06 カバンの中の花園
「おはよー」
俺は寝ぐせだらけの頭をボリボリ掻きながら食卓に着いた。
眠い。
昨晩はあの後、一時間以上も穂乃果の思いの丈をぶつけられたのだ。幸いにも彼女の好きなアニメが始まる時間になったので解放されたが。
「なんだ咲良、今日はずいぶん早いんだな」
妹の咲良はいつもは俺より起きるのが遅く、食卓でもパジャマ姿が普通なのに、今日は制服姿。髪も梳かして登校準備完了だ。
咲良は強張った顔で勢いよく立ち上がり、
「お、お兄ちゃん。私、朝練あるから、さっ、先に行くから!」
言うなりカバンを持って部屋を飛び出して行った。
「いってらー」
朝練か。うん、朝練? パンにマーガリンを塗る手がぴたりと止まった。
「なあ、あいつ美術部じゃなかったっけ」
コーヒーを飲んでいたおふくろは手をぴたりと止め、
「拓馬。あんた咲良になんかした?」
ドスの効いた声で俺をにらみつける。
「なんにもないって。むしろ俺が聞きたいよ」
「いいかい、あんたはあの父さんの息子なんだからね。まったく、あの人の若いころ、どんなに女にだらしなかったか」
おふくろ、朝からそんな情報はいらないです。
俺は目玉焼きの黄身を箸の先で潰しながら、昨晩のことを考えた。
穂乃果との間が急接近した気がするが、何が縮まったのか皆目見当つかない。
渡された本も一通り目を通したのだが、穂乃果の生足鑑賞で貯めたゲージが一気に削られたばかりであった。
……俺は穂乃果お勧めの本達から何を学べばよいのだろうか。
「おふくろ。愛って、何なんだろうな」
ごふっ。本当にコーヒーを吹く人を初めて見た。
「ちょっ、何やってんだよ」
「あ、あんた。本当に誰とも何もないんでしょうね!」
「ないって! 俺もう行くからな!」
せわしなく朝飯を牛乳で流し込むと、俺は身支度を済ませてさっさと家を出た。
ここんとこ、衝撃的な事件が続いているんだ。妹やおふくろのおかしな態度に構うほどの余裕はない。
家を出ると、丁度志乃ちゃんと出くわした。穂乃果が俺の心の潤いなら、志乃ちゃんは癒しだ。
驚いたのか、志乃ちゃんは大きな瞳を丸くして俺を見返してくる。
「あ、志乃ちゃん。おはよう」
「ひっ!」
怯えたように飛び退る志乃ちゃん。
……あれ。なんだこれ。
昨日の友好的な雰囲気とは大違いだぞ。完全に見てはいけないものを見る時の目だ。
「咲良なら今日は朝練とかで早く出たよ。志乃ちゃん、約束してたの?」
「あ、あの、私、補習、いえ、日直があるので失礼しますっ!」
「え、ちょっと」
トテトテと走り去る志乃ちゃん。
……足遅いなあ。
それはともかく、志乃ちゃんに避けられて地味にショックだ。傷心の俺が突っ立っていると、背後から天使の声が俺を包む。
「たっくんおはよ~」
穂乃果だ。志乃ちゃんに避けられた心の傷を癒すのは、もう一人の天使の笑顔だ。
「おはよう、穂乃果!」
満面の笑みを浮かべて振り向く俺。そこにいるのは同じく笑顔の穂乃果、ではなかった。
腫れぼったい目で千鳥足、カバンの重さにふらつく穂乃果の姿があった。
「どうした。体調でも悪いのか?」
「それが昨晩、チェックしている番組をリアタイ視聴してから寝ようとしたんだけど。今までノーチェックだったキャラが化けたの。あまりにとおとすぎてしんどくてしんどくて」
一瞬、かくッと穂乃果の首が落ちる。
「ツイッターに書き込みしたり、思いの丈を投稿してたりしたら外が明るくなってて」
「はあ、そうですか」
そう言う他無い。
そのままなんとなく二人並んで歩きだす。これはひょっとして、一緒に登校する流れか。
憧れのシチュエーション。よし、ここは朝らしい爽やかトークを心がけよう。
「最近すっかり暖かくなったよな」
「うん。ねえ、そういえば昨日渡した本どうだった?」
……そうよね。その話になるよね。
しかしこれは意外と難しい回答ではないだろうか。下手なことを言えばまた穂乃果の説教タイムが始まりそうだ。
「えーと、登場人物の心情とか想いとかそういったのがよく描けてるよね」
「うんうん。それでそれで」
え、これだけじゃダメなのか。
先程までの眠そうな姿はどこに行ったのか。キラキラと期待に満ちた目で俺を見つめる穂乃果。
「原作。そう、原作を見ていないから設定とか分からないところがあったかなーと」
「そっか。そうよね。じゃあ、今度色々と貸すね」
よし、無難に乗り切ったぞ。今度の色々が気になるが。
それに流石に登校中だ。穂乃果も目立つ行動は慎んでくれるだろう。
「お手柔らかにな。それはそうと最近数学の宿題やたら多くね?」
「あれから考えて、この本もどうしても外せないと思って」
俺の話はガン無視、本の入った包みを差し出す穂乃果。
え? 登校途中なんだけど。BL本を受け取れと。なんなんだ穂乃果の行動力。
「ねえ、早くカバンにしまって。人前よ」
お前が言うか。
だが人に見られたくないのは俺も同じだ。俺は素早く包みをカバンに滑り込ませる。
さて、これから楽しい二人の登校タイムの始まりだ。
「そういえば穂乃果、部活は何か入ったのか?」
「それが、わたしまだ――」
「おーい、穂乃果ーっ!」
その時、先の曲がり角から声をかけてきたのは穂乃果の女友達。この二人、相田と五月雨とかいったか。
「おはよう! たっくん、それじゃね」
「おう。それじゃ」
さらりとそう言いながらも、俺は内心寂しさを感じていた。穂乃果と特別な間柄になった気でいたが、女友達にあっさり完敗。この程度の特別だ。
「まあ、そんなもんだよな。付き合っている訳でもないし」
俺はぼんやりと歩き続け、校門をくぐった。
はて、腕章をつけた生徒たちが何人も並んで登校生に声をかけている。なんだろう。朝の挨拶週間とかそんなんだろうか。
俺は何気に通り過ぎようとしたが、一人の女生徒に止められた。
「そこの一年生。止まりなさい」
「なんですか?」
リボンの色からすると三年生か。
すらりとした美人だが、眼鏡と後ろでまとめた髪型のせいで冷たい印象を受ける。
腕章には風紀委員長の文字。
「持ち物検査です。カバンの中を見せてください」
へえ、高校ではそんなのがあるんだ。俺はカバンを開けようとして、固まった。
あれ。さっき穂乃果から何か受け取らなかったっけ。変な汗が頬をつたう。
「どうしたの。早くなさい」
「えーと、あの、俺ちょっと、忘れ物したので戻ります」
踵を返す俺。しかし気が付けば背後を他の風紀委員に塞がれているではないか。
「はい、カバンはこちらで確認します」
「あ、ちょっと!」
俺はなんて無力なのか。あれよあれよという間にカバンを奪われ、穂乃果に受け取った包みをあっさりと見付けられてしまった。
いや、待て。実はあの中が健全な本という可能性も捨て切れない。穂乃果を信じるんだ。
三年生の眼鏡委員長が包みの中をチラリと覗く。
「あなた、生徒手帳を出しなさい」
……ですよね。俺は諦めて生徒手帳を差し出した。
眼鏡委員長は汚いものでも触る様に生徒手帳を開くと、すぐに返してよこす。
「1年C組、秋月拓馬。本は没収します。放課後、呼び出しがあるから帰らないで」