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ACT08 「天使君の絵」

 結局事情がよくわからないまま、わたしは天使君を描きはじめた。正体不明でも天使君の心根は変わらないし、美しさも変わらない。

 天使君の造詣はものすごく描きがいがある。絵が完成したら天使君は綺麗だと言ってくれるだろうか。


「サクさん、本当に僕はじっとしていなくてもいいのですか」

「自然な天使君をスケッチしたいから、いつもどおりでいい」


 ここは緑地公園のかたすみ。タコ焼き屋の命ともいえる屋台を、天使君は丹念にみがいている。兄貴は焼けた鉄板に油をぬりたくっていた。

 二人でタコ焼きを売るいつもの光景だ。屋台はいつも昼時と夕方にちょっとした売上があるだけで、お世辞にもはやっているとはいえない。絶対に赤字だと思う。


 屋台である車のボンネットを磨きながら、天使君はわたしを気にしているようだ。人物を描くのは不慣れだけど、じっと静止させた天使君を描く気にはなれない。


「なぁなぁ、サク。ゼロが描けたら屋台に絵を描いてくれよ。このTシャツのタコみたいな奴をどかんと。ペンキでさ」

「やだ」


「夏の思い出だと思って」

「それ、天使君の時にも聞いたよ」


「描こうよ、描こうよ。兄ちゃん絵心がないんだよな」


 たしかにチューリップが恐怖の食虫植物だからね。思い出してもおかしい。


「兄貴の絵はすごく斬新だよ。自分で描けば?」

「おまえ兄ちゃんの画力をバカにしているだろう」


「してないよ。ある意味賞賛に値する」

「兄ちゃんはサクに描いてほしいんだよぅ」


 媚びる兄貴を無視して、天使君に集中する。屋台をみがく姿も絵になる。天使君は本当に綺麗だ。タコ焼きを買いに来るお客様の中には天使君のファンがいる。無理もない。

 中にはストーカーじみた人もいた。いつも黒の日傘をさした色白の女性。向こうがわの大木の陰からこちらを眺めている。この真夏の炎天下、ほぼ毎日である。


 天使君を描いていると、今まで気付かなかったそんな情報がはいってくる。

 けれど、兄貴も天使君もまるで気にしている様子がない。わたしもひたすら描くことにした。

 今日は色鉛筆で簡単に彩色してみるのだ。いつになく楽しんで描いていると、天使君が雑巾を片手に近寄ってきた。


 ふわりと手元のスケッチブックをのぞきこむ。柔らかそうな髪がわたしの頬にふれた。


「――これが、僕ですか」


 不意打ちの接近に固まっているわたしの前で、天使君が笑った。


「すごいです。人間みたいだ」


 思いもよらない感想だった。至近距離の天使君を意識してしまった戸惑いが、あっというまに上書きされる。


「とても自然で、嬉しいです」


 噛みしめるような、天使君の声。わたしはまた胸が熱くなった。どうして天使君の一言は、わたしにとってこんなに心地よいのだろう。


「あの、えと、……こんなの、まだ参考ていどの絵だよ。天使君の絵はラフとかデッサンだけじゃなくて、ちゃんと描いてみたいんだ」


 わたしの絵は我流で、特別な技法も技術もない。それでも自分の描き方で思い切り描きこんでみたい。天使君を描くことには価値がある。


「すごく楽しみです」


 天使君はスケッチブックを抱きしめそうな勢いで喜んでくれる。あまりにも嬉しそうに笑ってくれるので、照れくさくなってしまった。きっとこのほてりは、真夏のぎらぎらした太陽のせいだけではない。


 兄貴を見ると、奴はにまにまと笑っている。きっとまた的外れなラブロマンスでも妄想しているのだ。さびしい男め。


「あの、タコ焼きをいただきたいのですが」


 突然、背後からお客様の声がした。すぐに天使君が「いらっしゃいませ」とむかえる。兄貴は鉄板に生地を流しこみながら「いくつ焼きましょう?」と白い歯をみせた。

 わたしは思わず固まってしまった。この二人の平常心には恐れいる。


 お客様として現れたのは、あの黒い日傘の女性だった。日焼けとは無縁のような白い肌は、近くで見ると青白くもみえる。折れそうなほど細い身体も健康的とは言えない。だけど、まちがいなく美女である。しかも大人の色気がある。


「六ついただきます」

「はい、六つお買いあげ、まいど」


 兄貴はいつものように嬉しそうにタコ焼きを焼く。鮮やかな手さばきで入れ物につめると、黒い日傘の女性に手渡した。


「三百円です」


 女性は代金を支払うと、そのまま屋台を離れた。兄貴と天使君が声をそろえて「ありがとうございました」と頭をさげる。

 黒い日傘が見えなくなると、わたしは兄貴に聞いてみた。


「さっきの人、今までにもタコ焼きを買いに来たことあるの?」

「ないなぁ。初めてだと思う」


 兄貴はタコ焼きが売れたことが嬉しいらしく、女性のことはまったく気にしていない。


「あの女の人って、いつもじっと屋台を見つめている人だよね」

「そうだな」


 そうだなって、他に感想はないのか。


「知り合いじゃないんでしょ? 気にならないの?」

「うーん、まぁ、いまさら気にしても仕方がないというか……」

「いまさらって?」


 以前に何かあったとか?

 兄貴はあーとかうーとか言いながら頭をかく。首からぶら下げたタオルでがしがしと汗をふいた。また目が泳いでいる。あやしい。


「何かあったの?」


 兄貴に向かって身を乗りだすわたしの背中を、つんつんと天使君がつつく。


「あの人がリョウさんの教えてくれた敵です」

「は?」


 とっさに兄貴を振りかえると、余計なことを言うなと云わんばかりに口をぱくぱくさせていた。


「敵って。じゃあ、あの人がずっと天使君につきまとっているの? 敵って女の人だったの?」


 それって天使君に憧れているだけの、ただのストーカーじゃないのか。兄貴が動じていないのも当たり前だ。大の男があんなか弱い美女に追いかけられた処で、恐くも何ともない。


「あれ? だけど、あの人毎日のように見かけたけど、どうして天使君は前みたいに逃げないの?」

「リョウさんがいない処で出会ったら逃げます」


「兄貴がそう言ったから?」

「はい」


 天使君は素直だ。


「もしかして、兄貴……」


 ふとひらめいたことがあった。

 兄貴のやっていることが、ものすごく幼稚なことに思えてきた。


 たとえば。

 天使君を好きになった女の人と、その女の人を好きになった兄貴。そしてひたすら兄貴を慕っている天使君。


 そんな三角関係。


「兄貴があの女の人を好きだとか?」

「んなわけないだろうがっ」


 兄貴はつっこみをいれるようにビシッとをはたく仕草をする。

 なんだ、違うのか。三角関係ではないとなると、なんだろう。どういうことだ。


「どうしてあの人が天使君の敵なの?」

「それはだな、それは、えー」


 兄貴はタオルでがしがしと汗をふく。


「それは、彼女が天界の追手だからだ」


 どうやらこの変人は、ふたたび天使君の天使説を持ちだす気らしい。


「あっ、サク。なんだ、その顔は」

「そのあきらかに信憑性のない説明は聞きたくない」


「おまえ、兄ちゃんのことが信じられないのか」

「信じられない」


「がーん」


 兄貴はムンクの叫びのようなリアクションをする。いちいち大げさだな。


「いい加減に本当のことを教えてよ」

「だーかーらー、兄ちゃんの話は本当なの。そもそもおまえ、おかしいと思わないのか?」


「何が?」

「ゼロだよ。見てみろ見てみろ。この猛暑の中でその涼しげな顔。汗もかいてないんだぞ」


 言われてみれば、たしかに兄貴と天使君の差は一目瞭然である。わたしと比べても違いははなはだしい。この真夏の空の下にいても、天使君は汗をかいていないのだ。


「でも、最近は赤ちゃんの頃の環境か何かで汗腺が未発達、だったかな。とにかく汗をかきにくい人がいるって聞いたことがある。汗をかかないから天使だなんて、そんな理由ではわたしは納得できません」

「じゃあ、おまえ。ゼロにさわってみろよ」


「は?」

「いいから、さわればわかるって」


 珍しく強気な兄貴。わたしは隣にいる天使君の腕にふれてみた。わたしより体温が低いのか、ひんやりと冷たい。心地のよい体温。


「どうだ? ゼロは冷たいだろう?」

「ひんやりはしているけど、それが?」


 それが何なのだ。天使君が天使様であることの証明にはならない。暑いときに人肌をつめたく感じることがあるのは当然だ。


「それがって、おまえなぁ。この炎天下で汗をかきにくい人間がいたら、すぐに熱中症になってしまうだろ? 体温を低く保っていられるはずがないだろうが」


 その理屈はわたしには良くわからない。首をかしげると、兄貴がこちらに向かって人差し指をたてる。


「いいか、サク。人間が汗をかかないということはだな、体温をコントロールできないということなんだ。汗は体の余分な熱を奪うためにかく。気温が高くなれば体温も上がるだろ。体温より高い気温になると、もう駄目だ。汗をかいても体温のコントロールが間に合わず、脱水症状が進んで熱射病を引き起こしてしまう。汗をかきにくい体質なら、なおさらだ。もっと気温には気を配る必要があるんだぞ」


 うーん。そんなふうに言われると、たしかにそうだけど。兄貴の理屈に丸めこまれているような気がしないでもない。

 兄貴はどうだと言わんばかりに胸をそらせている。

 だけど、それで天使君が天使様だと言われても、納得できない。まるで次元の違う話だと思う。


「おまえにはゼロの素晴らしさがわからないか。とにかく、兄ちゃんは嘘をついていないからな」


 結局、話には何の進展も得られない。駄目だ、こりゃ。

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