05 こいつ、腐ってやがる
その日の夜九時。
———俺はベランダで正座をしていた。
柵越しには仁王立ちの掛彬穂乃果。腕組みをして冷たく俺を見下ろしている。
……どうしてこうなった。
「私、秘密にしてくださいって言いましたよね」
「はい」
「あなたは、任せておけって言いませんでしたか」
「はい、言いました」
短パンから延びる穂乃果の白い足が眼前にある。この状況、お仕置きなのかご褒美なのか。俺は思わず目を伏せる。
「じゃあ、あそこで風見君に言おうとしていたのはなんなんですか」
「あの、昨日穂乃果が腐ってるとかなんとか言ってたから、どんな意味なのかなーって」
「ほう。それで」
「風見に」
「聞いたと。あんなにクラスメートが周りにいる状況で」
「はい。配慮が足りませんでした」
「秘密にしてって言いましたよね」
「穂乃果がオタクなのが秘密なのかと思っていました」
「なるほど。ではあなたが右手に持つ物を前に置いてください。はい、ベランダの床です」
もう逆らう気力もございません。俺は素直に右手に握るスマホを置いた。
「聞く前にそれで調べるとかしなかったんですか」
「しませんでした」
「なんですか。目の前の板はカマボコですか。そうですか。わさび醤油でおいしく食べるのですか」
もうヤダ怖い。次はスマホを食わされるのか。
「では、調べてみてください」
「はい」
俺がスマホを取ろうとすると、
「スマホは置いたままで」
「え」
「置いたままで、調べてください」
嘘、何そのプレイ。しかし、顔を上げれば穂乃果の生足が視界いっぱいに広がるのだ。ピュアな身体の俺には刺激が強いかもしれない。
俺は正座のまま前かがみになってスマホで「腐ってる」、「女の子」、「オタク」等のキーワードを入力。
画面に現れた初めて見る情報の波に圧倒される。
十分も経った頃だろうか。
「分かりましたか?」
「ああ、おおよそは。腐った女オタクを腐女子というのか」
つまり、穂乃果は腐女子と呼ばれる人なのか。
スマホの画面から顔を上げると、穂乃果の足の間から穂乃果の部屋が見えた。
あれ、部屋のドアが開いてないか。
「なあ、ドアが開いて――」
「ちょっと、どこ見てるのっ!」
柵越しに穂乃果の足が肩口、左頬に連続ヒット。二発目はスリッパが吹き飛んだため、生足だ。
頬に感じた穂乃果の足の裏の感触は、ただただ痛いのみだった。
「やめっ、やめろっ! ドア、ドアを見ろ!」
「ドア? 何もないけど」
あれ、俺の気のせいか。穂乃果の部屋のドアは閉じている。
「……まあ、今日のことは今回だけは許します。次からは気を付けてください」
「はい、気を付けます」
文字通り、踏んだり蹴ったりだ。だが、これで許してもらえたのなら良かった。
「腐女子がどんな人なのかは大体分かってくれたとは思いますけど」
「男同士のエロ本とかが好きな人だよな」
あれ。選択ミスか。穂乃果の頬がピクリと動いた。
「たっくんには少し勉強が必要だと思います。待っていてください」
はい。待ちますが、正座はいつ解除されるのでしょうか。完全にこの構図は女王様と下僕だ。
しかし、部屋の中で本棚をあさっている穂乃果の生足と二の腕は、なんというかこう……今夜も捗りそうだ。
穂乃果は紙袋に薄い本を慎重に選びながら入れていく。紙袋が一杯になった頃、ようやくベランダに戻ってきた。
「たっくん、いつまで座ってるの。立ったらいいのに」
そんな。もっと早くに言ってくれ。
しかし、こんなに虐げられても段々と嫌な感じはしなくなってきた。やばい、何かいけない扉が開こうとしているのか。
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、穂乃果は俺に紙袋を渡した。見た目以上にずっしり重い。
「えーと、これって」
「初心者向けから最新のトレンドまで一通りピックアップしたよ。基本は上から順番に呼んでもらえばいいけど作者読みをするのも、うふふっ、いいかもしれないね。私は戦三に関しては基本兼×貞しか認めないんだけど一見すると貞×兼だけど実は精神的には兼×貞ってのが一冊だけ混じっているので勘違いはしないでね。基本私はリバはダメだし」
早口でまくしたて始める穂乃果。あれ、つい最近こんな奴と会った気がする。
「同じ二人だからいいでしょとか言う人いるんだけどフザケルナというか全然違って二人の間の想いとか関係性とかストーリーがあって初めて受け攻めが生じてくるわけでリバれば当然それは根本から違うということだし」
重い。紙袋の重さがどんどん増していく気がする。穂乃果、重力使いか。
「今クールの三話目までは貞×兼が公式カプ扱いだったから正直吐きながら見てたんだけど、四話からまさかのリバ展開で推しカプがまさかの公式カプに昇格するとか幸せ過ぎて吐きそうなの」
どっちにしろ吐くのか。こいつ、風見と同類だ。いや、下手するともっとひどい。
だが俺も伊達に風見と親友をやっていない。狙いすましたインターセプターを入れるならここだ。
「まあ、学校でも風見にならばれても大丈夫だと思うぜ。あいつ、人間出来てて気遣いも出来るから」
穂乃果はハッと我に帰り、目をぱちぱちと瞬かせる。
「そういえばたっくん、風見君と仲いいよね。いつから?」
「中一の夏頃からかな。気が付いたらいつもつるんでたな」
「そうか。そうなんだ。えっとね」
と、言ったまま黙り込む穂乃果。何でこんなに風見のことを気にするんだ。
……まさか。
確かに穂乃果相手でも風見なら見劣りしない。
性格も良く人望もある。アニオタだが。
そうか、そうきたか。俺は飛んだ噛ませ犬か。
穂乃果は恥じらうように潤んだ目を伏せ、風呂上がりの頬を赤く火照らせ、言葉を選び選び話し出した。
よし、覚悟したぞ。風見は大切な友人だ。俺は何でも受け止める。
「つまり、風見君はたっくんにとって、あ、憧れのお兄さんみたいな、そんな感じなのかな」
「はい?」
ばっちり受け止め損ねた。
何故だ。なぜそんなことになる。鍋にカレールーを入れたらミニ四駆が出来たくらいの超展開だ。
「あいつは、友達だよ、ト・モ・ダ・チ!」
「友達。友達。そうか。そういう見方もあるんだね。うんうん」
穂乃果は何かに納得したようにしきりに頷く。
「待ってくれ、他にどんな見方があるのか教えてくれ」
「友達だからって友情である必要はないのよね。純粋な友情は愛情と見分けがつかないって言葉もあるくらいでそもそも友情の上位概念に愛情があるのだからと友情が愛情に昇華するのはごく自然なことで」
「……ごめん。やっぱ教えてくれなくていい」
恍惚と男性間の愛情について語り続ける穂乃果を見ながら、俺はさっきスマホでみたBL解説サイトを思い出した。
ああ、そうか。こういう時に使うのか。
……こいつ、腐ってやがる。