34 今夜
「それじゃ、ここからは自分で頑張ってね」
登呂川は玄関先の姿見で前髪をいじりながらそう言った。一応、応援してくれているらしい。
「まあ、上手くいかなくても諦めが肝心だからな。逆恨みはするんじゃないぞ」
水無月はスニーカーに足をぐりぐり押し込みながら縁起でもないことを言う。
風見は咲良の出て行った玄関扉をずっと眺めていたが、向き直り俺に拳を突き出した。俺も拳を合わせる。
「男を見せろよ、拓馬」
「ああ。今日はみんな、本当にありがとう」
「上手くいったら、お礼は期待してるよー」
「そうだな。一生恩に着せてやる」
「いい知らせ、待ってるぜ」
3人を見送った俺はしばらく感慨深げに玄関に立っていた。部屋に戻ろうとした刹那、俺は大切なことに気付いた。
……水無月と登呂川の二人に何かしてもらったっけ。
――――――
―――
台所を一通り片付け終わると、俺は何も手につかずリビングのソファに座った。
テレビをつけてチャンネルを一周させてはスイッチを切る。それを3回繰り返した挙句、この三日分の新聞を読み終えた。
「落ち着かねー!」
掛彬家での話し合いはどうなったんだ。こんな時、登呂川がいてくれたら。
何度目か覚えていないスマホのチェック。ふと、LINEのメッセが届いているのに気付く。
「来た!!!」
TORO CHAN『窯焼きメロンパンゲット~』
なんか3人で楽しそうにメロンパン喰ってやがる。悪いが今はそれどころじゃない。なさすぎる。
続けざまにスマホが震える。あーもう、今度は何だ。
仕方なくスマホに目をやると、Honokaからのメッセージ。
俺は文字通り飛び上がり、ソファの上に正座した。
Honoka『今晩22:00 ベランダ会議』
それだけの短いメッセージ。俺は覚悟を決めた。決着の時だ。
――――――
―――
咲良は夕方まで帰ってこなかった。
その頃には両親も帰ってきてたので、咲良とはろくに話もできなかった。思えば、うまくはぐらかされたのだろう。
夕飯を食ったかどうかも覚えのないまま、俺はベッドに寝転がっていた。パジャマに着替えているところを見ると風呂には入ったのだろう。
時計を見ると21時45分。約束の時間まで後15分。
そこに待つのは死刑宣告か解放宣言か。ここまで来ると、何が誤解で何が実際のことなのか全然分からなくなる。
ぼんやりと眺めている間に時計は22時を指した。俺はまるで現実とは思えないほどフワフワした足取りでベランダに出た。
そこに立っていたのは、ピンク色のパジャマに黄色のカーディガンを身にまとった穂乃果。
ほんの少し前、LINEの誤爆で久々にベランダで顔を合わせた、その時の格好だ。
その時と変わらず少し緊張の色を瞳に宿した姿で、長い髪が風に揺れている。
穂乃果はしばらく軽く目を伏せて立っていたが、俺が近くに来ると小さな声で呟いた。
「……遅い」
俺も今更言い返したりはしない。
穂乃果がどんな気持ちを抱えて、どんな答えを用意してきたのかは分からないが、こうやってベランダで俺と向き合うまでの全てが込められた一言だからだ。
「ごめん、待たせた」
自分が不思議なほど落ち着いているのが分かる。
ここまで来たら、理屈をこねても仕方ない。ただ、自分の気持ちをちゃんと伝えよう。
「色々ごめんな。志乃ちゃんのこと、不安な気持ちにさせて」
「本当。色々、不安だったんだから」
小声で答える穂乃果。相変わらず表情は見えない。
「ただ、志乃ちゃんのためにもこれだけは聞いて欲しい」
今更保身の気持ちもない。志乃ちゃんのため、と言って穂乃果に話を聞いてもらおうと思われてるんじゃないか、みたいな堂々巡りの不安も今は吹っ切れた。
「あの日のことを言い訳するつもりはない。ただ、俺は志乃ちゃんを傷付けるようなことや汚すようなことはしていない」
俺は穂乃果のことが好きだし、志乃ちゃんのことも可愛い。それははっきり断言できる。
「それだけ知っておいてもらえたら、俺は穂乃果から何を聞かされても覚悟はできている」
穂乃果は惚けたような顔で俺を見つめ続けている。何かを深く考えているとき、彼女はこんな顔をするのを思い出した。
何かしら、彼女の中で考えがまとまったのだろう。乾いた唇を湿らすと、かすれ声で話し出す。
「私こそごめんね。志乃があんなことするとか、全然思わなくて」
少しずつ穂乃果の表情が緩んでくる。妹のことを想う、一人の姉の表情だ。
「ちっちゃい子供だと思っていたのに。それがショックで」
確かに、久々に触れた志乃ちゃんの身体は女の子のそれになっていた。俺も戸惑ったし、姉の立場でも思うところはあるのだろう。
「お姉ちゃん、失格だな」
「穂乃果はいいお姉さんだよ。俺の方こそ、今回は咲良に心配かけちゃったな」
「そうだね。どっちが年上だか分かんないね」
ようやく出た笑顔。つられて俺も表情を緩めた。
それがお互いの答えだったのだろう。穂乃果は俺に向かって身を乗り出すと、悪戯っぽく言った。
「ねえ、志乃に迫られてちょっとはドキッとした?」
「しないって。志乃ちゃんは俺にとっても妹みたいなもんだし」
ちょっとどころか、かなりドキドキしたことは絶対秘密だ。墓場まで持っていかねば。
「ふーん、本当かなあ。志乃、私から見ても可愛いもん。たっくん、本気にしちゃったんじゃないかって」
「心配だった?」
「うん」
「え」
素直に頷いた穂乃果は自分の言った言葉の意味に気付いたのだろう。顔を赤くして頭の上でパタパタと手を振った。
「あ、いやいやいやいや! 志乃が心配って意味だからね! 勘違いしないでね!」
「お、おう。もちろん」
思わぬ展開に思わず目を逸らす。地獄から天国と言うべきか。なんかいい雰囲気だ。
「こんなとこ、また志乃ちゃんに見られるとまずいんじゃないかな」
「へえ、志乃に見られたらまずいようなことするんだ」
「なんだよ、まずいことって――」
ふと気が付くと、穂乃果の顔がすぐ近くまで迫っている。
長い睫毛に包まれた瞳は、何の邪心もなく俺をのぞき込んでいる。
「たっくんって意外と――」
ふと、穂乃果も二人の距離に気付いたのだろう。慌てて飛びのいた。
「な、何でもない!」
「お、おう! だよな!」
心臓が信じられないような早さで打つのが分かる。これはあれか、俺がリードすべき状況か。
先に沈黙に耐え切れなくなったのは穂乃果の方だ。
「あれ、なんか着信来てるなー」
穂乃果は照れ隠しにスマホを取り出した。
俺はほっと胸を撫で下ろした。はい、俺は意気地なしです。
何気なくスマホを見ていた穂乃果の口から、雄叫びにも似た悲鳴が上がった。
「どうした穂乃果?!」
「先行放送で最新話をみた同士から連絡が来て、兼様が! 兼様が!」
えーと、何の話デスカ。
「寝取られ展開! マジか! ここまでやるか! あああああああああ!」
頭を抱えてしゃがみ込む穂乃果。
「駄目だ! 今日は録画じゃなくてリアルタイムで見ないと! リアルタイムだと展開違うかもしれないし!」
うん、違わないと思う。エンジンのかかった穂乃果はだれにも止められない。
しかしちょうど良かったかもしれない。今晩、これ以上は俺の心臓がもたなかっただろう。
「そうか。じゃあ、また明日な」
「うん、それじゃお休みなさい!」
勢いよく部屋に戻ろうとした穂乃果は、その勢いのまま戻ってきた。
「たっくん、ちょっと待って。窓のことだけど」
「窓?」
突然何の話だろう。穂乃果は柵に掴まり、身体をぐっと伸ばした。
「ほら、この前はあっちの窓から志乃に見られたのよ」
「え、どの窓?」
「ほら、もっと右。ほら、ぐーっと首を伸ばしてみて」
「あんな方に窓なんて――」
穂乃果につられて俺も身体を伸ばす。
その時、頬に柔らかく、暖かい感触。
「へ?」
何が起こった。ひょっとして今のって。
「穂乃果、今もしかして」
穂乃果は自分の唇を指でなぞりながら、今まで見たこともないようなにやけ顔をしている。
「じゃ、明日学校で」
そのまま部屋に戻った穂乃果はカーテンを閉める。
夢、じゃない。俺は思わず頬をつねろうとして、慌てて止めた。
今夜だけでも、この感触に包まれて過ごそう。
ようやく二人の間の誤解が解けました。
互いの気持ちも伝わったのではないでしょうか。
次回、最終話。今晩21時過ぎ投稿です。
是非ご覧ください。




