病院
現在は月に一度の通院をしてお薬はまだ飲んでいます。
私は精神科病院に月に一度のペースで通院していた。うつ病と診断されていた。今年の八月末で病院にお世話になるのは九年目になるのだった。病状は良くなっていて、お薬は飲んでいたが約六年間入院せずに通院のみで済んでいた。病院は今年の初夏に場所を変えて新しい建物になっていた。フロアは広くて方向音痴の私は迷うような気持ちがした。
九年間の間に病院のスタッフさんが辞められたり、新しい方が働くようになっていた。患者さんも他の病院や施設に移られた方もおられた。親しくしていた病院のお母さんは早くも認知症の症状が出て、専門の施設に入居された。若い達観した雰囲気の女性患者の子は、彼女の母方の親戚がいる他県の病院を院長先生に紹介されて、そこで病院が経営しているアパートに暮らしていた。巨人ファンの友達とは連絡が取れないままだった。
逆にまた病院に戻って来られた患者さんもおられた。
病院には主に母に連れて行って貰っていた。午前中の早い時間にいつも予約を入れていた。
病院ではまずカウンセリングを女性の公認心理師兼臨床心理士の先生にして貰い、その後に主治医の院長先生に診察をして貰っていた。お二人は私がこの病院にお世話になるようになってからずっと私を診て下さっている先生だった。
女性の先生は二年前に国家資格である公認心理師になっておられて、カウンセリングをする先生方の代表である主任を務められていた。私が出会った時には先生はすでに主任さんだった。チャーミングな魅力がある女性的な方で、カウンセリングを受ける時に先生に褒めて貰いたくて私はお洒落をして病院に行っていた。相変わらず大好きな先生だった。
約六年前から院長になられた主治医の先生の受け持ち患者数は他の先生の倍の人数で、その患者さんを他の先生に割り振りなさるらしい、と患者さん方の噂話を聞き実際に患者の割り振りが行われたと知った時にはかなり動揺した。私は先生が変わらず診てくださることに感謝した。先生に見放されなかった、という気持ちになった。
先生は診察の時に挨拶をした後にいつも「調子はどうですか」と私に問われていた。自分自身の精神状態をイマイチよく判断しかねながらも、うんうん言いながら先生に自分の状態がどうであるか答えていた。互いに読書家の先生と私はいま読んでいる本の話をしていた。先生はブラックユーモア心が旺盛な方で、また皮肉屋でもあられたから、私は診察の時間つねに緊張していた。ちくりと皮肉めいた事を言われていた。それでも先生の仰ることは的確で、私のことをよく分かっておられるという信頼感があったし尊敬していた。その時の病状に合わせてお薬は減ったり増えたりしていた。
カウンセリング、診察にも母は同席してくれていて、先生に私の代わりに私のことを話してくれていた。母はカウンセリングの先生と話すのと母自身もカウンセリングを受けたように気持ちが楽になるようだった。主治医の先生の前では母はなんだか畏まっていておとなしかった。
診察が終わってから外来のカウンターにいる看護師さんに次回の予約を入れて、先生が処方された処方箋のチェックをしてくださり、私は頭を下げて礼を言ってから会計に行き会計を済ませて、院内薬局の前に置かれた椅子に座って私の番号を呼ばれるのを待った。
母は病院内の喫茶店でランチを食べながら私を待っていた。新しい喫茶店は広くて天井も高くて開放感があった。全面ガラス張りのスペースですぐ横の噴水を眺めながら食事をする事が出来た。喫茶店は病院のB型作業所でもあった。顔見知りの患者の女性が働いていた。早朝から営業されていて一般のお客さんの方が多いようだった。
私は会計を済ませて、お薬を受け取ると猫たちが気になって、お昼ご飯は食べずに病院の作業所であるパン工房さんの山型食パンを二袋買ってから母と家に帰った。母も菓子パンを数個買っていた。パン工房さんのパンは一般的なパン屋さんのパンの半値に近い安さだった。しかもどれも美味しかった。「お父さん、カレーパン食べたがるよ」と私が言うと母はカレーパンも二個買った。
猫たちは私が玄関を開けるとニャーニャー鳴きながら、私に擦り寄って来た。私は手を洗いうがいをしてから、猫たちの餌を用意してから、母に薄めの珈琲を入れてやり、私はワンピースを脱いでシャワーを浴びてから浴衣に着替えた。自分のご飯は簡単に冷やし中華を作って食べた。母は疲れたのか、ソファーに横になってルナを抱えて寝ていた。
病院で買った山型食パンを一枚ずつラップで包み冷凍庫に仕舞った。
私は朝は食パン一枚に、大学の頃に仲が良くなった隣県の女の子が分けてくれたシルクロードのヨーグルトの種を牛乳パックに入れて牛乳と混ぜてから、一晩置いて作った作ったヨーグルトに自分で作ったジャムからその日の気分でジャムを選んで乗せたのと、旬の果物というメニューだった。
これでも食べる方で、食べれない日もあった。朝起きてから二時間くらいしないと食欲が出なかった。野菜ジュースや果物ジュースのみで済ませることもあった。夜になると食欲が湧き歯を磨いた後に寝る直前にお豆腐やチーズ、甘い物を食べて安心してから寝る癖が抜けなくなっていた。お米はお昼に食べるだけで、晩ご飯の時に食べていなかった。そのせいでお腹が減るのかも知れたかった。また歯を磨いてから寝ていた。
私は以前は珈琲を一日に何杯も飲んでいたが、七年前に母方の実家に行った帰りに立ち寄った道の駅で売られていた無農薬栽培のハーブティーを見付けて全種類買い、その時の気分で選んだハーブティーを飲むようになってから珈琲や紅茶はたまにしか飲まないようになっていた。ハーブティーが残り少なくなると、栽培・製造されている方に直接電話をして注文して送ってもらっていて、オマケが必ず付いていたり、お手紙が入っていてそれを楽しみに注文をしていた。女性がお一人でなさっておられるハーブ園さんだった。値段も安かった。
ハーブティーには様々な薬効があって、私は精神を安定させる効果があるバーベナと、安眠効果や女性ホルモンの働きを助けるカモミールを主に飲んでいた。不眠症で悩んでいた親友には、カモミールを送ってあげた。幼馴染で乳癌になってしまった子には、カモミールと免疫力を高める効果があるホーリーバジルを送っていた。血圧が高めの父にはハブ茶を煮出したのをペットボトルに入れて渡していた。父はハブ茶を気に入ってくれていた。母も不眠症になる時があるからカモミールを渡していた。他にも色んな方にあげていた。
母は四年前に犬を散歩させている時に転倒して後頭部の頭蓋骨骨折をして、硬膜下血腫が出来ていて最初のCT検査では前頭葉でくも膜下血腫も出来ていたけれど、七時間に渡る手術で四〇〇ccの出血があって輸血も母は受けた。父はこの時出張で連絡が取れず私は救急車に同乗して、救急外来で当直の先生から検査後の説明を受けて、しばらくして自宅に帰られていた専門医の先生が来られてから、改めて手術の説明を受けて私が手術の同意書にサインをしたのだった。先生からは「命の危険があると覚悟されてください」と手術前に言われた。目の前が真っ暗になる思いだった。
翌日の検査で前頭葉のくも膜下血腫が無くなっていて、手術をして下さった先生から、「もう大丈夫です」と言われて張り詰めていた緊張が取れて私は病院の長椅子で眠ったのだった。起きたら父と妹が姪っ子を連れて集中治療室にいる母を外から眺めていた。妹から「頑張ったね」と言われて私は泣いてしまった。
母は最初は元から痩せていたのが更に痩せてガリガリになっていたが、半年間のリハビリを頑張ってリハビリ専門の病院での入院生活を楽しんでいるようだった。
入院してすぐに母方の祖母が亡くなり、母は車椅子に乗って参列した。その頃はまだ体力が戻っていなかったし、母は大きな悲しみや緊張感から過呼吸を起こした。私は母のことが心配でハラハラし通しだった。
母は奇跡的に後遺症が残らなかった。母は「拾った命だから、私はあなたの為に生きるわ」と私に言ってきて驚いたけど、特に母の私に対する態度は変わらなかった。
母は健康を取り戻し、子ども食堂も以前のように再開した。紙芝居や絵本の読み聞かせを頼まれて、各地の小学校でしていた。母が作った絵本は私の住む町の小学校の低学年の副教材にもなった。子ども会活動の手伝いも母の生き甲斐だった。
父は母の事故を契機に役職を退いたが、町内だけの役職だけにして、また就学前部会の方には携わっていた。有機肥料の会社経営に専念して、あとは土地を貸している事で収入を得ていた。
叔父は相変わらず実家の二階に同居していた。二年前から働くようになっていたが、両親にお金は渡すことは無かった。母が何かにつけ叔父を庇うことに父は腹を立てていて、うちの中の雰囲気が悪くなり、私は精神面に悪影響が出るのが嫌で病気になる前に住んでいた家に戻り一人暮らしをすることにしたのだった。
最初は試験的に週末だけ一人で過ごし、段々と一人で過ごす時間を増やして行き、主治医の先生の許可を貰ってから一人暮らしを再開したのだった。
同じ町内にいるし安心だった。両親は心配してか最初の頃はよく二人で泊まりに来ていた。母とはランチを食べに行ったり、女二人で飲みに行っていた。父とはドライブをしに行ったり、父が好きなホルモン焼き専門店に行って飲み食いしたり、母は嫌いで食べない鰻が私たちは好物だったから、二人でドライブがてら食べに行っていた。
私も一人暮らしを始めた最初の頃は食事に気を配って、きちんと三食作って食べていたが、一人の食卓は寂しくて次第に食生活は乱れて行き、一日に一食しか食べないようになっていた。毎月病院で体重と血圧測定をするのだけれど、体重が減る一方だった。一年で実家で暮らしていた頃よりも十キロ減ってしまっていた。
そんな時に、ココたちが来てくれて、生活に潤いが生まれ、私はまた料理を作ってちゃんと食べるようになった。生活に興味や関心が湧いているのが自分でも分かった。
病院に行く日は長い時間かけて行くし、母の運転に緊張して疲れてしまっていた。母の運転は危ういのだった。
猫たちと夜は長風呂をして早寝した。
今年の初夏に新しく移転新築された病院はとても大きくて迷いそうです。
新しくなった病室に入院してみたい気もします^_^