サウンド×ノイズ
sound 2 [ sund ]
[形](~・er, ~・est)
1 〈論理・判断などが〉適切な,思慮分別のある,隠健な,〈人が〉(…について)正統的な,意見が適切な((on ...))
2 〈身体・精神などが〉健全な,健康な. ⇒HEALTHY[類語]
3 〈物が〉いたんでいない,腐っていない,完全な
A sound mind in a sound body.
((ことわざ)) 健康な身体に健全な精神(が宿らんことを).
***
建物のすぐそばの銀南の木がひどく寒そうに見えたので、僕も思わずそういう顔になっていたのかもしれない。内見に来たアパートの前でパーカーの前をぎゅっと合わせていると、大家のお爺さんが訝しげにこちらを見た。実際は秋の入り口で、それほど寒くもないのだから、十分厚着をしているように見える学生が突然こんなしぐさをすれば、確かになんとはなしに奇妙だろう。
「冷えるかぃ?」
「いえ」
「エアコンぁ付いてねぇからね。冷え性なら他所にした方がいいよ」
大家さんがそんなこと言っていいんだろうか。「風邪引いたらいかんよ」と言う大家さんの隣で、建物を見上げる。エアコンがついてないだけあってなんとも家賃は安かった。何かに取り残されて、静かにじっとしている建物と、木。僕はその、庭に一本銀杏の生えたアパートに入居することに決めた。
大学では知り合いが変な時期に引っ越すもんだといいながら、何人か手伝いを申し出てくれたが、狭い部屋に何人も人を呼んで一緒に動き回るなんてぞっとしないこと、とてもではないが僕にはできない。
それにそもそも荷物がないのだ――僕の私物と言えば衣服と大学の教材ぐらいで、前の住処は冷蔵庫からベッドまで備え付けだったので、それらは少しずつ揃えていくことになる。僕は結局大きなボストンバックを一つ、知り合いの一人から借りるだけで済ませてしまった。「スナフキンみたいなやつだ」と笑われたのだが、それはそれで、悪い気分ではなかった。
引っ越したその日の夜を、僕はすこし色の剥げた畳に何枚も厚着をして丸まって寝た。妙な形の石ころにでもなった気分で。
静かな時間に溜息が漏れた。
満足げに。
翌日、ご近所さんに挨拶にいった。僕は(大変幸運なことに)二階の角部屋をとることができていたので、隣と下とに洗剤でも配ればいい。お隣は朝夕ベルをならしたが返事がなかったので、置き手紙と一緒に玄関先においておいたが、真下の部屋の住人とはすぐに会うことができた。健康という概念を人の形にこね繰ったみたいに生気に満ち溢れた男で「オジマサミツ、玉の緒の緒に地面の地、政治が光るで政光」と名乗った。
「よろしく」と、緒地は頭をかきながら言う。
「やっぱりこの辺だと学生が多いんですね」
と、緒地が同い年程度に見えたので、僕はどこか安心しながら言った。他人のことはよくわからないが、年が近ければ近いなりに、少なくとも離れているよりかは分かりやすいだろう。
「ま、土地柄な。安アパートは学生の巣窟って決まってるさ」
「204も?」
留守にしていたお隣について聞く。
「人が住んでるのかい。あそこ」
「大家さんにはそう聞きましたけど」
「物音一つしないぜ」
緒地がいかにも不気味そうに肩をすくめる。
僕は自分の頭を上げて、そちらにあるだろう204号室をみつめた。
「騒がしいよりはましなのぁ確かだな」
「それはもう」この上なく、同意するところだ。
「あんたも騒がしい風には見えないからな」
と、いうと緒地は笑って、続けた。
「飲ませるとやかまし屋になるのかむっつりだまるか、見てみたいな。なんか食ってけよ」
人懐っこく誘われて、僕はしばらく頬を掻いたあと、結局誘われるがまま緒地の部屋に上がり込んだ。緒地は人とのコミュニケーションが特に上手な性質なんだろう。僕はこういうことを頑張らないといけない。
僕にとって騒がしくない程度に歓談することのできる、緒地の多分無意識の手加減に感心しているうちに、その日は過ぎた。
緒地と仲良くなるのにそれほど時間はかからなかった。一ヶ月もすれば、僕の口調から敬語が消えるのは簡単で、僕は彼の部屋の合鍵の隠し場所まで教えてもらった。きっと彼は誰かと親交をもつのに時間がかかったことなど無いに違いない。僕はといえば恥ずかしながら根暗を図解してみたような人間だから、こう言う人付き合いには新鮮なものが多々あった。そう緒地に伝えると、「挨拶に来た足で酒のんで帰ったやつのどこが根暗だ」とからかわれる。
「君の方から誘ったんだ。いつもあの調子で女の子でもつれ込んでるんだろう? 」
「どの道、そんな憎まれ口が叩けるんだから上出来さ」
「僕の根暗ってのはそういうのじゃないんだ」
安い酒を紙パックのカフェオレで薄めた(割った、とかそんな上等なものではない)ひどい飲み物を飲んで、僕は重ねる。
「そういうのじゃないんだ」
窓の外で相変わらず銀杏が寒そうにして、木枯らしもないのに葉を散らす。それを横目に眺める僕のグラスに、緒地はもう一杯酒を注いだ。
僕も緒地も、酒なんてのは前後不覚になれればそれでいいと思って飲んでいるので、とてもじゃないがまっとうな酒呑みには見せられないような飲み方をいろいろと持っていた。さすがにわざわざ空きっ腹にして無理に回すようなことはしなかったが、コンビニで買ってきたジムビームの小瓶を、パックのレモン水だの乳酸飲料だの、終いには水道水なんかで嵩ましして、うがい薬に毛が生えたみたいな味のそれをかぱかぱと体にいれていく。いっぺんポカリで割ったことがあったが、一杯でぶったおれて三日頭痛が続いて以来、生涯口にするまいと誓った。
話題はたいてい他愛もないことで、それは例えばJリーグのことや、近所のパン屋のこと、家族のこと、あるいは、204号室のことだった。
「大家の爺さんボケてたんだ、とっくの昔に出てったんじゃないのか」
「挨拶においてった洗剤はなくなってたし、生活の気配はするよ」
「ゴキブリの気配と間違えたんじゃねぇの」
「君の部屋と一緒にするなよ」
俺の部屋にはいねぇ、と主張する緒地。
「大体人がいないのにゴキブリがわくのか?」
「ボロアパートだからどっかに巣があんだろ。夜中になったら配管伝ってわんさかわいてホコリ食い散らかして帰ってくんだよ」
僕はその様を想像してしまって、しかも頭にこびりついたものだから、初めて204号室の住人を見たとき心の底から安心したのだ。
腹が立つのは、緒地がその住人について端から知っていたことだ。
いけしゃあしゃあと「可愛かったろ」と言い放った顔を軽くはってやろうかと思ってしまった。
「君のせいで夜中物音がするのが怖くてならなかったんだぞ」
「でも可愛かったろ」
「可愛かったけどさ」
お隣さんは可愛らしい女の子だった。
ひょっとすると同い年かもしれないが、多分年下だろうと思われる顔だちの、僕と同じくらいの背丈の、女子にしては少し背の高い女の子。アルバイトに出るところだった僕とまったく同時に、隣のドアを開けて、彼女が出てきたのだった。
「住んでた」
と、言ってしまった。
考えれば、別にその部屋にすんでいるのが彼女であるとは限らないのだ。――たとえば所謂通い妻をしているのかも知れない。ただ僕が日々隣室に感じていた、衣擦れの音のような幽かで頼りない気配が、いかにもその風貌に似合っていたので、僕の体は一も二もなく、彼女こそ【お隣さん】であると、勝手に納得してしまったのだった。頭が体におちつけと急制動をかけるまえに、肌と鼻が、捉えてしまった。
僕の放った一言に、彼女は驚いた体で振り返ったが、会釈もそこそこにアパートの階段を下りてどこかへ向かって去っていった。
乙町という苗字だそうだと緒地に聞かされた。
こいつ万端わかってやがった、と僕は彼を小突いた。
そんな具合に、僕は我ながらびっくりするほど、緒地と友人らしい振る舞いを出来るようになっていて。
そんな僕を見た学校の知り合いが「とっつきやすくなったな」と僕に言った。
「飲みに行こうぜ」と誘われたので、居酒屋についていった。
その日から二度と誘われていない。
***
ひどい頭痛がした。耳鳴りが頭に食い込んでくる。右脳と左脳が抉れて離れ離れになりそうだ。顔を横に向けると吐瀉物が海を為していて、臭いのひどさを鼻が読み取らないことにしばらく気がつかなかった。僕は頭をかきむしり喉をかきむしり次第にどこに手をやっているかもわからなくして獣のような声を発している自分とそれをののしる自分との二人が右脳と左脳に住んでいることを自覚するとともにやはり脳は抉れて分かれたのだと納得したのは眼球の裏にまで爪が到達したのかと勘違いするような真っ赤な視界の中で食道を駆け上がる何かの感触は胃液以外ないということに飲み食いした全部を無為にしたばかばかしさはお百姓さんに申し訳なくなによりもあの席にいた全ての人にとって僕は迷惑極まりなかったという事実を認めざるをえない思考と現実がまぶたの裏に居座っていることが腹立たしかったのでやはり目玉の裏に爪を立てたかったのだが腕がどこに行ったのか僕には見当もつかなくガリガリと頭皮に音が立つのはこの上のない違和感と嫌悪感でさっさとこれを何とかしてしまうべきだというのに僕は僕の手の場所がわからない。
その辺にないですか。
***
目を覚ますと寝ゲロしていた。朝から汚いものを片付けなければいけないというのは最悪の気分で、畳に染みが出来てしまったのではないかという気詰まりが僕をなお閉口させた。幸い敷金が帰ってこなくなるようなことはなさそうだったのだが、にしたって何の慰めにもならないのだった。
まずぶちまけたところに新聞紙を広げた。すわせては捨て、新しいものを用意し、三度ほど繰り返してからバケツがないので殺風景なシンクにハンドタオルを持っていって、ぬらしては絞り、ふき取るのを繰り返す。吐瀉物の始末がこれでいいのかさっぱりわからなかったが、臭いが残ったので帰りに消臭剤を買ってこなければならないと思った。まずはなにより、学校だ。気分が悪かったからかもしれないが早めに目が覚めていて、片づけが済むころにはちょうどいい時間帯だった。
部屋を出ると、隣室のドアが開いた。
「あ」乙町さんじゃないですか、といいかけて、そういえば自己紹介をしていないことに気づく。突然隣人に名前を把握されていたら不気味ではないだろうか。そんな風に考えてまごついている間に、乙町さんはなにかおびえた風で去ってしまった。
おびえた風に。
おかしいな、何もしていないのだけど。それとも知らずに呼びかけてしまったんだろうか。もしくはまだすっぱい臭いが体に染み付いているとか――それならおびえじゃなくて、エンガチョ、といった顔をされるだろうし。
腑に落ちないまま階段を下りると、今度は緒地につかまる。「お前、昨日どうしたんだ」
「どうしたんだって」
「この世の終わりみたいなわめき方だったぜ。お気に入りのAVがお釈迦になった中学生みたいな声だった」
「そんなみっともない声を僕は出さない」
緒地の世界はAVと一緒に終わるのだろうか。ともかく、緒地がいうには昨日の僕はやたらと部屋の中で騒いでいたそうだった。なんだそりゃ。
「君は知らないかもしれないが、僕は最近とっつきやすくなったんだぞ」
「まぁ軽薄にはなったな」
根暗も治ったんじゃないのか? と聞かれて、僕は首を横にふった。
「まだ自分を根暗だと言い張りやがる」
「実際、根暗なんだ。――そろそろこの言い方が的確じゃないのなら、不適格なんだ」
「なにに」
「社会」
本当のところ。
僕は僕がわめいていたことを、ちゃんと知っているのだ。
緒地と分かれて学校に行き、僕は一日をふさいで過ごした。
その日の夜。乙町さんが部屋に来た。
ノックされたのでドアを開けると、乙村さんが兎を抱えて立っていた。
僕がどれだけあっけにとられたとか、そういうことはは逐一あげつらってもまるで面白くないだろうから割愛する。
僕が何から質問すればいいのか迷っているうちに、「ダンボールください」と彼女が言った。僕は頷くことも出来ないまま、部屋にダンボールがないことをどう伝えたものかまるでわからない自分に戸惑った。
いや、割愛するといっておいてなんだが、僕はこのときあっけにとられた以外のことをやっていないからそれ以外を描写できそうにない。
その日に得たものといえば、結局ダンボールを緒地の部屋にもらいに行って、珍しく彼の間の抜けた顔を見られたことくらいだ。
乙町さんはどうやらその兎を飼うつもりらしかった。ダンボールは仮の巣箱にするつもりだったようで、しばらくしてから大きなケージを買ってくるのをみた。アパートがペット禁制なのかどうかさっぱりわからなかったが、僕は特に迷惑しなかったので何も言わずに、むしろ兎と戯れることに熱を上げた。そのあいだ乙町さんと緒地は実に楽しそうに話をするのだった。――緒地は僕にそうしたように、あっという間に乙町さんとも親しくなって、男女の友情、とでも言うべきものを実演して見せるかのように、僕にそれを結ばせようかとでもいうように振舞った。「AVが壊れてもわめかないようにしてやろう」「僕達の人間関係が壊れそうだ」
緒地と乙町さんとが喋っている時、ケージの中の兎はご主人様に蚊帳の外にされているわけだが、さりとて寂しそうにするでもなく、むしろその声がうっとうしいとでも言うようにしていた。なおさら僕は、兎を構いたくてならなくなった。
乙町さんは緒地とはずいぶん打ち解けたようだが、いまだに僕には苦手意識を抱いているようで、――どうしても、夜中に突然わめいた人、という意識が抜けないらしい。――あれはなんだったんですか、と聞きたいような、聞きたくないような、そんなそぶりを常々見せていた。さっとそういうことの聞けない、そういう子のようだった。僕にはじめてその話題を持ち出したとき、ようよう聞けた、という態度を隠せないような、素直な子でもあった。
「あの、いつかの、夜中のあれ、なんだったんでしょう」
「AVがお釈迦になってしまったんだ」
なおさら口を利いてもらえなくなった。
なるほど、これがジョークを外すというやつか、と僕は納得し、然る後に後悔に身悶えた。
しばらくしてから、乙町、と呼び捨てできるようになった。
***
「ひどく気になるうわさを聞いたんだが」
と緒地が言った。「近所の小学校で兎が行方不明なんだってよ」
僕と緒地と乙町とでいつものごとく体に悪い飲み物を飲んでいたときだから、それなりに三人とも酷いことになっていたけれども乙町があからさまに顔をそらしたので僕はジト目でねめつけた。困った顔が可愛い。
「それも聞いたのはずいぶん前だが、なんとなくいま思い出した」
「緒地君の意地悪」
「もっと言ってくれ」
「緒地、ずるいぞ、僕も言って欲しい」
「二人と遊ぶのが怖くなってきた!」
「おい、緒地、怖がってるぞ」
「いいね」
「助けておかあさん」
***
銀杏を三人で拾ったこともあった。「茶碗蒸しだろ、炒め物だろ、煮込みだろ」と緒地が食い気を出したのがきっかけだったが、これがまた、恐ろしく臭い。
「私もう帰る」
「バカめ、帰ったところで臭いは大差ないんだぞ。悪臭対策にもとりあえず全部拾っちまえ」
「せっかくの風情が台無しな説得ありがとう」
「乙町がこんな機嫌悪いのはじめてみたかもな」
「そういうお前はそうでもなさそうじゃんよ」
「たまにはこういうのもいいじゃないか」
「そう言ってくれるとうれしいぜ」
「うん、僕銀杏嫌いだけど」
「趣旨を全否定すんなよ!」
***
こんなことばっかりやっていたから、そろそろ僕も自分を根暗だと言い張るのが難しくなる。
銀杏の実が落ちて、臭いに閉口した秋が終わるころだった。
根暗でないなら、やはり僕は不適格だ。
学校に知り合いはいなくなった。皆知らん振りをするから、知り合うことが出来ない。全部が全部一方的に知っているだけの顔になって僕の世界はつまらなくなった。
その代わり静かになったので、まるっきり僕は満足して、精力的に勉強に励むようになった。励むようになった自分が××が出るほど××だから××たくなるのに××ことも出来ない××が出そうだ。
日々にノイズが混じるようになった。
世界が静かになるにつれて、僕の毎日から意味のある音が失われて、僕に関係のない音だけが世界にあふれ、それが耳をかきむ×るのをとめられない。僕は静かになったはずの世界がおそろしいほど騒がしくて戸惑った。こ×が欲しかったはずだというのに。××が僕を××てくれたころから僕はこうなりたいと願ってい×。
緒地は最近、研究室にとまりこむ、といって帰ってこないことが増えた。緒地がそういう学生であることを知った僕は、そもそもそれを知らな×ったことと、知ら×いで当たり前なくらいしか付き合っていない×とに驚いた。引っ越してから、半年もたって×ない。
僕は大学から帰ったら、世の中から隠れるようにして兎の元へ行った。
ある日、乙町も実家に里帰り×した。
「せっかくだから、あちこち巡ってくる」といかにも暇な大×生の予定を立てて、僕に兎を預けて×った。
誰とも喋らない日が続いた。
誰も僕に話しかけ×くなったので、世界には僕と関係のない音だけになっ×しまっ×。
銀×の木はかわいらしい蕾をつけるんだろうか、そういえば僕×銀杏の花というものを見×ことがない。家賃はき×んと払×ているが、×て、こ××らどうなる×ろう。緒×××町×一緒×拾った×杏を×して食×た×××もうのだけ×ど、あれは皮を腐ら×××××面に×めた×まどこ×××××××××なく×って×まっ×。二人××知×××××××。
××、×。
×。
××××××、×。
××。×××、×、×××。××××。
×××。
××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。
し×。
×にたい。
***
僕の父と母の不幸なところは、この世で一番向いていないことが二人とも同じ一つのことだったというところだろう。それ以外のことはまるで似ていなくて、得意なことも好きなことも休日の過ごし方も好きな天気も違うというのに、子育てがへたくそという一点が共通していたがためにどちらかに押し付けることができず見事なまでに失敗し暗転し座礁して転覆した。何がって、人生が。二人は地元で有名な犯罪者になってしまった。
特に幼児虐待とか、うるさいころだったし。
恨みもしたし憎みもしたが大きくなって彼らと会ってみるとむしろ同情しかわかなくなってしまった。
いい人たちだった。
いい人たちなのに、実の息子に、「いい人たち」と遠目に評価され、一生ついてくる汚名を背負い、なにより、実の親を「いい人たち」などと評する息子のせいでそんな目にあっている。
僕はいい子になりたくなった。
いい人たちの子供としてふさわしいいい子になって、そうすればちゃんといい家族が作れるんじゃないのか。僕のせいでいい人でいられなくなった二人を何とかすることが出来るし、なによりあの人たちに早く帰って欲しいという顔をされなくなるんじゃないのか。
二人は僕に「ごめんなさい」と何度も言ったから、僕はその何倍も「ごめんなさい」といわなければいけないような気分になる。子供に向かってごめんなさいなんて言いたくなかったろうに言わせてごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ここから出して。
「だってここには音がないんだ。暗くて静かで誰もいないんだ。寒いよ。音がないんだ。ざーざーするんだ。音がないからざーざーするんだ。耳がざーざーするよ。うるさいんだ。僕に関係のないことばっかりだ。おはようとかおやすみとかいただきますとかごちそうさまとか僕の知らない言葉をみんな使うんだ。ざーざーするんだ」
***
僕は病気なので、たまに吐いたり叫んだりする。
みんな迷惑そうにする。
***
僕の目玉が正常になったとき、乙町が膝枕してくれているのを何故だかすぐに理解してしまって、あんまりびっくりしたからもう一回頭のイタイ子になってしまうところだった。
「AVがお釈迦になってしまった」
「そう」
「嘘だよ」
「知ってる」
乙町の声が意外と静かだったから、ひょっとすると膝枕というのは気のせいかもしれないと僕は思い始める。
「僕はさ」
「うん」
「いい子にならないと駄目なんだ」
「そうじゃないとみんなが困るから」
「うん、兎が寝てるとびっくりする」
「申し訳ない」
「うん」
申し×な×。
次の日、緒地が別のキャンパスに移ると言い出した。
***
ある研究施設の作りつけてある、うちの大学の別のキャンパスに移動しなくては、緒地のしたい実験が出来ない。つまりはそれだけのことなのだけれど、僕と乙町はびっくりしてしまって、びっくりしているうちにおいていかれてしまった。やつがいなくなったとたん僕達は家で何をしたらいいのかさっぱりわからなくなり、余計体に悪い飲み物を飲むようになって、気がつくと裸で隣り合って寝てい×りだとか×繰り返した。
僕はたびたび自分を見失うようになった。
大学での居場所はいよいよ無くなっていた。――どう話が伝わったのか知らないが、僕が酷い酒乱だということになったのだ。おおむね間違いではない。僕が悪酔いのが酒でなく喧噪だったというそれだけのことだ。酒の席で突然統制を失って、訳のわからないことをわめいて自傷した僕のことを、さすがにだれも、知り合いだと思いた×らなかったのだ。僕の生活と人間関係は完全に破綻していた。
誰かに×けて欲しかった。
「いい子にならなきゃいけないんだ」
「本当にそうなの?」
「だって迷惑じゃないか」
「別にそうでもないよ」
「君だってそういってたんだ」
「今はべつに」
そんなことを、寝不足の、真っ赤な目で言われても辛いだけだ。
兎みたいな目になって。
「今はべつに」
と××は繰り返す。
「兎はね、なんで寂しいと死んじゃうかっていうとね
「耳が大きいからなんだよ
「良く聞こえるから
「自分がひとりぼっちなのが良くわかって
「余計さびしくて
「狂って死んじゃうんだよ」
「別に、もう、兎をさらってこなくても、私はさびしくないからいいの」
真っ赤な目でそういわれて、
僕は乙町を振り払って逃げ出した。
寒かった。当たり前だ。僕は何も着ていなかった。部屋を飛び出してからそれに気づいて、おろおろした後緒地の部屋に逃げ込んだ。合鍵を×ったのは初めてだった。大家のお爺さんに鍵を返していなかったのか、それとも×地が勝手に作った鍵だったのか、なんにせよ、荷物の引き払われた殺風景な部屋にぼくが×××て×るとは乙町も思×まい。なぜ彼女から逃げ×したのかもわからず、僕はその場で×を抱えた。
殺風景な部屋。
あの部屋に似て×る。
僕の意識がまた千切れてノイズにまみれ意味を失いそして
***
【乙町さん】ことこの私は振り払われた手をしばらく見つめた後、身だしなみを整えて自分の部屋の斜め下、一階の角部屋に向かった。彼の着替えを持っていくのも忘れていない。次に顔をあわせる緒地君が、――この名前が彼の本名である確証はどこにもないのだが――果たして自分を「僕」と呼ぶか「俺」と呼ぶか、興味があるようでもあり、ないようでもあった。それは本質的にはどうでもいいのだ。その点では、彼の記憶と私の感情というのは大差がないのかもしれない。大雑把で、ノイズにまみれ、ずたずたに千切れている。
彼の抱える病理をなんと呼べばいいのか私にはわからないが、とにもかくにもそれが私の性癖にマッチしたのは間違いなかった。私が彼に惹かれているということさえ間違えていなければいいのだ。しかし裸で部屋を飛び出すほど錯乱したのは珍しい。いったい私の睦言がどのように彼に聞こえていたのか。世の人にしてみれば気持ち悪くてならないのだろう。言葉が通じないというのはそれだけの恐怖がある。
しかし私に言わせてもらえば、彼も世の人もどんぐりの背比べなのだ。
いったいどれだけの人が、言葉の意味をノイズなしに人に伝えているのだろうか。
(これはとても希望的な観測だけれども)この世に本当に意味のある音があるのだとして、人の耳も脳もそれをゆがめずには認識できず、さらには口にするにあたってさらにゆがめてしまうのだから、バベルの塔を引き合いに出すまでもなく言葉を使って人と人が確実にコミュニケーションを取れているとは私には思いがたい。確かに彼にとってさまざまな記憶や人物評やあるいは価値観はくそみそもいいところにかき回されているが――私のことを物静かな誰かと勘違いしている節がいまだにあるし――にしたって、それのいったいどこがおかしいのだろうか。みんな大なり小なりそんなものだ。
そう思うと、悲しくもなる。
とにかく、この部屋がいま彼にとっての何らかの防壁であることは間違いなかった。それを崩すべきか崩さざるべきかは親愛なるかかりつけのクリニックに任せるとして、今の私は素人判断で手を出さずに、かつ自分の中の欲求にしたがって、彼と一秒でも早く再会するためにここにじっと待つべきなのだろう。
暇ではあるが。
時間をもてあますのは趣味ではない。彼が出てきたとき、いったいどうやってなにを伝えようか、じっくり考えて待つことにする。
出来る限り滑らかなノイズで、伝えてあげたい。