慣れない外国人労働者の管理に手を焼きながら大苦戦、世界恐慌の真っ只中での人材派遣会社管理者の涙の奮闘記
ドアを開けるとそこには身長2m近くの巨漢の白人が仁王立ちしていた。まゆはスポ根漫画の主人公みたいに太く、表情は険しい。腕は丸太2本分はありそうな太さで二の腕には青く鮮やかなアルファベットのタトウが入っていた。軽く撫でられても細身のいつきの身体なんか吹っ飛んでいく。しかしいつきは落ち着いている。彼等は滅多なことで暴力は振るわないことはこの仕事をしてからの2年間で学んだことの一つだ。いつきは胸の内ポケットから名刺を裏返して英文のページをプロレスラーの様な白人に渡した。そして、室内にある個室の椅子を左手で案内した。
「こんばんは、どうぞ」
巨漢の男はにこりともせず事務所の中に入り、どっかりと安物のパイプ椅子に腰掛けた。パイプの軋む音がした。 椅子に腰掛けると同時にやや赤ら顔の白人は声をあげた。
「仕事アルカ」
いつきは手慣れた感じで目の前のテーブルにノートを広げた。
「在留カードを見せてください、出来ればパスポートも」
赤ら顔の白人はしわくちゃの茶色の紙袋から名刺大のカードとパスポートと思われる冊子を不器用そうにもぞもぞと取り出した。赤ら顔=酒好き=遅刻多く勤怠悪い。いつきの頭の中にネガティブ積算がはじまる。特に的中する事が多いわけではないがもはや面接相手のネガティブポイントを探すのは習性になってしまっている。
パスポートを確認するとその男はブラジル国籍だった。しかし、パスポートの有効期限は3か月前に切れている。パスポートの方は単なる旅券なので期限が切れていても特に問題はない。在留カードの方は大丈夫の様であった。これが期限切れているとオーバーステイでアウトだがこちらは問題なかった。男は3年間の定住者だ。定住者は期限を区切り在留が認められている、対して永住者は無期限に日本で居住が認められている。来客者は就労制限はなくなんでも自由に仕事はできるが、在留カードの裏面を見ていつきの顔は曇った。びっしりと転居履歴が記入してある、つまり転職が多い、福井で3回転居、石川で1回、富山県では1回、現住はこの事務所の近くのHUMANという外国人満載の近くのアパートに住んでる様だ。ヒューマンが正式名だがいつき達人材派遣会社従業員の間では冗談でフマン(不満)と読んでいた。仕事の不平不満を人材派遣会社にぶつけてくる外国人労働者を揶揄していつき達が名付けた建物の渾名だ。
外国人は在留カードの携帯が義務づけられている。転居するごとに裏面に役所で手書きで転居住所が記入される。日系プラジル人に限らず日系3世までは日本で自由に就業出来る規則だが、日本で合法的に就業出来る権利を謳歌しているのは現在では日系プラジル人が圧倒的だ。プラジル通貨レアルと日本の円のバリュー差を活かして日本で数年馬車馬の様に主に製造工場で働き母国で羨ましいほどのプール付き住宅を建てる。彼等の日本での働き方と言ったら馬車馬なんていう形容は穏やか過ぎる。彼等は朝8時に車両部品工場などに嬉々として出勤して、日本人日勤労働者が帰宅する17時を過ぎても工場に残り夜間通して働く。時に1日16時間も働き月末には恐ろしい金額の給料を人材派遣会社から支給され、特に歓楽街へ出かけるでも無く猛烈な勢いで金を貯めて母国へ帰って行く。彼等を雇用する人材派遣会社は日系プラジル人が社会保険加入を嫌がるのを良いことに健康保険、厚生年金は無加入、雇用保険さえも加入しようとせず、さらには労働災害保険さえ過小申告して利益をあげる。本来なら日系ブラジル人だろうが何だろうが社会保険料を雇用主である人材派遣会社と派遣労働者とが折半して負担するのだが、手取り金額を増やしたい日系プラジル人と社会保険料を負担したくない人材派遣会社の相互の利益は完全に一致し双方の蜜月時代を築いていた。こういう脱法行為は中堅程度の人材派遣会社では当たり前のことだった。特にいつきの勤務している人材派遣会社は日系ブラジル人達の口コミで人を集めてくるのでろくな求人広告宣伝費用もかからない。恐るべき高利益構造である。そしてその労働力は日本の基幹産業の屋台骨を支えていた。
いつきがこの業界に入ったのはそんな人材派遣会社の黄金期であった。大学を卒業して特に当てもなく入社試験を受けて難なく北陸の中堅どころの人材派遣会社の営業担当者になったのは2年前の2005年である。最初は外国人などと接して仕事するのは特殊な通訳とか、そういう人達と思っていたいつきはいきなり外国人に囲まれて仕事する事になったのだった。出だしは苦労の連続だった。外国人、特にいつきの勤務する人材派遣会社は日系プラジル人をメインに扱う人材派遣会社であった。彼等の判断のスピードに全然ついて行けなかった。利害関係の無い通常の日常会話では彼等は気の良い友人の様で陽気な国柄が良く表れていた。だがひとたび核心の部分に触れると彼等の表情は一変し口は3倍速になり、頭脳の動きもそれ以上になるようであった。彼等の関心の核心部分は主に賃金に関する事であった。日系プラジル人達の仕事選択の絶対的判断基準は 時給と残業の2つであった。その中でも最も重要な関心事項は残業時間であった。会社に入りたての頃いつきは残業なんてものは少なければ少ないほど好条件の職場と思い、面接の際は極力残業時間は少なめに面接者に伝えるようにしていた。しかしその都度面接相手の日系プラジル人達は苦虫を噛み潰すとはこんな表情なのかなと思える様な顔をして、あからさまに落胆の態度を隠さなかった。彼らはいつきの説明する残業時間を聞くと早々に席を立ち背中を向けて事務所を後にするのだった。
彼等の渇望する仕事は残業、休日出勤がわんさかある日本人の嫌がるいわゆるきつい仕事だ。つまり割増賃金が払われる時間が多ければ多い程彼らにとってみれば楽園なのである。定時で帰れるような工場での仕事は相手にせず月100時間越えの残業の仕事を要求する。厚生年金はおろか僅かな雇用保険料さえ払うのを拒否する。しかし彼らは仕事に関してはプライドを持ち管理者が見ていようがいまいが決して手を抜かない、日本人正社員の倍のスピードと正確さで工場の作業を淡々とこなし日本の製造業では無くてはならない存在になろうとしていた。いつきの勤務する会社もそんな労働市場に群がる人材派遣会社の一つであった。
「100ジカンアルトコナイカ」
赤ら顔の男は率直に言った。
「マルコスさん、今は労働基準監督署がうるさくてなかなか100時間残業できるところは少ないです、80時間じゃダメですか」
フーッとマルコスは深く溜息をついた。微かに酒の匂いがする。いつきのネガティブ積算値がどんどん上がる。
「80時間ナラサンパウロカエル、嫁サント娘ガ一緒ニシゴトシテ90時間アルトコナイカ」
「3人まとめてなら食品工場で聞いてみましょうか、残業も90時間ならいけるかも」
いつきは探りを入れるように言った。
「ベントウ屋カ、ジキュウイクラ」
業界内では食品工場のことを総じて弁当屋と呼ばれる、弁当屋は主に契約単価が安いので勢い本人達の賃金もガクンと下がる。
「1100円が限界ですね」
いつきは即答した。マルコスはいつきの顔を怒ったように睨みつけた。
「オマエ馬鹿にシテイルノカ」
マルコスの怒鳴り声は事務所中に轟いた。夜9時を回っているので事務所にはいつきはの他は誰もいない、しかし、こんなに戦闘モードの面接も珍しい、日系ブラジル人は往々にして紳士だ。転職が多いのもわかる気がする。いつきのネガティブ積算メーターはどんどん上がってゆく。頭の中では今求人の出ている工場の案件が次々と浮かび上がってくるがこれでは紹介のしようが無い。
「ここへ電話番号を書いてください、今すぐ紹介できないけど仕事が出たら連絡します」
いつきは帰ってもらる事にした。連絡する気はさらさらない。
マルコスは何も書かずに立ち上がり不愉快そうに
「カエル」
と言って席を立ち、ドアを乱暴に閉めて出て行った。いつきはつくりかけのプロフィールの紙をくしゃくしゃに丸めてポイっと屑籠に捨てた。今日3人目のマルコスの面接だった。ブラジル人には非常に多くある名前だ。日本で言えば一郎、二郎みたいなもんだった。今時そんな名前はないか。
狭い事務所の戸締りをするといつきは外に出た。12月の冬の夜の空気は澄んで星空が綺麗だった。今年はまだ雪の知らせが来ない、このまま降らないなら良いのだが。
車に乗り込んでエンジンをかけた瞬間ににいつきは母親に頼まれていた買い物を忘れていた事に気付いた。朝家を出るときに日経新聞を頼まれていたんだった。株に凝っている母親の愛読書だ。この時間ではコンビニには残っていまい、今更どうすることも出来ないので母には諦めてもらうことにした。自宅までは車で20分程度だ。CDで昔好きだったアメリカンロックをかけてながら帰ることにした。夜間で道も空いているの為ノンストップでいつきの自宅まで近づいて来たが最後の交差点を回ったところで車を角のコンビニの駐車場に滑り込ませた。ひょっとしてこの店なら日経新聞が残っているかもしれない。いつきは一軒だけ念の為コンビニに寄ってみることにした。ここは同級生がやっている店でひょっとして売れ残りの新聞がバックヤードにあるかも知れないと思ったのだ。
店の中に入ると繁忙時は終わったのか店内は客は誰もいなかった。大学生のアルバイトと思われる若い男性店員が何やら棚の整理をしていて、その横で同級生の誠司が細々と指示を出している。近付くとすぐにいつきに気がついた。
「よう、もうかっとるか」
誠司は笑いながら声をかけてくる。2年前からこの場所でコンビニをオープンさせたのだが商売は上手くいっているようなのは顔を見れば良く分かる。
「社長は儲かってると思うよ」
いつきはいつもと同じように答えた。実際その通りだ。
「勤め人が一番よ、気楽でいい」
誠司に日経新聞の経緯を話すとうまい具合にバックヤードに残りがあるそうだ。
「事務所に入れよ、ここは落ち着いかないから」
誠司はいつきを手招きしてドリンクショーケースの横のドアを開けて事務所の中に入った。中に入るとすぐ煙草に火を付けた。続いて入ったいつきは煙草は吸わないのでやや閉口したが我慢した、頼み事があるのはこちらの方だから。
いつきの胸にぽんと新聞の束を放り投げた。見ると日経新聞だった。
「助かったよ、忘れるとうるさいんだ」
いつきは礼を言った。
「なんか買っていけよ」
誠司はそう言って笑った。煙草を吸いながら良く大声で笑えるものだ。いつきは感心した。
「お袋さん、株で儲けてるのか」
誠司は探るように聞いてきた。
「かなり儲けているみたいだけど詳しくはわからないな」
いつきは興味無さそうに答えた。株になど全く興味が無い、というか理解できない。実際いつきの母親は三桁の利益を今年あげているらしい、恐ろしい話だ。
いつきは誠司に礼を言おうとしてふと店内を監視するモニターに目をやった。そこには先程面接したばかりのカルロスとその娘らしい17、8歳くらいのいかにもハーフらしい美形の娘と、その娘とはあまり似ていない母親らしき中年の太った女性が目に入った。誠司に礼を言って事務所を出ようとしたいつきは足を止めた。美しい娘らしき女性はポテトチップスを買おうとしたが母親はそれを乱暴に取り上げて陳列棚に乱暴に戻すのが目に入った。3人は店内を組まなく回りほんの数点の食品をえらく時間をかけて選別して、最後にその中の1点、卵を1パックだけ持ってレジに行った。
「またあいつらか、いつもこの時間にやってくる、以前は廃棄品の弁当をせがまれて困ったんだ」
誠司は明らかに蔑んだ目でモニターの家族を眺めた。
いつきは訝しんだ、普通に工場で派遣社員として勤務していれば生活に苦労は無いだけの賃金はもらっているはずである。少なくとも彼等の賃金はいつきの賃金よりは高収入だ、廃棄品の弁当をねだるような真似はしなくても良いはずだのに。ようやく3人は店を出た、出る間際に娘はポテトチップの並んでる棚を恨めしそうに眺めていた。3人は古いトヨタ車に乗って店を後にした。なぜか娘のポテトチップを眺める姿がいつきの目に残った。派遣社員の家族と会うことは珍しくはなかったが、ついさっきぞんざいに面接したばかりというのと3人の姿をモニター越しに見たのがかえっていつきには彼らの実生活が生々しく感じられた。地球の裏側から家族を連れて日本にやってきて夜間にコンビニで子供のポテトチップを取り上げている姿は妙にいつきの胸をつくものがあった。いつきはその感情が何であるかはうまく自身で説明出来なかったが心地の良いものでない事は確かであった。ペーパー上の履歴書では垣間見ることの出来ない小さなモニター画面上の3人は普通より小さくいつきには見えた。