い本を手にする。
ずいぶんと下手くそな字だったが表紙にはこう書かれていた。
リルとグラの偉業記録。編集 兼 監修 陽明。
「なんだろ、これ」
奇妙に思って琴音はページを開く。どうやら、日記帳のアルバムのようだ。
写真ナンバー01。
ギッチョン・ロボ第一号。
そこには紙パックで作ったロボがいた。手足はストローが四本突き刺されているだけで、不器用なロボットだ。ロボの左右には、リルとグラが笑顔でピースしている。写真下のコメント欄には、リルとグラ五歳、初めての工作品と書かれている。
その笑顔も、手にしたロボも、すごく二人に似合っていて、可愛いい。
「二人も最初はこんなんだったんだね」
琴音は幼いリルとグラに微笑を浮かべる。なんだがしみじみとする。どんな、天才でも最初のころは転んでばかりなのだ。
二人ともワクワクさんとか見てたら、興奮したんだろうな。さて、次のページはどうなってるのかな。どんなファンシーなものが姿を現すのだろうか。日付はこれより三日後らしい。
ギッチョン・ロボ第二号。
鋼鉄製の巨人ロボット――その足元に米粒のようなリルとグラがピースをしている。
ただちに琴音は一ページ目と二ページ目を往復した。
……いったい、ギッチョンロボ一号と二号の間で何が。
これではワクワクさんがびっくりだ。悪の秘密結社が総力を挙げて完成させるロボットを五歳児が作るなど。
琴音はこれ以上を見る気が起きなくなった。音もなく静かにアルバムを閉じる。
ドバーン!!
地下室の扉が吹き飛んだ。琴音は反射的に走った。
「なに、どうしたのリル、グラ、大丈夫!?」
煙が黙々と立ち昇るなか、暗い幼き影が二つ。
「ごほ、ちょっと激しくやりすぎたの〜」
「やりすぎたの〜」
せきこみながら真っ黒い煤で厚化粧をしたリルとグラが出てきた。
「よかった〜。二人とも怪我してない?」
琴音は自分のシャツの裾で二人の顔を拭ってやる。
「ちょっと色々ぶち込みすぎたけど、大丈夫なの」
「大丈夫なの〜」
琴音はここにきて初めて、異変に気がついた。
「なんで、二人とも口調が変わってるの。もしかして成功した……元に戻った?」
容姿での見分けは難しいが、いつもリルの言葉を妹のグラが追う習性がある。しかし、さっきまでは、女の子になったリルが『なの』口調で、男の子になったグラが『なの〜』口調だったのだ。それが、今ではすっかり元通りだ。
リルとグラは途端に慌てふためいた。爆発の後だったので、自分たちの演技設定を忘れていたのだ。ちらりとリルとグラは互いに目配せをする。
「爆発の衝撃でちょっと混乱しただけなの」
「混乱しただけなの〜」
瞬時なる言い訳のコンビネーション。双子ならではの意識のシンクロ率が可能とする技だ。 だが、それゆえに、ある一つの事実に気づくのも同時だった。
うんと言っとけば、全て丸く収まったーーー。
がっくりと肩を落とした双子の背中をぽんぽんと叩く。
「ほら、しょげないの。リルは台所の水道、グラは洗面所の水道を使って、顔の汚れを落としてきなさい。体は、私が一緒にお風呂に入って洗うから、もう少し待っててね」
双子はそれぞれに道を別ちながら歩く。琴音に言われた場所を目指して。しかし、またもや琴音は異変に気がついた。下向き加減で歩いてる彼らは気づいてないかもしれないが、琴音の言った場所とは違う進路方向を取ってしまっていた。
だが、二人とも何ら平然と間違いの意識などなく歩いている。
おかしい、明らかに。いくらしょげ返っているからといって自分の名前を理解できないものなのだろうか。琴音の第六感に疑惑の怪火が燃え広がった。
試してみる価値はあるかもしれない。
琴音は扉や飛び散った得たいの知れない物体を片付け終わったころ、リルとグラが戻ってきた。
「ねえ、私とお風呂に入る前に、ちょっとおやつを食べようか。二人とも疲れて、お腹空いてるでしょ?」
リルとグラは互いに目を合わせる。甘いものは大好きだ。瞳が宝玉のように輝いた。
「食べるの」
「食べるの〜」
「そう、じゃあ、今日は特別に二人が好きな物をだすわね」
琴音が不気味な笑みをして、冷蔵庫からプリンとコーヒーゼリーを持ってきた。双子の顔が喜悦に浸っていたが、すぐさまに危険な予感を感じ取り、顔が強張る。
リルとグラは物の好き嫌いはほとんど一緒だ。そう、ほとんどは。だが琴音が取り出しのは、そのほとんどに入らない数少ない食べ物だった。しかも、リルはプリンが好きだがコーヒーゼリーは苦手で、グラはコーヒーゼリーが好きだがプリンは苦手と、この状況ではうってつけのデザートだ。
琴音は女の子にプリン、男の子にコーヒーゼリー、それぞれ小皿に分けてやる。
「さあ、どうぞ」
リルはグラはお互いに目の前の皿ではなく、斜めに置かれた相手の皿を物欲しげな目でじっと見つめている。口は半開きでよだれが垂れている。
あと、もう一息。
琴音は勝利を確信した。そこで、男の子が声を上げた。
「あっヨネスケが来たの」
「来たの〜」
琴音は慌てて振り返ろうとした。
「えっ嘘、ご飯の準備はまだできてません、って騙されるわけないでしょ」
リルとグラは一瞬でお互いの皿を交換して、一口で全てたいらげてしまった。ただし、その現場を琴音はしっかりと目に収めていた。
「リル、グラ、わたしを騙したわね……」
口をもごもごしながら、リルとグラはうな垂れる。
「ごめんなさいなの」
「ごめんなの〜」
「冗談じゃないわ。いったい人がどれだけ心配したと思ってるのよ!! 性質が悪いにもほどがあるわ!! なんでこんなことしたの」
眉間にシワを寄せて琴音が怒鳴った。
二人の目から涙がほろりとこぼれた。
「本当はもっとはやうに、ばらしゅ……だったの」
「だっひゃ……の〜」
次々と堰をきったかのように落涙する透明な雫。大人顔負けの知識や技術を持った二人も、 琴音の前では幼い子供だった。
琴音は唇の端をキュッと吊り上げていた……力強く吊り上げていた……が、次第に頬が緩んだ。
「もう、おいで。リル、グラ」
わずかな戸惑いもなかった。二人は琴音に突進した。いくら自分より小さいからといっても、二人もそれも勢いがついてでは、踏ん張ってもどうにもならず、琴音は地面に尻餅をついてしまった。
「あいた……はいはい、もう怒ってないから、大丈夫だから、ね。はいはい」
琴音は二人の背中を優しく撫でてやる。聞いているのか、聞いていないのか、二人はことさら琴音の体に抱きついた。鼻水がジュルジュル音を立てて、粘りつく感触。
おわっ。とは思いつつも、無理やり引き離すようなことせずに、琴音はため息をついた。その時、コロンとヤクル○容器が、どこからか落っこちてきた。
琴音は喉が渇いていたので、二人に抱きつかれたまま、容器の中を飲み干す。なんか味が違うような気がするが、とりあえず美味しかった。
あれっ、体が熱いような気がする。最初は密着しているためだと思っていたのだが、どうも それも違うようだ。
双子もただならぬ体温に気づいたようで、体をぱっと離した。
「琴音、大丈夫なの。なんか体が熱いの」
「熱いの〜」
琴音は返事ができなかった。心配げな顔をしていたリルは、床に落ちているヤクル○容器に目をやった。
「琴音、これ飲んだの。これさっきの実験で作ったやつなの」
「作ったやつなの〜」
効果のほどは検証していないが、実はそれらしいものは完成していたのだ。途中で爆発したため量産は出来なかったが、なんとか一人分。それを、リルがポケットに突っ込んだままにしていたのだ。
琴音の体から水蒸気が噴出する。
それが、収まって体温が落ち着いたと思ったら、なにやら体が重たい。顔を触ってみるとざらつく感触。それに皮膚が硬い。指も心なしかごつごつしている。
これってもしかしなくとも。
「こっ琴音、男になったの」
「男になったの〜」
双子は奇声に近い歓喜の声を上げる。
「実験が成功したの」
「成功したの〜」
双方とも科学者としての性なのか、事態の危機感よりも達成感に気がいっているらしい。
「ふええん。馬鹿馬鹿、そうじゃないでしょ。どうするのよ、これ」
琴音の目頭が熱くなる。思わず握ったこぶしからはかつて感じたことない凄まじい力が宿っている。
「大丈夫なの。もう一個作ればいいの。作り方は覚えてるの」
「覚えてるの〜」
琴音は黒焦げになった地下室を見る。双子もはっとした表情で同じ方角を見た。
「う〜ん、一週間あればなんとか復旧できると思うの」
「できると思うの〜」
「やだよ、やだよ、一週間もこんな体でいたくないよ」
身長の伸びた大きな体で駄々っ子のようにジタバタする琴音。精神年齢が十六歳から一気に五歳児に低下した。
「おっ落ち着くの」
「落ち着くの〜」
必死になって琴音の体にしがみつくが、簡単に振り払われてしまった。リルとグラは空を飛んでソファに着地する。リルとグラの顔が驚きに満ちる。そして、また琴音の体にしがみついて、吹き飛ばされて、キャッキャッ♪ 言いながらソファに着地する。面白いアトラクションと捉えたようだ。
廊下から響く靴音。
「すみません、ねえ、誰もいないの……って、いるじゃん」
リビングに入ってきたのは陽明おじさんだった。いくら日が沈んだからといって、ファーつきのコートに、白のナイロン製の手袋、革靴で家の中を土足でここまで来たようだった。完全に男性化した琴音と陽明の目が合った。
「あっあんた、誰だ。俺の息子と娘に何をしてたんだ。新手の変質者か!!」
「わっわたしは、琴音です。おじさん、嘘かと思うけど信じてください」
両手を組み合わせてごつい体のまま琴音は涙ながらに訴える。果たして、これでどれくらいの信憑性があるかどうか。
「冗談だよ。琴音ちゃん♪ 初めから気づいてたよ」
こっこの男は〜。いつか縁を切ってやる。
受け入れてくれた嬉しさ半分。性質の悪い冗談に憎しみ半分。白と黒が琴音の中で混ざり合う。
「お前ら、琴音ちゃんに何をしたの」
「性転換のお薬作ったの」
「作ったの〜」
陽明は驚いた。
「ええ、お前ら作れるようになったの。俺が作ったのは、十三の時に同級生の田辺の野郎に罰を与えようとしたときだったからな。お前ら、早ええよ」
親子三人でゲラゲラ笑う。
「それで、どうすればいいんですか!!」
琴音は怒髪天に達していた。ドスの効いた響きでおじさんを威圧する。
「いや……田辺は俺が薬を作らなかったから、そっちの道に進んだけど……」
「そっちじゃなーい。わたしです。早く戻りたいんですけど」
拳をぶんぶん振り回す琴音。当の本人は理解してないだろうが、一発当たれば陽明が簡単にノックアウトできそうな勢いだった。
「はいはい、大丈夫だよ。ちょうど、薬は持ってるからね」
にこやかに微笑みながら、陽明は琴音の顔を触る。唇を開けさせて、舌の状態を見る。指先で舌の溝部分を突いて、付着した物質を眺め陽明は頷いた。
「あ〜ちょっと、お前ら不純物、結構混ぜたな〜。俺の薬じゃあ、効果が出るまで十分ぐらいかかるかな」
そう言って、持っていたジェラルミンケースを開ける。中は資料やら小瓶がぎっしり詰まっていて、陽明自身も首を傾げながら、ラベルの文字を読んでいる。
治ると言われた琴音は落ち着きを取り戻した。そして、退屈がてらに一つ陽明にたずねる。
「ここにいるってことは、インフルエンザのワクチンできたんですか?」
「ああ、それね。出来たといえば出来たし、出来ていないといえば出来てない」
「言っている意味が分かりません」
「めんどくなったので、ワクチンが完成したって言って、タムシンチ○キ渡してきた」
「私、絶対に予防接種受けません」
琴音の顔が軽蔑とも蒼然ともいえない顔をして宣言した。
「えっ知らないの? タムシンチ○キが万病に効くって。試しに飲んでみてごらん」
乾いた笑みをしながら陽明はラベルから鋭い視線を外さなかった。軽口を叩くのは今でも変わらないが、キリッとした表情で精緻な考えを働かせているようだった。もうすでに、五十台のはずなのだが、どういうわけか二十台後半で成長が止まっているような風貌。五年前から全然変わっていない。全くとらえどころのない人間だ。
「あっ、あった、あった。これだ」
小瓶を左右に振りながら悪戯っぽく笑った陽明は、その小瓶を琴音に投げ渡す。
「自分のタイミングで飲んでね。ほらっお前達は帰る支度する。実験器具とかは後で業者さんに頼むから」
指でリルとグラの額を小突く陽明。
「えっ、イギリス帰るの。嫌なの、まだ琴音と居たいの」
「嫌なの、居たいの〜」
しょげ返った双子の瞳に水気が溜まる。
「こら、泣かないの。琴音お姉ちゃんとはまた会えるから。ほら耳かしてごらん」
ぼそぼそ呟いている中で、琴音は薬を飲んだ。これは強烈にまずかった。おじさんの性格からしてわざとそうしているのかもしれない。どうせ、文句を言ったところで、良薬口に苦しだとかなんとか言うのだろうが。
さっきまでの意気消沈ぶりはなんのその。リルとグラは陽明のささやきが終わったころには、すっかり元気になっていた。
「琴音、僕たち帰るの」
「帰るの〜」
なぜかどこかよそよそしい。今まで慣れ親しんだものはいったいなんだったのか、琴音は残念な部分が強かった。しょせん、一緒にいるから懐いていただけなのか。真実であっても寂しい結論だ。
「急いで、飛行機に間に合わなくなっちゃうよ」
リルとグラは家の中を走り回りながら荷物を掻き集める。そして、とうとう琴音の効果が出る前に身支度を整えてしまった。
「それじゃあ、僕たち帰るからね。大丈夫、あと一分ぐらいで元通り」
「それだったら、ちゃんと見届けてくださいよ」
陽明は頭を振った。
「ああ、駄目、駄目。飛行機に間に合わなくなっちゃうもん」
琴音は唇を尖がらせたが、陽明たちはさっさと出て行ってしまった。
「薄情者」
琴音は呟いてみたのだが、反論するものは誰もいない。仕方ないので、洗面台の鏡を頼ることにした。
変化はすぐに訪れた。髭がぽろぽろと抜け落ち、筋肉質な腕も柔らかい感触に戻り、胸も膨らんできた。
「やったー」
これで、全部元通りって、うん? 琴音は下腹部の異質な物体に気づいた。消えてない。股間のあたりにあああるものがきえええてない。
どういうこと。
しかし、何の知識もない琴音が知る由はない。裸足のまま急いで外に飛び出した。すると、『出てきたぞ、急げ』という声の元、タクシーに乗り込む三人組。
「逃げるなーーー!!」
ブロロロロ。しかし、無常にも車は去っていった。
ひゅるりと風が吹き、後には排気ガスが残っていただけだ。呆然としているなか、琴音は郵便ポストに黄色い封筒が入っているのに気がついた。
封筒の真ん中に汚い文字で差出人の名前。その名も陽明。
琴音は急いで封を開けた。
残念だったね。琴音ちゃん。あの薬じゃあ、体は半分までしか元に戻らないよ。ちゃんと治してほしかったらイギリスの僕たちの家まで取りにおいで。
封筒の隙間からはらりと航空チケットが一枚落ちる。
「あのクソじじいいいいいーーーー!!」
どうやら残りの夏休みはイギリスで過ごすことになりそうだ。
次回、三人が何者かが判明する。だが、書くかどうかはわからない。